一話完結 過去作品

寧々子

君のいない春が来る

教室の窓から、校庭を眺める。目下に広がる景色が寂しく見えるのは、冬になったからだろう。少し前までは、木は緑に覆われていた。太陽の光を地面が反射してキラキラ輝いていた。多くの生徒が外を走り回っていた。それが今では、木は葉を落とし細い枝だけが揺れている。太陽は出ているけれど、どこか鈍く光っている。生徒たちはマフラーに顔をうずめ、寒そうに身体を小さくして歩いている。閑散とした空気が余計に寒くさせ、寂しくさせる。こういう季節の移り変わりを、教室という場所から見下ろすことができるのも、もうこの年で最後になる。それが余計に、寂しさを大きくさせているのかもしれない。

 私の通う学校は学科が三つあって、学科によって男女比が全く違った。私がいるのは女子しかいない、主に被服や調理の勉強をする科だった。三年間クラス替えなしの女子クラスというのは、共学にもかかわらず女子校にいるようで、入学当時はがっかりしたけれど今思えは結構気が楽だった。女子ならではの会話も体育の時の着替えも、異性に気を遣わなくていい。多少のいざこざはあったにしても、みんなサバサバしていて楽しかった。

しかしそんな時間が続くのも、あともう少しなのだ。

 私は県外に出る。県外の大学に進学して、私がしたいことを学びに行く。けれどこれが正しい選択なのか、未だにわからない。知らない土地にポンと出て、生きていけるだろうか。高校で習っているくせに料理は下手くそで、掃除だって得意じゃない。朝は弱いくせに夜更かしはする。洗濯なんて、一度もしたことがない。こんな私が一人暮らしなんてできるのか。いやそれ以上に、心を許せる人間ができるのだろうか。ちゃんと無理せず笑いあえるような、そんな友達ができる? 最近の私の頭には、こんな今考えてもどうしようもない悩みばかりが浮かぶ。特に、こうやって一人で窓の外を眺めている時には、一番考え込んでしまうのだ。

 どこかに焦点を合わすことなく、ぼんやりと下の方で動く人たちを眺めた。いったいどのくらいの時間そうやってしていたのか、突然教室の扉が開く音がして我に返った時、窓の外はすっかり暗くなっていた。

「あれ、まだ残ってたの?」

入ってきたのは、クラス委員の高島晶ちゃんだった。黒い髪を後ろの高い位置で一つに揺っている晶ちゃんは、元気のいい、笑顔いっぱいの女の子だ。彼女は頭のいい人で、それは勉強だけではなかった。人との付き合い方もまとめ方も、この子よりうまい人を私は見たことがない。

「まあ、うん。晶ちゃんも残ってたんだ」

「私は先生のお手伝い頼まれてたから。唯ちゃんは、誰か待ってるの?」

 私と会話をしながらも、自分の席に向かい帰り支度をする彼女を眺める。優等生という言葉の似合うような女の子だと、しみじみ思った。晶ちゃんはいつだって、その目をキラキラと輝かせている。この子はきっと、未来に希望を抱いているのだろう。そう考えるとどこか羨ましくて、妬みが生まれそうになってしまう。

「ううん、考え事してただけ」

 もうそろそろ帰ろうと、私も机の上に置いていた鞄を手に取った。カギは私が閉めておくよ、と言うと晶ちゃんはきょとんとして、それから笑った。

「なんで? 一緒に帰ろうよ」

 私と晶ちゃんは、すごい仲がいいわけではない。挨拶もするし、普通に会話だってする。けれどいつも一緒にいる友達だとか、そういうのではなくて。私はどちらかというと、先生に目をつけられるようなタイプだし、晶ちゃんのようないい子からはあんまり良い印象をもたれない人間だ。それなのに、私なんかに向かってそんな言葉を簡単に言える彼女が、心底不思議で、神秘的に見えた。

 二人で職員室まで行って鍵を返し、下駄箱に向かう。その間、私たちの間に会話は生まれなかった。靴を履きかえて外に出ると、思った以上に冷たい空気が私たちにまとわりついてきて、ぶるりと体を震わす。

「寒いねえ」

 マフラーで顔の下半分を風から守る私を見て、晶ちゃんは楽しそうに笑いながら言った。彼女が歩き出し、私はその斜め後ろを歩く。友達のような友達じゃないような距離。本来彼女と私はこれくらいの距離なのだ。しかしそれを許さないとでもいうように、晶ちゃんは歩く速度を緩め、私の隣に並んだ。それだけで、私はどぎまぎして、何を話していいかわからなくなる。晶ちゃんはどこか、私とは違う存在のような気がしてならない。そんな私の気持ちなど知らない彼女は、楽しげに話題を振ってくる。学校の授業がどうとか、先生たちの意外な一面だとか。私はそれに相槌を打ち、笑うだけ。

学校の正門から出てまっすぐ進み、二つ目の角を曲がる。先ほどと違って車通りのない、狭い住宅街に入った。道の幅は私たち二人と、自転車が一台通ることができるくらいの広さしかない。

「唯ちゃんって、進学希望なんだっけ」

 住宅街に入って少ししたところ、小学生が遊べるくらいの小さい公園の前を通りがかった時、突然進路の話を振られた。それはさっき教室でずっと考えていたことで、なんだか見透かされたようで動揺してしまう。そんなはずないのに、どこか後ろめたい気分になり曖昧に頷く。私のおかしな様子に、やっぱり彼女は笑っていた。

「そっかあ。県内?」

「いや、県外の大学に行く」

 晶ちゃんはまた、そっかあ、と言って口を閉じた。私はチラッと横目で彼女を見た。背筋を伸ばしてまっすぐと前を向いて歩いているのが、すごく彼女らしい。

「晶ちゃんは、進学?」

 このまま黙っているのもなんだか気まずくて、話の流れに合ったことを質問してみる。今度は横目で見るなんてことをせず、しっかり顔を彼女の方に向けた。さっきよりもずっとはっきり彼女の顔が見える。晶ちゃんは、困ったように眉を下げて笑っていた。

「ううん、私は就職なの。やっぱり進学だと思った?」

 驚いた。私はてっきり、彼女は四年制大学に進むとばかり思っていたのだ。私なんかよりもずっと、進学という言葉が似合うのに。

「私の家、母子家庭だからさ。あんまりお母さんに負担をかけたくないんだ」

 はあ、と彼女が吐き出した息が、空気を白く染める。晶ちゃんはやっぱり笑顔で、でもどこかせつなそうだった。彼女の家庭状況も、彼女がどんな思いで進路希望を出したのかも、まったく想像もしなかった。余程ひどい顔を、私はしていたのだろう。晶ちゃんは私を見て、からりと笑った。

「そんな顔しないで。…あのね、実はそれが一番の理由じゃないの」

「え?」

 晶ちゃんは私から視線を前に戻し俯いて、そうして足を止めた。それに倣うように、私も歩くのをやめる。数歩先にいた私は晶ちゃんに向き直り、じっと彼女の顔を見つめた。彼女の白い頬が、寒さのせいで赤く染まっている。

「私、したいことがないの。将来の夢とか、本当、全然考えたことなくて。この高校に入ったのだって、普通科じゃ教わらないことを学びたいと思って入っただけだし。三年間通って、いろんな知識を身につけたけど、…やっぱり何も見つからなかった」

 晶ちゃんはちゃんと夢を持っていて、それに突き進むのだろうとばかり思っていた。それは全くの見当違いで、私が彼女に持った、勝手なイメージにすぎなかったらしい。私はどう返事を返せばいいかわからなくて、ただまごついた。口を閉じたり開けたりして、しかし頭の中はぐちゃぐちゃで目線はどんどん下に下がっていく。

「私、唯ちゃんが羨ましいの」

 突然の告白に、思わず顔を上げる。はっと息をのむほど優しく微笑む晶ちゃんが、目の前にいた。

「高二の夏にさ、唯ちゃんが先生と真剣に話してるの、偶然聞いちゃってね。難しい顔してる先生の目をまっすぐ見て、デザイナーになりたいっていう自分の夢を語ってる唯ちゃん、かっこよかったなあ。こんなこと言うの失礼だけど、私唯ちゃんのこと、私と同じような人だと思ってたの。夢とかなくて、ただなんとなくこの高校に入っただけの人だ、って。それが全くの見当違いだって分かった時、すごく恥ずかしかった。…それと同時に羨ましかった。唯ちゃんみたいになりたいって、その頃から思うようになったの。私の憧れなんだあ」

 違う、と思った。私はそんな、晶ちゃんみたいないい子に憧れられるような人間じゃない。優柔不断で、自信がなくて、不真面目で、この先本当に一人でやっていけるか不安なくらいダメダメで。私の方こそ、晶ちゃんに憧れていた。私がデザイナーになりたいといっても、誰一人として信じてくれなくて、笑って冗談のように流される。この言葉を晶ちゃんが言ったなら、みんなが納得して応援するだろう。そんな人望のある彼女が、多才であるにもかかわらず努力を惜しまない彼女が、私にはずっと輝いて見えて、憧れの存在なのに。

「私は、晶ちゃんが好きだ」

 突拍子もない言葉に、晶ちゃんは目を丸くした。

「努力家で、いろんな人に信頼されて、私みたいな人間に憧れだなんて言えちゃう。でもどこか人に言えないものを抱えて、それを出さないように笑顔でいる晶ちゃんはすごい。尊敬する。憧れだ」

「き、急にどうしたの? 唯ちゃん」

「一緒に大学に行こう。それで、今度こそ見つければいい。晶ちゃんだけの夢。私なんかでよければ、お手伝いするから、だから」

 声が震え、喉が詰まる。鼻の奥がつんとして、感情が高ぶっているのが分かった。唇を噛んでぐっと堪える私に、晶ちゃんはくしゃっと顔をゆがめ、それからいつもとは違う、不細工で、でも綺麗な笑みを浮かべた。それこそが、彼女の本物の、心からの笑顔だったのだと思う。

「私、もっと早く唯ちゃんと友達になりたかった」

 それはこちらも同じ気持ちだと、叫んでやりたかった。けれどそんなことできるはずもなく、静かに、しっかりと頷いた。遅くはない。けれど遅かった。晶ちゃんは、止めていた足を動かして、私の横を通り過ぎる。

「あーあ、もうすぐ春が来ちゃうねえ」

 少し大きめの声で言われたそれに、胸が痛くなった。そう、もうすぐ春が来る。友達も家族もいない、晶ちゃんのいない春がやってくる。

何故かこぼれそうになる涙を流さないように、塀のすぐ向こう側に立っている誰かの家の木を見上げ、気づいた。まだ小さいけれど、もう少ししたら立派な花を咲かすのであろう蕾が二つ、しっかりと枝についていた。

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