第9話

 美作沙希(みまさかさき)。

 二十七歳。自分を診てくれたのは一年くらい前だから、当時は二十六歳だったのだろうか? まあそれはどうでも良い事だ。

 この街では無い、何処か地方都市の出身、どうやらあまり金銭的に恵まれない家庭に生まれたらしい。その為にかなり苦労したらしいけれど、それでも医師になりたいという目標を持ち、勉強とバイトを上手く両立させて、とある大学の医学部に入ったらしい。

 そして。

 無事に医学部を卒業した彼女は、地元の病院で医師として勤務し、そこで有名になり、そこの病院長からの紹介でこの大学病院に勤務するドクターとなった。

 それからしばらく経ったある日、街の金持ちの息子が自宅で怪我をしたとして彼女の元に運び込まれる。そして……

 その金持ちの息子を治療した事で……

 彼女の名前は、この街に知れ渡り、そこから全国に知れ渡って現在に至る。


 名木沢愛正(なぎさわよしただ)は、いつの間にか閉じていた目をゆっくりと開ける。

 そうして、愛正は彼女と出会った。医師として、多分他の患者達に接するのと同じ様にしていただけなのだろう、という事は、愛正もさすがに理解出来る。だけど……

 だけど。

 彼女の優しい笑顔。

 自分の身を案じてくれる、彼女の優しい口調。

 そして穏やかな声。

 それら全てを見、そして聞いた瞬間に……

 愛正は、一瞬にして……

 一瞬にして、彼女の事を……

 彼女の事だけを、深く愛していた。

 そう。

 それは初めて……

 初めて愛正が、『恋』というものを知った瞬間だった。


 だけど。

 愛正は俯く。

 自分が、あまり女性に好かれるタイプの容姿で無い事を、愛正は良く知っている。

 小さい頃、愛正の周りには沢山のクラスメイト達が集まっていた。男子、女子、時には教師達すら、自分の事目にかけてくれた。

 だけどそいつらが見ているのは、名木沢愛正という人間では無く、その懐にある沢山の金だけだ。自分の事を、本心から気に入ってくれていたり、好感を抱いてくれているわけじゃ無い。その事を、もう愛正は既に気づいていた、中学を卒業してから、他人と関わらなくなったのは、そういう『負け犬』達の根性に嫌気が指したから、というのもある。

 だから、彼女を好きだ、と思っても、愛正には何をどうすれば良いのか解らない。

 デートに誘う? どうやって?

 好きだ、と伝える? どうやって?

 そもそも彼女は、既に退院した自分の事など覚えているのだろうか?

 解らない。

 だけど……

 とにかく彼女の事を、もっと知りたい。

 もっと見ていたい。

 もっと……

 もっと、彼女の近くにいたい。

 愛正の頭には、そんな考えが浮かんでいた。

 そして……

 そして。

 いつの日にか。

 彼女を……

 彼女を、自分のものにしたい。

 愛正は、そう思っていた。


 その方法として、愛正が思いついたのは……

 カメラに映り込んだ彼女、美作沙希の姿を見る。

 彼女の一日の行動のスケジュールは完璧に把握している、彼女はこれから、月島明良(つきしまあきら)という少年の回診に向かうのだ、相手は十代の少年とは言っても男で、しかも代議士の息子か何かで、自分よりもさらに金持ちの家らしい、顔は見た事は無いけれど、かなり整った顔立ちの少年である、という事を、愛正は知っている。

「……っ」

 ぎりり、と。

 愛正は歯ぎしりしていた。

 胸の中に、どす黒い感情が浮かぶ。

 畜生。

 一体……

 一体、どうすれば彼女は……

 自分のものに、なってくれるのだろう? 違う男の事なんか、一切見ないで、自分の事だけを見てくれる様になるには、どうすれば……

 どうすれば、良いのか……?

 解らない。

 とにかく、今は彼女に、その少年が無礼な事をしない様に……

 しっかりと……

 しっかりと、見張らないと。

 愛正は、ゆっくりと顔を上げて歩き出す。

 さあ、行こう。

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