祖母が死にました

 大学生になって初めての夏休みがきた。バイトもしていない、彼女もいない自分には別に予定なんてないが、やはり長期休暇というだけでテンションが上がる。これからの計画を立てようと、緩んだ頬をそのままにスケジュール帳を開いた。瞬間、突然携帯がけたたましく鳴りだす。なんてタイミングだと思いながら、渋々電話に出た。母親からだった。

「なんだよ」

 苛立ちを思いっきり声色に出し、そう言った。いつもならそこでその態度はなんだだの文句を言ってくるはずが、電話の向こうは静かだった。時々鼻をすする音が聞こえる。

「おい、どうしたんだよ」

心配になって出した声は掠れてしまい、喉もカラカラに乾いていた。

「おばあちゃんが…」

 普段の母親からは想像もできないほど、弱弱しい声だった。その先は聞かなくても、いやでもわかってしまった。手から力が抜け、携帯がするりと滑り落ちた。

 俺はかなりのおばあちゃんっ子だった。両親は共働きで昼間はおらず、夏休みなどの長期休暇はいつも祖母に面倒を見てもらっていた。祖母はなんだって知っていた。俺は自分の知らないことを知っている祖母を素直に尊敬していて、それを面倒がらずに丁寧に教えてくれるところが大好きだった。友達と外で遊ぶより、祖母といる方がずっと楽しかった。

 高校三年の夏、初めて祖母に反抗した。県外に出ると言ってきかない俺を、家族はみんなで反対していた。いつも味方をしてくれていた祖母でさえも。今なら心配をしてくれていたと少しは理解できるけど、その時の俺はそれが悔しくて、ムカついて、納得できなくて、最低なことを言ってしまった。家族全員に向けてではなく、祖母だけに。それからというもの、祖母に自分から近寄ることはなく、徹底的に避け続け、俺は反対を押し切って県外の大学に進学した。

 あの時の悲しそうな顔が、今になって頭の中に浮かぶ。網戸にしてある窓から、夏特有のセミの鳴き声が入ってくる。それさえも、今の俺には聞こえなかった。俺の夏休み最初の計画は、自分の大好きだった祖母の葬式になった。

 電話が来て祖母のことを聞いてから、その日のうちに実家に帰った。家に入って初めに見た母親の赤く腫れた眼元に、本当に祖母がこの世からいなくなったことを思い知らされる。祖母の死因は、急性心筋梗塞だった。

 通夜の日になって、たくさんの人が家に来る。親戚だけじゃない。祖母の仲の良かった人たちもいた。そのほとんどが涙を流し、鼻をすすっていた。その光景を見ながら祖母はいろんな人に好かれていたんだな、と今更になって思う。

 泣いている。親が、妹が、親戚が、祖母の友人が。みんなが泣いている。俺は死んだ祖母の顔を見ても、泣けなかった。何で俺だけ、と涙を流せない自分にどうしようもないくらい腹が立つ。居ても立っても居られなくて、通夜の途中にもかかわらず周りの目を振り切ってその場から逃げ出していた。後ろから名前を呼ばれても、止まれなかった。ただひたすら走って、走りまくった。気づけば近くにある川まで来ていて、そこでようやく足を止める。すぐ下に、よく祖母と歩いた河川敷があり、ぐっと喉が詰まる。この田舎の町のどこに行っても、祖母がいる。そのことがひどく胸を締め付けた。

 河川敷に降り、そのままぼんやりと川を眺めた。まだ日の長い今、川はオレンジ色に染まっている。

「そこで何をしているの」

 急に知らない声が聞こえ、肩が震える。振り返ると、着物を着た若い女性が微笑みながら立っていた。黒い髪は後ろでまとめられていて、薄桃色の着物がよく似合っている。特別美人というわけではないが、清潔感があって、涼やかな、大和撫子という言葉の似合うような人だと思った。どうして声をかけられたのか、皆目見当もつかなかったが、それでも今のこのぐちゃぐちゃした心の中を整理したくて、誰かに話を聞いてほしくて、この女性の存在をありがたく感じた。

「気づいたら、ここにいたんです」

 視線を女性から川に移し、ゆっくりと草むらに腰を下ろす。彼女は何を思ったのか、俺の隣に来て、俺と同じように座る。ふわりと風に乗って女性から香った匂いが、どこか懐かしくて、徐々に落ち着きを取り戻していくように感じる。

「今日、俺の祖母の通夜で。俺、祖母のこと大好きだったはずなのに、泣けなかった。他のみんなは泣いてるのに、なんで俺だけ泣けないのかわからなくて、気づいたら家を飛び出して、走って、そんでここに来てた。…なあ、なんで」

 なんで俺、泣けないのかな。そう言いたかったはずなのに、言葉が出てこなかった。俺と女性の間に、風が吹き抜けていく。川に映ったオレンジが、徐々に濃紺にのみ込まれていく。

「あのね」

 それまで黙っていた彼女が、突然しゃべりだした。女性のゆったりとした話し方と声は、どこかで聞いたことがある気がした。

「本当に大切な人が死んだとき、思いっきり泣ける人と泣くに泣けない人がいるの。私は君と同じだった。泣くに泣けない人は、心の中に後悔だったり、何かその人に言いたいことがある。伝えなきゃいけないことがある。それを、相手が生きているうちに言えなくて、悔しくて苦しくて、どうしたらいいかわからなくなって、どこにそれをぶつければいいかわからなくて、泣けないんだわ」

 彼女の言葉は、すっと胸の中に染み込んでいく。それは、このわけのわからない感情の答えだった。女性の横顔を見ると、彼女もこちらを見て、最初と同じように優しく微笑んだ。

「どうして言えなかったんだろう、って。そんなこといまさら思ったって遅いのに、人は何度も後悔を繰り返すの。でもね、きっとそれは悪いことじゃない」

 彼女の白い手が、俺に伸ばされる。それは俺の頭の上に乗り、茶色く染められ傷んだ髪を優しく、何もかもを許してくれるかのように撫でた。

「ちゃんと気づけたなら、これからどうすればいいかが分かる。同じ間違いを起こさないようにできる。だからね、俊くん」

 一度も教えてないはずの名前を呼ばれた。はっと目を見開いて、その女性を食い入るように見つめる。黒くて艶のある髪が、白く染まっていく。俺に伸ばされた腕が皮と骨だけのように細くなる。顔にしわが増え、座っている姿が小さくなっていく。俺はその時、ようやく涙を流した。拭っても止まらない涙をそのままに、目の前の彼女の優しい眼を見続けた。

「もういいのよ。私には、ちゃんとわかっているから。もう、大丈夫よ」

 さっさとくたばれと、言ったのだ。あの日俺は、大好きな祖母に向かって。ただ味方をされなかったことが悲しくて、たったそれだけのことでそんなことを言ったのだ。ずっと後悔をしていた。謝りたかった。でも素直になれなくて、またいつかとずるずる引き伸ばしていた。それを、わかっているといっているのか、この人は。許してくれるというのか、この優しい人は。祖母が死んだことを聞かされても流れなかった涙が、止まることを知らない滝のように流れ続けて、嗚咽がとまらない。そんな俺を優しく抱きしめて、背中を撫でてくれる。

「わざわざ帰ってきてくれて、ありがとうねえ。これからはそばにいてあげることも、おしゃべりしてあげることも、俊くんの知らないことを教えてあげることもできない。けれどね、私はずっと、俊くんの見えないところで見守っているからね。だから、急いできちゃだめよ」

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔を、祖母の肩に擦り付ける。小さくて、けれど大きい背中に腕を回して、抱きしめ返した。

「ごめん、ごめんなばあちゃん。俺、ガキで、最低で。本当はもっと早く謝りたかった。そんで、ばあちゃんともっと一緒にいたかった…。大好きだって言いたかった!何で、なんで死んじまったんだよ…っ」

 泣きながら、自分の心の中をさらけ出す。祖母は頷きながら、俺の背を撫で続け、頭を撫でてくれた。大好きだった祖母の匂いが、もうこれからはなくなってしまうのだ。そう思うと涙はより流れ、回した腕は無意識に力が入った。

 ようやく落ち着いた頃、もうあたりは暗くなっていた。月が俺たちを照らす。それは、別れの時間だった。

「俊くん」

 祖母の声に、首を横に振る。嫌だと思った。もし今、自分が祖母から離れてしまえば、もう会えなくなってしまう。自分じゃ届かないところまで行ってしまう。もっと話したいことはたくさんある。月が雲に隠れ、一層暗くなる。

「俊くん」

 今度は少し強めに、名前を呼ばれてしまった。びくりと肩を揺らし、ゆっくりと顔を上げる。上目で見た祖母は悲しそうで、困ったように笑っていた。雲が通り過ぎ、月がまたあらわれる。その光がまるで、祖母だけを照らしているように見えた。祖母は、俺の大好きな笑みを浮かべる。

「いっぱい笑いなさい」

 その言葉を最後に、彼女は俺の前から消えた。キラキラと光る、何かになって。

 家に帰ると、予想通り母親から叱られた。けれどそれも、俺が言った「ばあちゃんに会ってきた」という言葉を聞いた瞬間止まり、また涙を流し始めた。俺はその横を通り過ぎて、祖母のいるところまで向かう。寝ている祖母はやっぱり穏やかな顔をしていて、俺の大好きなその人のままだった。

「ばあちゃん」

 喉が引きつる。震える口元を、奥歯をかみしめて止める。そのまま口角を上げ、笑った。

「大好きだ」

 あの出来事が現実に起きたことなのか、俺の頭がおかしくなって見た幻覚なのか、現実逃避ゆえの勝手な妄想なのか、今ではそれすらわからない。でもそれでもいいのだ。あんな不思議な体験、そうそうするもんじゃない。それに、見たこともない若いころのばあちゃんを見れて、ラッキーだったと思えばいい。

俺の中に、祖母も、祖母の言葉も生きている。それだけでいい。

そっと手を合わせ、ばあちゃんの遺影を見つめる。優しい顔で、笑っていた。

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