第5話

 そこには、水の湧き出る大理石でできた小さな泉がありました。

 塔の底はまるで大きな鳥籠の中のように、金の縁が壁伝いにしっかりと張り巡らされております。


「……ここに誰かが来るのは、どれくらいぶりだろうか」


 そう囁く声は、先ほど風の中で聴いたあの歌声にそっくりです。

 泉の縁で寝そべるようにしていた何かが、そう言いながらゆっくりと身体を起こしました。


「ララバイ、お目覚めかい? ヒトデナシを連れてきたんだ。ねぇほら、この子はきみのお仲間じゃあないのかい?」

「なすび……ようやく成れたのかい? 寝起きにきみの声はやけに頭に響くねぇ」


 つまらなそうに欠伸をしながらこちらを向いたそれを見て、シュレーニは思わず口元を抑えました。


「あ、あなたが。ララバイ……?」

「ニンゲンたちはそう呼んだりするみたいだね」


 さして興味もなさそうに、ララバイであろうその何かはシュレーニに答えます。

 その姿はなんの言葉を当てはめていいかわからないほどに、シュレーニにとってはこれまでに見たこともないほどに美しいものでした。


「でもあなた、怪我をしているの?」


 白い肌に、美しいブルーの模様が入った手足、金色の瞳に整った顔立ち。そしてその背中にはおそらく大きな翼があったのでしょう。千切れて少し骨のようになっている翼の残骸が、確かにその背にはありました。

 美しくて目が離せないのに、どうしようもなくその背中だけが痛々しくて、シュレーニは何かできないものかと辺りを見渡します。


「珍しく塔に迷い込んだようだけれど。悪いね、わたしの翼はもう失われてしまったんだよ、何百年も前に。人々は忘れてしまったかもしれないけれど」

「とてもとても痛そう。何かできることはないかしら」


 ララバイはシュレーニのその言葉に、美しい瞳をまんまるに見開きました。


「きみは、わたしを恐れないのかい? 翼を壊した役立たずだとも……言わないのかい」

「どうして? 怪我をしている人をほうっておくのはいけないことよ。それにあなた、お話で聞いたような恐ろしい姿をしてないんですもの」

「ふぅん。姿なんて意味を持たないさ、もしかしたら次の瞬間にはきみを捻り殺して食べちゃうかもしれないのにかい?」

「だって……できるのならあなたはすぐにそうしたはずよ」


 ねっ? と首を傾げるシュレーニに、ララバイは諦めたかのように頬杖をついて再び寝そべりました。


「どうしてここにはこんなに美しい水源があるの?」

「空の向こうから湧き出てくるからさ」

「この水はすべてあなたのもの?」

「さあね。けれど水は誰のものでもないよ、ただわたしがこの塔に閉じ込められているだけで」


 閉じ込められているですって? シュレーニは思わず大きな声でララバイの言葉を反芻してしまいました。

 美しい金色の瞳が、いぶかしむかのように左右非対称に細められます。


「あの、お気を悪くしたらごめんなさい。でも、皆はあなたがこの塔で水を独り占めしているんだと思っているの」

「ははは、とんでもないさ。きっと忘れているんだよ、ニンゲンたちは。きみもそうだろう?」


 輝くような青い模様の入った指先を向けられて、シュレーニは首を傾げます。


「ヒトは禁忌を犯してこの世界に堕とされた。ひとつはわたし、空を我がものとできるようにとヒトが生み出した怪物さ。世界からの警告だろうね、空は砂に覆われ始めたんだ。けれど、ヒトは過ちを繰り返した——空は誰のものでもないんだ、希望とは奪い合うものではないんだ。わたしは、空の向こうから人々が奪ってきた禁忌の種をあちらの世界へ帰そうとして……翼を灼かれた、空に還ることのできない『できそこない』なんだよ」

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