第5話 暑気払い

 そのお店は、いつもレイジが通勤で使う駅の地下街にあった。

 微笑む恵比寿様がトレードマークであるその店は、ビヤバーである。臙脂色を基調とした店内は、ほんのりとレトロな雰囲気を醸し出している。カウンター席とテーブル席と両方あるのだが、照明も明る過ぎず暗過ぎず、どこかスタイリッシュで和モダンな空間だ。網代編みのような模様の壁、桜の木をイメージしたような白木造りの円形カウンターが日本の伝統を表現している。店内はそこまで広くないのだが、作りがよくおしゃれで落ち着いた雰囲気は女性客にも受けが良いようで、若い女性客も何人か見受けられた。 客層としてはビール好きの常連客が一番多いようであるが。


 今日は七月のとある土曜日。外気温は三十度を超えており、蒸し暑い。時計の針がお昼の一時を指した頃、若い男女の二人連れが来店した。端正な顔立ちで目元の涼しげな青年と、少し緩めのパーマをかけた、セミロングのダークブラウンの髪を持つ女性だった。彼女は薄化粧をした少し小作りな顔で、ふんわりとしたレモン色のワンピースを身に着けていた。レイジとマリアだ。どうやら二人だけの暑気払いと言ったところだ。珍しく早い時間帯からレイジが彼女を飲みに誘った様子である。


「へぇ~ここ初めて来たんだけど、何だか高級感あるしとってもおしゃれだね!! 私一人でも入れそうな雰囲気なのが、凄く良いかも」

「この前友人に教えて貰いましてね。この前帰りに寄ってみたところお店の雰囲気も品揃えも良いですし、食事と酒の味が美味しかったから、一度君と一緒に来ようと思ったんですよ」

 

 マリアは店内を見回しつつ、ぱっちりとした濃褐色の瞳をキラキラと輝かせている。どうやら店の雰囲気は彼女の好みにぴったりだったようだ。その様子を見たレイジはアイロンできちんとプレスされた真っ白なハンカチで汗を拭きつつ、ほっと胸を撫で下ろした。


「今日は土曜日ですし、ここ人気のあるお店だから念のために予約しておいたんですよ……どうやら正解だったようですね」


 レイジの視線の先には、予約していない客の群れが列をなしていた。二十代位の若い男女や年配の男性など、客層の世代はばらばらのようだ。店員が言うには正午頃と夕方六時頃がもっとも混み合うらしい。十一時から通しで営業してあるので、非常に行きやすい。仕事帰りのサラリーマンがちょっと軽く一杯飲んでいく、そんな気軽に立ち寄れるような雰囲気がこの店のウリのようだ。確かに待ち合わせやちょっとした合間にも向いてそうな感じである。


「つまみや食事メニューも本当に色々あるんですよ。今丁度ランチタイム内なので選択肢は更に多いです。先にマリアさんの好きなものを選んでこちらから注文して下さい。俺は後で良いですから」

「ありがとう。ん〜どうしようかな……」


 マリアはテーブルの上にある注文用のiPadの表面をタップし、注文画面を呼び出した。品数が多く色々目移りしたが、首を左右にひねりつつも、いくつか決めて注文ボタンをタップした。地下街は人が多く、賑やかだ。でもこの店内に入って席についていると、その賑やかさが消えていくような感じで、不思議だ。


 ◇◆◇◆◇


 暫くすると、白いシャツと黒いスラックスを身に着けた店員が、二人分のビールグラスをお盆の上に乗せて歩いてくるのが見えた。その上からつけている臙脂色と白のストライプの入っているエプロンの裾が、彼らのテーブルの端にふわりとタッチした途端、明るい声が響いてきた。


「お待たせしました。こちらはご注文の『ダブルシトラスエール』と『アフタヌーンストロベリーエール』とおつまみになります。お食事は少し後でお持ちしますね」

 

 前者は翡翠色のビヤカクテルでレイジが頼んだものであり、後者は赤味の指した琥珀色のビヤカクテルで、マリアが頼んだものだった。共に泡がとてもきめ細かく美しい見た目だ。「乾杯!」とビヤグラスをカチリと合わせた後、二人共珍しそうな顔でそれぞれ自分が頼んだものをじっくりと眺めていた。どうやらそれぞれ初めて頼んだメニューのようだ。


 レイジはグラスに唇をつけて、その中身をゆっくりと口に含んだ。それはビールにカボスとレモンピールが程よくブレンドしてあり、さっぱりした味わいだった。仄かに香るカボスの風味が日常を忘れさせてくれる。レモンピール特有の苦味は若干あるものの、口当たりが良く飲み口も爽やかだ。何しろ翡翠色がとても美しい。ドライタイプなので、甘くはない。甘いものが苦手な人向けのようである。


 一方、マリアは、夕陽のようにうっすら赤味を帯びた琥珀色のカクテルの入ったグラスを、惜しむかのようにじっと眺めていた。ようやく決心がついたところでグラスに小さな唇をつけ、中身をくいっと喉に流し込んだ。フルーティーで爽やかな甘味が口中にじんわりと広がってゆく。アイスティーでビールの苦味を上手に抑えてあるようで、苦みを感じさせない。しつこい甘みもなく、後口はさっぱりとしていて、軽い口当たりだ。これはくいくいと飲みすぎてしまいそうな勢いだ。


「ぷはっ! 美味し〜い! 程よく冷えてる感じで凄く飲みやす〜い!」

「それは良かったです」

「私ビールって苦いからあんまり飲まないんだけど、ここのカクテルタイプなら大丈夫そう」

「確かに、ここのビヤカクテルは飲みやすさがウリですね。明るい内から軽く飲むにはうってつけだと思いますよ。微アル派のマリアさんでも大丈夫かと」

「そうだね。あ、おつまみもとっても美味しそう!! 盛り方も凄く綺麗!!」


 二人はそれぞれグラスをテーブルのコースターの上に一旦置き、頼んでいた

「真鯛のカルパッチョ昆布ソース添え」

「黄金の唐揚げ」

 に箸をつけることにした。

 

 長方形の細長い真っ黒なお皿の上に、料理は乗せられていた。刺し身のツマのように、千切りにされた大根と人参の上に、真鯛の刺し身が上品に盛られ、その上から昆布のソースがかけられている。周囲に飾られた真っ赤なミニトマトが、色を添えている。真鯛の身のコリコリとした食感と、すっきりとして上品な味わいがとても嬉しい。昆布の旨味が静かに寄り添うような感じで、食べ切ってしまうのが少し惜しくなる。


 小さな竹籠のような入れ物に敷き紙がしいてあり、その上に黄金色に良く揚がった唐揚げが四個乗っていた。それは皮がカリッと揚がっていて、中からじゅわっとジューシーな肉汁が溢れてくる。ついついご飯が食べたくなる旨さだ。ビアカクテルを流し込むと、これが良い塩梅で、唐揚げに箸を無限に伸ばしたくなりそうだ。


「ビールに唐揚げはお友達と良く言うけど、凄く美味しい!! あんまり塩辛くないし、普通におかずとして食べすぎてしまいそうだわ。カルパッチョと言ったら洋風のイメージが強いけど、この和風アレンジも良いわね。凄く好き! 美味しい鯛のお刺し身が手に入ったら作ってみたいな」

「どちらも日本酒にもあうでしょうね。ここの店は和風アレンジメニューが多いんですよ」

「そうなんだね! あああ〝真鯛のフィッシュ&チップス〟とか凄く気になる! 今度来たら試してみたいなぁ」


 ビヤカクテルを片手に二人で色々話に花を咲かせていると、店員の元気な声が聞こえてきた。


「お食事とサラダをお持ちしました。お済みのものはお下げしても宜しいでしょうか?」

「やば。そう言えばまだ頼んでたものあったっけ! どれも美味しそうでつい頼んでしまったけど、結構量多かったかも……」


 頭の中がふと現実に帰り、見るからに焦るマリアを眺めつつレイジは思わず苦笑し、助け船を出した。


「マリアさんらしいですね。俺がいますから大丈夫ですよ。これも半分こすれば良いですから」

「わぁ助かる〜!! ありがとう!!」

「いいえ。それにマリアさんと同じものを分けて食べられるの、とても嬉しいですから」


 (レイジさんてば、どーしてそういうことをさらっと言えちゃうんだろ。何だか恥ずかしいなぁ)


 マリアはグラスに口を付けてぐいと中身を喉の奥へと流し込んだ。頬がうっすら赤みが差しているのは、アルコールのせいだけではないだろう。


 サラダは直径二十センチメートル位の灰色の皿の上にこんもりと盛られていた。取り分け出来るように小皿が二枚添えてあった。食べやすいようにカットされたレタスと紫キャベツが敷かれた上に水菜がたっぷりと乗せてあり、その上から赤や黄色のパプリカで千切りにされたものがバランス良く飾られている。その上から落花生、アーモンド、胡桃といったナッツとドライクランベリーがバランス良く振りかけてあった。そして紫や黄色のエディブルフラワーとディルが髪飾りのようにきらびやかに飾り付けてある。添えてあるドレッシングは、マヨネーズをベースとしたクリームタイプのドレッシングに、細かく刻んだナッツが入っているような見た目だ。おそらくこの店のオリジナルだろう。


「このサラダも美味しい!! ディルのが風味とナッツの香ばしいのと、クランベリーの甘酸っぱいのがビールに凄くあってるわね」

「そうですね。水菜のシャキシャキとした食感も楽しいですし。水菜は火を通した料理しか今までしたことがなかったのですが、生食も悪くないかな」


 湯気のたつ鉄板の上に乗っているハンバーグは、見た目は小さめだが意外と厚みがあった。フライドポテトとパセリが添えられ、選んだ三種類のソースであるトマト&チーズ、ねぎ塩、玉ねぎソースで上から彩られており、全体で見ると中々ボリューミーな一品である。マリアはカトラリーでそれぞれ半分ずつに分け、小皿に取り分けた後、自分の分を一口大に切って口に入れた途端、目を大きく広げた。

 

「このハンバーグ中身がぎゅうぎゅうに詰まっている! 見た目は小さそうなのに! お腹いっぱいになりそうだから、やっぱりあなたと半分こにして正解だったわ!」

「良かった。これはしっかり食べごたえのあるタイプですね。このソースは俺も真似したいな……次来た時は、他のソースも試してみよう」

「ご飯も美味しいし、ここ良いね!! 今度友達誘って女子飲みやろうかな……仮に飲まなくてもご飯だけで充分だし」


 アルコールが入ってるせいか、マリアは妙にテンションが高い。レイジは通りがかった店員にそっと声をかけ、持って来てもらった水の入ったグラスを彼女にさり気なく差し出した。彼女は受け取った水で喉を潤した後、一呼吸おいた。


「ねぇねぇ、レイジさん。ところで明日は時間空いてる?」


 スマホのグーグルカレンダーを確認したレイジは口元に穏やかな弧を描いた。


「ええ。大丈夫です。空いてますよ」

「やったぁ。実は観たい映画があるんだ。良かったら一緒にどうかな~と思って」

「映画、良いですね。最近観てないから、楽しみです」

「友達が激推ししていたのがあるの。レイジさんスパイものとか好き?」

「好きですよ。アクション映画やSFも大丈夫です」

「そっかぁ。じゃあいけるかな……その映画ってこういう作品らしくって……」


 スマホに写した画像を二人で一緒に眺めながら、マリアは上機嫌だった。その笑顔を見ていると、こちらもつい嬉しくなってくる。アルコールを片手に二人の話題は尽きなかった。


 彼女と前に会ってから一ヶ月以上は経っている。お互いに仕事が立て込むと、プライベートがついつい疎かになりがちだ。LINEでマメに連絡の取り合いはしているが、やはり電子機器介してと直に話すのは大違いである。実は日曜日にちょっとした用事はあったのだが、特に急ぎじゃないので別の日にしようと、レイジはカレンダー上でさり気なく移動させた。


(用事で休日の時間を潰すより、彼女と過ごす時間で埋めた方が有意義だ)


 日曜日もレイジと過ごせるのが分かり、マリアは明らかに機嫌が良いのと、普段よりやや饒舌気味になっている。最近疲れ気味のようだし、彼女もはなしたいことが色々あるのだろう。翌日の予定を変更した後で、青年は心が温まるような心地がした。

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