4、東雲遥香は疑惑に確信を抱く

「隣室のドアはずっと開閉していない。ということは、誰も出入りしていないということだ」


 遥香はるかは反対の隣室の玄関のドアが開け閉めされる時に音が聞こえることに気づいたようだった。


「それがどうしたの?」

「女が出て行かないということは、部屋の中で殺されたということだ」

「いや、今日は泊ってるのかもしれないでしょ」


 それを今日僕の部屋に泊まる自分が証明していることに考えがいかないらしい。僕たちは何時間もずっと隣室の音に耳を澄ませているが、ずいぶん長い間、文字通り何の音沙汰もない。


「よし、君は隣室の状況に注意を払っていたまえ」


 遥香はそう言うと立ち上がって浴室の方に行ってしまった。自分だけリフレッシュするつもりだ。不公平すぎる。


     ◇◆◇◆◇◆


「ドライヤーないのか?」


 風呂から上がって来た遥香はバスタオルをターバンのように頭に巻いて現れた。着替えなどないから、あのダボダボのパーカーは変わらない。ピンク色の頬が不満そうに膨れる。


「ああ、ごめん。ドライヤーはまだ買ってなかった」

「シャンプーも安物だし、髪が痛んじゃうだろうが」

「お前が急に押しかけてきたのが悪い」


 遥香は僕を睨みつけて、そばに腰を下ろしてきた。僕と同じシャンプーやボディソープを使っているはずなのに、妙に香り立っている。


「で、隣人の様子は?」

「何もないよ。世界一無駄な小一時間を過ごした」


 時刻はもう十時を過ぎている。

 長い髪をタオルで挟み込んで両手で丹念に水分を除いていた遥香はやがてあくびを連発するようになる。


「犯人は夜中のひと気のない時間に動き出すかもしれん……。今夜はねずみの番だぞ」

「寝ずの番ね」


 そう言いつつ、遥香は勝手に僕のベッドの中に潜り込んでしまう。

 寝息が聞こえてくるまでに時間はかからなかった。僕は溜息をついて、クッションを持って来て壁にもたれた。ベッドの中の遥香はこちらに顔を向けたまま幸せそうにしている。夢の世界へ落ちて行ったようだ。

 僕は気を紛らわせるために段ボール箱の中から本を取り出してページをめくる。


     ◇◆◇◆◇◆


「おい、起きろ」


 遥香のビンタで叩き起こされる。身体がガチガチに凝っていて、気づけば窓の外は光に満ちていた。朝だった。


「あ、ごめん。寝てたわ」

「君が眠ったから私が夜通し隣室を監視してたんだぞ。感謝しろ」

「……ええと、僕が寝るところ見てたの?」


 遥香は耳の先を赤くしながら、洗面所の方へ歩いて行った。


「で、隣の人に動きはあったの?」


 洗面所の方へ声を投げる。


「ない!」


 簡潔な答え。じゃあ、起きてるだけ無駄だったな。僕の身体にタオルケットが掛けられているのにいまさら気が付いた。遥香が気を回してくれたのだろうか?

 時刻は朝の七時過ぎ。普通なら、学校に行くという口実でこの状況を逃れられただろうが、あいにく今は春休みだ。時間は腐るほどある。

 遥香が洗面所から戻って来て、溜息をついた。


「おなかすいた」


     ◇◆◇◆◇◆


 母が持たせてくれた大量の食糧の中から適当に朝食を用意した。遥香は昨夜メガ盛りの牛丼を平らげた人間とは思えない勢いで掻き込んでいく。作り手冥利みょうりに尽きるが、あまり長居してほしくないという思いも込み上げてくる。


「結局、何もなかったな」


 最後に味噌汁を飲み干して遥香は言った。


「散々食っておいてそれはないだろ」

「たわけ。そうじゃなくて、隣人のことだ。犯人は未だに部屋の中だ」

「犯人じゃなくて隣人ね。だから、やっぱり、僕たちの思い過ごしだったんだよ」


 無意識に「僕たち」と言ってしまって、自分が遥香の推理に取り込まれていたことを認識した。


 と、その時だった。

 隣室の玄関ドアがバタン、と閉まる音がした。遥香は飛び跳ねるようにして玄関へ駆け出した。そのせいで、食器が散らばる。

 遥香は玄関のドアを細く開けて、廊下の様子を窺っていた。僕も小走りでそのそばに寄って、隙間から覗いてみた。

 隣人が鍵をかけ終えて、エレベーターの方へ歩いていくのが見える。バッグなどは持っておらず、ひとりだ。遥香に提案してみる。


「追いかけて行って話聞いてみたら?」

「別に……そこまでする必要はないだろ」

「お前の推理をぶつけてやれば、罪を告白するかもしれないぞ」


 遥香はじっと動こうとしない。

 分かっている。遥香は人見知りだ。初対面の人間にご自慢の推理を披露することなど、できるはずがない。

 隣人がエレベーターに乗り込むと、遥香はドアを開けて廊下に歩み出た。じっと隣室のドアを見つめている。その様子が何かを思い詰めているように見えた。


「頼むから、変な気は起こすなよ」


 僕が言うそばから、遥香は隣室のインターホンのボタンを思いきり押し込んだ。


「あっ、バカ!」


 とはいうものの、部屋の中からの反応はなかった。ホッとしている僕の目の前で遥香は廊下に膝を突いて、隣室のドアポストのくちを開けて顔を近づけた。


「もうやめなさい」


 子どもを諭すように遥香を引き剥がしたが、彼女は不満そうだ。


「何も見えない……」

「そりゃあ、郵便受けがくっついてんだから中は見えないだろ」

「面倒臭い構造しやがって……」


 世の中の便利な構造は遥香にとっては邪魔者らしい。世界が自分を中心に回っていると思っていそうだ。


「だが、部屋の中に遺体が残されているのは確かなことだ。なんとか犯罪の証拠を掴まないとな……」

「いや、もう諦めてくれ」


 遥香は眉間にしわを寄せる。


「事件をみすみす見逃すなんて、探偵助手の風上に置けない奴だな」

「だから、探偵助手じゃないっつーの」

「いいか、奴は計画殺人の上に、遺体を消すことで完全犯罪を達成しようとしている。そんなこと断じて許されないだろ」

「じゃあ、さっき隣の人に直接問いただせばよかっただろ」


 遥香は黙りこくってしまう。探偵に憧れているといっても、コソコソと楽しむのが遥香の限界だ。そのうち、現実との折り合いをつけてくれるようになる。


「俺に何を問いただそうとしてるんだ?」


 唐突に声がして、振り返った。

 隣人がそこにいた。

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