第4話

 ひとり部屋に取り残された私は湿っぽい空気の余韻に浸り、なにをするわけでもなく完全に時間を持て余していた。


 主不在の部屋と言うのは予想以上に収まりが悪いものだ。

 せめて時間でも潰そうとポケットからスマホを取り出した瞬間、手中のスマホが突然震え出した。

 ディスプレイに表示されたのは岡崎弘子の名前である。


 「もしもし?」と私は恐る恐る電話に出た。頭の中には「あの人はおかしい」と非難する大平の声が繰り返し何度も響いていた。


 『今ちょっと大丈夫ですか?』と返したのは電話口から鳴る岡崎の声である。

 実はこの時、私は「もしかすると文房具王になり損ねた方の岡崎弘子が電話に出る可能性もなきにしもあらずだ」とそっちの可能性に期待して電話に出たのだが、なんとも無駄な希望であった。

 これほどまでに岡崎弘子の声が聞きたいと思った事などなかった、いや二度目だと言うのに。


『あの、さっき別れたばっかで悪いんですが、今日もう一回会えませんか?』

「今日ですか? 電話では……」

『出来れば直接会って話がしたいんです。今から部屋に行っても大丈夫ですか?』

「部屋? 部屋って私の部屋ですか?」


 岡崎が私の部屋を知っているのもそうだが、すでに出入りする仲であるとは驚きである。


「いや待ってください。ちょっと今、散らかってて」

『知ってますよ』

 知っているとは何事だ。

「いやダメです、今部屋に居ないんです」

『どこにいるんですか?』

「大平さんの部屋です」


 「大平?」と岡崎は訝しむような声を出した。

 咄嗟にマズい事を言ったと思い、弁明を私は始めてみたが、そもそもなぜ弁明などせねばならぬのか。釈然としない気持ちを抱えながら一応は誤解を解こうと私はありのままの経緯を彼女へ伝えた。


「勘違いしないでくださいよ、大平さんが話したい事があるって、向こうから誘ってきたんです。決して私からどうこうってわけでは……」


 「待って」と冷たい声の響きを持って岡崎は無理矢理言葉を止めさせた。

『大平さんって、誰ですか?』


「は? 誰って大平さんは大平さんですよ」

『だから――』

「さっきまでファミレスで一緒に居たじゃないですか、大平雅代! 隣にいたじゃないですか」


 私が食い気味に言い彼女の言葉を遮ると、岡崎は「何を言っているんですか?」と私へ言った。その言葉には私の正気を確かめるニュアンスが込められており、聞いていて気持ちの良い響きではなかった。


『ファミレスでは私とふたりきりだったじゃないですか』

「な、何を……隣に居たじゃないですか。それで彼女がコーヒーに気付いて……」

『すみません、本当に何を言っているのかわからないんですが……あ、いえそんな事よりですね』

 と岡崎は話を変えた。


『さっき言ってましたけど、今、大平雅代の部屋にいるって』 

 「そうですよ」私は少しぶっきら棒に応えた。

「ファミレスで解散した後、部屋に誘われたんですよ」


 「え?」と岡崎は短く言葉を切った。


『大平雅代の部屋に?』


「だからそうですって」

『え、ちょ、ちょっと待ってください? 今? 本当に、あの大平雅代の部屋にいるんですか?』

「だから! さっきからそうだと言って……」

『どうやって? どうやって入ったんですか!』

「ですから呼ばれたんですよ、大平さんに!」

『呼ばれた……』

 「なんなんですか、もう」と私は苛立ちを隠さず岡崎へとぶつけた。


 すると……、

『あ、あの、驚かないで聞いてほしいんですが』

 私はそこで岡崎から聞かされた話をすぐには理解出来なかった。


『大平雅代はとっくの昔に死んでいます』


 一体何を言っているんだと、私はもう一度聞き返した。

『ですからすでに亡くなているんです、それも三年前に』

「いや、待って、待ってくだいさい。そんなわけないじゃないですか」

『事実です、後で調べて見れてください。図書館に行けば当時の新聞に……』

「さっきも言いましたけど、三人でファミレスで会いましたよね? 岡崎さんの隣に座ってた人ですよ」

『ですから居ませんって。ファミレスでは私とあなたのふたりだけだった。それなのにコーヒーが突然でてきて、それで気持ち悪くなって解散したんじゃないですか!』

「そんなわけない! あるわけが……」


 私はその時、背後に視線を感じた。

 振り向くと背にしていたドアが僅かに開かれて居るのが見えた。そこから中を覗く白い眼玉が物言わず私のことを見つめていた。


『もしもし? 聞いてますか?』


 電話から岡崎の声が漏れて聞こえた。

 私が気付き、息を飲むのとほぼ同時に音もなくドアはゆっくりと開いた。現れた大平の表情は無表情である。


「すみません、盗み聞きする気はなかったんですが……」

 大平はブツブツと何か言っていたが、私は耳に当てていた電話から聞こえる岡崎の呼びかけと挟まれて、彼女の声はほとんど耳に入っていなかった。


「もしかして今、岡崎さんと電話してます?」

 私は頷いた。

「今すぐ電話を切ってください。ヤバいんです、あの人」

『もしもし? 聞こえてますか?』

「ヤバいってどういう……」

『……ヤバい? ちょっと、誰と話してるんですか?』

「私、見ちゃったんです。本当は見るつもりなんてなかったんですけど」

「見たって、何を?」

『もしかして大平雅代と話してますか? そこに彼女がいるんですか? もしもーし?』

「あの人の鞄の中……ノコギリが入ってました、錆びだらけの」

「の、ノコギリ?」

『逃げて!』


 その瞬間、大平との会話を遮る様に岡崎の声が鼓膜を貫いた。


『今すぐその部屋から逃げて! その人は大平雅代なんかじゃない。アナタは騙されているの』

 必死の訴えが私の心を揺さぶった。


『お願い、私を信じて。さっきも言いましたが大平雅代は三年前に人身事故で亡くなっています。ですがその後、何者かが彼女に成りすまして行動しているみたいなんです』

「電話を切ってください。岡崎さんの言葉に耳を傾けちゃダメです。私を信じてください」

『恐らく彼女は、この連続失踪事件に関与している人物です。お願いです、私の話を聞いてください。本当に彼女は危険なんです、今すぐそこから離れてください』


「騙されないでください。私を信じて」

『ダメ、早く逃げて』

「電話を切って」

『話を聞いて』

「耳を傾けないで」

『信じて』

「騙されないで」


 「ああ! もう!」と私は叫んだ。

 手に持っていたスマホを床に叩き付け、そして目の前の大平を突き飛ばして部屋を後にした。


 誰を信じて良いのか、何が何なのか、本当に自分の頭がおかしくなってしまったのか、もはや私には何一つわからなかった。


 そこから先、私はあまり覚えていない。ただ無我夢中で靴も履かずに自分の部屋まで走っていた。


 部屋に着くと今朝見たままの状態で部屋の時間は止まっていた。

 パソコンに目を向けると見覚えのない動画。オレンジ色のミミズクが目を見開いて私の姿を見つめていた。

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