ひかり照らす道

「久しぶり。寒いね」

 カフェの一角、見覚えのあるその背中に私は声をかけた。

「あう……久しぶり」

 羽織っていたコートを脱いで席につく私をおずおずと見ながら、岡山おかやま茉季まきは前髪を落ち着きなく触り、ぎこちなく笑った。

「遅くなってごめんね、待った?」

「いや、そんなには……あはは、なんか、年々大人っぽくなってくね、ひかり」

 ホットコーヒーで、と店員に告げた私に、茉季は遠くを見るような目をしてそう言った。

「そう? 茉季は相変わらず綺麗だね」

「ええっ……!? うん、やっぱり、二年前よりずっと、大人になったね、色んな意味で……」

 茉季は耳まで顔を赤くして、伏し目がちになりながら小さく言葉を紡いだ。

「思ったことはね、すぐ伝えるようにしてるの。茉季とは色々あったけど、今は友達だって思ってるよ」

「そっか。……もう、気にしてない? 二年前のこと」

 何度も聞いちゃってごめん――茉季は申し訳なさそうに笑い、そう続けた。

 二年前。香蓮にまつわるあの一件が落ち着いて少しの時間が経った、夏のこと。

 三回忌の時のことを謝りたい、だからもう一度会ってほしい。――茉季から送られてきたそのメッセージに、私は「うん、私も茉季と話がしたい」と返信した。

 再会した茉季は、三回忌の時に取り乱して詰め寄ったことを、涙ながらに私に謝罪した。そして香蓮と自分との間に何があったのかを、今度は冷静に、私に話した。

 香蓮のことが大好きだったこと。香蓮が私と仲良くなって、それ以来自分に冷たくなっていくのが辛かったこと。泣きながら記憶を紐解いていく茉季に、気づけば私も涙を流していた。その時には、私にも茉季の気持ちが分かるようになっていたから。

「うん、気にしてないよ。だからこうして毎年、香蓮の命日に会うことにしたんじゃない。茉季の中にいる香蓮のことも、ちゃんと知りたいって、そう思うから」

「……そっか。ならよかった! しみじみしちゃってゴメンね、せっかくひかりに会えたのに、こんなんじゃいけないよね!」

「そんなことないよ。茉季は茉季のままでいい。だからこうしようああしようとか考えないで。私たち、友達なんだから」

 運ばれてきたコーヒーカップを両手で包み、かじかむ指先をほぐしながら、小さく一口啜る。少しだけ慣れてきた苦味が口の中に広がって、でもやっぱり背伸びしすぎたな、と砂糖のキューブを二、三個、コーヒーカップの中に投入した。その様子を見て、ぷっ、と茉季は噴き出すように笑った。

「ひかりって不思議だね。変わったなと思うところもあれば、全然変わってないところもあって。見てると、なんかこう、胸がキュンってなる」

「そうかな。自分じゃあんまり、変わったなんて思わないけど」

「えー、でもぉ……垢抜けてすっごく女の子らしくなったし、私のことも友達って言ってくれるし、それに、かわいいし……」

「私なんかより茉季の方がずっとかわいいよ」

 暖房がよくきいているせいか、茉季の頬は赤く、目もどこかぼーっとしてる。

 あっ――内心、私はぎくりと肩を震わせた。こういうところだった。私がちくちくと小言を言われてしまうのは。

 ひゅっ、と、お店の入口から入り込んだ冷風が私のうなじを撫でた。まるで私に反省を促すようにして。

「楽しそうね」

 その冬の風に乗るようにして届いた言葉と視線の冷たさに、私は苦笑いを浮かべながら振り返った。

「冬将軍が来た」

「はぐらかさないで。そういうところが人を勘違いさせるっていつも言ってるわよね?」

「でも、思ったことは伝えないと、次いつ伝えられるかわからないじゃん。ね、茉季」

「あはは……私に投げないで……」

 その長い黒髪にふんわりと冬の空気を纏わせて、九品くほん由蘭ゆらんは私の隣に座った。それだけで室温がぐっと下がったように感じられた。

 由蘭も私と同じで、香蓮の命日に香蓮の関係者と話をすることを選んだ一人だ。ただ、二年前の命日から始めた私とは違い、由蘭は今年から参加したいと言うようになった。その理由を由蘭に聞いてみたが、由蘭は一向に話してくれない。

「久しぶり、マキ――いいえ、茉季さん」

「こちらこそ、久しぶり、由蘭。ふふ、まだクセになってるんだ、香蓮のフリ」

「あれだけ毎日細かく注文つけられていたらね。今はいい思い出よ」

 言葉尻こそ冷たかったが、その表情には人間味のある綻びが微量含まれていた。

 外から見てどれだけ小さな変化だったとしても、それは私にとっては大きく、確かな変化の表れだった。由蘭とずっと一緒にいる、私だからこそ分かる。

「何? ジロジロ見てきて」

「別に、由蘭は今日も綺麗だなって思って」

「さっき、茉季さんにも同じことを言ってなかった? ね、茉季さん」

「だから私に投げないでってば……。てか、ノロケなら家でやってくんない?」

 茉季は溜息まじりにそう言って頬杖をつき、私たち二人に呆れたように視線を投げかけた。悪気なく笑う私と、刺々しい目つきとは裏腹に白い肌に朱を混ぜた由蘭の顔を交互に見て、茉季は「お熱いことで」と微笑して呟いた。

 由蘭は咳払いを一つして、茉季と近況を報告し合った。二年前の一件の時、由蘭が茉季とどういう関係にあったかは由蘭から聞かされている。茉季は香蓮を亡くした痛みに耐えきれず、由蘭に香蓮の役を求め、由蘭はそれに応えていた。けれど、由蘭と私がこうなったことを伝えてからは、茉季はもう由蘭に香蓮を求めなくなったらしい。きっと、茉季の中でも香蓮とのつながりに終止符が打たれたのだろう、そうであるといいな、と私は思った。

「茉季さんは、いいひとはいないの? 客観的に見てすごく美人だから、貴女」

「ありがと。でも私、理想が高いから出会えないんだよね。カレンとひかりみたいに、どこまででも追いかけちゃいたくなるような子にはなかなか……おっと、なんちゃって!」

「……念のため釘を刺しておくけれど、今はしてないわよね? ひかりに、ストーカーめいたことは」

「えー? いやー、もう、そんなー! あはは!」

 茉季の煙に巻いたような受け答えと、瞬間覗かせたじとっとした視線に背筋がゾッとする。茉季の純粋さに遊びのないことを知っている私には、それが冗談かどうかの判別は果たしてつかないのだった。

「あーもう、ひかり引かないで、由蘭も殺気出すのやめてよ、冗談に決まってるでしょ! ……私、本当に、二人がお似合いだって思ってるんだから」

 そう言うと、茉季は背筋を真っ直ぐに伸ばして私たちに向き直った。それを見て、私たちも居住まいを正す。

「本当に思ってるんだよ。私ね、私の好きな人が、好きな人と結ばれて、心からよかったって思ってる」

 茉季は破顔した。その目の端に、雫が一粒浮かんで、こぼれる。

「だから、末永くお幸せにね。そしてずっと、私と友達でいてね」

 私は由蘭と視線を交わし、お互いの気持ちに齟齬のないことを確認した。

「もちろんだよ、茉季」

「こちらこそ、これからもよろしくね、茉季さん」

 私たちはそう言って頷いた。茉季はそんな私たちを眩しそうに見て、涙をもうひと筋頬に伝わせながら、こくり、と嚙み締めるように頷き返した。


 小一時間ほど話した後、私たちは茉季と別れてカフェを後にし、次の目的地へと向かう。その道すがら。

「やっぱり、今年はついてきて正解だったわね」

「あっ、そういうこと?」

「それ以外あると思う? 去年、貴女が女の匂いをぷんぷんさせて帰ってきて、私が何も考えなかったと本当に思うかしら?」

「だから大げさだって。私なにもしてないし」

 木枯らしの冷たく吹きつける街中を、他愛のないことを話しながら由蘭と寄り添い合って歩く。ただそれだけのことで、心はとても満たされた。

「ほら、もう着いたから、行くよ」

「はあ……次はあの子ね……。頭が痛くなるわ……」

「うーん、まあ、でも悪い子じゃないよ」

 喫茶店の扉をくぐると、ちりんちりんと鈴の音が鳴り、紅茶の葉の豊かな匂いが鼻腔をくすぐる。チェーン店ながら落ち着いた雰囲気と紅茶の種類の豊富さで人気のあるお店だ。

 かつて、ここで彼女から香蓮の話を聞いた時、私にはここが素敵な場所とは思えずにいた。それが今ではちゃんとその在りようを、静かで豊かな佇まいを正しく感じ取ることができている。あの時彼女が語った「世界は認識で構成されている」という話を、私は今になってようやく理解することができていた。

「こちらです、先輩方」

 その空間の隅の方、私たちの到来に気づいた少女が、手にした本に栞を挟み、それを机の上に置いた。

「希ちゃん、久しぶり」

「はい、本日もかわいらしいです、ひかり先輩。由蘭さんも、ご機嫌麗しゅう」

「それほどでもないわ」

 言葉に棘を含ませて対面に腰を下ろした由蘭に対し、大井おおいのぞみは清楚で落ち着きのある笑顔を崩さない。二年前、もしくは四年前と変わらず、そこには見た目通りの日本人形のような静けさと不気味さがあるのだった。

 そんな彼女とは週に何回か顔を合わせることはあっても、未だに慣れることができない。静かに読書している姿は本当に板についていて、つい見惚れてしまうほど綺麗だというのに。

「春休み、何してた?」

「さて、何をしていたか忘れてしまいました。私、今日のことがとても楽しみで、頭の中がそればっかりで。ひかり先輩、せっかく同じ大学にいるのに私となかなか会ってくれないんですもの。なので、こうして面と向かって話せることがとても嬉しいです」

「そ、そうだね……」

 実際のところ、私はこの子のことが得意ではない。だからキャンパスで見かけるたび、いつも逃げるように距離を取っている。何が怖いって、私が希を見つける時、希は決まって先に私のことを見つけているのだ。あけすけに距離を取ろうとしてなお、希は私に肉迫することを躊躇わない、その心の図太さがシンプルに怖い。

「もっとお話したいです。ゼミのことも聞かせてください。教職課程を履修してるのって本当ですか? 先生になるんですか? ひかり先輩みたいな先生がいたら女子生徒みんなおかしくなっちゃいますよ? ああ、それもい……」

 うっとりと自分の世界に没入して早口にまくし立てる希に対し、何食わぬ顔を続けていた由蘭ではあったが、手にしたカップの中では紅茶が波打っていた。私は小声で「こういう子だから」とステイの意思表示をすると、その様子を見て希はくすくすと笑った。

「……香蓮先輩が生きていたらこんな感じだったんでしょうか」

 一拍置いて、懐かしさを口の中で転がすように紡がれたその言葉に悪意はない。この子にもこの子の香蓮があって、それを思い出すために今日という日があるなら、私はそれを素直に嬉しいと思えた。

「もしそうだったら取り合いになって困ってたかも。ね、由蘭」

「そんな簡単な話にはならないと思うわ。あの子ももっとひかりに執心していたでしょうし、あまりいい未来にはならなそうね」

「そうかな? そしたら二人と付き合うよ」

 ふふ、と笑う私に、由蘭は肩をすくめて「もう何も言うまい」とばかりに紅茶に口をつけた。由蘭を困らせるのは好き。正確に言うと、私は由蘭の困った顔を見るのが好きだ。

「ひかり先輩、やっぱり素敵です。香蓮先輩がひかり先輩に落ちた理由が今になってようやくはっきりと分かりました。これは、なかなかどうして、女性を狂わす形をしていますね……。一言で言うと、ヤバい」

 希は目を爛々と輝かせ、興奮気味に自分の体を抱いた。「ええー?」と私が言うと、由蘭も静かに同意の首肯を見せる。でも、

「そうだね、私って多分ヤバいんだよね。だから、ちゃんと自覚しなきゃいけないよね、自分のことは」

 そこで知らんふりをしないと私は決めた。由蘭や希の言うような、自分自身では認識できない魔性のようなものがこの身に潜んでいることを、私はちゃんと自覚して、付き合っていかなければいけない。じゃないと、きっとまた、どこかで繰り返してしまうから。

「大丈夫よ」

 ひとり心の中で意思を固めていた私の手に、そっと由蘭の手が乗る。

「貴女がどんな形をしているか、私が耳元で囁き続けてあげるから。毎日嫌でも自覚させられていたら、忘れることはないでしょ」

「うん、そうだね」

 そう。私は今、一人ではない。

 こうして心を――自分の形のいびつさを、正しく、冷たく、ありのままに受け止めてくれる人が、世界に一人だけいる。

 それがどれだけ幸福なことかを、私はこの二年の間に思い知るのだった。時に衝突し、身を引き裂くような苦しみの中にあってなお、私のそばに居続け、私を希求してくれる存在の、どれだけ大きなことかを。

「先生――溝口さんとは、どうなの?」

「雅ですか? どうなんでしょうね。ただ、香蓮先輩のことは未だに尾を引いているようで、悶々としつつも、二年前のことで痛い目を見たんですかね、今は真面目に仕事をしているみたいです。毎晩性欲を発散させるのが大変ですけどね」

 私たちを見る時とは一転して、希は大人びた目をして遠くを見た。その様子から私は察する。私にとっての由蘭のような、心でどうしようもなく引き合ってしまう何かが希と雅の間にはあることを。

 本当のことほど、心がそのことでいっぱいになればなるほど、人はかえって他人事のように語るものだということに私は気づいていた。それが夢物語などではなく、現実の酸いも甘いもない交ぜにした先の、日々の当たり前の営みになっているからこそ。

「仲良くやってるんだ」

「これが仲良く見えるのでしたら、きっとそうなんでしょう。先輩方ほどキラキラとした関係ではないですけどね」

「希さん、他人から見た関係性なんて所詮上澄みのようなものではないかしら? 誰しも隣の芝は青いものよ」

 自嘲気味に話した希に対し、カップをソーサーに置いた由蘭が煽り立てるように言葉を放った。希の微笑がぴくっと一瞬揺れたことに私は気づく。

「おや、いつ誰が隣の芝は青いと言いましたか? 先輩方の手前、謙遜したつもりが卑下したように見えてしまったでしょうか?」

「そう思えているのならいいわ。私も余計な詮索をしたわね」

「いえ、こちらこそお気遣いいただきありがとうございます」

「じゃあひかりのことはもういいわよね」

「それは話が別です」

 前のめりになってにらみ合う二人をなんとかして引き剥がす。そんなことが何回か繰り返されるうち、すっかり日が暮れてしまうのだった。


「今日はお時間をいただきありがとうございます。今日のことは帰って雅にも話しますね。いい加減、あれにも香蓮先輩の供養をさせなきゃ」

「うん。先生によろしくね」

「ひかり先輩が雅をまだ先生と呼んでくれるなら、彼女も救われると思います。ありがとうございます」

 希は私たちに会釈し、確かな足取りで喫茶店から離れていった。そのどこか頼りがいのある背中を見て、私も踵を返した。

「……あれ」

 由蘭が何かに気づいて私を振り返らせる。遠くの方で、希が女性と合流して話をしているのが見える。その女性ひとは私たちの視線に気づくと、ほんの少しだけ会釈するように頭を下げて、それから二人して人混みの中に紛れていった。

「誰もが受けた傷を過去にできるわけじゃない。心の奥深くでついてしまった傷なら、尚更ね」

「香蓮と先生の関係を知ってたの?」

「まあ、あれだけ人恋しそうな目をしてうちに来ていればね。でもきっと、その傷もあの子が塞いで、いつかなかったことのようにできるでしょう。強い目をしていたから」

 由蘭は胸に手を置いて、まるで自分のことのように話した。少し表情の曇った由蘭の手を、私はぎゅっと握り締めて歩き出す。

「そうだね。希ちゃんと先生はきっと大丈夫。由蘭に私が、私に由蘭がいるように」

「……そうね。じゃあ、これからも適切に彼女と距離を取ってね」

「だから、それは不可抗力だって!」

 夜の帳の下りた街並みを、金銀の煌めきがいつになく賑やかに縁取っている。

 何とかフェアなる文字がでかでかと書かれた垂れ幕が目に入った時、私はしばらく、そのお店の前で歩みを止めてしまった。

 それは、私と、紀実加と、そして亜紗がいつか入ったファミレスだった。私の頭の中にその日のことが一瞬で呼び起こされる。

 玉川たまがわ紀実加きみか。あの時も、きっと私は彼女を傷つけていた。紀実加の気持ちも知らずに――いいや、私は紀実加の気持ちになんてとっくに気づいていた上で、亜紗が私のものであることを見せびらかしていたのかもしれない。無知な顔をして、愛されて当然のような顔をして。

「……紀実加さんとは、どうしているの?」

 何かを察したように由蘭が声を差し伸べてくる。私は視線を今に戻して、少し不安そうに曇る由蘭の顔を見た。

「そういえば同じ塾だったよね。紀実加は元気みたいだよ。前みたいな関係ではいられなくなっちゃったけど、メッセージではやりとりしてる」

「そう。元気そうならよかった」

「会おうって言ったけど、まだ私とは会えないって。いつかちゃんと話せたらいいなって思ってる。紀実加も、私の友達だから」

「そうね。……香蓮の口から、彼女の名前を一度だけ聞いたことがある。あの子が珍しく他人のことを心配していて、それが紀実加さんだった」

 ずきっ、と心に痛みが走る。紀実加は一度、確かに香蓮に救いの手を差し伸べていて、香蓮はそれで救われたものがきっとあったはずだ。

 その紀実加に、私は向き合うことをしなかった。その時はただ、まだ名前も知らない嫉妬心をぶつけるだけぶつけて、追いつめて。

「いつか、許してもらえたらいいな。簡単なことではないと思うけど……。紀実加は、亜紗のことがずっと、好きだったみたいだから……」

「尾山亜紗……彼女は?」

 尾山おやま亜紗あさ。二年前、私をはっきりと傷つけた人で――私の、一番の親友。

「亜紗は……わかんない。一体どこで何をしてるんだか」

 二年前の一件があって以来、亜紗は大学に来なくなった。

 私は亜紗にメッセージを送ったり、アパートに行って様子を見ることもできた。けれどそうはしなかった。そうしたら、また元通りになってしまうと思ったから。私が亜紗を、また縛り続けてしまうかもしれないから――。

「去年くらいから、月に一回くらいのペースで、手紙を送ってるの。あのアパート宛てに。返ってきたことは一度もないんだけどね。でも宛先不明で返送されてないから、まだあそこにいるんだと思う。実家にいたら、私と会っちゃうかもしれないから……」

「そう。……尾山亜紗のことは、今でも……?」

「うん、親友だと思ってるよ。由蘭には悪いけど、ごめん」

 恐る恐る聞いてきた由蘭に、私はありのままを告げた。由蘭は少し残念そうな顔をしたあと、呆れたような微笑を湛えて私を見た。

「いいえ。いいのよ。あるいはひかりを、ここまで導いた存在とも言えるもの」

「ありがとう。由蘭は亜紗を許さないだろうけど、私はもう、そこまで気にしてないの」

「ええ。私は彼女を許すことはできない。でも、なのよね」

「うん、でも。それでも亜紗は、私のかけがえのない、親友だから」

 澄み切った暗い空を見上げて息を吐く。この街のどこかで、きっと亜紗も同じように空を見上げながら息を吐いている。そう思えるだけの何かが、私の中にはまだ残っていた。

「……ひかりにそう言われてしまったら、仕方ないわね」

 由蘭は困ったようにそう言いながらも、私の手を握る力を強めて、それを自分の方に引き寄せた。

「何があっても、私が貴女を守るもの」

「ええー? 由蘭かっこよー。好きっ」

「……もう。……私も、好き……」

 私たちは恋人らしく一緒くたになりながら駅に向かっていく。目指す先は、由蘭の住むマンションだ。


 電車で数駅揺られ、お喋りしながら少し歩いていると、気づいた時にはもうマンションだった。

 懐かしい。あの頃も、香蓮とこうして話していたら、家に着くまでが一瞬だったっけ。

 そう思い馳せていると、頬をつんと突かれてはっとする。

「ちょっと、人の話をちゃんと聞いてるの?」

「あっ、ごめん、ぼーっとしてた」

「そのクセはいつまで経っても治らなそうね。今日は何の日かって話をしてたんじゃない」

 ああだこうだと話をしながら、由蘭といっしょにエントランスをくぐって、ラウンジに進んでいく。初めて来た時はあれだけ異質に感じられたこの場所も、通い慣れた今ではすっかり日常の一部となっていた。

「お帰りなさいませ、由蘭さま、ひかりさま」

「ただいま、鼎」

「お邪魔します、鼎さん」

 私たちに対して深々と一礼する制服姿の女性――かなえ自由みゆうは、この高層マンションのコンシェルジュだ。

 以前は彼女に対して、何かにつけておどおどしている印象を持っていたけれど、二年の時を経て、見るからに落ち着きを感じるようになった。何か浮ついていたものが心にしっかり据わったような、そんな重心のある雰囲気が今の彼女からは伝わってくる。

「ひかりさま。いつまでも他人行儀に『お邪魔します』ではなく、『ただいま』と仰られてもいいのですよ」

「ちょっと、鼎……っ!」

「由蘭さまもそう仰っておいでではないですか。さっさと住んでくれたらいいのに、とは昨日の由蘭さまのお言葉ですよ」

「貴女ね、最近ちょっと出過ぎじゃないかしら!?」

 この姉妹のようなやりとりを見るのも何回目だろう。私は二人のこういうやりとりを見るたびに心が温かくなる。

 でも、由蘭の言う通り、鼎さんは今、昔よりずっと由蘭に対して軽やかだ。そこにはコンシェルジュと一住民の関係を超えた連帯感のようなものを感じる。今まで私は陳腐だからという理由でこの言葉を簡単には使わないようにしてきたけれど、それはきっと『絆』と呼べるものだった。

「まったく……ほら、行くわよひかり。鼎も、お疲れさま」

「とんでもございません。何かあればすぐに言いつけてくださいね。パーティーグッズでも夜のグッズでも、何でも調達させていただきますので」

「ああもう、ひかり行くわよっ!」

「う、うん」

 顔を真っ赤にした由蘭が私の手を引く。その間、私たちの間には気まずい無言が流れて、いつもよりゆっくりと降りてきたエレベーターに、沈黙するまま私たちは乗り込んだ。

「……でも」

 沈黙を切り上げたのは由蘭の方だった。私は由蘭の方を見ずに、耳だけを傾けた。

「鼎の言う通りよ。私の家にさっさと住んでしまえばいいのに、何度言ったら分かってくれるの」

 その話が来ると分かって、由蘭の方を見なかったのだ。私はエレベーターの壁の方に目をやりながら、ぼそっと口を開いた。

「前も話したと思うけど、大学卒業するまではダメ」

「前も聞いたけれど、どうしてダメなの? ひかりが頑固なのは知ってる、でもちゃんと理由わけを話して」

「だって……香蓮が、ダメだって言ってる気がするから」

「ええ……?」

 私は少し胸が痛くなった。香蓮のことを都合よく使ってる気がして。でも香蓮ごめん、今だけはちょっと使わせて。

「ゼッタイにダレた生活して、単位落とすから、ダメだって……」

「それって……えっ、と、どういう……?」

「知らんぷりしないでよ。私が由蘭の家にいる日、私たちがすることなんてひとつじゃない……それも、一日中、ずっと……」

「っ……まぁ、そうね……」

 私と由蘭の間に別種の沈黙が流れる。でも、こういう沈黙なら、私は嫌いじゃなかった。

「ねえ、それでも、いいの? 由蘭もまとめて、ダメになっちゃうと思うけど」

「あっ……ええっと、うん、ダメかも……ね」

「ね、だから、大学卒業してからにしよ? それはそれで、もしかしたらその先がダメになっちゃうかもしれないけど……」

 数歩近寄り、由蘭の指先にそっと触れる。由蘭はびくっと手を震わせて、それをおずおずと、けれどしっかりと絡めた。

「まだ、エレベーターの中よ……」

「それでも、キスくらい、って思ってるんでしょ?」

「言わせないで……」

 由蘭の髪を嗅ぎながら、うなじに鼻を寄せる。冷たい冬の空気と、由蘭の肌のいい匂いが私の鼻腔にふんわりと広がった。

 そうして唇を触れようとしたところで、すーっとエレベーターの扉が開いていく。私は自分の高ぶりが急に恥ずかしく思えて、髪をいじりながらエレベーターを降り、また無言のまま由蘭の家の玄関まで歩いていった。

 由蘭が鞄からカードキーを出す間、私は改めて由蘭の家の玄関ドアを見た。ここは由蘭の家でもあり、香蓮の家でもある。そう思うと、私の頭の中に二倍の喜びが満ち満ちていく。

「それに、こうして香蓮の家に遊びに来るのも夢だったんだ。だから今は、そういう意味でも楽しい」

「そう。……あの子も、本当はそうしたかったのよね。でも、家には私がいたからできなかった。ひかりが万が一私にられたらって、きっとそう思って。……本当に、ひかりが好きだったのよ、香蓮は」

「うん」

「……まあ、それでも私の方が好きだけどね。今だって、気持ちを抑えられないくらい……」

 そう小さく呟いて、由蘭は玄関のドアを開錠した。由蘭への愛しさでいっぱいになりながら、由蘭の流れる髪に導かれるようにして、私も由蘭の家へと入っていった。


「それじゃ、はい」

「えっ?」

 玄関で靴を脱いですぐ、鞄の中から取り出したそれを、私は由蘭に差し出した。

 由蘭は立ち止まり振り向いた姿勢のまま、私の手にしたそれを、目を丸くして見下ろしていた。

「今日はバレンタインデーでもあるでしょ。だから、はい」

「ひかりが、チョコを……?」

 信じられないものを見るような顔をしながら、由蘭は私から包みを受け取る。そうして茫然としばらく眺めた後、ようやく実感が追いついたようにして、それをぎゅっと胸に抱きしめた。

「成長したのね……じゃなくて、ありがとう……」

「ちょっと、私を何だと思ってるの?」

「だって……ああっ、香蓮にも報告しなきゃ」

 由蘭は大げさにそう言うと、コートを脱ぐこともせず、そそくさと香蓮の部屋へと駆けていった。その様子に噴き出しそうになりながら、私も由蘭に続くようにして香蓮の部屋に小走りに入っていく。

 由蘭が正座して向き合うその場所には、仏壇ほど立派ではないけれど、位牌だったり遺影だったり、ちゃんとその人のことを思い、悼むための場所がある。それは私と由蘭が心を通じ合わせてすぐ、香蓮の部屋に用意したものだった。

 部屋の電気もつけず、月明かりが煌々と差し込む部屋で、同じように由蘭の隣に正座になり、ライターでつけた線香の煙がくゆるのを見ながら、そっと手を合わせる。そして心の中で今日あったこと、思ったことを、ゆっくりと、時間をかけて報告する。

 終わった頃には痺れかけていた足をさすりながら、一足先に報告を終えて香蓮のベッドに腰を下ろしていた由蘭に、私は声をかけた。

「チョコのこと、なんて話したの?」

「ひかりもちゃんと大人になったよって言った。ひかりは?」

「私は、遅くなってごめんね、って」

 そう言って、私は鞄の中から、由蘭に手渡したものとは違う包みを取り出して、香蓮に手渡した。由蘭はそれを見て静かに息をつき、ふっ、と優しく笑った。

「嫉妬しちゃうわね、私以外の女にもあげるなんて」

「香蓮、四年も待ってたんだよ? それくらい許してあげてよ」

「ダメよ。私は嫉妬深い女なの。何かで返してくれないと許せないわ」

「出たー、由蘭の誘い文句」

「そんなんじゃないわよ」

 私たちはどちらからともなく笑い出した。そういうやりとりが当たり前のようにできている今に、不思議な幸福感を覚えながら。

「すっかり、お線香の匂いでいっぱいになっちゃったね」

「そうね、香蓮もきっと文句を言ってるでしょうね。今度、いい匂いのするディフューザーでも買ってきてあげましょう」

「うん、そうしよう」

 それから、少しの沈黙が私たちの間に流れた。気まずいものではない。そして多分、私たちは同じことを言おうとしていた。

「私ね、ひかり」

 水面に小さく波紋を浮かべたのは由蘭の方だった。その心地よい揺れに身を任せることもできたけれど、私は由蘭より先に今の気持ちを伝えたくて、口を開いた。

「由蘭。正直ね、私の中で、香蓮の笑顔が薄くなってるの」

「……そう」

 由蘭は神妙に私の言葉を受け取った。けれど二人の間にある波紋の揺れは静かなまま変わらず、私はこの数年間を確かめるように言葉を継いだ。

「寂しいよ。でも、悲しくはないの。私の中で笑ってるのは、今、由蘭だから」

 私は由蘭の隣に腰を下ろし、その体をそっと抱きしめる。

「ありがとう、由蘭。こんな私と一緒にいてくれて」

 耳元でそう告げた私の体に、由蘭は静かに腕を回していく。

 そして、優しく、けれどしっかりと私を抱きとめて、同じように私の耳元で、由蘭は小さく息を吸った。

「……私もね、香蓮が、今は遠いの。もしかしたら、このまま忘れてしまうのかもって、そう思えて、怖かった」

「うん」

「でもね、私も、同じなの。私の中にひかりがいっぱいあふれてる。それであの子の居場所がなくなってしまうくらい、困ってしまうくらいにあふれてる」

「うん」

「それがどうしようもなく、怖いくらいに……幸せなの、ひかり」

 由蘭はそっと私の体を解き放ち、手を私の腰に添えた。

 私も同じように由蘭に手を添える。二人が同じ形で、同じ気持ちで見つめ合う。

「ひかり、ありがとう、私のそばにいてくれて。私を愛してくれて」

「同じだね、私たち。由蘭……」

「ひかり……っ」

 月光に切り抜かれた影が一つに近づいていく。

 それが重なり合う瞬間、ふと、その視線が一点に引き寄せられて。

「香蓮が見てるね」

「そうね、それはちょっと、あんまりだわ」

 苦笑いさえ甘く交わして、由蘭と私は、香蓮のベッドからゆっくりと立ち上がる。

「何か食べましょうか」

「チョコ食べようよ。由蘭もあるんでしょ? 私にチョコ」

「なんてデリカシーのない……そうやって人の気持ちを考えられないところがひかりはね」

「ごめん、ごめんね、でもお腹空いてるんだもん」

 やいのやいのと喚きながら、二人して香蓮の部屋を出て行く。月明りの青白い光の下から、暖色灯のオレンジの灯りの下へと還っていく。

 私がいて、由蘭がいて、香蓮の思い出がここにある。私のままでいられなかった私たちは、新しく得た自分に慣れて、染まって、また私のままでいたいと願う。

 手にしたものを大事に抱えて、過ぎ去ったものの痛みを負って、そうやって私は生きていく。

 いくら変わろうと、変わらないものが私の中にはあるから。それを頼りに歩いていけるから。

 そうでしょ、香蓮?


 部屋の扉が静かに閉じていく。二人の声が遠く聞こえる。

 雲一つない夜空から降るひと筋のひかりが、遺影の中の笑顔をそっと照らしていた。


   私のままでいたかった ―完―

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私のままでいたかった 椙山浬 @kairi_7mic

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