2、東雲遥香は事件を炙り出す

 遥香はるかが来るのは午後からだということだったので、午前中の僕は荷ほどきと整理を後回しにして近所を情報収集がてら散歩することにした。

 この辺りは少し変わった街で、都心に近いわりにはかなり歩かないとコンビニがなく、周囲にはチェーン店よりも、見慣れない個人店が軒を構え、何か街の個性的な雰囲気の一端をそれぞれが担っているようだった。

 散歩から戻り、マンションのエントランスからエレベーターの前に入って行くと、ホームセンターの袋をげたすらりとした男性が待っているところに出くわした。一瞬、知らない振りをして通り過ぎようとしたが、向こうから視線を投げられて、頭を下げた。

 お互いに挨拶を交わす。彼の提げた袋の中からのこぎりが飛び出ていた。他にも工具を購入したのか、少し重そうだ。エレベーターに乗り込む。


「何階ですか?」


 そう尋ねられて、「五階です」と返すと、向こうの表情が揺らいだ。


「引っ越しされてきた方?」


「ああ、そうです。すいません、お騒がせして」


 彼が階数ボタンを「5」しか押さなかったので、そこで初めて同じ階の住人だと知った。五階に着いて先にエレベーターを降り、部屋のドアの前に立つと、隣室の前で鍵を取り出す彼と目が合う。

 お互いにちょっと気まずさを感じながら、ドアを開けて部屋に入る。


     ◇◆◇◆◇◆


「それが隣の人と会った初めてというか、そういう感じのアレだね」

「なんでホームセンターの袋なんだ? この街には鍛冶屋とかないのか?」

「なんで鍛冶屋なんだよ。まあ、金物屋とかもあるだろうけど」


 遥香は顎に手をやって、う~ん、と頭を捻っている。


「容疑者はわざわざ遠くのホームセンターで鋸を買ったんだな」

「勝手に容疑者扱いするなよ……。優しそうな人だったぞ」

「フン、人間を表層的に捉えようとするのは、人間性の理解から最もかけ離れた愚行だと、いつになったら気づくんだ?」


 遥香は小難しそうなことを口走るのが好きらしい。ふと、気になったことを投げかけてみた。


「遥香、中学校では友達とうまくやってたか?」


 少しの沈黙がある。まるで僕を咎めるような鋭い視線で返される。

 まあ、そういうことだろうと思ったけどね。


「別に、もう卒業式も終わったし、私の意識は高校に向いているのだ。先見の明というやつだな」

「そういうのは先見の明とは言わんだろ、きっと」

「そんなことより!」遥香はイライラしたように本を乱暴に箱の中に戻した。僕の物なんですけど。「さっきの、私の推理が間違ってるというのは撤回しろ」


 隣人は配偶者または恋人と同棲しているという彼女の仮説は、このマンションが単身者用であるということから否定されるはずだ。


「別に、同棲していなくても泊まりに来たという可能性だってあるだろう。だから、言い争いをしていて、男の方が主導権を握っているという推理は完全には否定されないぞ」

「確かにそうだね。間違っているというのは言いすぎだったかも」

「分かればいいのだ。愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶものだ」


 ちょっと何言ってるのか分からないんですけど。絶対、雰囲気だけで言葉をチョイスしてるよ、この人。


「しっ!」遥香が人差し指を僕の唇に押し当てる。何も喋ってないんだが。「何か聞こえる」


 遥香と一緒に壁に耳を当てる。

 激高したような男の怒号がもやもやとした響きとなって伝わってくる。少しして、ドスン、という重量のある鈍い音が壁越しに届いてきた。僕は全身がサーッと体温を下げたのを感じて、恐ろしくなってしまった。


「なんだ……今の音? 一体何が──」

「喋るな」

「すんません」


 口論をするような声がピタリと止んだ。しばらくして、微かに水の音が聞こえる。風呂場でシャワーか何かを流しているようだ。小さな音を拾い慣れたせいで、僕にも隣室の様子を窺う力が養われたのかもしれない。

 少し間が空いて、ダン、と硬くて重いものが薄い材質の床の上に落ちる音がする。遥香が蚊の鳴くような声で言う。


「浴室に何か落としたな」


 それからは、硬いものが床なのか壁なのかどこかにぶつかる音が時折聞こえるだけだった。

 気づけば、時刻が夜の七時を過ぎていた。


「遥香、きっと叔父さんたちが心配してるだろうから、そろそろ家に──」

「しっ!」遥香は手のひらを僕の口に押し当てた。「やかましい!」


 壁の向こうから何かをこするような音がしていた。そして、隣室のベランダへの窓が開く音がして、ザン、と何かが入った袋が隣室のベランダに投げ置かれる音が窓の方から聞こえた。数秒後に窓が勢いよく閉じられた。

 それからの三十分間、僕たちはじっと耳を澄ませていたが、特筆するような音が発することはなかった。あっという間に八時だ。遥香は顎に手をやって、壁に背をもたれると、白い足を伸ばした。


「遥香、もう何もないだろうから帰った方がいい」

「さっき泊まるってママ──母に言っておいたから万事ばんじ塞翁さいおうが馬だ」

「いつの間に……っていうか、勝手に決めるな。っていうか、意味が分からないなら難しい言葉を遣うな」


 遥香が僕を真っ直ぐ見つめた。薄い茶色の瞳に思わず口をつぐんでしまう。


「隣室を監視するぞ。まずは腹ごしらえだ!」


     ◇◆◇◆◇◆


 食べすぎじゃないですか?

 僕は夕方に食べたので何も頼まないつもりだったのだが、遥香が「食べろ、食べろ」と圧をかけてきたので、仕方なく牛丼の小盛を宅配注文した。一方の遥香はメガ盛りを二つ平らげたのだ。


「お前の胃はどうなってるんだ……?」

「そんなことより」遥香は僕の家の冷蔵庫から勝手に取って来たミネラルウォーターをペットボトルのまま一気に飲み干した。前世は山賊か?「隣人について、君はどう思っているんだね?」

「どうと言われても……。言い争いをしてたんだろうけど、仲直りしたんじゃないかな。それ以上のことは言えないよ」

「フン、その程度の推理では、人間の知性を持て余すだけだぞ」

「じゃあ、何が分かったっていうんだ?」


 遥香は僕に顔を近づけると、能面のように表情をなくした。


「殺人だよ」


 静寂が訪れる。僕は言った。


「ニンニクくさ……」


 遥香が頼んだのは、ニンニクをふんだんに使ったスタミナ牛丼だった。メガ盛り二杯分のニンニクの吐息はヴァンパイアも逃げ出すだろう。

 遥香は顔を真っ赤にして、僕の頬に手のひらをぶつけた。

 生まれて初めてビンタを食らって、僕は意識朦朧もうろうとしていた。場の空気を茶化したのは事実だが、遥香は今なんと言った?


「殺人って、そんな突拍子もないことを……」


 遥香は吐息を部屋の隅に向かって排出しながら、大真面目に自論を展開し始めた。


「いいか。隣人は、口論相手をカッとなって殺してしまったんだ。だから、重い物が落ちたような音の後、言い争う声が聞こえなくなった。あれは人の倒れる音だな。そして、ここからがキモだぞ。奴は風呂場で死体を解体したのだ」

「はぁっ?! 何言って──」


 僕の脳裏に、隣人が手に提げていたホームセンターの袋が蘇る。鋸……。

 遥香はうなずく。


「隣人は殺人鬼だ」

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