第10話

 こんこん。

 扉がノックされる音に、月島明良(つきしまあきら)は、面倒そうにベッドから起き上がった。

『回診の時間です』

 聞こえたのは、年若い女性の声。この病院勤務する医師だ。『美人過ぎる医師』とかいう触れ込みで、今では街では知らない人間はいない。医師としてもとても優秀で、彼女の診療を受けたいと、今ではこの病院には毎日長蛇の列が出来ているらしい。だが彼女は、それら全ての患者達を無視して、自分の診療を優先してくれた。

 その理由を、明良は良く知っている。

 ガラガラと、明良の返事も待たずに病室の引き戸が開けられる。

 そして、こつ、こつ、とヒールの音を響かせながら、一人の女性が入って来た。

 カルテを手に、にこにこと微笑むその女医は、確かに、『美人過ぎる女医』という触れ込みの通りの美しさだった。だけど……

 その笑顔の裏に潜む環状を、明良は……

 明良は、もう……

 もう、見抜いている。


 月島明良(つきしまあきら)。

 十七歳。高校二年生。

 大物代議士を父に持つ。たかが少年の自分が、優秀な女医である彼女の診療を受けられるのは、それが原因だった。代議士である父に気に入られれば、沢山の金が貰え、地位を得られる、だからこそ、大人達は自分に優しくしてくれる。

 否。

 大人達ばかりでは無い。

 これまで、自分の周りにいた同年代の少年少女達。

 彼ら彼女らもまた、そうだった。

 自分の家には金がある、また、父には地位もある、だからこそ自分に気に入られれば、その恩恵にあずかれる、沢山の人間が、自分に優しくしてくれる、自分が『好きだ』と言ったものは、それがどんなものであろうとクラスみんなの人気になった、自分が『嫌いだ』と言ったものは、やはりそれがどんなものでも、クラスのみんなから、そして……

 自分の視界から、遠ざけられた。

 明良を褒めちぎり、明良に笑顔を向け、明良に優しくしてくれる沢山の人間達。

 大人であっても、子供であっても、それは変わらない。

 だから明良の周りには、常に沢山の人がいた。だけど……

 だけど、明良にとってそれは……

 それは……

 それは、全て……

 全て、『人形』と大差なかった。

 自分に気に入られようと、自分がやる事なす事全てを受け入れて、それを素晴らしい事の様に褒め称える人間。彼らは皆、明良にとっては『人形』と同じだ、明良の言葉を肯定し、受け入れ、褒め称える、笑顔の形を張り付かせた『人形』。

 だからこそ……

 明良は、目の前の女医を見る。

 彼女もまた、そうした『人形』の一体でしか無い。

 十七年の間、自分の側にいた大人達は、常にそういう人間ばかりだった。

 だからこそ……

 明良はもう……

 もう、『人形』達の、形だけの笑顔を、既に見抜けるようになっていた。この女も、所詮は自分の治療を優先して、父からの謝礼金と、自分が医師として有名になる事、それらを目当てに、自分の事を形だけ心配しているだけなのだ。

 明良は、そう気づいていた。

 明良は、ゆっくりと……

 ゆっくりと、目を閉じる。

 いつもこうだ。

 自分の周りには、『人形』しかいない。

 腹を割って話したり、本気でぶつかり合ったり、互いに本心から信頼し合ったり、或いは愛し合ったり。

 そんな事の出来る『人間』は、自分の側には何処にもいない。

 何処にも、いないのだ。

 明良はただ……

 ただ、『孤独』だった。


 どうして、こんな『孤独』を味わわねばならない?

 明良の胸の中には、いつしかその感情が生まれていた。たまたま父が有名な代議士であった、それだけの事で、自分は毎日毎日、『人形』に囲まれて、ひたすら『孤独』な日々を過ごしている。

 もう、嫌だ。

 もう、沢山だ。

 だが、明良が幾らそう胸の中で叫んでも、明良の目の前の光景は何一つとして変わらない。

 今までも、そして恐らくは、これからも。

 だったら……

 だったら、もう。

 もう、いっその事……

 いっその事。

 その感情が、明良の身体を突き動かしていた。

 気が付けば、明良は自宅の二階の階段の上に立っていた、街の高級住宅地にある、その中でも一際目立つ大きな家、その二階部分と一階の玄関ホールを結ぶ階段、何処かの有名な建築士が設計したもので、デザインにも拘りがあるらしい、こんなものを造る為に莫大な金を払える家。だが……

 だが自分は、こんなものが欲しかった訳じゃない。

 こんな家に住みたかった訳じゃない。

 明良は、歯ぎしりした。

 そして明良は、だんっ、と。

 床を蹴って、階段に身を躍らせた、このままいっその事、頭でもぶつけて死んでやろう、そして今度は、こんな家じゃ無い、もっと普通の家の子に生まれ変わるんだ。

 ついでに床に傷でもつけてやる、この大嫌いな家に、少しでも損壊を与えられて、父を困らせてやれればいい気味だ。

 そう、明良が思った瞬間。


 がたたたたたたたたたっ!!


 耳を塞ぎたくなる大きな音。だが実際には耳を塞ぐ暇も無く、明良はそのまま階段の下の床に叩きつけられ、頭をごつん、と打ち付けた。

 誰かが近くで悲鳴を上げるのが聞こえる。

 ついで、誰かがバタバタと駆け寄って来る足音。

 それらを聞きながら、明良はゆっくりと……

 ゆっくりと、意識を失った。


 これで、良い。

 これで、この家とも、父とも、あの『人形』達とも……

 永遠に、別れられる……

 

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