第2話 通り魔と白い魔獣
人気のない暗い路地裏に、黒い外套をまとった狩人の冷たい足音が、コツコツと響く。
これから狩られる運命にある獣は、悲痛な叫びを上げる。しかし、無情にも助けは来ない。この場には、音を遮断する結界が張られているからだ。
故に、どんなに鳴こうが喚こうが、助けは絶対にやってこない。
それを悟ったのか、獣は牙を抜かれ、すっかり大人しくなってしまった。
「そう不安になるな。別に、とって食おうというわけではない。ただ、少し血を採取させて欲しいだけだ」
狩人はどこからともなく銀色に輝くナイフを取り出すと、獣の足を浅く小さく切りつける。
そして、そこから一滴の血を絞り出すと、持っていた紙に染み込ませた。
「チッ、またハズレか……お前、もう行っていいぞ」
狩人から見逃されて獣は、一目散にその場を逃げ出した。
決して振り返ることもなく、ただ走る、走る、走る。そんなに慌てなくても、狩人は心変わりなどしないというのに。
◇
窓から差し込む薄明かりで、私はいつものように目を覚ます。
時刻は午前六時。どんなに眠くても、きっかりこの時間に目が覚めてしまうのだ。本当はもうしばらく眠っていたかったが、生憎やることがあるためそうもいかない。
一応、保険のためにセットしていた目覚ましのアラームを解除すると、私は中学校の制服に着替える。
着替えを終えた私がスマホで軽くニュースを確認する。来年から中学三年生になる私。来年度は受験を控えているため、時事にも関心を持つ必要があるのだ。
「また暗いニュースばっかり……」
ニュースサイトを開いた私は、あまりに絶望的なラインナップに、思わずげっそりとしてしまう。
とても朝から見るようなものではないが、一応目を通していく。
スマホ一つからわかるように、この世界は大きく揺れ動いている。
数年前に確認され、瞬く間に世界に広がった正体不明の感染症。
世界でも指折りの大国が、周辺国家に宣戦布告したことを発端にした戦争。
環境破壊がもたらした異常気象。それによる自然災害や飢餓。
どれも救いがない。私たちが悟り世代と呼ばれる所以が、そこには凝縮されていた。
「ダメだ。こんなの見てたらせっかくの一日が最悪になる」
早々に音をあげた私は、静かな廊下へと足を踏み出した。
「うわっ……寒い」
今は四月。季節は春。しかし、何も羽織らずにパジャマ一枚で出歩くには、少しばかり肌寒かった。だがその分、寝不足で鈍った頭は冴える。
洗面所まで来た私は、鏡に向かい合う。
「酷い顔ね。まあ、連日夜遅くまで起きていたら」
ここ最近、夜に怪我で運び込まれる野良犬や野良猫の数が増えている。
幸いと言っていいのか、傷はそれほど深くない。せいぜい、ちょっと枝に引っ掛けた程度だ。放っておいても、感染症などの危険はそこまでない。
……では、なぜ運び込まれるのか。
それはその動物たちの、異常なまでの怯えようだった。
そもそも、野良で生活している動物たちは、人間を嫌い、怖がるものだが、運び込まれる動物たちはまるで、人間を鬼か何かのように怖がるのだ。
その理由は容易に想像がつく。
……彼らは、人の手によって、怪我をさせられた。
野良の動物ばかりを狙った卑劣な通り魔的犯行として、連日ニュースで取り上げられているほどだ。
一体、誰が何のために、こんな酷いことをするのか。
犯人に大して強い怒りを覚えながら、私は顔を洗い、歯を磨いた。
「お味噌汁は、昨日の残りを温め直せばいいよね」
キッチンへ向かった私は、タイマー通りにご飯が炊き上がっていることを確認すると、冷蔵庫に入れてあった塩鮭を取り出し、魚焼きシートを敷いたフライパンで焼いていく。
すぐに、焼けた魚のいい匂いが立ち上り始めた。
すると、その匂いに誘われたように、私を拾って育ててくれた初老の魔法使いが、居間に姿を現す。いつも白衣を着ているため、どこかの研究者にしか見えないが、歴とした魔法使いである。
「おはようございます、師匠――」
私が挨拶すると、魔法使いは無言でテレビをつける。怒っている証拠だった。
ニュースの内容は、また通り魔事件についてだった。
「昨日もまた、野良の子たちを受け入れたようだね」
「はい……勝手なことをして、申し訳ありません。ですが、どんな者にも手を差し伸べる。それが私の目指す獣医ですから、後悔はしていません」
「それならば構わないよ。ただ、君も気をつけたまえ。いつ、通り魔に狙われるとも限らないんだ」
魔法使いにしては非常に珍しい私の体を気遣う言葉に、私は目を丸くする。そっけない態度をとりながらも、なんだかんだ心配してくれている。それだけでも、心がポカポカと温かくなった。
「朝食のご用意をしますね」
私は、すぐに朝食の用意を始めた。
何の会話もなく、いつも通りの朝食を終えた私は、受け入れた動物たちの水や餌を用意してから、学校に持っていくものを詰め込んだカバンを持って外に出た。
「行ってきます」
家の中から返ってくる声はないが、いつものこと。帰る家があるというだけでも、十分幸福なことなのだから。
いつも通りの通学路をたったっと、規則正しいリズムで歩く。
この通学路も、あと二年で歩き納めだと思うと、ちょっと名残惜しい着持ちになるのだから不思議だ。
……でも、いつもこんなに人とすれ違わなかったっけ?
私は、見慣れた光景に不純物のように混じる何か良くないものに気づき、首を傾げる。
そして、足を止めて、周囲を見渡した時だった。
「キュウ――!」
どこからか、甲高い小動物の悲鳴が聞こえた。それはとても悲痛そうで、思わず耳を覆いたくなる。
……通り魔! こんな朝っぱらから?
私は、あまりに突然のことに飛び上がりながらも、心を落ち着けて冷静になろうとする。慌てていては、大事なことを見落とす。それは、魔法使いが何度も教えてくれたこと。
……私は、一匹でも多くの命を救いたい。
そのために何をすべきかを考える。
……このまま警察に助けを呼ぶ?
おそらく。それが最善の選択だ。普通は、誰だってそうする。それが安全で、確実だと知っているからだ。面倒ごとはプロに任せる。当然の発想である。
……でも、そんな悠長なことを言っていられる時間はない!
警察が駆けつけるまで、最短でも五分はかかるだろう。
とてもじゃないが、今まさに襲われようとしている時に、五分なんて永遠にも等しい時間、待っていられるはずがない。
……大丈夫。私だって、魔法使いの弟子なんだから。普通の人よりは戦えるはず。
魔法使いから叩き込まれた自衛の術を何度も思い返しながら、私は心が決まりよりも先に駆け出していた。
昼間であればまず人が寄りつかないであろう細い路地に入ったところで、私はあまりに幻想的なその光景に目を奪われた。
「え!?」
路上に猫のように背中を丸めてうずくまっているのは、キラキラと七色に光る白く澄んだ毛並みをした、一匹の獣だった。
その姿は、小さなウサギのような儚さと、野生の狼のような凛々しさを併せ持ち、とてもこの世のものとは思えない。そんな存在に、私は一つだけ心当たりがあった。
「魔獣」
魔獣とは、魔力から生まれた、獣性をもった精霊のことを言う。
この場合の獣性とは、この星に流れる特殊な力――霊脈の意思を本能的に汲み取り、行動する性質のことを指す。故に、魔獣は星の代弁者とも呼ばれる。
私が、正体不明の獣に近づこうとしたその時だった。
「……!」
白いマントを羽織った人影が、スタスタと走り去っていく。私の気配に気づいて、身を隠していたのだろうが、隙を見て逃げ出したらしい。
……どうしよう、逃げられる。でも、今はこの子の手当てを優先しないと。
近づいてみてわかったことだが、美しい毛並みがところどころ汚れている。
相当痛めつけられた様子だった。
「とりあえず、すぐに家に運ばないと……」
私は急いで名前の知らない獣を抱え上げると、家に逆戻りした。
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