第36話 モーリス伯爵家の一人娘

「アリエステ!」

 鉄柵にとり付き、気づけば叫んでいた。


 一か月前。

 離宮で別れた彼女とはまるで別人だ。


 アリエステは、濡れた土間に横たわっている。


 左頬を地面につけているのだが、その目が腫れあがり、ほとんど開いていない。


 目だけじゃない。だらりと伸ばした左手首の腫れ方も異常だ。

 顔も、髪も、衣服も。

 すべてが土や泥、黒い染みのようなもので汚れ、見る影もない。


「鈴の音が聞こえたから」


 彼女は、ぴくりとも動かないのに、口の端だけ少し上げるようにして微笑んだ。


「開けろ! ここを今すぐ!」


 左手で鉄格子を揺すり、右手で修道士の胸倉を掴んだ。


「レイシェル卿に許されているのはアリエステ・モーリスとの面会のみです」


 苦し気に顔を歪めながらも、修道士が強情に言い張るからその右脇腹を蹴りつけてやる。げふ、と呼気を漏らし、修道士は呆気なく地面に崩れる。


「開けろ! アリエステを出せ!」


 鉄格子を揺すり、俺が再度蹴りつけようとしたら、ちらりと何かが光る。

 セイモンが小刀を取り出し、しゃがみこんでむせている修道士の首元に押し付けていた。


「鍵を出せ。さもなくば殺す」

 天使もかくやというきれいな顔で凄む。


「レ……レイシェル卿に認められているのは……」


 それでもまだ修道士は繰り返す。


 俺は鉄格子から手を離し、片腕で修道士の肩をつかみ、強引に立ち上がらせた。

そのまま、もう片方の手で眼帯を引きちぎる。


「呪われてぇのか、貴様」

「ひ……!!!」


 両眼で睨みつけると、修道士は悲鳴を上げて聖句を切り、がたがたと震え始めた。


「ほ、本当にわたしにはその権限がないのです! どうかお許しを! じ……浄化を! 浄化をさせてくださいっ」


 震える指で修道士がさっき降りて来た階段を指差す。


 俺は小さく舌打ちする。

 たぶんそれは本当なのだろう。


 実際、アリエステをここから出せないから、こんな回りくどい方法をナイト公爵もとるしかなかったのだ。


「どうかお許しを!」

 修道士は俺の手を振り払って走って逃げた。


「追う⁉」

「放っておけっ。それよりなんとか鍵がないか探してきてくれ!」

「承知!」


 俺の指示に、短く返事をした。セイモンが俺にカンテラを突き出すから受け取る。そのまま隊員とともに階段を駆け上がって行った。


「アリエステ。すぐに出してやる。もう少し待て」


 できるだけ優しく声をかけてやろうと思うのに。

 ただ声がさっきより小さく、そして震えるだけになってしまった。


「最期にレイシェル卿に会えてよかったです」


 アリエステが横たわったままの姿勢で柔らかく笑む。

 ぴくりとも動かないから、俺は不安で仕方ない。


 できるだけ彼女に近づきたくて、両膝をついてカンテラを地面に置いた。両手で鉄格子を握りしめ、一生懸命陽気に笑う。


「最期ってなんだよ」

「わたくしはこのまま処刑されるでしょう」


「そんなことはない!」


 気づけば怒鳴っていた。だが、アリエステは身じろぎもしない。


 なにか変だと思ったら。

 彼女の首元にいつもあるはずのピンクダイヤモンドがない。


 モーリス伯爵家が代々継いでいるペンダント。

 それさえはく奪されたのか、と頭は冷えていくのに、心の中は怒りで燃えたぎる。


「なにがあった、アリエステ。俺に教えてくれ」

「貴卿はどのように聞いているのです?」


 逆に尋ね返される。


「アリエステがアントニオ何某という黒魔術師とあいびきしていた、と。たまたま鉢合わせたカルロイの口を封じるためにあいつを殺そうとした、って」


 本当は陽気に、「な? バカみたいだろ?」という感じに言ってやりたいのに。

 心から吹き上がる怒りの感情が声に乗り、喉を焦がす。


「それを貴卿は信じ……」

「信じてなどいるものか! なにがあった! 言ってくれ、アリエステ!」


 怒鳴りつけ、鉄格子を殴った。首だけねじって背後に向かって叫ぶ。


「セイモン! 早く戻ってこい! ここからアリエステを……っ」

「いいのです、別に。貴卿とわたくしの両親がわたくしの無実を信じてくれればそれで」


 アリエステは穏やかに微笑む。

 その顔に。

 ばさり、と髪の束がかかった。


 汚れて、よれて、輝きも、しなやかさもないアリエステの髪。


「なにがあった、アリエステ。教えてくれ。頼む、喋ってくれ」

 俺は鉄格子に再びしがみつく。


「話したとしても……。なにも」

「変わる! 俺が変えてみせる! あきらめるな! お前はアリエステ・モーリスだろ!」


 俺のアリエステ。

 誰よりも気高く、力強く、優雅で美しい娘。


「モーリス伯爵家の一人娘で……! 王都の学院を首席で卒業した才女で……。社交界ではピンクダイヤモンドのようだと噂された娘だろう! こんなところで終わるな!」


 励ますつもりの言葉は、優しくも穏やかでもなかった。

 ただひたすら喚き、アリエステに向かって懇願しているだけだった。


「お前は俺が大事にしている女だ! 絶対にこんなところで終わらない! 終わらせない!」


 ふと。

 アリエステの瞳が揺らいだような気がした。


 いや。

 強い風を受け、小さかった火が大きく、炎のように膨らんだのだと知る。


「わたくしは……モーリス伯爵家の娘です」


 小刻みに身体が震え、アリエステはまだ自由の利く右手を地面につけてゆっくりと上半身を起こした。


「貴卿の言う通りです。ピンクダイヤモンドを奪われようが、傷つけられようが。最後まで胸を張って真実を口にし続けることが大事なのかもしれません」


 相変わらず左目は腫れあがってほとんど開いていない。

 だが、右目はまっすぐに俺を見つめていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る