3、東雲遥香は事件をこねくり回す

「かつて、マンションから住人が姿を消し、行方不明になった事件がニュースになったのを知ってるか?」


 遥香はるかは深刻な表情で僕にそう迫ってきた。


「いや……、知らない。日本の話?」

「当たり前だろ。その事件の犯人は同じマンションに住む男だった。そいつは遺体をバラバラにしてトイレに流すことで犯罪が起こったこと自体を隠蔽しようとしたんだ。つまり、完全犯罪を企んでいたということだな」

「ちょっと想像したくないね……」


 遥香は詳しく言わなかったが、そんな事例に触れるということは、隣室でも同じことが行われている可能性を僕に感じさせた。


「口論でカッとなって殺してしまった隣人は慌てて死体を消そうとしているんだ」


 遥香は自信満々だが、僕は彼女の考えに穴があるように思えた。


「さっきも衝動的に殺したみたいなことを言ってたけど、本当にそうかな?」

「どういうことだ?」

「だって、隣の人と午前中に会った時、のこぎりを買って帰って来てたんだから──」

「待った!」


 遥香は僕の眼前に手のひらを突き出した。


「やり直し!」


 遥香は咳払いをして、仕切り直した。


「君は午前中に隣人と会ったんだろ。奴は初めから殺人を計画していたんだ」

「……僕の推理、横取りした?」

「というのも、君が午前中に隣人に会った時にだな……」

「しれっと進めるなよ。当てずっぽうで意見が変わる探偵なんて信頼できないぞ」

「遥香は当てずっぽうなんて言わないもん!」


 いきなりムキになって目くじらを立てる遥香は数年前の彼女に戻ってしまっていた。そんなことに気づかないまま、彼女は推理を先に進めた。


「君が午前中に見た隣人は、遺体を解体するための工具を買って帰って来たところだったんだよ。つまり、これは計画的な殺人なのだ」


 さっきと正反対の仮説を自信たっぷりに開陳かいちんする遥香。恥ずかしくないのだろうか?


「もしそうだとしたら、警察を呼んだ方がいいんじゃないか?」


 僕の提案を聞いて、遥香は途端に勢いをなくす。


「それは……、ほら、まあ、これは、私たちが勝手に言っているだけなんだから、わざわざ本気にする必要はないだろう」

「ビビってんの?」

「ビビってない!」


 その瞳は明らかに狼狽うろたえていた。

 遥香の気持ちも分かる。僕も小説の探偵たちを羨望の眼差しで見ることがある。だが、もし自分が本当に事件に遭遇したとしたら、間違っているかもしれない自分の考えを人前で披露することなどできるだろうか? せいぜい、自分の中だけに留めておくのが関の山だ。


「それに、隣人が殺人鬼だという証拠がなければ意味がないからな」


 まるで行動をしない言い訳のように遥香は言ってのけた。


「証拠……。そういえば、さっきベランダに何かを置く音が聞こえたよな。ちょっと確かめてみよう」


 立ち上がる僕を見て、遥香は慌てて窓の方へ駆け出した。


「そうそう、私もちょうどそう思っていたんだ。さすが、私の助手だな、君は」

「なんで僕がお前の助手なんだ……」


 遥香と共にすっかり寒くなった外気へ身を晒す。ベランダの向こうには公園の街灯に照らされた桜がぼんやりと浮かび上がっていた。状況が状況だけに、その光景がどこか不気味に感じられる。

 手すりから身を乗り出して隣のベランダを覗き込もうとする遥香がうめく。


「全然見えん……」

「危ないから引っ込んでてくれ」


 遥香のパーカーのフードを引っ張って後ろに下がらせる。隣室との間には緊急時に破れるような薄い壁があるのだが、それを囲む枠のようにしてしっかりとした壁が手すりよりも外側に張り出して、隣のベランダが見えないようになっているのだ。


「くそぉ……、面倒な構造にしやがって……」

「いや、住む側にとっちゃめちゃくちゃありがたいだろ」

「〝非常の際には、ここを破って……〟」遥香が仕切りの壁を見つめる。「この壁、破ってもいいか?」

「いいわけないだろ、バカ」

「捕らぬたぬきの皮算用だぞ」


 また間違ったことわざを繰り出した遥香はハッと何かを思いついたようで、僕に右手を差し出した。


「携帯貸してくれ」

「嫌な予感がするから断る」

「いいから貸してよ……」


 急に泣きそうな顔をするので、僕は慌ててポケットからスマホを取り出して遥香の手のひらに置いてやった。彼女はすぐさまカメラを起動し、ベランダから身を乗り出して腕を伸ばすと、隣室のベランダにカメラを向けた。

 夜の街にフラッシュの光が投げかけられて、遥香は上気した顔で僕にスマホのロックを解除するように目で訴えた。落とされずに済んだのは奇跡だ。

 スマホのロックを解除するなり、遥香は僕の手からスマホを奪い取って写真を表示させた。写真を確認した彼女は嬉しそうに僕を見た。


「わりと撮れてるぞ」

「引っ越してきたばかりで隣人のプライバシー侵害とか笑えないんだが」


 写真を見ると、角度のついた構図で隣室のベランダが捉えられていた。

 フラッシュに照らされたコントラストの強いベランダには、ほとんど物がなかった。あるのは、隣室と向こう側の境の壁際に寄り掛かるようにして置かれた大きなゴミ袋ひとつだけだった。


「死体が入ってないか?」


 遥香が恐ろしい質問をぶつけてくる。

 僕はちょっと指先が震えるのを感じながら写真を拡大する。

 ゴミ袋の中にはシート型の緩衝材が詰められているのか、中身が白くぼやけていてよく見えない。だが、何か色のついたものが入っていることは分かる。


「これ……ハイヒールか?」


 白くぼやけながらも、特徴的な赤い形がなんとなく見て取れる。遥香にも見せてやると、彼女の眼がより一層輝きを増すのが分かった。


「間違いない。これはハイヒールだな。一緒に入れられているのは服じゃないか?」


 赤いハイヒールの他、黒い何かが詰め込まれているのも確認できる。脳裏に浮かぶ現実的で恐ろしい可能性に背筋が寒くなる。


「そんなことある? 隣の人はひとり暮らしで……、確かに女性を一時的に呼んでるのかもしれないけど……」


『ハイヒールの男』という映画がある通り、これが隣人の物である可能性もある。

 だが、遥香の推理が頭にこびりついていた僕には、これがおぞましい出来事を示唆しているように思えてならなかった。

 遥香は僕の手を引いて部屋の中に戻ると、窓を閉めてしっかりと施錠した。


「いいか、私の推理はこうだ。

 隣人は部屋に呼んだ女を殺す計画を立てていた。その計画には、遺体をバラバラにして犯罪の痕跡自体を隠蔽する目的も含まれていたんだ。そのために、隣人は鋸なんかの工具を買い揃えた。近所の鍛冶屋を使わなかったのは、いくつかの工具をさっさと揃えたかったからだ」

「鍛冶屋じゃなくて金物屋ね」

「で、奴は今夜、その計画を実行した。女を殺害し、風呂場で遺体を解体し、邪魔になった服や靴を捨てるためにゴミ袋の中にまとめたのだよ」


 信じられないことだったが、もはや僕には遥香の話を荒唐無稽なものだと断じることができなかった。手の中のスマホの写真が重く感じる。

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