第13話

 ややあって。

 直樹はペンを置き、小切手をゆっくりと院長に差し出した。

 院長の男は、やや安心した様な表情で差し出された小切手を受け取り、そこに目を落とし、そして……

 そして、目を見開いた。

 金額を書き込むための欄。

 そこには大きく、『馬鹿』と書かれていた。

 院長は顔を上げる。

 直樹は、すました顔で、テーブルの上に置かれていたコーヒーを一口飲んだ。

「美味いコーヒーだ、良い豆を使ってるな」

 直樹は言う。

「だがね院長」

 かちゃ、とカップを置き、直樹はじろり、と院長を睨み付ける。

「この病院は、そんな事より、もっと違う事に金をかけるべきだったんだ」

 院長は何も言わない。

 直樹はゆっくりと椅子から立ち上がる。

「金で解決しようっていうあんたの姿勢は、大したものだと感心するよ」

 直樹は、ふん、と鼻を鳴らした。

 院長の男は何も言わずに、無言で顔を上げて直樹を見ていた。

「だが、世の中には金では手に入らないものがある、そして……」

 直樹は薄く冷笑を浮かべる。

「そういう『もの』ほど、一度失えば二度と取り戻せない」

 ぎり、と。

 直樹が歯ぎしりするのが、院長の男にははっきりと聞こえた。

「あの女、美作沙希とあんたは、それを知るべきなんだよ」

 ぺっ、と。

 直樹は院長に唾を吐きかけ、そのまま荒々しく喫茶スペースを出て行った。


 喫茶スペースを出た直樹は、ロビーの真ん中でゆっくりと息を吐く。

 あの院長の呆然とした顔、自分が吐きかけた唾を、頬にへばり付かせたまま、拭おうともしないで固まっている顔を思い浮かべて、直樹は笑いそうになった。

 もうすぐだ。

 もうすぐ、この病院も、あの女も『破滅』させてやれる。

 直樹は、身につけている薄汚れたコートのポケットに手を突っ込むと、そこから一枚の写真を取り出した。

「……もうすぐだ」

 直樹は写真を見ながら呟く。そこに映っていたのは、直樹自身、今ではもうすっかり出来なくなってしまった、とても幸せそうな笑顔を浮かべた直樹自身と、やはり幸せそうに微笑む女性、そしてその女性に抱き上げられた一人の少女。直樹の妻と娘だ。

「連れてくるまでも無いぜ」

 直樹は、ふん、と鼻で笑った。

 そう。

 あの美作沙希が、金持ちの息子を優先し、治療を遅らせた小学生の女の子。

 それは誰でも無い、直樹の娘だ。

 妻は、娘を失ったショックで日に日に痩せ衰え、そして帰らぬ人となった。たったの半年ほど前まで、毎日が幸せだった、あまり売れていない三流のゴシップ誌の記者なんて、大した収入も無いし、将来だってどうなるのか解らないけれど、妻はそんな直樹に付いて来てくれたし、娘も直樹を慕ってくれていたのだ。だが……

 その幸せは、あの女に……

 あの卑しい守銭奴の美作沙希によって、粉々に粉砕された。

 直樹は歯ぎしりする。もし……

 もしも、許されるのならば。

「殺し、たい……」

 直樹は、呟いた。


「殺し、たい……」

 同時刻。

 病院の一階、その奥にあるトイレ。

 その中で、宇津木優治(うつぎゆうじ)は呟いていた。それは図らずも、穂刈直樹(ほがりなおき)が呟いた言葉と、内容も、そして呟いたタイミングも全く同じだったのだが、優治にはもちろんそんな事は解らない。

「何が『そろそろ『告白』したのかよ?』だ」

 優治は呟いた。

 そのまま、どすっ、とトイレの洗面台に拳を叩きつける。

 ぎりり、と。

 優治は歯ぎしりする。

「なんで俺は……あいつの恋なんか……」

 そうだ。

 どうして自分は、あいつの。

 切原和也(きりばらかずや)の恋を、応援してやらなければいけないんだ。

 自分の方が……

 自分の方が、彼女には……

 神藤千奈津(しんどうちなつ)には、相応しいのに。

 だけど。

「……あいつは……」

 優治は呟く。

 そう。

 千奈津の心の中には、結局。

 結局、『あいつ』しかいないのだ。

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