第四章 過去─1

 長い夏期休暇に入るため、パトリシアは大きなトランクを押しながら久々の家路を急いでいた。

 早くに母親を亡くし、兄弟もおらず、軍需工場に勤める父親は留守がちなため、彼女は寄宿学校に在籍していた。

 

 ようやく家が視界に入ったところで、ふと彼女は足を止める。

 それは荷物の重さから来る疲れもあったが、一番の理由はその家の前に車が止まっているのが見えたからだ。

 遠目に見ても軍用とわかるそれは父親の仕事関係の物だろう。

 だが、まだ日も高いこの時間、忙しい父親が帰ってくるはずもない。

 

 いやな予感を感じつつも、彼女は心持ち足を早めた。

 果たして玄関口には、見覚えのある軍人がうわべだけの笑顔を浮かべて立っていた。

 

「やあ、パトリシア。お帰り。暑いのに疲れただろう?」

 

 嫌らしい言葉に無言で彼女は頭を下げる。

 正直彼女は、父親の上司であるこの軍人を好きではなかった。

 いや、むしろ嫌いと言っていい。

 だが軍人はあいかわらず他人を見下すような笑みをその顔に貼り付かせていた。

 

「明日から休みだって? こんなご時世にか弱い女の子一人留守番じゃ、さすがに物騒だと思ってね」

 

 言いながら軍人は車の方に目で合図を送る。

 何事かと思いつつパトリシアはそちらの方へ目をやる。

 と、兵士二人が車後方の荷台の扉を開き、中へと消える。

 

「ボディガード代わりというのは何だが……仲良くしてくれるとありがたいんだけれどね」

 

 その言葉に呼応するかのように、先ほどの二人が車内から黒ずくめの男を引きずり出しながら再び姿を現した。

 二人はその腕を掴み、それを強引に彼女と軍人の前へと放り出す。

 何が起きたのか理解できないパトリシアは思わず後ずさる。

 軍人の顔に皮肉な笑みが浮かんで消えた。

 

 これじゃあ顔も見えないだろう、という軍人の言葉に、兵士のうち一人が乱暴にうずくまる男の髪を引っ張った。

 

 絶望と怒り。

 黒曜石のような男の瞳からパトリシアが感じ取ったのは、この二つだった。

 言葉を失う彼女に、軍人は懐から取り出したある物を示した。

 

「まあ大丈夫だと思うが、まだまだ人にあまりなつかなくてね。万一危害を加えられそうになったらこのスイッチを押すといい」

 

「…………!」

 

 言葉にならない絶叫に、彼女は目を閉じ耳をふさぐ。

 しばし軍人はもだえ苦しむ黒ずくめの男をサディスティックな笑みを浮かべながら見下ろしていたが、ぐったりと動かなくなるのを見るとようやくその指をはなした。

 

「こいつの両腕には電子手錠がかけられていてね。このボタンを押すと命に別状がない程度の電流が流れる。おとなしくなるまで押しているといい」

 

 無言のまま立ちつくすパトリシアの首に軍人は残酷な兵器をペンダントよろしくかける。

 そして言外に入り口の扉を開くように促した。

 

 ソファに横たわる黒ずくめの男を見つめながらパトリシアは途方に暮れていた。

 果たしてどうすればよい物か、まったく見当もつかない。

 

 ため息をつこうとしたとき、家の中へかつぎ込まれて以来ずっと閉ざされていた男の目が開いた。

 じっと見つめていると吸い込まれるような錯覚にとらわれる黒い瞳が写している物は、不安と疑問。そして……。

 

「ごめんなさい……」

 

 パトリシアの目から大粒の涙がこぼれ落ちる。

 男の表情が、ほんの少し動いた。けれどパトリシアは泣きじゃくりながらさらに続ける。

 

「私たち、あなたにひどいことを……ごめんなさい……」

 

 こぼれ落ちる涙を拭おうともしないパトリシアに、男は半身を起こし手をさしのべる。

 そしてかすれた声でこう告げた。

 

「……泣かないで。貴女は、何も……悪くない」

 

 涙に濡れた目でパトリシアは男を見る。

 黒い瞳はわずかに笑っているようだった。

 

 その日、比較的早い時間に帰宅した父親は自分を迎え出た娘と黒ずくめの男を見るなり、あの野郎が約束を守ったのかと一言つぶやき大きく安堵の息をついた。

 そしておもむろに男に向けて話しかける。

 

「覚えているかな? 研究所で一度会っただろう? ……我々の犯した行為を、君たちにはなんとお詫びしたらいいか……」

 

 深々と頭を下げる父親に、男はだが首を左右に振った。

 ありがとうと答えると、父親はパトリシアを抱き寄せながらさらに続ける。

 

「そうだ、まだ自己紹介をしていなかったね。私はジョン。こっちは娘のパトリシアだ」

 

 けれど男は合点がいかないようにわずかに首を傾げた。

 父親……ジョンの顔には困ったような表情が浮かぶ。

 

「その……君の名前は……。私たちは君を何と呼んだらいいのかな?」

 

「私……は、管理登録番号……一〇〇四サウザンド・フォースです」

 

 男の言葉に父娘は思わず顔を見合わせる。

 そしてジョンは改めて男に向き直った。

 

「それは名前じゃないからなあ……ええと……」

 

 ジョンは困ったような男と戸惑う娘とをしばらく見比べていたが、やがて何か思いついたのかぽんと手を打った。

 

「一〇〇四……フォース……そうだ、じゃあフォースと呼んでいいかな?」

 

      ✳

 

 その日から奇妙な共同生活が始まった。

 

 どういう経緯かは定かではないがやってきた男はその家の主の思いつきで『フォース』と呼ばれるようになり、気がつけばすっかり家族の一員になっていた。

 

 何故この男が軍需工場にいたのか、そして何故あのいやな軍人からあのような仕打ちを受けていたのかパトリシアは知る由もなかったが、思いもかけずその片鱗を目の当たりにすることになった。

 

 それは慣れない手つきで夕食の支度をしている時だった。

 不注意から手を切ったパトリシアに、フォースは不安げな視線を向けた。

 

「大丈夫。そんなに深くもないし、後でちゃんと消毒しておくから」

 

 そう言う当の本人を完全に無視してフォースはわずかに血のにじむパトリシアの手を優しく押し抱く。

 気のせいか暖かな光に包まれた。

 そして次の瞬間。

 

「……え?」

 

 改めてその掌を見て、パトリシアは目を疑った。

 先ほどまで開いていた傷は跡形もなく消えていたからである。

 

「すごい……」

 

 尊敬にも似たまなざしを向けられてフォースは困ったように微笑を浮かべる。

 そして、このことはジョンにも話さないでくださいねと言った。

 

 だが、穏やかな暮らしは程なくして残酷な結末を迎えた。

 いつになく深刻な表情を浮かべて帰宅したジョンは、ほとんど口を開くことなく早々に自室へと引き上げた。

 そんな父の様子に不安になりながらも床についたパトリシアは、しばらくして物音を聞きベッドから滑り降りた。

 

 廊下に出ると、わずかに開いた扉の隙間から父親とフォースが言い争う声が聞こえてくる。

 

「……私には、できません。そんな……」

 

「……を守るためなんだ。……のが心苦しい……頼む……」

 

 途切れ途切れに聞こえてくる切迫した言葉。

 漏れ伝わってくる緊迫した空気。そして……。

 隙間から様子をうかがっていたパトリシアは思わず息を飲んだ。

 

 ジョンの足が、次第に中へ浮く。

 その顔色は徐々に紫色に変色していく。

 首を掴む腕に刻まれた文字はM、I、V。

 声を出すこともできずに座り込むパトリシアとフォースの視線がぶつかった。

 

 絶望と、謝罪と、悲しみ。そして彼の背に漆黒の翼が広がり……。

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