第8話

 沙希は、ゆっくりと廊下を歩き出す。

 白衣のポケットから取り出したクリップボードに挟まれているカルテに目をやる。

 この時間に回診に行く患者は二人。一人は、今し方喫茶店で会った、あの不愉快な少年達の幼馴染みだという小娘だ、名前を見る、神藤千奈津(しんどうちなつ)、そんな名前が書かれている、沙希はふん、と鼻を鳴らした、何処にでもありそうな名前だ。

 もう一人の名前を見る。

 それを見た途端、沙希は微かに頬を歪めた。

 月島明良(つきしまあきら)。

 その名前は覚えがある、正確に言えば苗字を、だ。

 この街でも有名な代議士が、確か月島、という苗字だった。入院した原因は、一週間ほど前、自宅の階段から転げ落ちて頭をぶつけたらしい、正直大した怪我では無さそうだが。

「『取れる』わね」

 沙希は不敵に笑う。

 そうだ。

 この少年からは、正確に言えばその親からは、大量の金を取る事が出来るだろう。この少年をきちんと治療して感謝されれば、自分の医師としての名声はますます高まるだろう、きっともっと、金持ち連中が自分を頼るに違い無い。

 ふふ、と。

 沙希は不敵に笑い、ゆっくりとした足取りで廊下を歩いて行く。

 金だ。

 金があれば、この世の中では何だって出来るのだ。

 金さえあれば。

 そう考えて、沙希は歩いて行く。

 そのまま、廊下の奥にある階段を、沙希はゆっくりと上って行く。

 だから……

 だから、彼女は気づかなかった。

 彼女の近くにある窓。そのサッシの部分に小さいカメラが取り付けられていた事。

 そのカメラが、逐一回り続け、彼女の様子を全て……

 全て、撮影していた事に。


 かつ、かつ、かつ。

 と。

 靴音を響かせながら、美作沙希が廊下を歩いて行く。やがてその姿は、奥にある階段を上って消え、周囲には人影が無くなり、静寂が訪れた。

 それを待っていたかの様に、窓のサッシ部分に取り付けられた小さいカメラを、窓の下から伸びて来た手が、そっと手に取って回収した。


 カメラを回収した手が、そのままゆっくりと……

 ゆっくりと、顔の前でカメラを操作する。

 そこに映っていた人物の姿を見る。

 美作沙希、生憎とこのカメラが捉えた映像では、歩いて行く姿しか映ってはいない、だけど……

 だけど。

 その姿だけでも、彼女は……

 彼女は……

 完璧に、美しい。

 ゆっくりと……

 ゆっくりと手を伸ばし、映像の中の彼女の頭に手を触れる。

 そのままゆっくりと……

 ゆっくりと、彼女の全身を撫で回す。

「……はあ……」

 それだけで。

 それだけで、名木沢愛正(なぎさわよしただ)はまるで。

 まるで、天に昇るような気持ちになる。


 名木沢愛正(なぎさわよしただ)。

 三十歳。街の高級マンションに住んでいる、所謂『金持ちのボンボン』と呼ばれるタイプの人間になるのだろう、だが愛正は、ちっとも気にしていなかった。自分の家には金がある、両親は社会的な地位も高い、だからこそ自分は、下らない社会の『負け犬』達とは違って、朝から晩まであくせく働く必要は無いのだ。

 従って自分には学力も必要無い、だから高校やら大学やらに通う必要も無い、必要な事は、ネットとテレビが全て教えてくれる。両親も、自分はそれで良いと言ってくれて、毎日毎日大金を自分に渡してくれる。

 そう。

 自分は、生まれながらにして身体を動かさずに生きられる事が決定されているのだ。

 毎日朝から晩まで、遊んでいて良い、そういう人間なのだ。

 この生活は、当然自分が死ぬまで続くのだ。愛正は、本気でそう思っている、不安など全く無い。

 まあ、ただ一つだけ。

 ただ一つだけ、この生活に対しての不満があるとすれば……

 それは。

 それは、生活に潤いを与えてくれる存在、平たく言えば女の気配が無い事だった。

 そんな事を考えながら自宅の廊下を歩いていた時……

 愛正は、足を滑らせて転んだ。


 過保護すぎる両親が、すぐに病院を手配した、だがその時、街では下らない『負け犬』達が働く工事現場で事故があったとかで、ほとんどの医師が出払っていた。

 結局自分を診てくれたのは、年若い女医が一人だけ。だけど……

 その瞬間に、愛正の中で。

 何かが、大きく変わった。

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