私の、愛する世界を。
各務あやめ
第1話
夕日の眩しさに目を細める。私は隣を歩く友人に話しかけた。
「最近、日が落ちるのが早くなったね」
「うん、早くなった」
彼女は明るくも暗くもない声で短く答えた。話は続かなかった。
ファイトー、という掛け声が、静かな私たちの会話を埋めるように校庭に響く。あれはテニス部だろうか。いや、陸上部か、それとも。
「じゃあ、また明日」
気づくと私たちはもう校門の前まで来ていた。私たちの下校は、たったの玄関から校門までの短い時間だ。彼女はいつものように、顔のそばで小さく手を振っている。
「……うん、またね」
背を向けた彼女は、私とは正反対の方向へ歩いていく。私と別れた瞬間、歩くスピードが少し速くなるのも、いつもの通り。
私はその姿が見えなくなってから、リュックを前に回して、ジッパーを引いた。手を中に入れて、教科書に埋もれたそれを取り出す。
背表紙に触れただけで、穴が開いた心が、ほんわりと温かくなった。
少し眺めて、しまう。ゆっくりと帰路につく。
帰ると、美味しそうな匂いが鼻をかすめた。その瞬間、思い出したようにお腹が小さく鳴る。
ご飯もおかわりしてお腹をいっぱいにしてから、私は自室のベッドにダイブした。
勢いよく飛び込んだので、バフッ、と漫画のような音がした。私はそのまま毛布に顔をうずめる。
その居心地の良さに、体から力が一気に抜けていく。一日の疲れがベッドに全て吸い込まれていく気がした。このまま眠ってしまいそうだ。
目を閉じると、あの子の姿が思い浮かんだ。
あれは四月だった。入学してすぐのこと。もう半年近く前だ。時が経つのは、驚くくらいに早いんだなあ。
新しい教室で隣の席になった私たちは、ふたりで図書室に来ていた。まだぎこちない会話を繰り返しながら、ゆっくりと本棚を回る。
「本、好き?」
彼女は本棚から目を離して、私に聞いた。私は彼女の腕の中を見る。
恋愛小説、推理小説に、歴史ものまで。様々なジャンルの本を彼女の腕は抱えていた。ああ、これ中学の時に読んだな、と私は一目で気づく。
「その本、面白いよ」
あとこれも、と指をさしていくと、彼女は、「本当に?」と目を輝かせた。声のトーンが急に高くなった気がした。
「本、よく読むんだ?」
「あー、うん」
一度頷いてから私は少し考える。
でも、と笑って付け足した。
「人並、だよ。別に普通」
そっか、と特に気にも留めず彼女は言う。
「私は、好きだよ」
そっか、と私も同じように返した。
目を開く。頬が僅かに強張っていた。触れると少し濡れている。
持ち帰ってそのまま床に放り出されたリュックを、手を伸ばして掴んで、一冊だけ取り出す。
一冊の文庫本。
表紙がよれてボロボロになったそれを、私はそっと胸で抱いてから、ページをめくる。
この場面の描写も、ここで主人公が言ったセリフも。開いただけで、頭が勝手に再生を始める。
―この子は、特別。
ほとんど読まずに、ぱたん、と本を閉じて、枕元に置いておく。
顔を上げ、びっしりと敷き詰められた本棚を眺める。じっくりと思案してから、その中のひとつを取り、両手で優しく包み込んだ。
今日は、この子に決めた。
真っ暗闇の中で、私はそこに印刷された文字を追う。読み終えてしまうと、再び心が沈んでいった。
物語の世界から抜け出してしまうと、私は現実に向き合わなくちゃいけなくなる。それが嫌で、逃げるように、救いを求めるように私は本に縋りつく。
空しかった。
私はひとりで失笑する。
―現実が嫌いなのは、自分のせいなのに。
自分のことが言えないのも、自分をさらけ出せないのも。全部。
唇を噛む。手が小刻みに震えて止まらなかった。
力いっぱい、力いっぱい、本を抱きしめる。
あの時、私が噓をついたのはなぜだろう。
たくさんの本を抱えてニコニコと笑う彼女。本が好き、と言うその目には、何の屈託もなかった。
今思えば、ほとんど初対面だった私たちで、初めて彼女が見せた心からの笑顔だった気がする。
私の答えを聞いて、どこか残念そうな顔をしていたような気もする。
あの時、私は、正直に言って、あまり良い気はしなかった。
本は、私自身だから。
本気で、好きだから。
沸々と何かが湧いてくる。怒りなのか、失望なのか、分からないけれど。
ただ、何か強烈な感情だ。
本当のことなんて言いたくない。でも、言わないと彼女と私はきっと、このまま、なあなあな関係で終わる。
ベッドに横になる。ぬいぐるみを側に寝かせるように、本を隣に置く。
すっかり色褪せてしまったその表紙を撫でる。
大好きな世界がここにあるのに、こんなにも寂しいのはなぜだろう。
ふーっ、と息を吐く。
ひとつの決意をして、私は目を瞑った。
朝、私たちは校門で出会った。
おはよう、と言う。
おはよう、と返した彼女の重たそうな手提げ袋からは、本の角が少しだけ飛び出していた。
リュックには、今日もちゃんとお気に入りの本が入っている。
ふたり並んで、ざっ、ざっ、と落ち葉を踏み分けていく。
ファイトー、という声が、今日も校庭から聞こえる。
テニス部だ、と彼女は小さく呟いた。
「あのさ」
私は歩みを止め、話しかけた。
数歩先に進んだ彼女は、ぽかんとした表情で私を振り返る。
「どうしたの?」
私は、本が好きだ。物語の世界にいるときは、ありのままの自分でいられる。屈託なく笑える。―あの時の、彼女のように。たくさんの本に囲まれて満面の笑みでいた、この子のように。
息を吸う。今になって気がついた。私はずっと、この子と、本当の自分で向き合いたかった。
幾度も口に出そうとしては飲み込んでいた言葉を、言う。
「図書室に、行かない?」
すーっ、と秋風が吹き抜けていく。落ち葉が地面をくるくると円を描くようにして舞う。
その動きに合わせるようにして、彼女の目に、みるみる明るい光が灯っていった。
「うん。……行こう」
たった一言だけれど、私たちにとっては、大きな意味を持っていた。
その言葉を噛み締めるように、私はゆっくりと頷いた。
私たちはまた並んで再び歩き始める。
その距離が半歩分近づいたのも、なんとなく感じていた壁が薄くなったのも。そう思ったのは、きっと私だけじゃないだろう。
友情を優先して、自分を犠牲にしたわけではない。
本当の自分を生かせる場所を、現実の世界にも作りたかった。
彼女なら、信頼できるから。
いつかの図書室で見せたあの笑顔を、久しぶりに彼女は私に向けた。
私の、愛する世界を。 各務あやめ @ao1tsuki
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