書店の公式YouTubeでMCをやっていただけなのにトラックに撥ねられて異世界転移した~女神様から与えられたスキルは外れスキル『交換日記』でしたが転移前の知識を生かして女神様をゲットしたいです~

下村りょう

ブッコローが異世界転移したっぽい

 こんなことなら、返してもらえばよかった。と岡﨑弘子おかざきひろこはため息を吐いた。

 BGMも、いつも決して多いとは言えない人々の囁き声もない。あるのは出所不明の雑音と、耳の奥で反響する電子音に似た幻聴だ。

 出社するにはやや早く、指も動かせないほど冷えた時刻に、弘子はこうして職場である有隣堂に来てしまっていた。何をするでもなく、本の匂いで肺を満たせば落ち着くと、そう思っていたからだ。

 マスクの中が気温に見合わず蒸れて、いつもより力の入らなかった化粧がもうヨレている気さえする。

 そういえば、と弘子はスマートフォンを取り出す。日課の登録者数チェックが済んでいなかった。猫にエサはやったっけ、ふと思う。多分大丈夫だろうと独り自己完結した。

 ————22.6万人。まずまずだろう。以前は登録者数が1人増えるだけで一喜一憂していた。そうならなくなったのは彼が、R.B.ブッコローが現れてからだ。

 画面には最新の動画が表示される。弘子の脳裏で、炎症を起こしたような甲高い声が想起された。

『ブッコローと弘子の交換日記やります?』

 きっかけはその言葉だった。撮影中の何気ない一言。気になって買ったはいいものの、手持無沙汰になっていたノートがあったからやってみようと言ったのはどちらからだったか。まずはブッコローの番だからと持って帰った、手触りがモグラの皮に似たあのノート。

「あれ、ちょっと高かったのに……」

 しかし彼はいなくなってしまった。消えたのだ。交換日記を持って、忽然と。


 ブッコローがトラックに轢かれたと弘子のもとへ連絡が入ったのは、昨日の、退社しようかという時間だった。先に帰ったはずの社員が、現場を見たと言って駆け込んできたのだ。

 当の社員曰く、「確かに目の前で轢かれたはずなのに消えて、見つからない」とのことだった。残っていた社員総出で現場の周囲を探索し、それから警察も加わったが、今現在までなしのつぶてである。

 朝になればスタジオにひょっこり帰ってくるのではないかと期待する気持ちが、弘子の中にあった。しかし6階にあるスタジオは冷たい空気のままだった。

 悲しい気持ちはあるのだろうか。弘子は自身に問う。涙は出ないからそういうことだと脳は言った。弘子の中で、ただ喪失感だけが黙ってこちらを見つめている。

 ————背後から、何かが落ちる音がした。軽い音で、紙束のような。

 弘子は振り返り、目を眇める。

 レモン色の表紙に、分厚いノート。平積みのように目を引くそれは、弘子が返せと願ったばかりのノートだった。

「なんでこんなところに……」

 弘子は頭を擡げる。昨日の夕方、ブッコローが自身のバッグにそれを入れるところを確かに見ていたからだ。しかしすぐに気のせいだったのだろうと判断した。

 拾い上げ、手触りを確かめる。ビロードのような柔らかい手触りのハードカバーは、画家や作家が愛用していたと言われるノートだけあって、手になじむ。愛猫の毛並みといい勝負をしていると、弘子は購入当初に思ったくらいだ。

 指で少し浮かせてゴムベルトを外す。ゴムがゆっくりと振り返って、指が離れた瞬間にゆるんで背表紙とぶつかる。この瞬間が好きだ、と弘子は目を細めた。ゴムが付いているだけで、何が書いてあるのかを隠したいと持ち主が強く訴えているような、その秘密を暴いてしまうような、そんな偶感を起こしてしまうからだ。

 1ページ目を開く。どうせ何も書いていないと軽い気持ちだったが、後夜の名残を残したような暗がりでくすんだクリーム色の紙上に、文字が浮かんでいた。

『ザキさん、やばいです。異世界に転移しちゃいました。』

 ブッコローの字だと弘子はすぐに直観した。

 昨日アップされたばかりのWeb小説の世界に感化されたのであろう文章。収録時の光景を思い出して、弘子はブッコローの行方が分からなくなってから初めて一笑に付した。

 ————せっかくだし、返事を書いてあげよう。

 もしかしたらこの続きを書きに戻ってくるかも、というおとぎ話のような淡い期待が弘子の中にあった。それとは別に、トラックに轢かれたブッコローがどこにも見つからないのは、この言葉の通り異世界に転移してしまったからではないかという確信のような浮遊感があった。彼の言葉には、いつも正しさがあったから。

『ちょっと意味わからない。どこにいるんですか。こっちは大変ですよ。』

 昨日、帰宅時間が遅れたことへの怒りが少し混ざっていた。書き終わってすぐ、苦しくなる。何をしているのだろうと。

 スマートフォンが明滅する。時計を見ると始業時間に近かった。

 戻ってきたばかりのノートを乱雑に鞄へ放り込んで、弘子は従業員用の階段へと足を速めた。




 進展があったのは、帰宅しようと自身に割り振られたロッカーを開けた時だった。いい加減に押し込んだ鞄がその拍子に地面に落ちた。自分でそうしたのも忘れて、弘子はむっとして鞄の中身を拾い集める。その中で開かれたノートに目がいった。今朝、6階に落ちていたノートだった。

「うそ……!」

 弘子は目を剥く。声はほとんど悲鳴に近かった。周りを見渡すと、社員たちは「いつものことか」という顔をしていた。

 まじまじと見ると、今朝、自分が書き込んだ文字の下に、ほとんど殴り書きの字で加筆されている。

『こっちだって大変ですよ! 勝手に異世界へ連れていかれたんだから!』

『とにかく、経緯を説明すると』……

 そこからは長々と状況説明があった。

 曰く、トラックに撥ねられたと思ったら目の前に女神がいた。

 曰く、キュリアスIRのような熟女の女神だった。

 曰く、女神から『交換日記』という外れスキルを与えられた。

 曰く、そのスキルはこちら側と異世界側にあるこのノートでやり取りができる。

 曰く、手違いで転移させてしまった代わりにそのスキルをやるから異世界で過ごせと言われた。

 滔々と書かれた文字に目を通して、弘子は一先ずこの非現実的な出来事を事実として受け止めた。そうするしかなかった。ブッコローが見つからないのは異世界に行ったからだと認めるほかないと雑駁な思考が告げていた。とりあえず短毛のような表紙を撫でて落ち着きを取り戻す。

 弘子は内容を反芻する。読めば読むほど、数日前に聞いた『異世界ファンタジー』のテンプレートに当てはまっていた。

『ノートをゴムで綴じると、お互いの書いた文字とか挟んだものが更新されるみたいなんです。試しに一番後ろのページに、こっちの世界の葉っぱを挟んだから確認してみてもらってもいいすか。』

 書かれているがままに最後のページを開く。確かに、新緑のギザギザとした葉が挟まれていた。ツヤがあって、まだ新しいようだ。しかし何の葉か、弘子は見当もつかなかった。

『ありました。どういう原理なんだろう……。こっちからも何か送ってみますね』

 一度戻した鞄の中身を探り、ガラスペンを手に取る。以前、通販サイトで186円で販売されていたものだった。それを挟み、ノートをゴムで留めてみる。

 数時間後、帰宅してノートを見ると、ガラスペンは消え、代わりに追記されていた。

『単体で送っても意味ないでしょうが。送るんならジェットストリームでお願いします。』




 弘子の日課に、「交換日記を書くこと」が増えた。朝に食事をしている間と、帰宅してすぐにノートを開く。ブッコローとの交換日記の内容は、他愛のないものばかりだ。

 その日有隣堂であったこと、異世界であったこと、地元の話、家族の話。ブッコローは度々、妻と娘たちの心配をしていた。

 実のところ、ブッコローが異世界に転移してから数日後に、彼の妻から有隣堂へ電話が掛かってきたことがあった。

『もしもし、ブッコローの妻です。その後、夫は戻ってきたでしょうか』

 後ろで『パパどこー?』と、幼さの残る声がした。

 警察からも連絡がなかったのだろう。少しやつれ気味の声に、弘子は心が痛んだ。

 ————ほんとうは異世界に行ったんです。だから、見つかるわけがないんです。

 喉元までそう出かかったが、すんでのところで引っ込めた。きっと信じてもらえないだろうことが目に見えていたからだ。

 その出来事をブッコローには伝えていなかった。ノートの上では気丈に振舞っていても、早くこちらに戻りたいと焦る気持ちが文字の端に浮かんでいるのを弘子は感じ取っていたからだ。その割には異世界に彼の好きな競馬がないことを強く嘆いていたが。

 一度、彼の好きな競走馬のぬいぐるみを買って送ってみた。手は付けられず、『いらないです』とだけ返ってきていた。




 朝晩だけ冷え込む春は過ぎ、袖を短くする季節へと移ろう。ブッコローが異世界へと旅立って数か月が経過して、『有隣堂しか知らない世界』は終了した。

 影武者を起用しようという声もあった。しかし議論に議論を重ね、社長の強い意向もあり、最終的には番組の終了という形で全員が納得した。

 数本のストック動画を公開したのち、プロデューサーが番組の終了を表明した。しかしチャンネルは継続して、今度は弘子がMCを務める番組を制作することが決定している。

『有隣堂しか知らない世界』の終了を受けて、ネットでは様々な憶測が飛び交った。ライバル書店に消された説、不仲説、転職説。そのどれでもないことを知っているのは弘子だけだった。数日も経てばネットのざわつきはやみ、ブッコローについて語る者と、有隣堂のYouTubeアカウント登録者数は減った。

 ブッコローに番組の終了を伝えてからも、弘子とブッコローの交換日記は密かに続いていた。ボールペンのインクが切れてから、日記には弘子の送ったインクとガラスペンが頻繁に使われるようになった。1文字しか書けないと思っていたそれも、存外に使い心地がいいらしい。

 異世界では、突如現れたガラスペンに職人が大興奮して量産されたことをきっかけに貴族の間でガラスペンが流行し、持ち込んだブッコローには地位と金が与えられたという。

 従来の女好きが出たのだろう。女神を口説いている内に気に入られ、女神と対立している魔王を倒せば元の世界に帰してもらうという約束をとりつけた。現在は魔王を倒す素質のある人間を集めるため、お金を稼いでいるらしい。

『処分される予定だった軍馬を引き取って競馬を始めたらもう大ウケで。ガッポガッポですよ。あと王様に教育の義務化を進言したんで、法律ができるまで秒読みすね。今度は国中の学生を独占してやりますよ。』

 ブッコロー本人もなんだかんだで異世界を楽しんでいるようだった。

 弘子は傍に置いていたガラスペンを手に取る。

 ————今日のインクは色彩雫の紫陽花にしよう。

 ペンに鮮やかな青を吸わせて、紙の上でシャリシャリと躍らせる。

 そうして書き終わった文章の横にクラフトパンチで切り抜いた紙をいくつも張り付けて、ヒマワリをあしらってみた。我ながらいい出来だと弘子は満足して、ノートを閉じる。

 ひっくり返ったゴムを元に戻し、ノートに留める。2人だけの非日常を隠すように。

 弘子は、次はどんな言葉が返ってくるだろう、とほほ笑んだ。もしかしたら皮肉めいたものかもしれない。それでもいい。異世界転移したらしいブッコローが生きて何かを伝えてくれるなら、それで。

 今日は少し蒸し暑いから。弘子は窓を薄く開けた。僅かに汗ばんだ首元を、湿った風がゆっくりとなぞる。もうすぐ夏だ。

 部屋の電気を消して、弘子はベッドに入る。


『早く帰ってこれるといいですね。』

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