第6話 父親の悩み

 「ガチャ。」

 扉が開いて、父親が玄関から出てきた。




 「見ず知らずの方々に、健太郎がご迷惑をお掛けしたようですね。


  どうもすみませんでした。」

  父親が姫子と薫の前まで歩いて来て、ペコリと頭を下げた。




 「どうぞ頭を上げて下さい。


  お父さん。

  健太郎君は、私達に迷惑なんて少しも掛けていないですよ。

  そうです。三人で話しながら、ここまで一緒に歩いてきただけですよ。



  でもね、お父さん。私は心配をしていたんです。

 

  健太郎君が大きなリュックを背負って歩いていたので、これは単なる迷子ではないかもしれないって。

  もしかしたら家出をしてしまったのかもしれないと考えたんです。



  ですから、けんちゃんから話を聞いてみました。


  そうしたら、お父さんとケンカをして思わず飛び出して来てしまった事を教えてくれました。


  でも、その事をとても悲しんでいたので、一緒に謝りに帰ろうとも話をしたんですよ。



 お父さんの事も、そして亡くなってしまったお母さんの事も大好きな、とても素敵な息子さんですね。」


 姫子がけんちゃんの方を穏やかな顔で見つめてから、父親の方に向き直り、頷くように言った。






 「そうですか。どうやら私達のケンカの話も聞いたようですね。


 

  健太郎と話が重なるかもしれませんが、まだ8歳の子供のつたない説明だけではなんですので、私からも説明をさせて下さい。




  健太郎の母親は、去年交通事故で亡くなったのです。

  妻が日中に買い物に出掛けていた時に起こった、突然の悲しい出来事でした。




  妻が亡くなる前は、出産を機に専業主婦になってくれた妻に甘えて、家の事も健太郎の事も全て妻に任せっきりで、私は仕事ばかりをしていた駄目な父親でした。



 ところが、妻がいなくなってしまうと、当たり前の事なのですが、今まで妻に任せっきりにしていた家事の全ても私がやることになりました。

 

 今まで仕事しかやって来なかったが一気に押し寄せてきた感じでした。


 まず毎日のように夜遅くまでしていた残業も、家事をする時間を作る為に辞めなければなりませんでした。

 早々に仕事を切り上げるようにして、出来るだけ早く家に帰る生活を始めて、それをずっと続けていました。


 妻が当たり前のようにやってくれていた家事が、こんなにも大変な事に、彼女が居なくなるまで気が付かなかったんです。

 家事に不慣れな自分は、下手な上に、時間もかかっていました。



 健太郎が自分の事をやってくれるようになっている今でさえこんなに大変なんです。この子が小さかった時に、家事がたまに終わっていなかった妻の事を、家に居て時間が沢山あるのにどうして?と思ってしまっていた自分が恥ずかしいと思った時もありました。


 自分は妻が居なくなるまで、そして自分がやってみるまで、その大変さに気が付かない人間だったんですよ。


 妻の自分や息子に対する愛情の深さにもです。


 目の前に居るのが当たり前。いや、居て当然の存在になっていた妻をどうしてもっと大切にしなかったんだろう。

 妻に感謝の気持ちをもっとちゃんと伝えておけばよかった。


 そんな風に思いながら、毎日を過ごしていました。



 でも、妻はもういないんです。

 その事で、健太郎から以前のような笑顔が少なくなってきていた事に気が付いたのは、随分前です。


 そして、いつまでも早く帰る生活を続けていくことは、僕の今の仕事上、もう出来なくなってもきているんですよ。

 仕事は溜まる一方で、週末に持ち帰ってやろうと思っていても、食料の買い出しや掃除などの家事をしてご飯を作ったら、あっという間に日中なんて終わってしまうんです。


 結局、子供が寝てから睡眠不足になってでも仕事をなんとかするという日々でした。



 そもそもこの子もまだ小さいですから、日中いつまでも家で一人にしておくことだって出来ません。


 そんな自分は、やがて再婚をしようと考え始めたんです。




 そして、その話をこの旅行中に健太郎にしたんです。そうしたら、健太郎が『ママは一人だけ』と言って、その後は自分の部屋に行ってしまいました。




 そして、どうやら私が昼食の支度をしている間に、別荘から出て行ったようです。


 その事に気が付いたのは、食事の準備が出来たとこの子の部屋に呼びに行った時でした。




 まぁ、きっと直ぐに寂しくなって戻ってくるだろうと軽く考えていたのに、なかなか帰ってこないので、何かあったのではないかと、ちょうど心配をし始めていたところでした。」


 父親が姫子の方をみて、そう説明した。






 「そうですか。昨年奥様がお亡くなりになったのですね。


 悲しい出来事の上に、生活も一変してしまったようで、随分ご苦労なさっているようですね。けんちゃんもまだ小学生の低学年ですし、自分の事を自分でする事や、お父様のお手伝いを上手に出来る年齢ではありませんものね。




 ですが、すみません。失礼は重々承知しております。個人的な事に立ち入って申し訳ないのですが、どうしても聞かせて下さい。




 お父さん、あなたは、健太郎君の為に再婚をしたいのですか?


 それとも自分の仕事の為にそれが必要なのですか?」


 姫子は、真剣な顔でたずねた。






 「もちろん、健太郎の為にですよ。」


 父親がすぐにそう答えた。




 「この子が別荘からいなくなってしまってから、ずっと今まで健太郎の事を考えていました。どうして出て行ってしまったのかと。




 再婚の話は、この子も喜んでくれるとばかり思っていました。


 だって、そうでしょう、私の下手な料理や洗濯よりも、女性の細やかな家事の方が健太郎も快適に思うと思いませんか?


 それなのにどうしてこの子は、怒ってしまったのだろうと。



 それからは、この子に本当に必要なものは何だろうと考え始めていました。




 でも、その答えが自分には、分かりませんでした。




 健太郎の事を考えていたはずなのに、結局頭の中に浮かんでくるのは、最近の自分が悩んでいる事ばかりでした。




 ずっと時間に追われていて、仕事も家事も満足に出来ていない自分の事を不甲斐なく思っていました。




 そして平日に出来ない仕事を週末に家でしていることも多くなり、健太郎と出かけることも出来なくて、健太郎にも随分我慢させてしまっているんです。


 今回の旅行も、そんな健太郎の気持ちが明るくなってくれればと、無理をしてでも行こうと計画したものなんです。


 まぁ、旅行先ならゆっくり話が出来ると思ったので、再婚の話をする良い機会にもなってくれればと思いもしましたがね。




 私が慌ただしく毎日を過ごしているのを、同じ職場で見ていて、健太郎の新しいお母さんになりたいと言ってくれる女性が現れたんですよ。そんな出来事があって、再婚を考え始めたんです。


 穏やかな女性で、健太郎の母親になる事も望んでくれています。


 だから、もしこの女性が家にいてくれたら、健太郎も自分も、今よりゆったりとした時間を、また昔のように過ごす事が出来るようになるのではないかと考えていました。




 そして、健太郎も今よりも好きな事を出来る時間が増えるのではないかと。




 姫子さん、私の考え方は、間違っているのでしょうか?」


 父親は、穏やかな姫子の促しによって、一人でずっと悩んでいた事を、素直に打ち明けていた。






 「話して下さって、どうもありがとうございます。




 お父さんは、再婚という大事な事を、誰にも相談することが出来ず、随分悩まれていたのですね。




 そして、お父さんの健太郎君の為だという言葉を聞く事が出来て、私は何よりも嬉しかったです。




 お父さん、どうぞ健太郎君と、この旅行の間にゆっくりとお話をして下さいね。


 お父さんが健太郎君の事を思っていることは、とてもよく伝わりました。


 ですが、あまりに忙しすぎて、健太郎君本人とあまりお話が出来ていないように感じます。




 健太郎君は、まだ小さいとお父さんは思っているようですが、もう大切なお話も出来る年だと私は思いますよ。




 健太郎君の『ママは一人だけ』と言う言葉の意味は、ちゃんと本人とお話しをしないといけない事だと思います。




 健太郎君は、お母さんの思い出を大切にしながら、一人で待つことになっても、今のままお父さんと二人で頑張って生活をして行きたいと思っているのかもしれません。




 それとも、新しいお母さんの話が、健太郎君にはあまりに突然のお話すぎて、ビックリしてつい言ってしまっただけだったのかもしれません。


 どちらが健太郎君の考えている事かは、私にも分かりません。両方の気持ちがある場合だってありますよね。


 ですからこの話は、後で、健太郎君からゆっくり聞いてあげて下さいね。




 そして、お母さんについて思う気持ちがどちらにしても、お父さんの事を大切に思っていて、忙しいお父さんの事をとても心配しているという事は、一緒に歩いている間に、健太郎君からたちゃんと伝わってきましたよ。




 相手をお互いが思っている家族は、とても素敵だと思います。



 ですから、これからの話は、ゆっくりと時間をかけて、健太郎君と一緒にちゃんと決めていって下さいね。だって、お二人は、家族なのですから。」






 「そうでしたね。自分一人で考えていても健太郎の答えは出てきたりしませんよね。


 私は、健太郎と一緒に決めるという一番大切な事をしていませんでした。


 そんな大切な事を忘れてしまっていた事に、気が付いていなかった自分が恥ずかしいです。


 姫子さん、どうもありがとうございます。」


 父親が姫子に礼を言った。



 そして話が終わったと思った健太郎君が、嬉しそうに父親の元に駆け寄っていった。






 「姫子さん、薫さんどうもありがとうございます。」


 笑顔になった父親と健太郎君が、仲良く玄関口に立って、姫子と薫を見送ってくれた。


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