第2話上善如水
大河は亜弥と出会った次の日から、
千葉にある実家に帰る為、二日間の休みを取っていた。
家に帰る道中にある花屋に立ち寄って白い菊の花を買い、その足で近くの墓地へと向かった。
大河はそこにある一つの墓跡の前にしゃがみこむとポケットから出したライターで線香を焚いた。
墓跡には鈴木紗綾香(すずきさやか)と刻まれていた。
大河はそっと手を合わせ、目を瞑ると、
そこに眠る元恋人と共に過ごした記憶を思い出した。
大河が彼女に出会ったのは、13年前のことだった。
小柄で黒い髪を肩の下まで伸ばした制服姿のその少女は高校入学直後の大河の目を釘付けにした。
大きな目をクシャッと小さくさせて笑う彼女は
大河だけではなく、周囲の人間をよく笑わせるクラスの人気者だった。
大河は紗綾香を見る度に、紗綾香の声を聞く度に、そして紗綾香とした会話を思い出す度に胸が高鳴り、また時には胸を締め付けられる感覚を覚え、それが恋であることに気がつくのに数日もかからなかった。
大河は紗綾香と過ごす時間が増えるほどに、彼女といることが、自分をいつまででも無邪気で楽しく、幸せにさせるような気がしていた。
二人は出会ってから数年の間、互いの距離を縮めたり遠ざけたりを何度か繰り返し、最終的に婚約をした。それは大河が紗綾香に出会った約12年後のことだった。
二人が同棲を始めて婚約を決めたある日
大河が仕事から家に帰ると、無惨な姿で家の庭に倒れる紗綾香の姿があった。
二人の間にはその後たった一度の会話も無いまま、紗綾香は救急搬送された病院で命を落とした。
警察によると、家に紗綾香以外の何者かが入った形跡は無く、誰と争った形跡もないことから、彼女の死因は自殺と見て捜査が進められた。
手を合わせる大河の閉じた目からは一粒の涙がこぼれ、やがてそれはまるで一点だけ小雨が降り出しかのように墓跡の前の地面を濡らし続けた。
大河の母、山田絵里は台所のコップに注がれた水をゴクゴクと一気飲みし
「ぶはああ!今日は大河君の大好きなカレーです」と独り言を言った。
絵里が自身で作詞作曲したカレーの歌を歌っていると紗綾香の墓参りを終えた大河が家に帰ってきた。
「ただいま」
「おお!帰ってきたねー!おかえり!ちょうど、ご飯できたよ!」
大我にとって久しぶりに聞く絵里の声は、彼の沈んだ心を安心と優しさで包んだ。
夕食を食べ始めた大河に絵里は尋ねた。
「ちょっと痩せたんじゃない?」
「そうかな?体重なんてもう測る機会ないから分かんない」
「ちゃんとご飯食べれてるんでしょうね」
「大丈夫だよ。もう仕事も始めたし」
「それなら良かったけど。それはそうとして、あんたいつからタバコ吸ってんの?」
大河はカレーをほうばる手を止めて絵里を見た。
「え?なんで分かったの?」
「女のカン」
大河はコップに注がれた水を一口飲むと「・・・去年くらいから」と答えた。
「あら・・・そっか・・・でもあんた喘息持ってるんだから気をつけなさいよ」
「うん。分かってる」
大河と絵里は少し俯くと、しばしの間そこに沈黙が流れた。
絵里はまた水を一口飲んでから口を開いた。
「それで、紗綾香ちゃんの家には行ったの?もうすぐ一周忌だよね?」
「ああ、うん。行ってない。早苗さんとお義父さん、俺に気を遣ってくれてるんだ」
「そうなんだ。お二人もさぞお辛いでしょうにね・・・」
「うん・・・」
二人の間に再び、しんみりとした空気が流れていると家のドアがガチャっと大きな音を立てて開き、大河の父、山田和彦が帰宅した。
「ただいまあー!お!せがれが帰ってきてる気配がする」
「おかえり」
「お、ただいま!大河もおかえり。絵里ちゃんお腹すいた!」
絵里は「おかえり!今日はカレーですよ!」と明るい声で和彦を迎えた。
和彦はまるで子供に戻ったように「やったあ!」と言って喜ぶと、スーツを脱ぎながら家の二階へ駆け上がり、急いで部屋着に着替えて居間に降りてきた。
和彦は早速、冷蔵庫から缶ビールを3人分取り出すと、グラスにそれを注ぎなおし大河と絵里に手渡した。
「それでは久しぶりに帰ってきた息子に乾杯」
和彦の明るさのおかげでその場はすぐに和みを取り戻し、大河は久しぶりに感じる幸せな時間に浸った。
和彦は顔を赤くほてらせながら大好きなカレーをむしゃむしゃとほうばり家族の思い出話をした。
「大河が子供の時は本当に世話が大変だったんだから。夜になるといつも咳が止まらなくなったんだよ。その度にいつも絵里ちゃんが起きて、看病してくれてたんだよ」
「うん、覚えてるよ。ありがとね。手のかかる息子でごめんね」
「しかも大河が落ち着いて、絵里ちゃんもようやく眠れると思ったら、またいきなり大河が泣き出すから、大丈夫?って聞くと大河は怖い夢と現実が区別できてないだけだったりとかあったよね」
「そんなことあったっけ?」
絵里は笑いながら
「あったあった。それでまたあんたが静かに寝たと思って安心したら、その時にはいつも、もう朝になっていたんだから」と口を挟んだ。
「君の母は毎日が睡眠不足との戦いだった」
大河が苦笑いをしながら「本当ごめんね」と言うと絵里は「だから親孝行しなさいよ」と言って笑みを返した。
「はい。すいません」
和彦はこの言葉を待ってたと言わんばかりに
「で、タバコは?」と付け加えると
大河は再び苦笑いをして「すってます」と言った。
絵里は「だめだこりゃ」と言うと笑いながら
空になったビールグラスに水を満タンに注いでそれをゴクゴクと飲み干した。
翌日、大河が車のエンジンをかけると絵里は家の外まで見送りに来た。
「じゃあね。あんたいつまでもタバコ吸って、お母さんより早く死なないでよね」
「わかってるよ。お母さんも、もう若くないんだから体大事にしてね」
「はいはい、じゃあ気をつけてね。ほら親父くーん、せがれがもう行っちゃうってよー」
和彦は「それじゃあねー」と家の奥から大河に手を振った。
大河が帰った後、絵里は近くのショッピングモールに買い物に出かけ、和彦は家のパソコンを開いて仕事をしていた。
大河は帰り道の車の中で、約一年前に紗綾香の実家で行われた葬儀のことを思い出した。
大河は棺の中で眠った紗綾香の顔を思い出していたが、どういうわけか、それと同時に二日前に自分の身に起きた事件の夜の記憶も思い出した。
近くのコンビニでタバコを買い終わり家に戻ってきた大河は部屋に置かれたままになっていた本を読んでいた。
本の開かれたページには"邪意識との共存"と書かれていた。
“その邪意識は人間に入り込み、7日目に高い場所から飛び降りる”
“その邪意識が活動するには大量の水を必要とし、人間の顕在意識と共存している間もその特徴が見られる”
大河はページをパラパラとめくり「嘘くさ」とつぶやくと、亜弥の所有物であるその本を部屋の隅に放り投げた。
大河はそれまでの人生で誰かに大声をあげて怒ったことは滅多になかったが、
彼にとっては自分が大声を出した理由は明らかであった。
怒りが少しずつおさまり、冷静になってきた大河は亜弥に対してとった自分の態度を改めて反省し始めた。
「はあ・・・助けてもらっておいてそれは無いよなあ。」
壁を殴りつけたことで生まれた大河の拳の傷はズキズキと痛み始め、それにつられて左腕にできた擦り傷にも痛みを感じた。
大河は深くため息をつくと自分の顔を手で覆(おお)った。
大河はポケットから携帯を取り出し亜弥に謝罪のメッセージを入力した。
「先日はすみませんでした」
車のハンドルを片手で操作しながら、続く文章を考えて顔を上げると、信号はいつからか既に緑色に変わっていた。
大河は慌ててアクセルを踏んだ。その直後、
キイー!という車のブレーキ音が交差点に響いた。
大河の顔は真っ青に強張(こわば)り、額(ひたい)からは汗がどっと噴き出した。
大河の脳裏に浮かんだ、いくつかの記憶がつながり、やがてそれらの記憶の線は大河に一つの未来を想像させた。
大河は紗綾香が自殺をする数日前、
二人の同居していた家に大量の水が届いた日のことを思い出した。
「砂漠にでも行くの?」
紗綾香は笑いながら「バカじゃないの」と言った。
「暑いんだから水分補給はちゃんとしないと」
「いや、まあそうだけど、こんなにいるかね」
「あっても困らないじゃん。たくさん買った方が安いし」
「まあ、そうか。その内、災害とか来るかもしれないしね」
数日経つと、箱買いした筈の水はほとんどなくなっていたので、大河は驚き
「飲み過ぎだろ。アスリートかよ」と言って紗綾香と笑っていた。
車内で血の気が引いたように真っ白な顔になった大河は震えた声で呟(つぶや)いた。
「・・・大量の水?」
大河は急いで車をUターンさせると片手でハンドルを握りながら家族のグループチャットにメッセージを送った。
「お母さん水飲み過ぎじゃなかった?」
しばらくすると、和彦からの返信がきた。
「またテレビで見た変な美容効果を信じてるんでしょ。って息子が言いたそうにしてる」
「ハマり出したのいつから?」
「先週くらい」
「先週のいつ?」
「丁度先週の日曜」
「7日前?」
「だね。なんで?」
大河は再び急ブレーキをして車を止めた。
「どうしよう、どうしよう」
大河は途端に体に寒気を感じ、呼吸は次第に早くなった。
車のハンドルに自分の頭を二度、三度ぶつけると大河は「そうだ!」と閃いて携帯電話に登録された亜弥の連絡先を再び開いた。
通話ボタンを押す直前で大河はゴクリと唾を飲み込むと、すぐに携帯の画面を閉じて首を横に振った。
「ダメだ。どうしよう」
大河はポケットの財布から二日前に亜弥からもらった平和協会と書かれた名刺を取り出した。
「あ・・・そうだ!!!」
大河は名刺の最下部に記載された電話番号にあわてて電話をすると車を勢いよく走らせた。
「もしもし、母が取り憑かれているんです。すぐに来てもらえませんか?」
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