東雲遥香は探偵に憧れている
山野エル
東雲遥香は隣人を怪しんでいる
1、東雲遥香は耳が利く
春がすぐそこにある。
大学生としての生活が始まるこの新しい部屋──そのベランダから
「私に片づけをさせておいて、君はお花見か。まさに漁夫の利だな」
部屋の中から少女の声がする。
段ボールの箱を抱えた彼女は、長い髪をアップにしてまとめ、ダボダボのパーカーの袖を
「ちょっと休憩してただけだよ」
言葉のチョイスがおかしい彼女こそ
引っ越し先が偶然にも叔父の家の近所で、それを聞きつけた遥香が手伝いと称して押しかけてきたのだ。数年ぶりに会う彼女は、以前の天真爛漫な子どもっぽさとは一線を画すような雰囲気を帯びていた。
「フン。まあ、いいさ」彼女は抱えた箱を揺らす。「こいつをゴミ袋にぶち込んだら私もひと段落する。一石二鳥だな」
その口調を格好良いと思っているのかもしれない。妙に堅苦しい話し方に変わっていた。指輪をたくさんはめた手でピースをする。
「一石二鳥……?」
ちょくちょく間違った言葉を
ゴミをまとめた袋を玄関の方へ引っ張っていこうとする遥香を呼び止める。
「ああ、ごめん。不燃ゴミは明後日だから、その辺に置いておいていいよ」
遥香は「フン」と鼻で笑う。何か良くない成長を遂げているように感じたが、注意すべきなのか躊躇する。
「人という社会生物は規範に縛られるものだ。そこが愚かしくも愛おしいと言うべきだろうか」
遥香は高校生になる。遅れてきた中二病ってやつだろうか? それとも、中二からずっと引きずっている?
遥香はゴミ袋を部屋の隅に置いて僕の前に歩み寄って来た。頭の先が僕の肩までしかない。彼女は顔を上げて不満げな表情を見せつけた。
「おなかすいた」
◇◆◇◆◇◆
奮発して宅配ピザを頼んだ。夕方五時……夕食には中途半端な時間だ。
Lサイズのピザ一枚とチキンのサイドメニューのうち、ほとんどが遥香の胃の中に収まってしまった。ご満悦そうに脱力した笑顔を浮かべる遥香は言う。
「うん。今日は実にいい一日だぞ。Time passed as a flashだ」
「なんで急に英語?」
「ピザだからだ」
「最近の若い子のセンスは分からん……」
遥香は小さなローテーブルのそばを離れて、ひんやりとしたフローリングの床の上にぺたりと
「ねえ! ブラウン神父シリーズ揃えてるんじゃん!」
ブラウン神父シリーズはチェスタトンが残したミステリのシリーズだ。世間的にはあまり有名ではないかもしれないが、遥香が知っていたというのが意外だった。だが、そんなことより、遥香が年相応の反応を示したことの方にびっくりしてしまった。
「ああ、まあ、去年の夏休みに知って一気に読んだからね」
「フムフム……」遥香は箱の中を掻き混ぜながら顔を綻ばせる。「新旧雑多なミステリ……典型的なライトミステリファンというところか」
遥香は僕を見て、にやりと何かを企むような顔を見せた。
「『ブラウン神父の童心』に『奇妙な足音』という短編があるだろう?」
「ブラウン神父が部屋の外の足音だけで事件を推理するやつね。覚えてるよ」
遥香は壁の方をビシッと指さした。そのせいで、ベッドのフレームに手の甲を思いきりぶつけて、声にならない
「だ、大丈夫か……?」
「フ、フン……! 別に何ともないもん」
彼女は指先で前髪をササッと直すと、今度は慎重に壁を指さした。
「『奇妙な足音』を知ってるなら話は早い。隣人について推理対決だ」
ギラギラした目でそんな開幕宣言を繰り出されても……。
とはいうものの、僕に拒否権はない。というか、遥香が話を勝手に進めてしまう。ニコニコした顔で自分の推理を披露し始めた。
「遥香はね──あっ、私はだな、こう考えるのだよ」
ちょっと素が出たようだ。そうだ、思い出した。昔は「遥香は、遥香は」と言いながら、マシンガンのように喋りまくっていたな。
「隣人は夫婦か恋人で同棲している。男の方が主導権を握っていて、一方的に女の方を言い負かすような関係性だ。どうだ? 当たらずとも撃たれまい?」
「当たらずとも遠からず」+「
「ええと、まずはどうしてそう考えたの? 手掛かりなんてなかったでしょ」
「フフフ」遥香は指輪をはめた人差し指を振る。「初歩的なことだよ」
ここに至って、僕はようやく気がついた。
東雲遥香は探偵に憧れている……!
そうじゃなきゃ、翻訳した文章みたいな喋り方をするはずがない。
「第一に、この部屋は壁が薄い」
「えっ?」
遥香についての理解が進んでホッとしていた僕には寝耳に水だった。
「ちょっと待って。内見の時には気づかなかったんだけど、本当に?」
遥香は唇に人差し指を押し当てて、目線で隣室の音を
思わず冷や汗をかいたが、静かな時にじっと耳を澄まさなければ分からない程度だ。気にするほどではない。
遥香と一緒に壁に耳を当て、隣室の様子を窺う。男のくぐもった声の後、少し間があって、また男の声がする。何を言っているのかは分からないが、興奮したような声色であるように感じる。
「ほら、男が何かを言って、女が返答をして、それに対して男が畳みかけているようだろう? まさにストックホルム症候群だ」
「ストックホルム症候群の意味分かってないだろ……。それにしても、どうして男女だと? 同性同士かもしれないだろ」
「男の声だけが聞こえるのは、話している相手の女の声が高音で壁を通りにくいからなんだよ」
「男でも通りにくい声の人がいると思うけど……」
僕の指摘は遥香にスルーされた。彼女は自説にのめり込んでいるのだ。
「あの、すごく言いづらいんだけどさ」お互い壁に耳をつけたまま顔を近づける。「その推理は間違ってると思う」
「なんだと? どういうことだ。説明しろ」
「このマンションは単身者用だから、同棲してるってことはない」
遥香は溜息をついて俯いたのだが、そのせいで僕の鼻っ面に彼女のおでこがクリーンヒットした。
お互い悶絶しながら床にへたり込むと、遥香は前髪を直しながら不満そうに声を上げた。
「そういう重要な手掛かりは先に提示しろ! アンフェアだぞ!」
「いや、お前がいきなり始めたんだろ……。でもそういえば、今日、隣の人とエレベーターで一緒になったんだよ」
僕は午前中のことを思い出していた。
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