「生」と「死」

3年ほど前、クリスチャン・ボルタンスキーの『Life Time』という展示を見に行きました。『Life Time』という名の通り、「生」に視点を当てた展示になっていました。暗闇の中で鳴り響く心臓の鼓動の音と、それに合わせて明滅する電球。亡くなった友の幼い頃の写真を並べて作られた祭壇。海岸に打ち捨てられたクジラの遺骨の写真。どれも無機質なのにどこか温かみがあって、まるで「『死者』の視点から『生』を慈しむ」ような展示でした。


「生」とは何なのでしょう。そもそも、何を持って「生」とするのでしょうか。

仏教の教えでは、人間の本質は魂であり、輪廻転生を経て新たな肉体へと生まれ変わることができるとされています。キリスト教の教えでは、人は死んでも一時的なものであって、世界が週末を迎えた時に裁判にかけられ、天国行きか地獄行きか判断されるとされています。

つまり、仏教では魂が本体、キリスト教では人間そのものが本体とされている訳です。

他にも色々な考え方があるのでしょうが、私は仏教の思想の方がより核心に近いのではないかと思います。

人間とは情報の集合体です。自分が自分であると認識し、また他者から「私」が認識されているという情報があるからそこに「存在」しています。仮に、誰からも見えていない、触れることも触れられることも出来ない、どんな物質や環境からも干渉されないし干渉出来ないという状況になった時、それは存在していると言えるでしょうか。そうなった時、自分さえも自分を認識できない、そもそも自意識など存在しない訳ですから、「存在している」とは言えないでしょう。


つまり何が言いたいのかと言うと、ここで言う「情報」を「魂」と呼ぶのであれば、肉体から離れた後、すなわち死んだ後も「存在する」ことになるので、「生」に固執する必要は無いのではないか、という事です。

だからと言って死ぬことを推奨する訳ではありませんが、死んだら働かなくても良いし、将来の不安もないし、周りの人に気を使う必要もなければ、怪我や病気で苦しむ必要もなくなるのです。言い出せば止まらないほどメリットばかりです。

ではなぜみんな生きたがるのでしょう。なぜみんな必死になって「生」にしがみつくのでしょうか。

死ぬ事のデメリット、つまり「肉体を持たないこと」のデメリットとは、やはり直接干渉することが出来ないという点だと思います。例えば、「友達と会って会話したり遊んだりできない」「自然に触れること、風や匂いや味を感じることができない」「釣りやスポーツやゲームなど、好きな事や趣味ができない」ということが挙げられます。肉体があるということは苦労や制限がある反面、肉体でしか味わえない「実感」を得ることができるのです。こうしたことに価値を見出すことが出来れば、生きることにも意味があると思えるのでしょう。


しかしながら、私は依然として「生」にこだわる必要は無いと思っています。それは、単純に死後の感覚に興味があるからです。どんな風に世界が見えているのか、感情はあるのか、価値観がどこまで変わるのか確かめてみたいのです。生まれ変わって違う肉体に入るまでは前の人格が保たれるのかも気になります。ここまで来るとただの変態ですが、あわよくばそのまま妖怪にでもなりたいものです。


色々と考察してみましたが、簡単な話、私はそこまで生きることに必死になれないだけなのです。私の夢物語ですが、私がそうだと信じていれば、そうなるのではないかと思います。それも私の情報の1つです。こうして共有することで少しでも認識が広がれば、更にその可能性は広がります。そういうものだと思った方がいくらか気が楽になるというものです。

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