最終話 私のままでいたかった ―九品由蘭/香蓮―
上野毛ひかり。私たちが心奪われた子。
私のままではいられないほど、私はこの子に恋してしまった。
*
『もしもし、カレン聞こえる? ひかり
「そっか。ありがとね、マキ。辛い役を押しつけちゃってゴメン」
『それはもう言いっこなし。私がひかりを助けたいって言ったんだし、これでよかったの。大好きなカレンとひかりの役に立てたなら、それで十分だよ』
電話口の向こうで、
私は握り締めていたスマートフォンを机に置き、小さく息をついて窓の外を見る。夜の帳が降りた街を、強い雨が包み込んでいた。
『てか尾山亜紗、やっぱりクロだったね。ポストにチラシ詰まってるし全然外出しないしで怪しいとは思ってたけど、まさかほんとに監禁してたなんて』
「……ね。ひかりにメッセージ送っても返ってこなかったし、鼎さんからも『亜紗の話したときひかりの様子がおかしかった』って聞いてたから、アヤシイとは思ってたけど。とにかくマキが見てくれてたからだよ、これでひかりもマキのこと見直したと思う」
『そうだといいな……。ひかり、このまま歩いて行くつもりだよね。この雨の中で大丈夫かな。この女、なんかヤバいくすり飲ませてたみたいだし、もう終電も過ぎてるだろうし……』
「鼎さんが車で
『そう。カレンがそう言うなら、私はもう何も言わないよ。……あとはひかりを信じるだけだね』
ひかりを信じるだけ。それだけのことがあまりに不安で、深夜の教室で一人、私は自分の身を抱いた。
家から持ってきたランタンの暖色灯が心許なく私を照らしている。午前零時を過ぎた学校は暗く異界めいていて、何か喋っていないと飲み込まれてしまいそうだった。
「ねぇ、マキ。ひかり、来るかな」
『わかんない。鼎さんがついてるんでしょ? 聞いてみればいいんじゃない?』
「それは……なんか、違う気がして」
『そう? ま、そういうちょっと頑固なところもカレンらしいね』
茉季は声を綻ばせてそう言った。紡がれる言葉は素直で気取りがなくて、香蓮に対して迷いなく向けられているものだと分かる。
私、そんなに香蓮ができてる? とは、茉季には聞かない。茉季にとってそれは野暮であるだろうし、肯定されてもきっと私の不安が増幅されるだけだ。
今はただ、何もかもが怖くて、不安で、逃げ出したくて仕方がない――。
「……それでも、私はここで待たないといけないんだわ。それだけが、今の私があの子にできることだから……」
『カレン? どうかした?』
「ううん、なんでもない。マキの方も、落ち着いたら上がってね」
『そうする。尾山亜紗は玄関で糸が切れた人形みたいになっちゃったから、かわいそうだけど放っておくよ。カレンのスマホ、持って帰るね』
「お願い。それじゃ……切るね。またあとで」
『うん。……じゃあね、カレン』
画面の赤いアイコンをタップして通話を切ると、痛いほどの無音が私を包んだ。
香蓮がよくしていたように、私は椅子の上で体育座りに膝を抱く。
「ひかり……」
生前、香蓮がいた教室の、香蓮が座っていた席につき、香蓮の姿をして、ひかりを待つ。
香蓮と由蘭。ひかりは果たして、どちらを求めてここに来るだろうか。
どちらかが選ばれた時、どちらかは拒絶されるのだろうか。選ばれたのが香蓮の方だったら、私は耐えられるのだろうか。
もし香蓮が選ばれて、由蘭は要らないと言われたら、その時、私は――。
「……私は、それでもひかりと一緒にいたい。たとえ私が、由蘭でいられなくなるとしても……」
由蘭という存在がこのまま闇の中に溶けて消えて、私が香蓮になれたなら、ひかりは私に笑いかけてくれるだろうか。
ああ、それはなんて幸せなハッピーエンドなのだろうと、泣きたいくらいの静けさの中でひとり、私は思った。
*
どれだけ歩いても、学校はまだ見えてこない。
終電はとっくになくなっていて、私は線路沿いをひたすら学校方面に歩いた。
強い雨が降りしきる中、私を奇異の目で見ても、傘を差し出す人はいない。タクシーを拾おうとも思ったけれど、ぐわんぐわんと揺れる頭ではまともに喋れる自信がない。
それに、私はきっとこうしなきゃいけない気がしていた。これは香蓮が死んだあの日のやり直し。雨に打たれて家に帰って香蓮が死んだなら、雨に打たれて学校に行けば、そこに香蓮が生きてるかもしれない。
『ひかりから約束されちゃあ、しょうがないな』
あの日、カラオケの前で別れる時に香蓮が見せた、あの寂しい笑顔の正体を、私は知らなきゃいけない。
何があって、何を思って、何を言おうとして、何が言えなくて笑ったのか。由蘭に呼び出されたあなたは、一体どんな気持ちでその場所へと向かっていったのか。
「ちゃんと、聞かせてよ、香蓮……。私、香蓮にまだ伝えられてないこと、いっぱいあるよ……」
私は香蓮が好き。
今になってようやく気づいたけど、あの時からもう、私はあなたのことが好きだった。
全部遅いのは分かってる。それでも伝えないといけない、伝えて『私もだよ』って言ってくれるまでは止まれない。あなたの気持ちを今すぐ確認して、あなたの『好き』を私だけのものにしないままではいられない。
だから私は急ぐ。フェンスに肩を預けても、足を引きずっても、ただ、香蓮の待つ学校へと。
「つい、た……」
視線を上げた時、そこには見知った校門が、人ひとり分だけ口を開けていた。
香蓮は間違いなくここで私を待っている。確信に背中を押されるようにして、校門の隙間から学校へと、そして同じように隙間の空いた扉から昇降口へと入っていく。
体が香蓮との軌跡を記憶していた。その感覚のままに進んでいくと、見慣れた廊下や、見慣れた階段、見慣れた踊り場があって、そして。
「あ……」
ぼうっとした光が、ある教室から漏れているのが見えた。
そこは私と香蓮がいた教室。私たちの全てが始まり、全てが輝いた場所。
やっぱり香蓮は待っていた。これは夢じゃない。私はもう一度、香蓮に会えるんだ――!
「香蓮っ!」
私は教室の扉を勢いよく開いた。ランタンの光に照らされた、制服姿の香蓮が私を見ていた。
「香蓮っ、会いたかった……っ!」
私は香蓮に駆け寄り、その体を抱いた。強く強く抱きしめた。
けれど、香蓮はぼーっと立ったままで、何も反応してこない。私は夢から覚めるような気持ちになりながら、そっとその顔を見上げた。
薄暗がりの中でも分かるほど、それは確かに香蓮の目で、香蓮の鼻で、香蓮の口で、香蓮の匂いだったのに――私の中で何かが急激にざわめいて、沸き立って。
そして、私はその体からゆっくりと後ずさって、感情に任せるままに手を振り上げ、それを『その人』の頬めがけて横に振り抜いた。
「由蘭……っ!!」
ぱあん、と鋭い音が響き、打たれた勢いでその人は横を向いた。
私は分かっていた。分かりたくなくても、体が覚えてしまっていた。香蓮と同じ形をした、けれど僅かでも確かに違う、その人の持つ温度を。
「どういう、つもりなの……由蘭!」
「……ひかり……」
それは香蓮ではなく、由蘭の声だった。
いざ突きつけられた事実を前に、私はひどく落胆した。けれど、相手が由蘭ならばそれはそれでいい。私には彼女に問いたださなければいけないことが山のようにあったから。積もり積もったそれをぶつけるべく、私は躊躇なく口を開いた。
「黙ってないで答えて! どうしてここにいるのが由蘭なの!? どうしてあの日、由蘭は香蓮を呼び出したの! 答えて!」
私は由蘭ににじり寄り、その肩を掴んで揺らした。これまで感じたことのないほどの大きな怒りが体を突き動かしていた。
「鼎さんの言ってたことは嘘なの? あなたは香蓮との関係を切ろうとしてたんでしょ? それなのにどうして香蓮を揺さぶるようなことをしたのよ! あんなことをしなければ、今でも香蓮は……っ!」
「……仕方ないじゃない」
それまで固く引き絞っていた唇を、香蓮は決心したようにほどいた。
「あの子が誰かに執着するのが耐えられなかったのよ。あの子は、私の
「モノ……? そんな、身勝手な理由で……!」
「身勝手ではいけないの? 貴女には分からないわよ、貴女は私たち姉妹がどういう風に生きてきたかを知らない」
「その身勝手が香蓮を殺したのにっ!」
私は由蘭の背中を教室の壁に叩きつけた。自分で自分が制御できない。止まれない。
「あなたがあんなことをしてなければ……! いやっ、そもそもあなたがいなければ! 今ごろ私は香蓮と結ばれてたのっ!」
「……ッ!」
瞬間、私の体が強い力で弾き飛ばされる。私は椅子に足を取られ、机を薙ぎ倒しながら床に身を打ちつけた。
「香蓮、香蓮って、何なの……! 私がどういうつもりでここで待ってたと思うの……!」
「知らないよ、どうせ私をまた香蓮の姿で懐柔しようって魂胆だったんでしょ! 香蓮の制服まで着てっ!」
「これはっ、あの子のためでもあるのよ……! それに、私がいなかったら今ごろ貴女はどうなっていたか分からないじゃない! あの尾山亜紗とかいう女に廃人にされてたわ!」
「その亜紗もっ、香蓮が生きてたらきっとこうはならなかった! 私が香蓮に思いを伝えて、恋人同士になっていれば、どこかで諦めて、それで……!」
私は身を起こして再び由蘭に組みかかった。由蘭は抵抗せず、ただただ憐れむような眼差しを私に落とす。
「あの子への気持ちだって、私があの時気づかせてあげたんじゃない。それがないまま、あなたがいつ気持ちを自覚して、いつ告白まで踏み切ったというの?」
「それは……っ! 由蘭のそういうところが嫌! なんでも自分の思い通りになると思ってっ! そうなったらそうなったで、私は私のままでいられた! こんなことで悩むことも苦しくなることもなかったっ!」
「恋を知らずにいて幸せだったというの? あの日、私と体を重ねた貴女はあんなにも幸せそうだったのに。私とキスしてセックスして、女の幸せ貪り食ってたじゃない。香蓮香蓮って言っていいながら、その実咥え込んでいたのは私の中指でしょう!? もう香蓮はこの世にいない、貴女には私がいる!」
「うるさいうるさいうるさいっ!」
ランタンのガラスの割れる音が耳を
気づいた時には、散乱する机の海の中で、私は由蘭に馬乗りになっていた。
そして、そのか細い頸部を両手でぎゅっと握り締めて圧迫している。加減はなく、ただ力いっぱい握り締めなきゃと思って、そうしていた。
「やめ……て……ひか、り……」
由蘭は呻いた。生命がいとも容易く挫ける予感が、鬱血していく私の意識の中に充満する。
どうして肉体は大事なところに限って細いのか、どうして
どうして、こんなにも殺してしまいたいと思ってしまうのか。どうして憎しみだけで、人はこうも簡単に変わってしまえるのか。
「おね……が……い……わたし、は、あなた、が……」
人が人を殺すことが信じられなかった。殺人事件はいつだってテレビの向こう側だけで起きているものだと思ってた。
そして、虚構だと思っていたものが現実にも存在すると分かった時、人はそれを実感できずに、体がふわふわしてしまうんだな、と思った。それは過去、一度だけ街中で芸能人とすれ違った時の感覚に近かった。
視界がチカチカと明滅する。その瞬間が来てしまう恐怖と不安と、それを搔き消すようにして渦を巻く「許せない」という言葉が、私の頭の中を支配していた。
「わたし、は……こんな気持ちになるならっ、香蓮とも由蘭とも、会いたくなかったっ……! 恋なんて知りたくなかったよっ、由蘭……っ!」
私は善良だった。
私は無害だった。
私は人に愛されていた。
私は、私のままでいたかった。
*
泣きそうに歪むひかりの顔を、私は遠のいていく意識の中で見上げていた。
香蓮が好きになった顔。そして私が好きになった顔。
そのひかりが選んだのは、香蓮だった――って、ことになるのかな。
そしたら、私の負けだ。
私は香蓮に負けたんだ。死してなお、香蓮はひかりの心を奪ったまま離さなかったんだ。
正直なところ、私はまだ死にたくないし、ひかりを犯罪者にもしたくない。
でも、きっとひかりの言う通りで、私がいなければひかりと香蓮は結ばれていた。それが正解だったんだ。
だから、これは香蓮の恋を阻み、香蓮からひかりを奪おうとした罰だ。恋する気持ちがどれだけ強く崇高かということを知らなかった、幼い私に対する罰。
香蓮が恋に命を捧げたのだから、私も同じように捧げるのが道理だ。私はこのまま、ひかりの手の中で眠っていくのがいい。
そうしていると、頭の中にこれまでの記憶がフラッシュバックしてくる。走馬灯って本当にあるんだ、と私は思った。
即ち、取り返せないことを省みながら眠っていくのが九品由蘭に相応しい最期である。
妹に執着し、その妹の好きな人に執着して、それを恋だなんて呼ぼうとする、私みたいな女には。
*
自分の生まれついての完全無欠さに、私は物心ついた頃から自覚的だった。
勉強も、運動も、作法も振る舞いも、常に求められた以上の成果を出せた。あらゆる行為や知識を、私は直感的に理解し、思うように出力することができる。周囲は私を神童と呼んだけれど、私にとっては当たり前のことで、特別なことではなかった。
他者から得られる評価を気にしたことはない。私にとっての興味関心はいつも、100点満点のものをどう120点にするかということだけ。必然的に、私が最も対話し、最も視線を向けるのは、他ならない自分自身だった。
そんな私が唯一関心を持てたのは、双子の妹の香連だった。香蓮は生まれたタイミングが違うだけの、顔も体もつくりの同じ存在。幼少期から他人は石ころ同然と思っていた私にとって、唯一鑑賞に堪えるのが香蓮だった。
けれど香蓮は私が持っていたものを母親の体の中に置いてきてしまった。愚鈍で、低能で、私が直感的にできることが何一つできない香連は、ただただ可哀想で、だからこそ興味深い存在だった。双子でこれだけ割り振られた能力に差が出るものなのかと、親に叱られ泣く香連を見ながらいつも不思議に思っていた。そんな香蓮のことを私はずっと見ていられた。私は叱られることも泣くこともなかったから、自分の泣いている顔が見られて面白かったのだ。私は歪んだ子供だった。
そういう歪みを満たす意味で、香蓮の存在は必要不可欠だった。私は年齢を重ねるにつれ、次第に香蓮を「不憫」ではなく「苛々と」見るようになった。私と同じ姿をしているのに、どうして同じことをちゃんとできないのか。私は香蓮を蔑んで嘲って、虐めて遊ぶのが好きになった。
それはいつしか私たちの姉妹関係の中心になった。私がやってみせて、香蓮ができなくて、私が詰って、香蓮が泣く。双子なんだから私と同じようにやれと散々虐げる。気持ちいいからそれを何度も繰り返す。双子として生まれたことのメリットを噛み締めながら、私はそれなりに楽しい幼少期を過ごした。
小学五年生の頃だっただろうか。香蓮もその頃には自我がしっかりとしてきて、周囲にも性格の違いを認識されるようになったり、姉妹で反発するようになったりした。
それまで私が香蓮に対して一方的にしてきたことに、香蓮は異を唱えるようになった。「どうして? 私は完璧なのに、同じ見た目で完璧じゃない香蓮が悪いんじゃない」と言うと、香蓮は目に涙をいっぱいに浮かべてこう言った。「じゃあ次のテストの結果で勝負して、私が勝ったら一生私の言いなりになれ」と。
私はなんて素敵な提案だろうと思った。なあなあでやってきたことを、契約することではっきりと権利にできる。私は喜んでその勝負に乗った。結果など火を見るより明らかだったからだ。
かくして香蓮を虐げる権利を公に手にした私は、いよいよもって完全無欠となった。香蓮も言い出した手前、自分から音を上げることもしないから、私の要求は私の思っただけエスカレートした。
「私のおまたをいじりなさい」
獲得した権利の最たるものであり、以後もその中核を成したのは、香蓮に対する性的行為の強要だった。私が想像する限り、最低最悪で、残酷で、ゆえに最も気持ちのいい権利の行使。頭脳明晰なだけ耳年増でもあった私は、身のうちに
最初、香蓮は
香蓮がそうしてでも私に愛を求めたのは言うまでもない。香蓮は――そして本当の意味では私も――親に愛されていなかったからだ。私たちは親から得るべき愛情を姉妹間でどうにかやりくりし、埋まらない心の穴を埋めていった。それがどれだけ歪んでいて、どれだけ
香蓮は奉仕をもって私から愛を得られる。私は香蓮を隷属させ気持ちよくなれる。昼は香蓮を「出来損ない」と責め、夜は「上手にできて偉い」と褒める。その充実したサイクルが姉妹の共依存を際限なく深めていく。
そうやって過ごしていれば、中学一年生になる頃にはもう、私たちは立派に同性を愛する自覚を得た少女になっていた。
ちょうどその頃からマンションに勤め始めた鼎にちょっかいをかけて、香連を苛々させて楽しんだりもした。その日の夜の奉仕はねちっこくて一生懸命で、日に日に上達していく性器いじりを褒めてあげると香連はツンとしながらも喜んだ。
始まりこそ私たちの上下関係を明確なものとするためだったこの時間は、気づけば姉妹で唯一対等でいられる時間になっていた。この
その盤石だったはずの円環に亀裂が走ったのは、中学三年生の夏だった。
「私、由蘭とは同じ高校に行かない」
きっかけは香蓮の宣言だった。宣告と言った方がいい。香蓮の目は本気で、言外に離別の意思を私に伝えていた。そこに迷いはないようだった。
私には理解ができなかった。香蓮がどうして自ら安寧を手放し、楽園を立ち去ろうとするのか。
「そんなの許さない。香蓮は永遠に私の言いなりになるって、あのとき約束したじゃない!」
纏まらない思考をそのままに、私は香蓮に感情をぶつけた。対する香蓮の表情は別人のように乾燥していた。
「いまさらそんな子供のころの話しないでよ」
いなすようなその態度が私は怖かった。今まで私に言われたことにいちいち一喜一憂していた香蓮の姿はそこにはもうなかった。
香蓮は持ってしまったのだ。「自分の意思」という、当時私がまだ知り得ず、そして知りたくてやまなかったその感情を。
私は実際焦っていた。同じ年ごろの子どもたちは皆、口を揃えて将来の夢を語るようになっていた。それを聞く大人たちも、そうすることが当たり前だという目をしていた。けれど、私のそれまでの人生にあったのは「いかに完璧に物事をこなすか」という指針だけで、そこに「私が何をしたいか」は一切含まれていない。そんな私には「自分の意思」がいつまで経っても宿らなかった。だから私はそれが欲しかった。
いつか自分にも萌すだろうと言い聞かせて、今日も来ない、明日は来るはず、と、不安に苛まれる日々が続いていた。いつまでたっても自分にだけ初潮が訪れないような疎外感の中で、私は自分が他人よりも劣っていないことを、香蓮との時間の中で確かめ、慰めていた。だから香蓮だけは私の懊悩を分かってくれていると思っていた。姉妹で愛を交換し合うような歪んだ関係性の中にも、そこには理解と受容があって、二人はなんだかんだ支え合って生きてきた同志であると思っていた。
それが私の独りよがりだったことに、私は香蓮に拒絶されることで初めて気づいたのだ。
香蓮が「自分の意思」を手にし、何かを悟ったようにして私から離れていこうとする、その瞬間に初めて。
「ねえお父さん、お母さん、香蓮ね、毎晩私のおまたいじってくるのよ」
「はぁ!? ちょっ、なに言ってんのよ由蘭……っ!」
「嘘じゃないの、録音もしてるのよ。ね、香蓮、私たち愛し合っているのよね」
「違うっ、誰が姉妹で愛し合うなんてことっ……! 違うのお母さん! 由蘭っ、最初からこうするつもりだったのかよっ! この性悪女がっ!」
「あなたが勝手に別の高校行くなんて言い出したからでしょ? 素直に親の言う通り進学して、私とずっと一緒にいればいいものを……っ!」
私が持っていないものを香蓮が持っている――その理不尽に耐えられなかった私は、自分から先に香蓮を切り捨てることにした。
得られない親からの愛情に未練がましくしがみついていた香蓮にとって、両親へのリークはアキレス腱を切断されることに等しかった。子供のように取っ組み合いの喧嘩をする私たち姉妹に、両親は何も言わず、何もせず、ただ顔を伏せるばかりだった。
そしてそのまま、私たちが高校に進学するタイミングで、両親は見計らったように私たちの前から姿を消した。香蓮のみならず私までもが不完全であったことがよほど耐えられなかったのだろう。母は申し訳程度に世話を焼きに戻って来ることはあっても、逐一香蓮と衝突しては、逃げるように私たちの知らない住処へと帰っていった。
私はせいせいした。家から邪魔な両親が消えて香蓮と二人きりになれたこと、そして何より香蓮が深く傷ついたことに、胸がすく思いだった。
両親が消えれば、香蓮が愛を求める先は必然的に私だけになるはず。そう思った私は、姉妹関係が元の形に戻ることを強くイメージしながら香蓮から声がかかるのを待った。
高校一年生の五月。それでも香蓮は私の
むしろより明確に袂を分かつかのようにして、髪を明るく染め、高校の制服を着崩し、ぶっきらぼうだった性格を人当たりのいいものに変えて、香蓮は外へと羽ばたいていった。それはまるで少女から女性へと羽化していくようだった。
そうやって香蓮が変化を果たした一方で、私はひとり片割れの温もりの残る繭の中で、この先何を養分として生きればいいかも分からないまま
そうあってなお変われない自分に絶望しながら、私は今ある価値に必死にしがみついた。親の期待通りに勉強をこなし、常に120%の結果を出し続けた。それでも私の欠けが埋まることはなかった。その欠けを埋めるのは香蓮の役割だったからだ。
「触りなさい、香蓮」
五月のある日の深夜、私は耐えきれず、香蓮の部屋でほどこしを命じた。
ベッドで横になっていた香蓮は、目の前でショーツをずり下ろした私と、寂しさに泣く私の局部とを一瞥して、布団をかぶり直すようにして背を向けた。
「……出てってよ」
「香蓮、触りなさい」
「出てってって言ってる」
「……お願い、触って」
私はもう、香蓮に対して強い姉ではいられなかった。必然的に、その声も弱くて小さなものになっていた。
「……もう、道具扱いはイヤなの」
「香蓮のこと、道具だなんて思ってないわ」
「命令していじらせてたのに、それのどこが道具じゃないって言えるの? ……由蘭に雑に扱われるの、もう耐えられないんだよ」
「そんな……私たち、それでもあの時間を大切にしてたじゃない。それとも全部私の勘違いだったって言うの?」
「だからッ!」
香蓮は布団を払いのけて立ち上がり、私を床に押し倒した。私は潤む瞳で香蓮を見つめた。
「……だからさ、いけないんだよ、こういうの……! 私が由蘭をどう思ってるかなんて、由蘭が一番分かってんじゃん……!」
「ええ、分かってる、分かってるわよ。ならどうしてそれに蓋をしてしまうの? どうして無理に私から離れようとするの?」
私は純粋な想いで香蓮の頬に触れようと手を伸ばした。
その手を、香蓮はそっと振り払い、思い詰めたように眉根を寄せて首を横に振った。
「それでもさ、私たち、姉妹なんだよ。私だって、この気持ちが間違いだなんて思いたくないよ。……それでも、これが現実なんだよ。愛し合っていい関係じゃ、ないんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は目の前が真っ白になった。
そう、私たちは実の姉妹だった。私から一番欠落していたのは、その「姉妹だからいけない」という感覚だった。
あの時、もし私が香蓮に奉仕を命令していなければ――いや、香蓮の言う通り、そもそも香蓮を道具扱いせずにもっと大切にしていれば。私たちは今頃、姉妹として真っ当にお互いを支え合っていたのかもしれない。
そう後悔しても、もう何もかもが遅かった。
「ねぇ、私たち、ちゃんとした姉妹に戻ろうよ。私も頑張ってるんだから、由蘭も頑張ってよ……」
香蓮は絞り出すようにそう言って、身を起こし、再び私に背を向けるようにしてベッドに身を横たえ、布団を頭までかぶった。私はなんとか上半身を起こすも、ただただ放心した心地でその様子を見ることしかできなかった。
「ええ……わかったわ……」
私は虚ろに呟いた。
あれだけ私の肌に近い存在だった香蓮が、今はどこまでも遠い。
それから私と香蓮は話さなくなった。普通の姉妹であるために。
今さら姉妹としての適切な距離なんて分からない。私たちにできることは、ただひたすらに互いと距離を取ることだけだった。
私は香蓮に言われた通りの正しい姉であろうとした。けれど「どうすればいいか」の答えがないことには、私は自分というものを簡単には動かすことができずにいた。
それに、香蓮に何か言いたくても、それでまた香蓮の心が離れてしまうと思うと、怖くて何も言えない。私は窒息しそうな二人の関係から逃げるようにして、その足を家の外に向けた。
「にゃあ~」
マンションの公園で野良猫を見かけた私は、うら寂しい心を埋めるようにして猫を構うようになった。猫はよかった。ツンとしていても、ふとした時に甘えた顔を覗かせて、心をくすぐられる。悪いと分かりつつも猫用おやつをあげたりしてるうち、猫はすっかり私に懐いて、それを拠り所に私の心は少しずつ前向きになっていった。
鼎と深く関わるようになったのもその頃だった。マンション周辺の野良猫を地域猫として世話するための手続きを鼎と進めるうち、私は少しずつ彼女に心を開くようになっていった。鼎はスマートで思いやりに溢れた女性だった。少し様子のおかしいところはあるけれど、包容力があって、一生懸命で――家族からは得られなかった温かな愛情を、私はいつしか彼女に感じるようになっていた。
香蓮と話さなくなって数か月が経った八月の頭のある日、私は鼎と公園のベンチで地域猫活動が成就したことについて語らっていた。そこで不意に、忘れて久しい笑顔を自分が浮かべていたことに気づいた瞬間、私は香蓮への依存から抜け出したことを悟った。そして同時に、そうさせてくれた鼎に愛しさが溢れて、私は彼女に親愛のキスをした。
鼎は私にとって自立した大人の女性のロールモデルだった。穏やかで、余裕があって、意思がある。鼎のそばにいると、自分もそういう意思ある存在になれた気がして、それも心地が好かった。そして鼎に心を寄せれば寄せるほど、私の中から香蓮の存在が希薄になっていって、この調子でいけば、香蓮とも適切な距離感で姉妹をすることができる――と、確信にも似た思いが私の中に芽生えていった。
けれど、そうなろうとする私を否定したのは、他でもない香蓮だった。
「香蓮っ!」
ぱぁん――と、マンションのラウンジいっぱいに響き渡るほどの力で、私は香蓮の頬を打った。
香蓮は鼎の頭に炭酸飲料をかけ、彼女が私からのキスを受け取ったことを散々詰っていた。私は、香蓮が自ら別離を宣告しておきながら今さらどうしてそんなことをするのか理解できなかったし、何より鼎のことを傷つけようとすることがただただ許せなかった。
ラウンジで鼎と気まずい別れ方をしたあと、私は香蓮の部屋に押し入り、本人に問いつめた。
「香蓮、貴女どういうつもりなの?」
言葉に怒りを滲ませてみても、香蓮はそっぽを向いたままそれを無視した。私は憤慨して香蓮の腕を掴み、明後日の方向を向く香蓮の顔を、強引にこちらに向かせようとした。
その刹那のことだった。
「んっ……!?」
腕を引き寄せられた勢いに任せ、香蓮は自暴自棄にぶつけるようなキスを私にした。
目をぎゅっと瞑って、そこから更に舌を突き入れようとしてくる。私はそれを受け入れられず、香蓮の体を引き剥がし、そして突き飛ばした。
「なっ……!? 姉妹でキスとか、何考えてるのよ……!」
「いった……。なにそれ? 自分のアソコを妹にいじらせてた奴が言える台詞なわけ?」
香蓮は床に尻もちをついたまま、私に厳しい眼差しを向けてそう言った。けれど私は怯まなかった。怯む理由がなかった。
「香蓮、前に自分の口で言ったわよね? 私たちは普通の姉妹になろうって。だからあの日、私を拒絶したのよね? それが何よ、私と鼎がいい感じになったからって、嫉妬して鼎に当たっているというわけ?」
「……っ」
「ねぇ、どうなの? どういうつもりなの? 私、香蓮に言われた通りの姉妹になろうって自分なりに考えて、鼎が自分を変えてくれそうと思って心を預けてキスして、それがどうしていけないというの!? 貴女だって毎晩とっかえひっかえ女の子をゲストルームに連れ込んでるクセに! 香蓮、答えて! 答えなさい!」
私がどれだけ言葉をぶつけても、香蓮はただ私を睨むばかりで、何も答えはしなかった。
それが幼少期の自分たちのようで、私は思い出すように香蓮に対して苛立ちを募らせた。その苛立ちといったら熾烈で、香蓮に対してびくびくしていた今日までの自分が急に馬鹿らしく思えてきてしまうほどだった。
そして、そうなることで私はいよいよ取り戻してしまうのだ。香蓮を虐げて満たされていたあの日の自分を。救いようのない劣った存在だと見下ろし、そんな子にはお似合いだと奉仕を強要することで自らの心を充足させていたあの頃の自分を。
「出来損ないの香蓮ごときが……それも一度、私を跳ねつけておいて、私を散々悩ませておいて……!」
自分だって都合よく歪な関係に浸っておいて、急に姉妹だからって一丁前に忌避感覚えて距離とって、それで私が別の女に目を向けたら執着して束縛して、私の大事な
私より馬鹿なクセに、私から逃げたクセに、私より先に「
「……いいわ、香蓮。貴女の言いなりになってあげる」
「え……?」
「その代わり、また私のココをほじって舐めて、愛しなさい。それができたら、香蓮の
私は笑顔を浮かべ、穿いていたショーツに指をかけてゆっくりと下ろし、スカートを捲り上げた。香蓮の視線が、露わになった私のそこに注がれる。
「悪いことじゃないでしょう? 貴女が自分で言ったことを自分で『間違いだった』と認めたら、またあの頃の関係に戻ってあげると言っているの。私が香蓮を従えて、香蓮が私に満たされる……あの頃の完成した関係に、ね」
それは永遠の隷属を約束させる契約。子供の頃に交わしたつまらない口約束とは違う、正真正銘の契約関係。
「……そんなこと、もう二度と受け入れない」
「そう。じゃあ鼎のモノになっちゃうわね? 心も体もあの人に捧げて、香蓮のことなんて少しも考えられなくなっちゃうね?」
「……っ、そっ、そんなの……っ!」
「じゃあ待ってるからね、今夜、私の部屋で。先約があってもダメよ。必ず来なさい――さもなくば」
私は部屋のローテーブルに腰を下ろし、閉じた足の隙間をゆっくりと広げていく。
反抗的な目をしてそれを見つめていた香蓮の顔が、私のすることに次第に狼狽して、苦悶して、それが気持ちよくて。
「私の大事なところ、香蓮以外の女の人に愛させちゃうからね? 香蓮が昔、一生懸命にしてくれたように、指で、舌で、優しく、揉み解すように――」
その日から、私たちはあの頃よりも一層冷たく、残酷に、歪んだ姉妹の形を成していった。
私は鼎との関係をちらつかせることで香蓮を揺さぶり続けた。香蓮はそんな私に抵抗するように女漁りを激しくした。
夜通し口汚く罵り合った。掴み合いの喧嘩を繰り返した。昨日受けた傷が痛むなら、今日それよりも大きな痛みを相手に与えようとした。
そうやって一年もの間、傷ついて、報復して、を繰り返して、繰り返して。そうまでしても折れないことに業を煮やして、限度が分からなくなって、どこまでも過熱していって、止まれなくて。
そうして高校二年生の夏、私たちの戦争は終わる。最初はちらつかせるだけに過ぎなかった抑止力の発射ボタンを、本当に押してしまうことによって。
「貴女がたくさんの女性と交わっているように、私にだってそうなれる人がいるのよ。ね、鼎――」
私は香蓮の目の前で鼎の唇を奪った。深く、濃密に、私たちの関係を誇示するようにして。
香蓮は糸が切れた人形のように地面にひれ伏した。香蓮をついに屈服させられた爽快さといったら筆舌に尽くしがたく、私は正しく心が充実した実感に満たされた。私の心の欠けは最初から香蓮の絶望と溝が合うようになっていて、つまりどうしたって香蓮にしか埋めることができないということを私は再認識した。
そして、長い長い忍耐のあとにようやく得られたカタルシスの膨大なことといったらなかった。それですっかり心が満ちて潤って、荒波立っていたその水面に凪の訪れた私は、目から光を失くした香蓮に局部をたっぷり愛撫させることで記念とした。そう、それは私たちが姉妹として正しい形を取り戻した姉妹記念日。なんでも言いつけ通りに動く香蓮はやっぱり可哀想で、かわいい私の妹だった。
これこそが私の知る香蓮で、これこそが私たち姉妹の愛。そうあることが私たちにとって最も自然で、かつ理想なのだという結論が私の中ではっきりと像を結び、入念なほどこしの果て、体の奥底で幸福が弾けた瞬間、それをもって私は香蓮を長い戦いから解放した。
もう誰も私たちの間に介入しない。もう意思のないことにも意思の萌さないことにも苦しまなくていい。私たちは私たちだけでいい。
打ちひしがれ、無気力になった香蓮の頭を膝枕の上で撫でながら、私は静かに子守唄を口ずさんだ。世間から隔絶された高層マンションの一室に、豊かでゆったりとした時間が流れていた。
ここまで回顧するに、私という人間はかくもおぞましいものだった。
しかし、私のおぞましさが真に
夏の低い青空は遠く過ぎ去り、
「名前は、ひかり! 上野毛ひかり!」
マンションのラウンジで、香蓮の口からその女性の名前が告げられたことに、私は面食らうも、それをおくびにも出さなかった。
女遊びの激しい香蓮の口から特定の女性の名前が語られたことはこれまで一度もなかった。それを香蓮の心が自分に向き続けていることのエビデンスとしていた私は、そうあることで姉妹関係の盤石さを疑わずにいられた。
ゆえに、香蓮が誰かの名前を口にすることが何を意味するかを私は察していた。閉じた
喉元過ぎれば熱さを忘れるのが愚かな人の常。私への反抗のつもりかは知れないが、しつこいようならまた理解させてやればいいと、私は自分に言い聞かせていた。
けれど、その心を守るための薄膜に、さくっ、と刃が突き立ったことを、私は遅れて知ることになる。
香蓮の瞳は燦然と「意思ある」輝きを放っていた。それは私の胸に深く深く刀身の煌めきを刺し込んで、鈍い痛みがそこからじわじわと広がっていって――。
「私、ひかりのことが好きかも……ううん、きっとこれが『好き』なんだ……!」
玄関先で、香蓮はそう口走りながら靴を脱ぎ捨て、自室のベッドに飛び込んだ。
半開きになった部屋の扉から見える、じたばたと子供のように足を躍らせる香蓮に、私は努めて冷静に声をかける。
「好き、って……昨日の今日のことでしょう?」
「ちゃんと話したのは今日が初めて! でも分かっちゃった! ひかりってばチョーぶっきらぼうで、チョーかわいいの! もう心がズキューンってなって、ヘンに納得しちゃった! ああー、これが『好き』なのかーって!」
「……そう。仲良くできるといいわね、また鼎をゲストルームの予約で困らせないようにね」
自分の胸に突き立てられた凶刃を目の当たりにしながら、その事実をにわかには受け入れられずにいた私は、香蓮の口から紡がれる「好き」の確からしさを
「ううん、ひかりとはそういう関係にはならない」
だから、香蓮のその回答は私を混乱させた。そういう関係にならないとは、つまりどういうことか?
「大事にしたいの、ひかりとの関係。私が初めて、ちゃんと『好き』になった子だから……」
「ちゃんと、好き……」
「うう~~、ひかりのことで頭がいっぱいだよぉ、テスト近いのに~~!」
――眩暈にも似た感覚が私を包み込んでいた。
思考が頭ごとゆらゆらと揺れて、考えがまとまらない。
その間も香蓮は脈絡なく語り続けた。「上野毛ひかり」なる、その「初恋」とする少女のことを。
ちゃんと『好き』? ちゃんと『好き』って、なに?
私は『好き』を知らない。言葉としては知っている。『好き』だと恋をして、恋をすると頭がそれでいっぱいになるという。
頭がいっぱいになるなんて、そんなことが本当にあるのだろうか? 私は常々懐疑的だった。私は鼎のことが好きだけれど、それで頭がいっぱいになるなんてことは起こらない。だから香蓮の言っていることはきっと嘘で、あるいはそう思いたくて言っているだけだ、そうに違いない。
そうだと頭では結論しているのに、私は今、そこに確信を得られずにいる。なぜか?
「ひかりから借りた消しゴムどうしよう〜? このまま記念にもらっちゃおうかなー、でもひかりそういうの気にしそうだしなー、あーん早くひかりに会いたい!」
プライドの高い香蓮の、たかが消しゴムひとつでこんなにも知能指数の下がる姿を、今まで見たことがなかったから。
馬鹿馬鹿しいのに、なぜか強く訴えかけられるものがあって。痛々しいのに、どこか羨んでしまうような気持ちがあって。
それでも私は認められなくて、香蓮の様子をしばらく観察した。飽き性を煮詰めてできた性格の香蓮の口から、それでも「ひかり」の単語が出ない日はなかった。
最早、豹変とも呼ぶべきその状態を示し続ける香蓮に対し、私はついに、その『好き』の実在性を認めざるを得なくなって。
「香蓮が、私の知らない気持ちを話してくるの……っ!」
私は鼎の胸に顔を埋めて叫んだ。私の知らない『好き』に香蓮が気づいて、私になどもう目もくれなくなっていることへの恐怖と悔しさを吐き出すようにして。
また香蓮だった。また香蓮が先に手にした。私が欲してやまないものを、私がどうしたって気づくことができないでいたその感情を。
私は鼎で『好き』を試した。鼎と肌を重ねるのは気持ちがよくて安心した。私は鼎とその行為をするたび満たされて、けれど部屋に帰れば決まって空虚さに包まれた。
「違う……何かが根本的に違う……! もしかして私は、行為自体が好きなのであって、鼎のことは『好き』ではないの……? そんなことない、鼎のことは好きよ、だけれど香蓮みたいにおかしくなれない……! どうすれば香蓮みたいに心から幸せそうな顔ができるの……? 鼎、お願い、もう一度私と……!」
私は半狂乱に鼎に迫り、鼎はそんな私に根気強く寄り添い続けた。鼎は強くて優しい女性だった。けれどきっと、それは私の知りたい『好き』ではなかった。
私は鼎に縋って泣いた。泣いて、泣き腫らして、その果てに思い至った。
香蓮を恋に狂わせた上野毛ひかりが、私も欲しい。
なら香蓮から上野毛ひかりを奪えばいい。
そうだ、私も上野毛ひかりのことが好きだ。
香蓮が好きになった人なら、双子の私にだって好きになれるはず。
いや、現に私はもうひかりが好きだった。紛れもない、これが私の『好き』なんだ――と。
「今日はひかりさんと何を話したの?」
「えー? なに話したっけなー、話しすぎて忘れちゃった。あ、忘れたっていうと、ひかりって全然人の話を覚えてなくてー」
私はもう、香蓮の目が自分に向いていないことに、そこまで心をざわつかせないでいられた。私にも『好き』な人ができたからだ。
だから私は自分の『好き』な人の情報を集めた。プロファイリングなら得意だったし、『好き』なのにその人のことを知らないのはおかしい。幸い、香蓮は何でも話してくれたから、香蓮伝いに『上野毛ひかり』が私の中で日に日にしっかりとした輪郭を持っていった。
「ひかりさんはあまり過去のことに関心がないのね?」
「うーん、というより、目の前のことにもあんまり興味がない感じ? スキンシップとかしてみても全然ダメで、冗談言ってもマジレスばっかしてくるし、でもそういうところがキュンなのー! 化粧してなくてもめっちゃかわいいし、でもそのかわいさに自分で気づいてないところもまたイイっていうか!」
「そそられるわね、そういうの。それで、好きな食べ物は? ファッションの傾向は? どういう時に笑ってくれるの? どういう時に『好き』にさせられる?」
私は上野毛ひかりの情報を貪った。そうすればするほどに上野毛ひかりは私の中で大きく、魅力的で、素敵な存在になっていった。
『上野毛ひかり』は純真だ。私のような、優れていることで孤独を強いられるような人間の心を癒す、純朴さを持った温かい少女だ。
『上野毛ひかり』は他人に興味がない。だからこそ孤独でもいられて、きっと二人きりの閉じた関係にも満足できる、私のパートナーになるに相応しい存在だ。
『上野毛ひかり』はかわいい。ちょっと野暮ったくて、ルックスがいいことにも自覚的じゃないから、きっと言えば幾らでも形を変えてくれる。私の所有欲を満たしてくれる。
『上野毛ひかり』はレズビアンだ。万が一ストレートでも、きっと私に沿って変わってくれる。きっと私を愛してくれる。そんな人と結ばれることはきっととても気持ちよくて、幸せで、私もそんな彼女を一生懸命愛してあげて――。
今、私の中には『好き』な人の姿がこんなにもはっきりと存在している。その幸せな浮遊感が私の欠けを塞いで、満たして、温かくして、十二月の寒さなんてもう感じられないくらい、私はすっかり熱に浮かされていた。
この理想の人といつか会って視線を交わす日のために、私は色んな方法で体のケアをした。高いトリートメントを買って髪をつやつやにした。高い入浴剤を使って肌をすべすべにした。慣れない筋トレをしてお腹を引き締めた。香蓮に流行のメイクを教わって一生懸命に練習をした。
さあ、これならいつでもひかりに会える、いつひかりが私の前に現れても大丈夫――そう思えるようになったのは、ちょうど年が明ける前の、クリスマスイブのことだった。
「あー、前髪ちゃんと決まってるかなぁ? ねぇ由蘭どう思うー?」
香蓮はひかりとクリスマスイブを過ごすとのことで、いつになくしっかりとメイクをし、買ったばかりの洋服に身を包んで、玄関の全身鏡を見て前髪をいじりながら情けない声をあげた。
「大丈夫よ、かわいくまとまってる。ね、それより、今日ひかりさんは家に来るのよね?」
「何度もしつこいって、流れがあるじゃん流れがー! そういう流れになったら呼ぶけど、由蘭いて気を遣わせたら悪いじゃん! ひかり、私以外とは固くなって話せないんだから」
「でも、挨拶くらいはしないと。香蓮の本命の子なんでしょう?」
「だからってどうして由蘭に会わせるの? ひかりは私のものなんだけど」
私の高ぶりを制するように、香蓮は冷たい口調で私にそう釘を刺した。香蓮には私の心など透けて見えていたのだと思う。あわよくば、ひかりと会って、挨拶して、それで――という邪な期待を、その日私は顔に浮かべていただろうから。
「あー、うそうそ。そんな怖い顔しないでって。連れてこれそうだったら連れてくるからさ。遅刻しちゃうからそろそろ行くね!」
「……ええ、お願いね。ひかりさんによろしく」
その言葉に香蓮は答えず、玄関の扉をガシャリと閉めて出て行った。孤独の冷たさが肌を刺すようで、玄関でひとり、私は腕を抱いた。
そうして、手持ち無沙汰にリビングのソファに腰かけ、何をするわけでもなく、ただ時計の針の動きを目で追った。午後三時を向いていた短針は、気づけば夜の十時を指していた。
『いつ帰ってくるの? ひかりさんは家に来るの?』
待てど暮らせどつかないメッセージへの既読に、私は孤独を深めた。私は頭の中にひかりを呼び起こし、暗いだけの東京の夜を煌びやかなものにしようと自分を慰めた。
「ただいまー」
午前零時を回る直前、そう言って香蓮はひとり帰宅を果たした。
寒かったのか、それとも火照っていたのか、香蓮の頬は朱に染まっていた。
「おかえりなさい」
「ういー、ちょっと電話してるから部屋こもるね」
香蓮はスマートフォンを握りしめたまま、靴を脱ぎ捨ててすぐ自分の部屋に駆け込み、カチャリと鍵をかけた。
私は香蓮の部屋の前に立って、ノックをするかしないか迷った姿勢のまま、中から漏れ聞こえてくる黄色い声を聞いた。
「はいはい、待たせてごめん。今家に着いたとこ。今日は家に誰もいないんだー、ひかり連れてきちゃえばよかったかな。え、寒いし眠いからイヤ? 冗談? ちょっとー、ひかりが言うと冗談に聞こえないんだけどー! あはは!」
織りなす言葉の流れの中で、私は察してしまう。香蓮が私の存在を秘匿しているだろうことを。
私は顔を真っ赤にして拳を震わせた。私がひとり寂しくひかりを求めている間、香蓮はひかりを独占して、楽しんで、『好き』を味わって――。
私は向かいの自室で布団を頭までかぶってベッドで丸まった。香蓮の楽しげな声が自分の耳に届かないように。
それでも通話は明け方まで続いて、ようやく終わったと思った香蓮の声は、その後、切なく激しい嬌声にすり変わって、私を永遠に苛んだ。
こんな気持ちになるなら、ひかりと香蓮が何をしていたかなんてもう知りたくない。聞きたくない。寝不足の頭で鬱っぽくなりながら私は確かにそう思っていたのに、数日後、元旦の日に私はクリスマスイブと同じことを繰り返してしまう。勝手に期待して、勝手に裏切られて、傷ついて、それでも欲して――。
ひかりが私の中で大きくなればなるほど、香蓮の口からひかりが語られることに私は耐えられなくなった。酸素を吸い過ぎると苦しくなるように、あれだけ求めていたひかりの情報は、今や私を自家中毒にさせる要素でしかない。私はひかりの話題が出そうになるとあからさまに話を遮って自室にこもるようになった。
香蓮は私のそんな様子を察して、それでもひかりの話を私に聞かせ続けた。それが私への復讐となることに香蓮は気づいていたのだろう。ひかりの話を純粋な気持ちで語っていた香蓮の目は、次第にそれを聞いて弱る私を憐れみ、愉しむようなものへと移り変わっていった。
臓腑を焼くような嫉妬と怒り、そしてそれと同じだけ肌身を覆いつくさんとする無力さに、私はこれほど打ちひしがれたことはなかった。なぜなら私にはひかりとの接点がなかったから。もし接点を得られるとすれば香蓮しかいない。香蓮が私に与えてくれない限り、私は永遠にひかりに触れることも、見ることもままならない。生殺与奪の権は香蓮の手のうちにあった。そのことがどうしようもなく悔しくて、叫び出しそうなほど辛くて、日に日に心が不安定になっていった。私は何をかなぐり捨ててでもひかりのことを手に入れたかった。
そして、気づけば、私は本当に独りになっていた。
今までの私なら孤独に耐えられないなんてことはなかった。自分の世界には自分さえいればいいと思って、当たり前のように自分ひとりの足で立つことができた。
なのに、香蓮に執着されることもなく、『好き』になった人に近づくことさえできない今、私にはそれが難しいことになってしまった。
こんなことになるなら私は『好き』を知りたくなかった。それまで『好き』の気持ちが私の世界を輝かせて、四肢に気血を送り込んでいたのに、それがなくなってしまっては、最早何を糧に生きていけばいいか分からない。
そうなってしまえばもう、身勝手に湧き上がってくる憎悪に身を任せるしか、私に進む道はなかった。
香蓮だけが『好き』を享受することが許せない。香蓮は私の
私は今こそ香蓮を完全に掌握しようと決意した。香蓮が私以外の女に執着することも、ひかりが香蓮のものになってしまうことも防げる、それは唯一にして最善の策だった。
もう普通の姉妹なんていらない。『好き』に心を振り回されたくない。私は私のままでいたい。
だから私は、香蓮を殺した。
『今夜、私のところに来てくれたら、貴女の気持ちに応えるわ』
バレンタインデーのあの日。一年に一度、誰かが誰かに思いを打ち明けることができる日。
香蓮を自分のものにしてしまうために、そしてひかりを誰のものにもさせないために、送ってはいけないそのメッセージを香蓮に送った。
そうして香蓮が死んだなら、私はそれで香蓮を殺したのだ。
私が香蓮を殺したのだ。
香蓮が死んで、私の心はぽっかりと穴が空いたようになった。
親から事故の連絡が来て、訳も分からず病院に連れられて、香蓮の死を告げられて。
死んだ実感もないまま通夜に出て、眠ったように目を閉じる香蓮の真っ白い顔を見て、そうしてなお実感の湧かない中で、香蓮の死の事実だけが実体なく宙を漂った。
こうなって初めて、一体私は何をして、何に囚われていたのだろうと冷静になった。それは使いすぎた玩具が壊れてしまった時の感覚にも似ていた。
そして、この期に及んで脳裏に浮かぶのがそんなイメージだったことに、私は自分という人間の本質的な冷たさを思い知った。私は最初から人と触れ合うべき人間ではなかったのだと、それで香蓮を振り回して殺してしまったのだと、ぼやけた喪失感の中に感傷が一滴、溶け入るように滲んで広がった。
そんな気持ちの中、私は通夜の場で初めて上野毛ひかりを見た。
ひかりの実物はかわいくて、やっぱり好きだと思ってしまった。それまでずっと好きだったけれど、初めて見たのがその日なら、一目惚れということになるのだろうか。
不思議な気持ちだった。それまで漠然と執着し崇めていた『好き』とは違う、すっと腑に落ちるような軽やかさをした好きが、ろうそくの火のように小さく灯って心の中を揺れていた。
あ、これが人を好きになるってことなんだ――と、私はひとり密やかに得心した。そして、ひかりに近づきたい、どうにかして話しかけたいと思えば思うほど、香蓮がどれだけひかりに正しく心奪われていたのかを実感した。同時に、それは香蓮に対する探究と贖罪の始まりとなった。
事故の直前、香蓮は一体どういう心の動きで私の元へと急いだのか。その今際の際に想いを馳せても、見えてくる映像は散り散りで纏まりがなく、そのどれもに確信を得ることはできなかった。双子のくせして香蓮のことを全く知らなかった自分に、私は内心苦笑した。
こうなったことで、私はようやく香蓮のことを知りたくなったのだ。皮肉なことだ。香蓮の死によって初めて意思を宿した私のしたいと思ったことが、あれだけ憎しみを向けていた香蓮を理解することだったのだから。尾山亜紗に手を引かれ通夜の場から去っていったひかりの背を追わなかったのは、香蓮に対するそういう義理立てが心のうちに生じていたからだった。
空いた心の穴を埋めるようにして、私は香蓮の最期の一日をシミュレートすることに、その解像度を上げることに脳のリソースの全てを費やした。そのために必要な知識や技能は何か、今すべきことは何かを思考し、大学で心理学を専攻することを目標に定めて、そこで適切な学を積むための努力に励んだ。
私は遠く離れてしまった香蓮の姿を追った。埋まらない心の欠けは、形を変えることなく香蓮の輪郭を維持していた。
時は過ぎ、高校を卒業して大学一年生になり、二月。
三回忌でひかりを再び目の当たりにした私はひどく高揚し、そして同じくらい緊張していた。香蓮を理解するための道すがら、香蓮から与えられたひかりの情報を総ざらいしてプロファイリングし直すうち、ひかりの人物像も香蓮と同じくらい鮮明になっていたからだ。
その頃には、香蓮がどうしようもなくひかりに惹きつけられていた理由を、私は頭で完全に理解できていた。人に興味がなさそうなのに変に懐っこいところだったり、意外と感情的な部分があったり、自分を簡単には曲げようとしない性分をしていたり。香蓮は、ひかりのそういうところに、優劣ではかる必要のない、掛け値なしに好き合える関係を築くことができると期待していたのだと思う。そしてそうなることで、どうしようもなく歪んでしまった自分の形も変えられるのではないか、とも。
けれど、真にひかりの魅力を理解したのは頭ではなく心の方だった。つまり論理的な部分ではなく、極めて直感的な部分で。
「重いでしょ、悪いわね」
帰り際、お寺の食事処で両親から引き菓子の入った重い紙袋を受け取ったひかりに、私はそう声をかけるだけで精一杯だった。
「いえ、大丈夫です」
その渾身の一言を、ひかりは淡々と突っぱねた。
あまりの素っ気なさに内心動揺しながらも、私は努めて冷静な表情を保ち、何とか言葉を継いだ。
「あなた、ひかりさんよね。今日は来てくれてありがとう」
「えっ? とんでもないです」
なお淡白な態度でひかりはそう返答した。そうして私を一瞥したきり、そそくさと靴を履いて踵を返し、食事処を後にしてしまった。
どうしてそんなにつれない態度をとるの? 香蓮と瓜二つの私を見て何とも思わないの? 私と香蓮の何が違うの? もう貴女の中で私たちは過去のものになってしまったの?
遠退いていく背中を見ながら、声なき声が幾つも胸中を去来した。それ自体にひどく落胆し、けれど会話できたことへの同じくらいの興奮もあり、私の心は今までにないほどに混迷を極めた。こんなことは人生で初めてだった。例の消しゴムの件で、香蓮もきっとこんな気持ちを味わったのかもしれない。あれが、上野毛ひかり。
もっと話したい。顔を見て視線を交わしたい。そう思っても、ひかりの押したら引いていく性格を思うと、臆病になって手が伸ばせない。結局私は何もできず、小さくなっていくひかりの姿を物欲しげな目をして眺めることしかできなかった。
「追いかけなくて、よろしいのですか?」
ぽつんとひとり佇む私の背中に、鼎のおずおずとした声が届いた。
「……できない。ひかりに、嫌われたくない……」
「左様でございますか。由蘭さまは、それほどまでにひかりさまのことがお好きなのですね」
「ええ。好き。私はひかりが好き。この好きはきっと、間違いないわ……」
私は鼎の方に目をやった。鼎は微笑みを湛え、慈しむような眼差しを私に注いでいた。
「ありがとうね、鼎。こんな私を見限らずにいてくれて」
「何をおっしゃいましょう、私はいつだって由蘭さまの味方ですよ。取り立てて何をしてきた訳でもないですけどね」
鼎はそう言って謙遜した。私はその言葉にゆっくりと首を横に振る。鼎は私を雨風から守り、迷う私に静かに寄り添い続けてくれた。それに鼎がいなければ、私は自分の好きに目を凝らすこともできなかったのだろうから。
「……あら? 由蘭さま、あれは……」
不意に、鼎がお寺の入り口の方向を見て、何かに気づいたように声を上げた。
私もその方向に目を細める。お寺の門のあたりに、黒いワンピースを着た女性が座り込んでいたのが見えた。
「大丈夫ですか?」
女性へと近づいていき、私はそう声をかけた。少ししてから、女性はようやく私に気づいたように顔を上げて、その蒼白の容貌を露わにした。
それが岡山茉季との出会いだった。茉季は焦点の定まらない瞳で、それでも呼吸を整え、胸に手を当て、これまであったことを私に話した。香蓮の友達だったこと、香蓮のことが好きだったこと、香蓮とひかりが接近したことで香蓮と疎遠になってしまったこと、香蓮が死んだことで生き方が分からなくなってしまったこと、その行き場のない怒りと悲しみをひかりにぶつけて困惑させてしまったこと、それを謝りたいと思っていること。
私たちは境内のベンチに座り、静かに言葉を交わした。茉季から聞かされる香蓮の印象は私の知るそれよりもずっと明朗かつ友好的で、興味深いのと同時に、香蓮が外でどういった人間関係を築いていたかへの理解にも繋がった。
それから、茉季はひかりの印象についても話し始めた。クラスで目立たない子だったこと、認めたくなかったが確かにかわいいと思っていたこと、香蓮がひかりのどういったところに惹かれたのかという推測、そして自分自身もひかりに惹かれているという告白――。
供されるひかりの情報の数々に対し、私はつい前のめりになっていた。そこに切迫した何かを感じ取ったのか、それとも私に何かを重ね見たのか、クマのひどい目元をふっと綻ばせて、茉季は私に告げた。
「あなたのこと、カレン、って呼ばせてもらってもいいですか? あと、カレンっぽく振舞ってもらってもいいですか? 気持ち悪いと思いますけど、その代わり、ひかりの情報は全部渡します。私、ストーカーなんです。これからひかりのことも毎日監視しちゃいます。悪いって思ってるけど、やめられないんです、見てなきゃ心配で、頭がおかしくなりそうなんです……じゃないと、カレンみたいに、私の前から突然いなくなっちゃう……!」
そう言う間にも呼吸を荒くし、瞳孔をかっと見開いていく茉季の背中を撫でながら、私はその提案を受け入れた。茉季の要求について珍妙だと一蹴することもできた。けれど彼女は香蓮の事故の通報者で、あの現場を目の当たりにしていることから、心に傷を負っているのも想像に容易い。
これ以上様子が酷くなる前に茉季をいったん安堵させたい理由もあったが、それ以上に、ひかりの情報がほぼ無償で手に入り、そしてあわよくばひかりと接点を得ることができるという、大きなメリットがその提案にはあった。当初は茉季を信用しきれず不安要素が多かったけれど、今にして思うと正解だった。茉季から逐一届く詳細すぎる情報の数々により、ひかりが誰と接触し、どこへ行って何を話したかを、私は手に取るように把握できた。いずれひかりが私のところに話を聞きに来るだろうという予測も、それらの情報があったからこそできたものだった。それでひかりと実際に接点を持つことができたし、尾山亜紗がクロだということにも気づけて、ああやって救いの手を差し伸べられたのだから、私は茉季に感謝しこそすれ、疎む筋合いなどひとつもないのだった。
茉季からの情報提供の見返りに、私は香蓮として茉季と短い通話をした。最初は香蓮になりきるなんて気持ち悪いと思っていた。時に「カレンはそんなこと言わない」と茉季に細かく指摘され、うんざりすることも少なくなかった。
けれどやっていくうち、私は次第に、私の知らないところで香蓮が何を思い、何を考え、何を優先して行動するのかを、机上の空論ではなく実感として、明瞭に頭の中に思い描けるようになっていった。そして、それはそのまま、あのバレンタインデーの日の夜に香蓮が何を思い、何を決断し、どうして私の元に向かったのか――そこに対して私が出した結論を、強く支持することに繋がった。
茉季と交流する中で得られた最たる気づきはそれだった。私は一体どれだけ香蓮に対して無理解だったのか。
その後悔を、届かないと知りながら、それでも香蓮に打ち明けたいと、私はそう思うようになっていた。
五月、ひかりが本当に家に来たあの日の前日。
深夜、夢見の悪さで目を覚ました私は、香蓮が死んでから一度も開け放つことのなかった香蓮の部屋に、そっと足を踏み入れた。
月の薄明かりの細い光がカーテンの隙間から差し込む埃臭い部屋で、写真の中の香蓮は笑っていた。その香蓮と、二年も経ってようやく、私は正面から向き合うことができた。
「明日、ひかりが来るかもしれない。ようやく会えるね、私、ひかりに」
私は静かに言葉を紡ぐ。香蓮は何も言わず、私の話を黙々と聞いていた。
「今、香蓮がひかりをどれだけ好きだったかが分かるの。私もひかりが好き。ひかりと話せないだけで胸が苦しくなるくらい好き。だから、香蓮には悪いけど、明日、私はひかりを自分のものにしちゃうかもしれない。ううん、きっとする」
香蓮はそれでも穏やかな笑みを絶やさない。私はそれが了解の意味かはかりかねて、確かめるように言葉を続けた。
「本当は貴女たちが結ばれるはずなのは分かってるの! それでももう、引き返せないの。好きになることを知ってしまったから。無知なままの自分では、もういられないから」
言葉にすることで、私は自分の負い目のようなものを直視してしまう。そう、心の奥底ではずっと、香蓮はひかりと成就するのが正解だと分かっていた。けれど、そこに横恋慕して、香蓮が死んだのをいいことに、香蓮が持っていた権利を自分のものにしようとしている自分がいる。
「……昔の、好きを知らない私なら、当たり前の顔をして貴女のものを剝奪したと思う。けれど今は、香蓮の気持ちが痛いほど分かる……! だから、自分のためだけに、この好きを使うことを、私はしない……」
それが果たして、貴女に対する罪滅ぼしになるかは分からない。貴女はその笑顔の裏で、今も私を深く憎悪しているかもしれない。それでも。
「ひかりは、まだ香蓮への思いにも無自覚なの。ひかりはあんな性格だからね、香蓮も苦労したと思う。だから、私が香蓮への気持ちごと、ひかりに自覚させてあげる。それであなたが少しでも浮かばれてくれたなら、私は……」
私は、嬉しい。
そう告げた私に、香蓮は何も言わない。肯定も否定もしない。ただ笑って、変わらない表情で私を見ているだけ。
だから、それを肯定しようとする力があったのなら、それこそがきっと私自身の意思だった。
「ひかりは、私のものにするね。香蓮がそうしたかった、その気持ちごと」
私は香蓮に初めて素直に話せたような気がした。
それは、ちょうど今みたいな夢心地の中で見た幻だった。
翌日、本当にひかりが家に来て、私はひかりに迫って、心の底から幸せなまぐわいをひかりと果たして。
好きがどこまでも高まって、それでもひかりが
私の中の
ああ、だからこそ、やっぱり私はひかりと結ばれなきゃいけない。結ばれたい。
それが、道半ばで去っていった
*
私は、そのまま由蘭を殺してしまうつもりだった。
何も考えられなかった。ただそうすることしかできない自分がいた。割れたランタンの光がぼうっと照らし出す
あったのは、ただ漠然とした「許せない」という強い思いだけ。
香蓮が死んだことが許せない。由蘭が香蓮を追いつめたことが許せない。亜紗が壊れてしまったことも、紀実加が私を傷つけたことも、希が、雅が、茉季が、私を通して香蓮を見ようとしてくることも。
そして何より、こうなってしまうまで何にも気づけなかった自分自身が、一番許せない。
だから、全部終わらせてしまいたかった。全部なかったことにして、私は元の形に戻りたかった。
由蘭を殺してしまえばそうなれるという妄執めいた確信が、私をそうさせていた。
「……っ!」
けれど、由蘭の手がゆっくりと伸びて、私の腕に触れた時。
全てを終わらせたかったはずの私は、握る手の力を緩めていた。
「ひか、り……」
目を閉じ、一度は死を受け入れようとしていた由蘭が、何かを思い出したように私を見ていた。
誹るでもなく。拒むでもなく。ただ静かに、私のことを見つめていた。
私は由蘭の首から手を離し、力なく項垂れた。
この期に及んで、由蘭の顔を、その潤む瞳を見て、私は思ってしまう。
「……やっぱり、殺せないよ……あなたがしたことは許せない、それなのに……ここにいてほしいって、思っちゃう……」
私のその告白に、由蘭は一度小さく息を吸ってから、口を開いた。
「私には、あなたに殺されるだけの理由があるわ。あなたが望めば受け入れようと思った。でも……」
由蘭は、項垂れる私の顔に恐る恐る手を伸ばし、少し迷うようにしたあと、そっと頬に触れた。
「せっかくひかりに触れられるのに、想いを伝えられるのに、それもできずに死んでしまうのは、あまりにも惜しいわ」
冷たいと思っていた由蘭の手は、温かかった。
「私は貴女が好きだから……ひかり」
「……勝手なこと、言わないで」
私は由蘭の手に自分の手を重ねた。そして思いの丈を目に、言葉に宿して、由蘭に浴びせた。
「こんなに、おかしくなるくらい、香蓮のことが好きだったの」
「……ええ」
「本当に好きだったの! でも好きだって気づく前に香蓮は死んじゃって、もう取り返しがつかないの!」
「うん」
「由蘭が香蓮をそそのかしたことも、そうなる前に私が気持ちを伝えてればよかったって思っても、全部遅いの! 全部変わっちゃって、戻ってこないの……!」
「そうね」
「由蘭のことが嫌いっ! 何考えてるか分からなくて、初めてちゃんと会ったかと思えば私とあんなことして……っ!」
「それは……」
「今だって香蓮の格好してわざわざ学校で待つなんてことして何のつもり!? さっきもそう、茉季を使って助けに来させて、自分の足は動かさない! 臆病者の頭でっかちで、肝心なことはなんにも喋らない! 思ってることがあればちゃんと話せばいいのに、ずっと受け身で、あげく抵抗もせず殺されようとしてっ!」
「本当に、その通りだと思うわ」
なおも淡々とした受け答えしか返さない由蘭に、私はカッとなって握りこぶしを振り上げる。
振り下ろそうとしたそれは、けれど私の心と相反するように力を失い、とん、と由蘭の胸に力なく落ちた。
「うざい、憎い、やっぱり嫌いだよ、由蘭…………でも」
「……うん」
「でも、憎いのと同じくらい、あなたにいなくなってほしくない……! 自分でも分からないの、あなたが香蓮と同じ形をしてるからなのか、それとも本当に、由蘭自身に惹かれてるからなのか……! 由蘭でもいいのかなとか、そんなの香蓮への裏切りだとか、そんなことで頭いっぱいになって嫌になるくらい……気づけばあなたのことを考えちゃうの、由蘭っ!」
吐露したことで、それまで必死に見ないようにしていた私の思いが、本当のものになってしまう。
それは受け入れようとしても受け入れられなかった、醜くて汚い、穢れた私の本性。
「香蓮が好きだと思ってる裏側で、由蘭も好きだと思っちゃうとか、おかしいでしょ……? 由蘭ともっと一緒にいたい、由蘭のことをもっと知りたい、あわよくばまた寝たいって思うなんて、許されないでしょ……? でもしょうがないじゃん、そう思っちゃうんだから! それが私なの、好きだった人に想いを打ち明けられなくて悲しくて、その悲しさを無知な顔して友達に、周囲の人間に、あなたにぶつけて心を埋めようとする、それがあなたたちの言う『上野毛ひかり』なの……!」
かわるがわる色んな女の目から映し出されることではっきりと形を持った、私の正体。
私は誰かに捻じ曲げられたんじゃない。私が捻じ曲げてきたんだ、みんなを、香蓮を。
「そうね、知ってる」
知りたくなかった真実を奥歯で噛み締め、苦渋の表情を浮かべているだろう私を見て、由蘭はそれでも変わらず微笑を浮かべて、私を真っ直ぐ見つめて。
「知ってる上で、そんな貴女が好きよ。私も……そして、香蓮も」
「えっ……」
そう言って、由蘭は私の両手を恋人つなぎに握った。
由蘭の体温と私の体温が混じる。期待と、恐怖と、安心と、好きが、手の中で混じってお互いの中に入っていく。
「あの子のことを理解しようと心理学を専攻した。大学でも家でも、毎日毎日頭を悩ませた。あの事故の日、香蓮が貴女と別れたあと、何を考えて私のところに来ようとしたのか、その解答を得るために」
「いやだ……っ、聞きたくない……!」
「今日まで、私は自分の出した解答に自信が持てなかった。それを今、確信をもって貴女に伝えられるわ。聞いて、ひかり」
それは私が一番知りたくて、一番知りたくなかったこと。香蓮の心が本当はどこにあったのかという答え合わせ。
どの答えになっても、私はきっと崩れてしまう。きっと本当に、香蓮とお別れになってしまう。
「香蓮は、どれだけ私に揺さぶられても、取り乱しても、私にはっきり伝えようとしたんだわ。『私にはひかりがいるから』――って」
私の中の香蓮が笑った。そして、椅子から立ち上がった音がした。
「いやだ……いやだよ、香蓮……っ」
「ひかり、ごめんなさい。私があんなことをしなければ、きっと香蓮は生きていて……っ」
「うっ、うう……っ!」
「貴女と、幸せになっていた……っ!」
「うっ、うううっ……! うわああああっ! うわぁぁぁぁぁんっ!!」
私は泣いた。由蘭も泣いた。
わんわんと、お通夜の時に流さなかった分まで、一生懸命に泣いた。
どれだけ涙が溢れても止まらない。それでも流して、流し続けて。
空っぽになった心に浮かび上がる言葉を、手探りで、ひとつひとつ紡いでいく。
「私は、私のままでいたかった。自分が自分じゃなくなっていくのが、怖かったよ。香蓮への気持ちに気づいて、もう取り戻せないことに絶望して、壊れちゃうんじゃないかって、怖かった……」
「……私も、怖かった。私は、香蓮の分の好きを、貴女に伝えなきゃって思ってた。だけどそれ以上に、私は私自身を貴女に受け入れてほしかった。でも、それを貴女が赦してくれるかは、分からなかったから」
「そっか。やっとあなたの気持ちが聞けた。……うん、それでも私は、由蘭にここにいてほしいよ。香蓮のことを覚えててくれる由蘭に……だから」
私はそこで言葉を切り、繋いでいた由蘭の手をそっと引き上げた。
そうして、上体を起こした由蘭の、泣き腫らした目を見つめて言う。
「おかしいかもしれないけど、私は、由蘭の中にいる香蓮ごと、あなたを好きでいたい。そのためなら、私は変わっていくから。どれだけ痛くても、怖くても、変わっていけるから」
こくり、と由蘭は頷く。ひと筋、またひと筋と頬に雫を伝わせて、何かから解き放たれたように破顔しながら。
その本当の由蘭と、私は初めてキスをする。
互いにどれだけ歪んでいても合致し求め合ってしまう、その悲哀と幸運を噛み締めるように、深く、深く。
「――ね、消しゴム、返すよ」
「いらない。あなたが持ってて。この先も、ずっと」
降りしきる雨の分まで涙したからだろうか。夜の帳を包んでいた雨音は今はなく。
教室の窓の外、払暁に白み始めた空が、私たち二人の姿を淡く照らしていた。
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