第3話
件のファミレスを出た後、駅から東に五分も進めば地元高校の運動部員が死んだ魚の目をしながら走らされる心臓破りの坂がある。
通称『鬼坂』と呼ばれるこの坂は、肉離れを引き起こすと悪名高く、私もあまり良い思い出がない。
足早にその坂を上り切った先に待つのは男女の交際が尽く破局する事で有名な縁結びの神社。
そこを右折すると築三十年を超える賃貸アパートが経年劣化も味と言わんばかりに佇んでいた。
目的地は二階である。
そこへ行くには鉄板を雑に溶接して作られた頼りない階段を進む必要があった。
やたら足音が響く階段を上ると短く狭い上に住民の私物が広がってゴチャゴチャした通路がある。奥まで進むと大平雅代の部屋に着く。
彼女は此処に三年前から住み続けているらしが、男を部屋に招いたのは私が初の事だと言う。なんとも光栄な話であるが、もう少し良い物件に引っ越したらどうだろうと老婆心が働いた。
「それで聞いてもらいたい話とは?」
私は単刀直入に聞いた。
「ブッコロ―に戻る方法があるんです」
「え?」と私は耳を疑った。
「それにはまず今有隣堂にいる偽物を始末する必要があります」
「始末とは穏やかではありませんね」
他に方法はないのだろうか。
「岡崎さんは私が勘違いしていると言ってましたけど……」
「岡崎さんの話は、その、なんて言ったらいいのか……あの人の事はあまり信用しないでください」
「仲悪いんですか?」
くちさがもなく聞いてみると「そういうんじゃないんです」と大平は返した。
「あの人が居ると、変な事が起るんです。いや、起こすんです……あの人が」
「それはさっきのファミレスのことを言っているんですか?」
私が言うと彼女は頷いた。
「さっきのなんで集まったかわかりますか?」
「その部分の記憶は……」
「私もなんですよ。朝になって岡崎さんから呼び出しを受けて……」
「大平さんも?」と私は返した。
「今から岡崎さんに連絡取ってみますか? もう一度集ま……」
「やめて」と大平はぴしゃりと言った。それはあまりにも明確な拒絶であった。
「岡崎さんはちょっと……」
どこか申し訳なさそうでもある。
「ファミレスのコーヒーの件あったじゃないですか」
「ええ、それがなにか?」
「おかしいと思いませんか?」
「いや思いますよ。コーヒーが突然机の上に出てきたなんて。そんなことあるわけないですし」
「ち、違うんです」
「違う?」と私は首を傾げた。
「あ、あの、変なこと言うようですけど……多分アレ逆なんです」
「逆?」
「ですからコーヒーが急に現れたんじゃなくて、あの場に居た誰かが消えたんじゃないかって」
蒸発の二文字が私の頭に過っていた。
女性の部屋に連れられて、まさかこれほど物騒な話を聞かされるとは思っていなかっただけに、心の準備など出来ていようはずもない。
この時の私は「なんなんだ、この子?」と大平の話を怪訝に聞きつつも、内では下手な怪談より肝を冷やされていた。
「実は私、なんでファミレスに呼ばれたのか岡崎さんに聞いてみたんです。そしたら岡崎さんは『わからない』って。自分も誰かに呼び出されたんだって、確かにそう言ったんです」
「誰って誰ですか?」
「わかりません」
「わからないって……」
「私の記憶がオカシイのか、岡崎さんも知らなかったのか」
不意に私の脳裏にR.B.シンドロームの文字が浮かんだ。症状は記憶の錯綜、そして喪失である。
「岡崎さん言ってましたよね、人が居なくなっちゃうって……」
「確かに言ってましたけど、何か関係が?」
「ですから居たんじゃないんですか、人?」
「え、ちょっとまさか」
「あの席、私達以外にコーヒーを飲んでた誰かが居たんじゃないですか」
「そんな……」
腕の毛が逆立つのを私は感じていた。
何かとてつもなく恐ろしい場所に片足を突っ込んでいる感覚であった。
「ありえないって言いきれますか? 私達、何か起きても忘れちゃうんですよ!」
「ま、ちょっと待ってください」
「やっぱり間違いない、きっとあの席に誰か人がいたんだわ……それを忘れちゃってるんだ、すぐ近くに居た人が目の前で消えたのに!」
「お、落ち着いて、落ち着いてください」
堪らず私は待ったをかけた。
「まだそうだとは決まったわけじゃないじゃないですか」
「そうですけど、私はもう限界です。怖いんです、考えちゃうと。自分もいつか消えるんじゃないか、誰も覚えてくれている人が居ないんじゃないかって思うと……急に怖くなって、頭がおかしくなりそう……」
「その話は岡崎さんには?」
大平はバッと振り向いて私を掴んだ。
「あの人に言えるわけないじゃないですか!」
「ちょ、ちょっと大平さん、落ち着いて」
「あ、あ、あの人、おかしいんです! おかしいんですよ、あの人」
「おかしいとは、どういう……」
私の問いに大平は答えなかった。
ただ掴みかかった自分に驚いたように気付き「ごめんなさい」と私を離した。
それからしばらくは鼻を啜る音だけが部屋に響き、私は部屋に留まり続ける限り無力な諦観を続けるほかなかった。
「ちょっとトイレに行ってきます」と大平が私の前から逃げ出すまで、押し潰される緊張感が絶えず部屋の中には漂っていた。
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