第十話 私とあなただけの世界 ―尾山亜紗―

 上野毛ひかりは、私の全て。

 私たち二人の世界は、決して誰にも壊させない。


 *


 強い雨が傘を打ちつけていた。

 私の背後で車のクラクションと鋭いブレーキ音が鳴り響き、続けて、鉄のへこむような大きく鈍い音がした。

 咄嗟に音の方向を振り返る。そしたら何かが飛んできて、跳ねて滑って、私の足元で静止した。それを私は思わず拾い上げた。

 スマートフォンだ。画面を真っ二つにするかのようにして入った大きなひびが、衝撃の大きさを物語っていた。

 甲高い悲鳴があがる。豪雨の中、見たことのある女子生徒が傘を投げ出して、あの名前を叫びながら駆けていく。

 それを見て、私はすぐさまその場から逃げ出した。

 私がここにいたことも、このスマートフォンの行方も、誰も知らない。誰にも知られてはいけない。

 特に、ひかりにだけは――絶対に。


 *


 降り出した強い雨音が部屋を包んでいた。

「……なんで、香蓮の携帯がここにあるの?」

 上野毛かみのげひかりは、雨音に掻き消されそうなほど小さく震えた声でそう言った。

 その手には、ピンクのケースに入ったスマートフォンが握りしめられている。私は動揺を抑え、冷静に玄関の扉を閉めて鍵をかけた。そしてひかりを怯えさせないように、いつもの声色を喉から絞りだした。

「えーっと、それにはね、深い事情があって」

「亜紗っ!」

 放たれたその声は、恐れと一緒に怒りの色を孕んでいた。

「っ、ねぇ、だからちゃんと話すって、怒らないでよ」

 私はスマートフォンが見られてしまったことよりも、ひかりが怒っていることの方が怖くて、手提げを玄関に置き捨ててひかりにすり寄っていった。

 ひかりは滅多に怒ることのない、穏やかな性格の女の子だ。

 そのひかりが今、私に向けて必死の形相で声を張り上げている。

「大丈夫だって、話せばわかるから……! ねぇ、そんな顔で見ないでよ、お願い……」

「じゃあちゃんと話して。私、本気だよ……! 亜紗が嘘ついてたら、すぐに分かるんだからねっ……!」

「ひっ、ひかり……っ」

 ひかりが私を睨んでいる。ひかりにとって私は大切な人なのに。なくてはならない存在のはずなのに。

 それだけあの女のスマートフォンが、あの女のことが大切なのか。あの女のスマートフォンがここにあるというだけで、そんなに怖い顔ができるのか。

 悲しくて、怖くて、悔しくて、私は両手で顔を覆ってしまう。立っていられなくて、ずるずると座り込んでしまう。

 私はただ、ひかりと楽しい毎日を送りたかっただけなのに。どうしてこうなってしまったんだろう。何が悪かったんだろう。

 ――そんなの理由は明白だ。

 全部、あの女が私たちの前に現れたせいだ。あの女がひかりの心を惑わせた。そして今でも、ひかりの心の椅子に居座り続けているからだ。私を足蹴にした時の、あの、足を深く組んで見下ろすような格好で。

「……したのに」

「えっ……」

「なんとかして追い出そうとしたのに」

「あ、亜紗……っ?」

 ひかりの左手の小指でリングが煌めいていた。きっとまだ間に合う。まだ遅くない。

 私とひかりの絆はこれくらいじゃ壊れない。そうなるようにやってきた。必死になってやってきた。だから、

「こうするしかなかったの。それが、ひかりと私の世界を守る、たった一つの方法だったから……!」

 私はそう言って、同じリングをはめた指の隙間から、ひかりのことをじっと見つめた。

 私はこれから告白する。私が今までどれだけひかりのことを思って、二人のために頑張ってきたかってことを。

 好きだよひかり。私の大好きなひかりなら、私の話をちゃんと聞いて、分かってくれるよね?

 ああ、そんな目を向けてくる今だって、ひかりのことが好きでたまらない――。


 *


 中学に上がるまでは、ひかりは特別仲がいいくらいの、ただの友達の一人だった。

 ひかりといると何故だかひどく満たされた。当時私は小学生で、その充実感の裏側にどんな理由があるかなんて考えもしなかった。

 ひかりはその頃から特別だった。ひかりは誰にもいい顔をしない。臆したり、媚びたりしない。それは私にだってそう。あのくらいの年齢になると大体の子がグループを組み出すのに、ひかりだけはそうしなかった。そうしなくても平気な顔で生きていた。

 一人ですっくと立っていられるひかりは眩しい存在だった。そんなひかりといると私は自分が特別に思えた。特別なひかりが私を見ていることが嬉しかった。

 けれど、ひかりの特別さに他の子はまだ気づいていないようだった。私だけがひかりの特別さに気づいていた。その時私は思ったのだ。私がこの子を見つけたのだと。そしてこのまま、誰もひかりの特別さに気づかなければいい――と。

 当時、人一倍勝ち気だった私はクラスの人気者で、フツーの友達ならいくらでもいた。だから私はそんな自分を満たしてくれる特別な友達がほしかった。ひかり以外にも私に特別さを感じさせてくれる子は何人かいた――紀実加とかがそうだ――けれど、結局、私にとって本当の特別はひかりただ一人だった。

 ひかりはずっと変わらなかった。ひかりだけが変わらず私の中で特別なままだった。


 中学に上がると、ひかりは私だけの特別ではなくなっていった。

 ひかりが他の子と楽しそうに話しているのを見るたび、胸がざわついた。端的に言ってひかりはモテていた。ひかりは人付き合いに積極的なわけじゃないのに、気づいたら周りに人がいた。その横顔は無垢で気取りがなくて、みんなそういうひかりの眩しさに徐々に気づき始めていた。

 私はそんな連中の都合のよさに苛立ちを募らせていった。ひかりの魅力は私だけのものであるべきだ。それに気づいて、あっ、と声を上げていいのは第一発見者である私だけだ。洒落っ気のないせいで隠れているけれど、よく見たら整っているその顔立ちも、他者に迎合せず一人でいられる強さも、そこから生まれる公平な眼差しも、全部私が見つけた私だけのもの。だから昨日の今日でひかりを見つけた気にならないでほしいし、それでいい気になってひかりに近づかないでほしかった。

 中学二年の秋、体育祭でフォークダンスがあって、音楽に合わせてひかりと踊った。ひかりが私に触れて、私を見て、安心したように笑ってくれるのが嬉しかった。

 その手が離れて、隣の女子に渡って、ひかりの笑顔が別の子に向く。――その瞬間、身の毛もよだつほどの黒い感情が私を支配した。

 ひかりの手が順繰り別の人間に渡っていくのがあまりにも許せなくて、私はフォークダンスが終わってすぐ、ひかりにきつく手を洗わせた。そして濡れたままのその手をぎゅっと握り締めて、ひかりの手に触れた最後の人間を私で更新した。

 その時に私は気づいてしまった。私にとって、ひかりはただの、特別仲のいい友達ではなかったのだということに。

 そう、こんなことで嫉妬してしまうほど、私はひかりのことを好きになっていた。


 もう誰にもひかりを触らせたくない。そう思った私は、その日からひかりを有象無象から遠ざけた。

 ひかりにぴったりくっついて、指一本挟まる隙間もないくらいバリアを張って、誰も立ち入れない鉄壁の親友コンビだと周囲に認めさせた。中学二年の冬には生徒会に立候補して、生徒会長にまでなって時代錯誤なフォークダンスを廃止させた。

 もう誰もひかりの魅力に気づくことがないよう、私は万難を排して二人だけの世界を構築していった。そうすればそうするほどにひかりの交友関係は閉塞していくのに、当のひかりはそんな状況を気にする素振りもなく、しまいには「仲のいい友達が一人いれば満足だよ」などと私に言って笑った。私の独占欲とは関係なしに、ひかりはそもそも多くの友人を欲していないようだった。

 ともすればひかりを孤立させかねないその行為に、良心の呵責を感じないわけではなかった。けれどひかりのその言葉を聞いて、私は徐々に自分の考えを正当化し、やがて嬉々としてひかりの対人能力の芽を摘むようになっていった。他者との接点を奪い、学校も余暇もあらゆる時間を私に収束させて、ひかりに訪れるはずだった起承転結の起をことごとく潰していった。ひかりは、自分がなかなかグループに馴染めないのは自分自身の能力の欠如のせいだと思っているけれど、実際のところは私の弛まぬ剪定のせいに違いなかった。

 それでもひかりは変わらず笑っていた。こんな嫉妬しいの私のことを、そうとも思わず受け入れてくれた。ひかりはやっぱり特別で、私はもっともっとひかりのことを大切にしようと思った。私だけのひかり。私だけの愛。たまに煙たく接されても、ぼーっとして話を聞いてもらえなくても、そこには確かな絆があった。

 そうやってひかりと笑い合う日々がこれからも続いていくことを、私は信じて疑わなかった。違う、何があっても私が・・続けていくんだと思った。

 ひかりが私だけのものになるなら、二人の関係が永遠のものとなるなら、何だってしてみせる。受験を控えた中学三年の夏、私は本気でそう胸に誓った。


 私たちは高校生になった。そこでも当たり前のように私たちの関係は続いた。

 偏差値の高いところに行きたいとか、どこの部活が強いところがいいとか、そんなこと私の頭には一個も入っていなかった。ひかりと同じ高校が私の志望校。ひかりとの関係を捨て置いて得られるものなんて、この世のどこにもなかった。

 高校に上がってからも、日ごとにひかりへの気持ちが大きくなっていくのを感じた。ひかりが私にとって特別な存在だったように、ある時から、私もひかりにとって同じくらい特別な存在でありたいと願うようになった。私はひかりのことで年々嫉妬深く、粘着質になっていったが、そんな自分に蓋をして、ひかり好みであろうカラっとした性格の女子になると決めた。ひかりの親友の尾山亜紗は、お調子者でサバサバとした口調の快活な女子高生。それでよかった。それがいい。ひかりが私を特別にしてくれるなら、本当の自分なんてどうでもよかった。

 幸いにも進学した高校に中学の顔見知りは一人もおらず、私たちの関係は依然として安泰なままだった。周囲に馴染む術を知らないひかりは私への依存を一層深め、クラスが違っても私が心配になるようなことは何も起こらなかった。登下校もお昼休みも放課後も、全てが二人きりの時間。土日になればお互いの家に入り浸って、動画を観て漫画を読んで、一緒にお風呂に入って一緒の布団で寝た。思春期の熱が暴走しそうになる瞬間は山ほどあったけれど、ひかりに幻滅されることが何より怖かった私は、気持ちを抑えてひかりの親友であり続けることを選んだ。今はそれでいい、でもいつかひかりが私の気持ちに気づいてくれた時には――そんな淡い期待を胸に抱きながら、私は完成された二人きりの世界に漫然と浸り続けた。

 だからいけなかったんだ。私が油断せずにひかりのそばについていれば、あんなことは起こらなかったのに。

「あっ! ……明日出す予定の課題、教室に置いてきちゃった。ちょっと今から取ってくる」

「私も行こうか?」

「いいって、ここまで来ちゃったし先に帰ってて。あ、でも一人で帰れるぅ?」

 高校二年の秋の、ある日の帰り道。

 ひかりは前の席の女子に消しゴムを貸した話を私にしていた。ひかりはぼーっとした性格の一方で神経質で考えすぎなところもあったから、たまにあるそういうエピソードの一つと思い、私は取り立ててその話にフォーカスしなかった。そして教室に忘れ物をしてしまった私は、大した心配もせず、ひかりを駅に置いて学校へと踵を返したんだ。

 学校へと引き返す道すがら、私は同じ学校の女子生徒とすれ違った。一瞬で印象に残るその横顔は、学年の女王と持て囃されている少女のものだった。いつも誰かしらに囲まれている人気者が、今日に限ってどうして一人で下校しているんだろう?

 その時感じた嫌な予感に、私は正直であるべきだった。

 標的に狙いを定めたような目をして、ローファーの踵を鳴らして真っ直ぐ歩くその女子生徒の名前は。

「九品さん……じゃなくて、ええっと、香蓮。そう、香蓮と昨日話してたの。駅の近くの公園でね、イチョウがすっごく黄色かった」

 翌日の登校中、ひかりは饒舌にその名を口にした。顔を見なくても声色で分かる。ひかりはふわふわと浮ついていた。

「へぇー。駅の近くにそんな場所があったんだ。それにしても未読スルーはひどくない? 私、ひかりがちゃんと家に着いたか心配だったんだからね」

「ごめんごめん、久しぶりに亜紗以外の人とたくさん喋ったから疲れちゃって」

「そう。それはよかったね」

「うん。今日も一緒に帰ろうって言われたから、そうするね。いいよね?」

 そう言って向けられた混じり気のない笑みに、私はいつもの尾山亜紗として言葉を返すことしかできなかった。

「もちろん。たまには私以外の人と喋って社交性を磨いてきなさい! うまく話せなくて泣きついてくるひかりが今から想像できちゃうけどね、あはは!」

 予想は大きく外れ、以来、ひかりは九品香蓮と過ごすことが多くなっていった。

 焦る気持ちがなかったと言えば嘘になる。だけど、今まで私はひかりから過度にコミュニケーションの機会を奪ってきた。その罪滅ぼしじゃないけれど、私はひかりを一週間、いや、もう数日だけ放っておくことにした。こういった突発的な友人関係のきざしは今までにも何度かあったけれど、その時もひかりは毎回私の元に帰ってきた。だから私はしばらく見ないフリをすることにした。

 ひかりと私の関係は誰がどう見ても盤石だった。私にとってひかりは唯一無二の存在で、ひかりにとっても私はかけがえのない存在だった。その時の私は、何も言わずにひかりを信頼することが絆の証明になると、ひたむきにそう信じて疑わなかった。

 今にして思えば、そう信じたかっただけだったんだろう。だって、私たちのこれまでの日々は光り輝いていた。思い返す全ての瞬間に弾けるような笑顔があった。私たちはお互いの心の中にフォトフレームを置いて、二人だけの写真をいつまでも大事に飾っていたはずだった。

 だから、このたった数日でそこに不可逆な罅が入ってしまったことを、私はどうしても受け入れることができなかった。

「で、この一週間、亜紗ちゃんを置いて九品香蓮につきっきりだったわけですが、どうですか? そろそろを上げるころかな?」

 私がそう聞いても、ひかりは曖昧に笑うばかりで何も答えてくれなかった。

 十一月中旬の日曜日、私はひかりの部屋にいた。何をするわけでもない。日曜日はそうすることが私たちの習慣ルールだった。

 ひかりが話を聞かないのはいつものことだけれど、その日、ひかりは明らかに別のことに気を取られているようだった。私はそんなひかりの様子が気になって、漫画を読むフリをして、ひかりの視線の先に目をやった。ひかりの手の中で、メッセージアプリの吹き出しが動いていた。

「ひかり?」

「ん? あっ、なに?」

「なにじゃなくて、どうなのって。九品香蓮とはうまくやってるの? ま、そんなことないだろうけど」

「香蓮? ああ、香蓮とは昨日遊んできた」

「えっ」

「今もメッセージでやりとりしてる。次の予定はいつにしようって。こんなに放課後も土日も埋まっちゃうことないよ、もう靴擦れとかひどくて」

 私は焼けつくような嫉妬で声を上げそうになった。けれどそうしたい自分をなんとか押し込めて、こんなのあくまで一過性のものだ、ひかりもこんなに楽しそうに笑ってるんだから、それを見守ってあげるのが私の役割じゃないか――そんな風に頭の中に言葉を並べ立てて、どうにか自分を律した。

 ひかりの話を聞いてあげよう。これまで縛りつけていた分、少しくらい楽しませてあげて、また私の元に帰ってきた時に「しょうがないなぁ」って笑ってあげよう。

 一度入ってしまった罅にそうやって目を逸らして、なんともない風を装って、ひかりに乾いた笑顔を向けた。

「ふーん、どんな子なの?」

「えーっと、スキンシップが激しくて、ちょっと恥ずかしいかな。昨日とか、ほっぺについたクレープの生クリームをぺろって舐めとられた。私をからかって遊ぶのが楽しいみたい」

「へぇ――」

 そう、つまりそれは、完全に私の油断だった。

 九品香蓮は、ひかりの魅力に気づいてしまった。そして恐らく、そいつは私と同類の――。


「九品香蓮、ちょっと来て」

 月曜日の昼休み。私はひかりとの昼食の時間を犠牲にして、購買でパンを物色していた九品香蓮を捕まえ、声をかけた。

「? いいよ」

 九品香蓮は私の誘いに対して不気味なほど従順だった。その怖いくらいの余裕に、私はまるで自分の方が悪事をはたらいているかのように思えてしまう。けれどそれこそが九品香蓮のやり口なのだ。あの対人不感症のひかりをああも篭絡できる女がその辺の凡百と同じ頭をしているわけがない。私たちの闘いはもう始まっていた。

 人気ひとけのない校舎裏まで歩いていき、私はそこで九品香蓮と対峙した。九品香蓮は頭に疑問符を浮かべたような澄まし顔で私を見ていた。そのふてぶてしい態度が気に入らず、私はいきなり語調を強めて言った。

「アンタさ。どういうつもりか知らないけど、ひかりにこれ以上つきまとわないでくれる?」

 言葉で九品香蓮に平手を打つ。私は自分が喧嘩腰なのを隠さずに九品香蓮へともう一歩迫った。

 九品香蓮は背が高いから、私に下から見上げられる格好だ。人間は下から迫ってくるものに対して本能的に恐怖するという。九品香蓮は変わらず涼しい顔をしていたが、それが崩れるのも時間の問題だろうと思っていた。

「つきまとう、ってどういうこと?」

 しかし、九品香蓮のその余裕に隙が生じることはなかった。私の敵意などとっくに気づいているだろうに、へらへらと笑ってまるで柳に風だ。

 けれどその両目は真っ直ぐ私のことを射抜いていた。それで私は気づいてしまう。九品香蓮は私の敵意を受け流そうとしているのではなく、「私が刃を抜いたら大変なことになるよ」と抑止の気配を私にぶつけているのだ。

 抑止力ってのは、自分の方が上に立っているという自覚があって初めて相手に提案できるものだ。殴り合いになったら私が勝っちゃうからやめてね、と思えるからそう言える。余裕でいられる。

 私はそれが気に入らなかった。

「誤魔化さないでよ。ハンパな気持ちでひかりに近づかないでって言ってんの」

「ハンパな気持ち。それってどんな気持ちなんだろう? もっと仲良くなりたいとか、そういう気持ち?」

 そう言って、ん? と九品香蓮は小首を傾げる。その小馬鹿にしたような態度が私の怒りに油を注いだ。

「マジでなんなの? アンタがどういうつもりでひかりに接してるのかは分かってんだからね、だからハンパな気持ちで近寄るなって言ってんのよこっちは!」

「あー、つまりー」

 九品香蓮は人差し指を唇に当てて、視線を斜め上にやった。そして、

「私がひかりを食べちゃうんじゃないかって心配で、ヤキモチやいてるんだ?」

 にこ――と、そう言って満面の笑みで私のことを見下ろした。

「……は?」

「そういうことでしょ? ハンパな気持ちで、って、好きでもないのに、とかそういう意味だよね? 違う?」

 子供に言い聞かせるようなふざけた口調に、私は震える手をぎゅっと握りしめた。これ以上は手が出てしまいそうだったけれど、そんなわけにはいかない。

 九品香蓮はそれを分かってる。私がこれ以上強く出れないことを知っている。なぜなら私たちの間にはひかりがいるから。ひかりは九品香蓮の言葉にきっと耳を貸す。もし、私が九品香蓮を殴った、なんてことがひかりに知れたら――。

「…………何よ、分かってるなら、最初からそう言いなさいよ」

「えー、だって、あなたがはっきりそう言ってくれないから」

 この状況は予想できていた。的中してほしくなかった最悪のパターンではあったけれど、九品香蓮は想像通りの最低な女だった。

 だから私はどれだけ辛酸を舐めることになっても、この女の調子に付き合い続けるしかない。ぐっと堪えて、嵐が通り過ぎるのを待つしか――。

「じゃあ、ひかりの古くからの親友ポジの尾山亜紗ちゃんには私の気持ちを教えてあげよう。大丈夫、私のは単純だよ」

「え……?」

 九品香蓮は唐突にそう言うと、カラっとした笑みを浮かべて眉を八の字に曲げた。

 そうして、こそこそ話をするように、私の耳元に顔を近づけて、

「私はひかりが大好き。だからあんたには絶対、ひかりを返さない」

 すっ――と、真っ直ぐ透き通るような声で、私にそう囁いた。

 ぞくぞくと体の内側が恐怖で震える。敵対宣言というよりも、それは明確な宣誓だった。

 私は多分、血の気が引いて真っ青な顔をしていたと思う。それを見て、九品香蓮は勝ち誇ったように目を細めて笑っていた。

 ――負けるな亜紗。ここで引いたら、九品香蓮に全部掠め取られてしまう。私がひかりを見つけたんだ、私がひかりを育てたんだ、私がひかりを守るんだ。私が――!

「あっ、じゃあさ」

 怒りのアクセルをベタ踏みしようとしていた私の出鼻を挫くようにして、九品香蓮は名案を思いついたという風に手を打った。

「私の家まで来てよ。それで土下座して?」

「……は? ……土下座?」

「そう、土下座。ひかりに近づかないでくださいーって、私にお願いするの」

 その単語の重さとは裏腹に、九品香蓮の口調と表情はまるで軽かった。そうするのが当たり前で、当然のことを言ったまでだ、という自信が九品香蓮の全身から滲み出ていた。

 私はわなわなと口を震わせて九品香蓮を見ていた。見ることしかできなかった。私が思っていた以上に、この女はぶっ壊れていた。

「アンタ……マジで……頭終わってる……」

「そうかもね? でも、ひかりを独占できるならなんだってするよ? だって私が初めてちゃんと好きになった人だもん。で、どうするの?」

「……今あったことを、私がひかりに話すってことは考えなかったの? それでアンタたちの関係が終わるかもってことは」

「終わらないよ」

 九品香蓮ははっきりとそう言い放った。そして堂々とした態度で、未来をも見抜くような目をして口を開いた。

「これは予言だけど、私とひかりはこの先、一生終わらない。だってひかりも私が好きだから。ひかりはまだ気づいてないみたいだけど、いつか絶対に気づく。そうなったら完全に私の勝ち。で、あなたの負け」

「……ふざけんな……」

「ふざけてないよ。だからあなたができるのは、ちょっとでも足掻くことなの。必死に私にお願いして、私の気が変わるのを待つしかないの。でも、チャンスがあるだけ幸せだと思わない? 土下座して気持ちが変わるなら安いものって思わない? 私が逆の立場ならやるよ、ひかりが好きだもん。大切だもん」

「そんなの、私の方がよっぽど……!」

「じゃあ来れるよね? 私、待ってるから。家の場所なんて教えないけど、尾行でもなんでもして頑張って突き止めてね」

 そう言ったきり、話はこれで終わりといわんばかりに九品香蓮は踵を返して去っていこうとする。その背中を、私は焦りに駆られるまま呼び止めた。

「ちょっ、そんなの勝手に……っ!」

「てかさ」

 九品香蓮は私に背を向けたまま立ち止まり、言った。その声は今までで一番冷淡に響いた。

「ひかりのこと放っといていいわけ? お昼の時間はあんたと食べるって言うから時間あげてるんだけど、いらないんならもらうよ?」

 振り返りざまにそう言われ、悔しいはずなのに、返せる言葉もなく私は閉口した。

 九品香蓮の目は私を責めるようだった。こんなことしてる場合なの? ――と。


 九品香蓮の言いなりになるつもりはなかった。けれど結果的に、私はあいつの挑発に乗ってしまうのだった。

 認めたくないけど、ひかりは九品香蓮のことを気に入っていた。いま九品香蓮のヤバさを伝えたところで、あの子はきっと聞かないだろう。

 それに、私は怖かった。ひかりがもし九品香蓮に根も葉もないことを吹き込まれたらと思うと、いても立ってもいられなかった。そうなってようやく私は思い知るのだ。九品香蓮の手に、私の命運がそのまま乗っかっているのかもしれない――と。

 冷たい汗が幾筋も背中を伝った。私はもしかしたら短絡的な行動に走ってしまったのかもしれない。勢いに任せて突っ走って、九品香蓮に弱点を晒してしまったのかもしれない。私の正解はただ黙ってひかりのそばにい続けることで、これはそうすることができなかった自分の弱さに対する罰なのかもしれない。

 私は中学生の頃の強い自分を思い出していた。罰なら甘んじて受け入れてやる。そうして耐えきった暁には、ひかりが私のそばできっと笑っている。

 文字通り地べたを這いつくばることになっても――最終的にひかりが私の元に帰ってきてくれるなら、私は何だってできる気がした。

「ひかりは、誰にもあげない……今に見てろよ、九品香蓮……」

 私は下校途中の九品香蓮を尾行した。泥臭いが、方法はこれしかない。手段なんて選んでいられない。

 九品香蓮は学校を出て、電車に乗って、何駅かしたところで下車して、どこかへと歩いていく。

 そうして、私はその場所に行き当たった。

「予備校……」

 九品香蓮はどこか悠々とした様子で予備校の門をくぐっていった。私の尾行に気づいて悦に入っているようで、それがまた歯痒かった。

 私は周辺を見回して、喫茶店のような、出入りを見張るのに適当な場所がないことに辟易とする。けれどそれさえひかりを取り戻すための試練なのだと思えば、私は気持ちを強く持つことができた。

 九品香蓮はいつ出てくるか分からない。何時間もいるかもしれないし、裏をかいてすぐ出てくるかもしれない。その瞬間を何かの間違いで見逃してしまったらと思うと、私は漫然とスマートフォンを眺めていることなどできなかった。ただじっと、建物の影に立って九品香蓮の姿を追った。

 そうして気づいた時には、辺りはすっかり暗くなっていた。午後四時を指していた時計の針は、もうすぐ夜の九時を回ろうとしていた。空腹や疲れは感じなかった。ただ、九品香蓮に対するドロドロとした感情だけが私を突き動かしていた。

「あっ……!」

 そしてついに、私の目が九品香蓮の輪郭を捉える。その隣に、他人にしては不自然に近い距離でもう一人、うちの高校とは別の制服を着た子がいた。姉妹だろうか、いや今はそんなことはどうでもいい。私は建物の影を飛び出し、その後ろ姿を追った。

 そこで、やられた――と歯噛みする。九品香蓮は、連れ立って歩く姉妹と思しき女子生徒と一緒に、黒塗りの車に乗り込んでしまう。

 九品香蓮はこうなることを知っていたから、尾行しろなどと私を煽り立てたのだ。私に無駄な努力をさせて、その心を折ろうとしているのだ。

 こんなところで負けたくない。けれど打つ手がない。悔しくて、情けなくて、じんわりと目頭に熱いものがこみ上げてきた時、私は視界の隅にひと筋の光を見た。

「……紀実加……!?」

 予備校の門から出てきたその女子生徒は、私の小中学校からの友人である、玉川たまがわ紀実加きみかだった。

 紀実加とは高校が別々で一度は疎遠になっていたが、最近また連絡を取るようになって、たまに遊んだりしている仲だ。

 そして紀実加は私のことが好きだ。紀実加が恋愛対象として私を見ていることに、私は前々から気づいていた。

 だから私は思った。これは使える――と。

「紀実加」

 私は紀実加の後を追い、偶然を装って駅で紀実加に声をかけた。

 振り返った紀実加の表情は明るかった。けれど私が話すうちに何かを察したのか、紀実加の表情は少しずつ固くなっていった。

 この時ほど紀実加に好かれていることが嬉しいと思ったことはない。私は肩の荷がすっと降りたような気持ちになって、紀実加に相談を持ちかけた。

「九品香蓮って子、知ってる?」

 私は優秀な駒を手に入れた。私のことが好きで、何でも話してくれて、ちょっとの無理も聞いてくれる頑張り屋の駒だ。

 紀実加は私に九品香蓮の情報を渡した。高校一年生の頃から同じ予備校に通っていること。顔見知り程度の関係だけど話せない仲でもないということ。九品由蘭という双子の姉がいること。あともう一つくらい何か核心的な情報を持っていたようだけど、紀実加はそれだけは私に喋らなかった。

 ほとんどの情報はどうでもいいものだった。私はただ、九品香蓮の住処すみかが分かればいい。だから紀実加にこうお願いした。

「ね、九品香蓮の家に遊びにいってくれない? そしたらアイツの居場所、手っ取り早く分かるしさ」

 紀実加は顔を伏せていた。けれどそれは否定の意味ではなく、やるかやらないかを迷っているようだった。

 だから、その優柔不断な紀実加の背中を、私が一番の友達として押してやる。

「ひかりがその女の手にかかっているの。ねぇ、こんなこと紀実加にしかお願いできないよ。頑張ってくれたら、紀実加のしたいこと、なんでも聞くから……ね?」

 紀実加の願いを叶えてあげる――頭のいい紀実加は、私のその言葉を文字通りに受け取ってくれた。

「うん……亜紗あなたのためなら、わたしは」

 そう言ってゆっくりと顔を上げて、紀実加は私と同じ目をして笑ってくれた。

 やっぱり紀実加は私の一番の友達だった。悪ガキだった小学生の頃を思い出す。友情を手っ取り早く深めるのに、罪の共有に勝るものはない――。


 一週間後の土曜日の夜、私は九品香蓮の住む高層マンションを見上げていた。

 紀実加は期待していた以上に動いてくれた。九品香蓮とどんな接点があったのかは知らないが、紀実加はすぐに遊びの約束を取りつけ、首尾よく家に招待してもらったらしい。とんとん拍子にほしい情報が集まったことに、私は改めて友達の価値を噛み締めた。紀実加とはファミレスでこの件について口外しないことを約束し合って、また落ち着いた頃に遊ぼう、と言って手を振って別れた。

 時刻は夜の八時を回っていた。紀実加から得た情報から、連日予備校通いの九品香蓮が家にいる可能性の高いタイミングが土曜日の午後八時だった。親御さんには眉をひそめられるだろうが、なりふり構ってなどいられない。

 ここからが本当の戦いだ。校舎裏でのやりとりが思い出されて、私はごくりと唾を飲んだ。いざマンションを目の前にして、怖くないと言えば嘘だった。けれど、頭の中にひかりの笑顔を思い浮かべると、自然と足は前に向いた。

 九品香蓮は悪魔だ。私の大切なひかりがあの悪魔に掠め取られるようなことがあってはならない。ひかりの美味しいところだけをつまみ食いされて、捨てられて、それでひかりが傷ついてみろ。私は自分を責めるだろう。ああ、やっぱりあの時どんなことをしてでもひかりを守っておくんだった――って。

 今がその時なんだ。今ひかりを守れるのは私だけなんだ。私は義憤に駆られるまま、マンションの奥の方にあるパネルで九品香蓮の家の部屋番号をプッシュした。

「はい、来訪者の方でしょうか?」

 出たのは落ち着いた女性の声だった。この手の高級マンションには専門の業者が入っていると聞いたことがあったので、私は怯まずに用件を伝えた。

「九品香蓮さんに会いに来ました。彼女の友達です」

「ご友人さま……ですか。承知しました、お名前を頂戴してもよろしいでしょうか?」

「尾山亜紗です」

「尾山さま、ですね。少々お待ちください」

 やりとりをしながら、なるほど、私はここで門前払いされるんだなと思った。予備校までわざわざ私に尾行させておいて、車で悠々と追跡から逃れるような性悪女だ。「そんな人知らない」と平気な顔をして嘘をついてくる可能性は多分にある。というかそのつもりだろう。

 その手には乗らない。そんな小細工、来ると分かっていればどうということはない。次会った時に、面と向かってその行為を非難すればいいだけだ。私はインターホンの前で続く言葉を待った。

「どうぞ、お通りください」

 だから、すんなり扉が開いたことに私は困惑した。そして、こうして困惑したことさえ九品香蓮の思う壺かもしれないと思うと、怒りではらわたが煮えくり返りそうだった。

「……はい」

 私は深呼吸をひとつ、ふたつして、努めて冷静な顔をしてマンションの扉をくぐった。

 大丈夫、ひかりのことを好きな私なら、なんだってできる。


 カウンターで記名を求められ、再び「少々お待ちください」と言われて待つこと十数分。

 鼎――難しい漢字の名札を着けたそのコンシェルジュの女性は、カウンター近くのソファに座る私の方をちらちらと見ながら、どこか落ち着きのない様子で電話口の向こうにへこへこと頭を下げていた。

「はい、はい……その、あくまでお話し合い……ですね? ご宿泊ではないということですね? ……確認しましたところ、一室空きがございましたので、そちらにご案内させていただきます……はい、失礼いたします」

 ようやく受話器が元の位置に戻されて、「お待たせしました」と声がかかる。いよいよかと立ち上がり、私はコンシェルジュのアテンドを受けてマンションの中を進んでいった。

「それでは、どうぞごゆっくりおくつろぎください」

 そうして案内されたのは、九品香蓮の家ではなく、マンション内に併設されたゲストルームと呼ばれる場所だった。

 広々としたリビングに、光り輝くシャンデリア――まるで高級ホテルの様相を呈したその一室で、私は九品香蓮が来るのを待った。いかにも座り心地の良さそうなソファや、シーツの皺のぴしっと伸びたベッドに腰かけるつもりはない。何かに身を預けたら、心が弱ってしまいそうだったから。

 そのまま私の心を挫くかのような無為な時間が過ぎた。三十分くらいだろうか。それが九品香蓮の悪意であることは分かっていた。だから私は負けじと直立不動で部屋の真ん中に立ち続けた。

 中空を睨み佇む私の背後で、ガタン、と玄関のドアが鳴った。

「おっ、まだいたか。やるねー」

 私の姿を見るや否や、九品香蓮はそう言って笑った。人を嘲るような不快な声色だった。

 短パンにTシャツ姿で現れたその女は、履いていたサンダルを玄関で適当に脱ぎ捨てると、勝手知ったる様子で冷蔵庫からペットボトルの水を取り出し、それをあおりながらベッドに座った。

「ずっと立ってたの? 強情だなー、とりあえず座りなよ」

「いい。くつろぎに来たんじゃないし」

「そう? まーいいけど。てかさ、よくここが分かったね。どうやったの?」

 九品香蓮はペットボトルをゆらゆらと揺らしながら興味深げにそう聞いた。その目には邪気がなくて、そのことが一層苛立ちを搔き立てる。

「あんたには関係ない」

「関係あるよー。ま、どうせ紀実加ちゃんでしょ?」

「……っ」

「おかしいなーと思ったんだよね。紀実加ちゃん、そういう子じゃないのに、やたら家に来たがるし。でも私、あの子に感謝してるから、呼んであげるのは全然よかったの。その子の好きな人があなただって分かって、今かなり残念な気持ちだけどね」

 顔では笑いながら、目はなじるように私を見ていた。それが気に入らなくて、私は九品香蓮を睨み返した。

「アンタにだけは言われたくない。ひかりのことを誑かしてるアンタには」

「だからさ、その自意識なに? どうして私がひかりを誑かしてる、ってなるの? 私とひかりはただの仲良し同士だけど?」

「ひかりはそんな子じゃない。人と触れ合って喜ぶとかないし、ましてやアンタみたいに髪色の明るい女とつるんでヘラヘラできる子じゃないの。私はアンタの百倍ひかりのことを見てきた。その私が言うんだから間違いないでしょ」

 九品香蓮は私のその言葉に目を僅かに見開いたあと、何かに合点がいったように小さく頷いた。

「ははっ、ヤバ……なるほどなー、だからひかりはああなんだ。はいはい、なるほど」

 そうして私の方を再び見た時、その目には光がなくなっていた。

「じゃあ、ますますあんたには返せないなぁ。私、ひかりが大切だから、ひかりを私のものにしようとか思わないようにしてたけど、私のものにしなきゃって今思った」

「なに言って……」

「とりあえずさぁ、御託並べるのはやることやってからにしない? 今の立場分かってんの?」

「っ……」

 言葉に詰まる。九品香蓮の言う通り、私に反論する権利など最初からない。

 当初の目的を私は思い出していた。私は九品香蓮にいに来たのだ。

 冷静になれ尾山亜紗。今の私にできることは、ひかりのためにできることは、この女に歯向かうことじゃない――。

「そうそう。それがあんたに今できること。はい、膝ついて、そのまま頭おろしてー」

 こんな、人としての尊厳を踏みにじられるような行為、一生に一度だってしたくない。それでも私は、

「ひかりのため……ひかりのため……!」

「ぶつぶつ言ってんなよ。さっさとしないと私の気持ちが変わっちゃうよ?」

「……っ」

 膝をつき、手をつき、そのまま前屈みになるようにして、足を深く組みこちらを見下ろす女に対し、私は尊厳を捧げた。

「……私、昔からずっとひかりのことが本気で好きなの。半端な気持ちなら手を引いてほしい」

 そう告げて、ただただ願うような気持ちで床に額を擦りつけたまま、屈辱に塗れた無音の時間に耐えた。

 私の想いは本物、ならきっと伝わるはずだと――。

 その希望的観測は、果たして嘲笑に消し飛んだ。

「ふふっ、あははっ、あはははははははっ! 本当にさ、どうかしてるよ尾山亜紗ちゃんっ! いやー、怖くて泣けてきた。ひかりも災難だぁ」

「……人が、土下座までしてるのよ……!」

「じゃあさ、三顧の礼! あと二回同じことができたら考えてあげる! ひかりのためならできるんでしょ? やってみせてよ、尾山亜紗」


 それからも私は九品香蓮に言われるまま頭を下げ続けた。

 けれど何度繰り返しても九品香蓮の態度は変わらなかった。それどころか要求はどんどんエスカレートし、土下座する私を九品香蓮は文字通り足蹴にした。

 九品香蓮は底なしだった。憐みや容赦といったものが微塵もない。ゲストルームで私は虫けらのように扱われ、尊厳を凌辱され、ゴミを見るような目で見下された。

 私は果敢に立ち向かい、降り注ぐ悪意に耐え続けたが、やがてそれにも限界が訪れた。

「私のココ、舐めて? ……できないよね? なら、もう終わり。来なくていいよ」

 この一部始終を、私は人づてに聞いた話としてひかりに伝えた。

「香蓮はそんな子じゃないよ」

 そう言って、ひかりは私を怪訝そうに見つめるだけだった。


 *


『見て、クリスマスツリー。こんな豪華で大きいの今まで見たことない。えだよね~』


『明治神宮に来てるんだけど、深夜なのにすごい人混みだよ~。あ、あけましておめでとう。亜紗と一緒じゃない年越しってなんか新鮮だな』


 心がはち切れそうな日々は続いた。

 ひかりと接点がなくなったわけじゃない。ひかりは相変わらず九品香蓮とべったりだったが、日曜日になれば私たちはひかりの家でいつものように過ごした。

 だからこそ辛かった。ひかりは会えば私に九品香蓮との出来事を語り、九品香蓮と撮った写真を見せ、部屋に九品香蓮との思い出を飾ってその内訳を私に説いた。

 今年のクリスマスも、初詣も、ひかりの隣にいたのは九品香蓮だった。私はいっそひかりを監禁できたらどれだけ楽になれるだろうと日々夢想して、哀れな自分を慰めて、自己嫌悪して、そのループの中に自分を閉じ込めた。

 これまでひかりには私しかいなかった。そのせいでひかりは人の気持ちが分からなかった。分かるのは、何を話してもうんうんと耳を傾けてくれる、サバサバとした友達の『尾山亜紗』の気持ちだけ。

 これこそが私が作り上げたひかりだった。私がひかりをそうしたのだから仕方がない。

 ただ、その一番美味しいところを収穫したのが、私ではなく九品香蓮だったのが許せない。

 私が見つけてじっくりと育ててきたひかり。大切なひかり。いつかたわわに実って、その果肉にそっと口づけする権利を持っているのは私なのに。

 このままじゃ本当にあの泥棒猫に掠め取られてしまう。そうなるくらいなら熟す前に刈り取ってしまいたい。

 ――そう思った私は、それを実行に移すことを考えた。

 ひかりに、私の本当の気持ちを伝えるんだ。


 皮肉なことに、ひかりに会えない時間が増えたことで、私は入念に準備することができた。

 バレンタインデーは、年に一度、女の子が勇気を持って気持ちを伝えることができる日。私もその恩恵にあずかるべく、世の女子たちが皆そうするように、手ずから想いのこもった甘いトリュフチョコレートを作った。

 そうなると会えない時間にも意味ができて、全てがサプライズのための準備期間として立ち上がってくる。好きの気持ちが届けばそれが一番だけど、ひかりが私を少しでも意識してくれれば目標は達成だ。ひかりは私を意識することで、九品香蓮との蜜月に罪悪感を覚えるに違いない。そうして色々と考えるのが面倒くさくなって、なんだかんだ私の元に帰ってくるのだ。今までの私たちがずっとそうだったように。

「亜紗、なんか機嫌よさそうだね」

「そう? なんでそう見えるのかなー?」

「よく眠れたとか?」

「おいおい、小学生じゃないんだから。まったく、相変わらず色気のないこと」

 その日、私はひかりといつも通り登校した。バッグの中に私の気持ちがそのまま入っているかと思うとなんだかちょっとドキドキして、ぶつかって壊れてしまうことのないように、今日だけはそれを大事に抱えた。

 同じくらい怖くもあったけれど、私たちの次のステージの第一歩と思えば気持ちは晴れやかだった。

 私とひかりはずっと一緒だった。だからこれからもきっと大丈夫。

「――アンタさえいなければ」

 その日の放課後、九品香蓮は謀ったようにひかりを図書室に閉じ込めた。

 間の悪いことにその日私は日直で、日誌を書いたりしているうちに大きく時間をロスしてしまっていた。時計を見ると午後四時だった。

『ひかり、まだ学校いる?』

『いるよ、図書室』

『図書室? なんで?』

『香蓮が図書委員会があるっていうから付き合ってる』

 ひかりと同じクラスじゃないことがこんなにも不利にはたらくなんて。九品香蓮は、私がひかりに触れる前にひかりを捕縛し、自らの結界の中にひかりを仕舞い込んでしまったのだ。

 そう、図書室はまさしく九品香蓮の結界だった。噂を集めていくうちに、九品香蓮のふしだらな行いの数々がその場所に刻まれていることを私は知った。

 そんな場所にひかりを連れ込む九品香蓮がいよいよ許せなくなって、私は図書室に殴り込みにいこうとした。

 そうして図書室の扉の前に立った時、聞こえてきた会話に、私は急ぐ足をぴたっと止めた。

「でさ、駅前に新しくできたスイーツのお店がさ、めっちゃかわいくて、ひかりと一緒に行きたいの」

「うん、私も香蓮と一緒に行きたい!」

 ひかりのその声を聞いてしまったが最後、私は図書室の扉に触れたくても触れられなくなった。

 だって、それは私が今まで聞いたことのない、弾むような女の子の声色だったから。

「……?」

 そんな私をさらに押し返そうとする気配を感じて、私は扉にはめられたガラス越しに図書室の受付を見た。下級生と思しき女子生徒が、笑顔のまま目を瞠って私を見て、唇の前に人さし指を立てている。まるで聖域を守る門番のようにして。

「……なんなんだ、みんなして……」

 こんなの絶対間違っている。

 こんな、九品香蓮を中心に回っているような世界、私は絶対に認めない。


 靴を履き、昇降口を出て少し離れたところで、私はひかりが出てくるのを待つことにした。午後五時を前にして薄暗く人気もないその場所は、私の知らない寂しさを湛えていた。

「アンタもカレンのこと待ってるの? 最近カレンにつきまとってるみたいだけど」

「は? アンタ誰?」

 唐突に声をかけてきたその女子生徒には見覚えがあった。確か、ひかりと同じクラスの。

「私は岡山おかやま茉季まき。ねぇ、カレン目当てなら邪魔だから消えてくれない? ハンパな気持ちで近づかないでほしいんだけど」

「九品香蓮になんて興味ないわよ」

 私は明後日の方向を見ながら壁に背をもたれた。はっきりと邪険にしたつもりだが、それでも茉季は私にじとっとした視線を送り続けてきた。

 九品香蓮に寄り着く蛾と同じに思われるのは癪だったので、私は茉季のことをぎっと睨み返した。

「……なに? 九品香蓮には興味がないって言ってるんだけど」

「えっ、もしかして上野毛ひかりの方? なんで? 上野毛ひかりの何がいいの? 教えてくれない? カレンはどうしてあの子のことを好きなの?」

 狂気的な視線と語調を躊躇なくぶつけてくる茉季に、私も同じくらいの感情をこめて「九品香蓮のどこがいいの?」と言い返してやろうとした。けれどそうする暇もないほどに茉季は次々とまくし立てた。

「カレンの一番は私だったのに、上野毛ひかりが出てきてから全部変わっちゃった。それまでもカレンは色んな子と関係を持ってたよ? でも私は全部許してた! それがカレンだから、みんなに愛されてみんなに愛を振りまくのがカレンだから! でも上野毛ひかりにだけは違うの! カレンはあの子だけを見て、あの子だけに一生懸命になってる! あんなの上野毛ひかりのことが好きだって言ってるようなもの……っ、うっ、おえっ……!」

「九品香蓮は……ひかりを本気で……? アンタも、そんなこと言うの?」

「みっ、認めたくない……! けどっ、うっ、おっ、おえっ、げほっ、ごほっ……!」

 それならいっそ、気まぐれにひかりを誑かしてくれていた方がよかった。

 本気で好きだとか、それじゃあまるで、私が九品香蓮に気持ちの大きさで負けたみたいじゃないか。

 九品香蓮は、実は正攻法でひかりに好意を伝えていて、私にはそれができなくて、変わっていく二人の関係を指を咥えて見ていることしかできなかった?

 違う、そんなはずない。だってそんなの、私が九品香蓮に嫉妬してるって、自分で認めるようなものじゃないか――!

「……っ、あっ、カレン……!」

 はしゃぐような声が茉季の口から上がった。私は伏せていた顔を上げた。

「ひかり……」

 ひかりは九品香蓮と共に現れた。私に気づかないのはおしゃべりに夢中だからだろうか。暗がりとはいえ、こんなにもすぐ近くに立っているというのに。

 しかし九品香蓮は私に気づいていた。一瞬だけこちらに一瞥をくれたあと、すぐに視線を戻してひかりと何事もなかったかのように会話を続ける。まるで私の存在など路傍の石のようだった。

 九品香蓮はマフラーを自分の首に巻いたあと、それをぼーっと眺めるひかりにマフラーの巻き方を教えた。ひかりはくすぐったそうにしつつもそれを受け入れて、お揃いだねと頷き合った。

 ひかりはお揃いなんて嫌いだと思ってた。じゃあ今見ているひかりは誰なんだろう。あんなにも一生懸命に人の目を見て喋るひかり、私は知らない。

「……そうか、あれは私の知らないひかりだ」

 口から出た言葉が耳から頭に戻っていく。私が私に言い聞かせる。そう、ひかりは今、ひかりじゃない。あれは九品香蓮に悪い影響を受けた、気がおかしくなっちゃったひかりだ。全部、九品香蓮が悪い。ひかりが私を大事にしないのも、ひかりが九品香蓮とばかり思い出を作ろうとするのも、全部全部。

 なら私は九品香蓮を今すぐ突き飛ばせばよかったのに、私にはそれができなかった。どうして? そんなこと考えなければいいのに、私はすぐにその原理に気づいてしまう。そして襲い来る寒さに自分の身を抱いた。

 ――ひかりが九品香蓮の味方をするかもしれない。ひかりが私を敵視するかもしれない。そうなったらどうしよう、怖い、こわいこわい、こわい……!

「あっ、カレン行っちゃう、追いかけないと!」

 ひかりと九品香蓮が歩き出したのを見て、茉季はその後ろ姿を追っていった。私はそんな茉季の背中を見て、その場に足が縫い止められたようになってしまう。

 最初、どうしてこの女は直接九品香蓮に話しかけないのだろうと疑問だった。でも今なら分かる。茉季は九品香蓮に拒絶されるのが怖い。近づくな、もう要らない、って言われたらと思うと怖くて、耐えられなくて――だからそうするストーカーしか道がない。

 私は茉季と同じになりたくない。大好きな人の反応が怖くて手も伸ばせないような惨めな女に落ちぶれたくない。だからと言って、入ってしまった小さな亀裂をそれと思わずに触れて、それがもし取り返しのつかない大きな罅を招いてしまったらと思うと、とても怖くて触れられない、手を伸ばせない……!

 でも、今ここでその背中に手を伸ばさなければ、私とひかりの間に本当の距離が生まれてしまう気がして、それが何より一番怖くて、私は。

「大丈夫、きっとまだ、大丈夫……!」

 いつでもその背中に触れられる距離に、自分を置けばいいことにした。それが結局、茉季と同じことストーカーだと分かっていても。


 学校から駅までその背を追い、駅のホームで二人を見失わないようにしながら同じ車両の端に乗った。

 私のこの行動はあくまで九品香蓮がひかりから剝がれるまでの期限つき。なぜなら九品香蓮の家の最寄りは私たちの駅より数駅先だから。九品香蓮と別れたあと、私は偶然を装ってひかりと合流して、そこでようやく私はチョコをひかりに渡す。そうなったら私の勝ちだ。

 けれど思い通りにはならなかった。九品香蓮は狸寝入りでひかりの肩を借り、私たちの最寄り駅が近づくとその目を開いて、寝ぼけた風を装いつつまだ遊び足りないとかわい子ぶった素振りでひかりの背を押し、そのまま電車を降りた。何が何でもひかりを離さないという意思がそこにはあった。

 歯嚙みしながら私も下車し、エスカレーターを楽しそうに駆け上がっていくその後を追う。そうして入っていったファミレスの近くで、二人が出てくるのを待った。

 ファミレスは地上階にあり、ガラス張りになっていたので、窓際のソファ席に座った二人の様子がよく見えた。二人はドリンクバーのジュースを飲みながらポテトをつまみ、お喋りに花を咲かせていた。やがて九品香蓮がお手洗いに立ち、席にはひかり一人だけになったので、私はメッセージアプリを開いて短文を送りつけようとした。

「……やめよう、どうせご飯が終わったら解散するんだ、そこでひかりに近づけばいい」

 そう独りごちて、私はスマートフォンを制服のポケットに仕舞った。私の目には、微笑むひかりの横顔が映っていた。

「ん……?」

 九品香蓮の異変に気づいたのは、彼女がお手洗いから出てきた時だった。

 九品香蓮はひかりのいる座席にはすぐに戻らず、お手洗い横の窓際に立って、落ち着きなくこちらをきょろきょろと見た。尾行を悟られたかと思い身構えたが、九品香蓮の視線はその手に握ったスマートフォンに注がれていて、私は緊張を徐々に解いていった。

「どうした……九品香蓮……」

 様子が明らかにおかしい。前髪をくしゃくしゃとかき上げたかと思えば、スマートフォンを両手で握ってタップして、しばらくしてまた落ち着きなく前髪をかき上げる。それを九品香蓮は何度か繰り返した。

「……誰かに、メッセージを送ろうとしている……?」

 実際にそこで何が起こっていたかは分からない。ただ、お手洗いに行く前と行った後とで、九品香蓮の纏う雰囲気には明確な差が生じていた。

 私が九品香蓮の何を知っているわけでもない。だからそれは単なる思い過ごしの可能性もあった。現に、注視しているうち、九品香蓮はすっと元の様子に戻っていった。そのまま軽い足取りでひかりのいる席に戻っていき、ひかりに明るい表情を見せた。私はまるで幻でも見たような気持ちだった。

 そうしてからすぐ、二人は席を立ってファミレスを出て、また別の場所に向かっていった。ファミレスに入ってまだ数十分と経っていないのにも関わらずだ。だから私にはそれが、九品香蓮が何かを吹っ切ろうとする行為のように思えた。

 私は九品香蓮にひかりを拘束され続けることにもっと悔しがってもよかったはずだった。けれど今、私の頭の中ではもっと別の感情が渦巻いていた。

 九品香蓮は完全無欠じゃなかった。何か大きなことに悩み苦しんでいて、そこに抗いようのない恐怖を感じている――それが嬉しい!

「……なら、もっと苦しめ。私を苦しめた分も、もっと、もっと……!」


「ひかりのことなら誰よりもよく知ってるから」

 カラオケボックスで九品香蓮がひかりにそう嘯いているのを壁越しに聞いて、私はいよいよ九品香蓮に殺意を抱いた。

 その綺麗に整った顔を歪めてやりたい。そうするにはどうすればいいか、どうやったらさっきみたいに髪をかき上げて狼狽うろたえてくれるのか、私の頭はその方法を考えることばかりに使われた。

 そうしているうちに二十三時になって、九品香蓮とひかりがカラオケボックスから出てきた。会計を済ませた二人は、雨が降っていることに何やかんやと言葉を交わして、ひかりが折り畳み傘を九品香蓮に渡したのを最後に、ようやく離れ離れになった。

 私は今だと思い九品香蓮を追った。ようやくこの機会が来た、と胸を躍らせながら。

「どこに行くの? 九品香蓮」

 冷たい雨の下、私は持っていた折り畳み傘も差さずに九品香蓮の背中を呼び止めた。

 九品香蓮は歩みを止めて、私に対して半身に振り向いた。その目は不機嫌そうに細められている。

「あんた、どういうつもり? ストーカーとか気色悪いんだけど。……じゃ」

 九品香蓮はそれだけ言って踵を返そうとした。何か急いでいるような、私から一秒でも早く離れたいという意思を感じた。

 私はそこにつけ入った。

「あれあれ? 人を嬲ることに一家言ある九品香蓮さまが、その程度で終わりなの? 期待外れだなぁ」

「うるさいな……あんたに構ってる暇はないの」

「急いでます? この時間に? なに、もしかして好きな人に呼び出されでもした?」

「私の好きな人はひかりよ。そう、私はひかりが好き……なのに、私は……」

 九品香蓮はスマートフォンを片手に握りしめ、ぶつぶつとうわごとのように呟いた。

 私はその様子を見て楽しくなってしまう。九品香蓮のその弱った姿を見てひどく高揚してしまう。

「ねぇ、どうしたのよ九品香蓮。あの時の威勢はどこにいったの? 何がつらくてそんな顔してるの? ねえどうして?」

 今まで言葉が届かなかった人に、言葉が届くことのなんと清々しいことだろう。私はこれまで抑え込んできたぶんの感情を全て言葉に乗せてぶつけた。

「ねえなんで焦ってるの? 急がなきゃいけない理由って何? どうやったらファミレスであんなに動揺できるの? アンタがそうまでして大事に抱え続けてる弱点って何? 食物連鎖の頂点に立ってるアンタがそうまでして苦しむ理由ってなにっ? 教えてよ~九品香蓮っ!」

「うるさいなぁっ! ああもう、あんたのせいで日付が変わっちゃう……!」

 私は強引に会話を打ち切ろうとした九品香蓮の腕を握った。それを見る九品香蓮の目は確かに恐怖を孕んでいて、私は胸がすく思いだった。

「日付が変わると困るのぉ? なんか条件でも出されたぁ?」

「黙れって! 触んな! 死ね!」

 九品香蓮は私の腕を振り払って、渾身の力で私の体を突き飛ばした。その力の大きさがそれだけ余裕のなさを表しているようで、私は冷たいコンクリートに身を打ちつけられながら、心は熱いままだった。

「痛った……あは、傷残った、これでちゃんと証拠つきでひかりに話せる……ふ、ふふふ!」

「尾山亜紗、お前ほんとに終わってるよ……! 校舎裏に呼び出された時も思ったけどさ、お前が来るべきなのはこっちじゃないだろ! ひかりのことが本当に大切だったらどうしてひかりと向き合わないんだよ! 好きなんでしょ? 大切なんでしょ? だったらどうしてそれを伝えないんだよ!!」

「……え、なにそれ、アンタそれ誰に言ってるの?」

「お前絶対に破滅するよ。私は自分がまともな死に方しないだろうとは思う。でもお前は私以上に苦しんで死ぬよ。ゼッタイに」

「は? じゃあさっさとまともじゃなく死ねよ。とっとと死んで、私にこれ以上不快な思いをさせんじゃねーよ! 死ね! そんで一生私たちに近づくな!」

 九品香蓮はそれ以上私に言葉を返さず、忌々しげにこちらを見下ろしてから踵を返して駆け出した。

 そのスカした顔面にようやくパンチを入れられた気がして最高だった。また、今日あったことで今後、九品香蓮に揺さぶりをかけられるかもと思うと、脳に甘美な味わいが広がって、それだけで私の顔はほころんだ。

 私は達成感を噛み締めながらゆっくりと立ち上がり、制服についた水滴を適当に払った。そしてカバンの中から折り畳み傘を取り出し、それをばさっと勢いよく広げて踵を返した。

「はぁ、九品香蓮、早く死なねーかな」

 そう呟いた時のことだった。

 背後で車のクラクションがけたたましく響き渡り、ゴン――と、鉄のへこむような鈍い音がした。

「え?」

 そう言って振り返った私の足元に、カラカラと何かが滑り込んできた。それは私がさっきまで目にしていた、九品香蓮のスマートフォンだった。

 私はスマートフォンが飛んできた先を見た。道路の中腹、そこにはハンドルを急いで切ったような妙な角度で停止するトラックと、その前方で倒れ込む、制服姿の女子生徒の姿があった。ひしゃげたヘッドライトに照らされて横たわるその姿は、まるでスポットライトを浴びているかのようで、私はすぐにはそれを現実のことだと認識できなかった。

「カレン! カレンっ! ――あああっ……! 救急車、救急車……っ!」

 どこからともなく飛び出してきた岡山茉季が、その制服姿の少女の名前を必死になって呼んでいた。

 ――カレン? 九品香蓮?

「……っ!!」

 私はようやく状況を理解した。咄嗟に私は九品香蓮のスマートフォンを拾い上げ、その場から逃げ出した。

 理屈や打算でそうしたわけじゃない。私はその時、ただそうするのが正解だと思ってそうした。体がそうしろと言って、頭が真っ白になって、ひたすら私は走った。

 急なことに混乱して。そもそも私には関係ない。私はあの場に居合わせただけ。――そうやって自分に都合のいい言い訳を用意して、取り返しのつかないことをしてしまったと思おうとする自分を、私は必死に抑え込んだ。

 私には引き返すことだってできた。でもそうしなかったのは、私は本当に、九品香蓮に死んでほしかったからだ。

 だって、こんなに都合のいいことはない。死んでほしい人がまさか事故で死んでくれるなんて、一番丸く収まる方法じゃないか……!

「……このスマホは、拾っただけ……そう、知らない誰かのを拾っただけ! それに私は、事故の瞬間を見ていない……! 突然のことで混乱してたし、通報なら茉季がしてたし、だから、もし死んじゃっても大丈夫だよね……! 私には関係ない……そう、関係ない……!」

 熱に浮かされるまま私は走った。遠くから聞こえてくるサイレンの音を、いつも通り環境音の一つとして聞いた。息が上がって、疲れてきて、そしたら本当に他人事のように思えてきて、私は走る勢いを緩めていった。

 それでもまだ頭はぐちゃぐちゃだった。私は一刻も早く家に帰って落ち着きたくて、自宅の方向に歩みを進めていった。

「あ……」

 そうして、見間違えるはずもないその人の後ろ姿を、私は家路の最中に見る。

 冷たい雨の降りしきる中、ひかりは上機嫌に腕を広げて、雨に打たれるまま歩いていた。

 私は息を整えた。いつも通りの『尾山亜紗』を呼び出して、いつも通りにその背中に声をかける。あんなことがあったのに、この瞬間、自分でも驚くほど頭の中は冴え冴えとしていた。

「ひかり」

 私は九品香蓮のスマートフォンを制服のポケットに押し込み、ひかりに傘を差し出した。ひかりは私を見てにこっと笑った。そして今日あった幸せな時間を、私に包み隠さず語った。

 二人で入る傘の下、ぐちゃぐちゃしていた私の頭は少しずつすっきりとしていった。話の内容は私にとって気持ちのいいものではなかったけれど、ひかりが一生懸命に話しかけてくれることがただただ嬉しくて、かわいかった。


 けれど、私の遭遇した出来事が、取ってしまった選択の事実が、消えるわけではなかった。

「……どうしよう、これ」

 自室で、私は九品香蓮のスマートフォンと対峙していた。

 画面に入った大きな罅が事故の衝撃を物語っている。けれど電源の方はしっかりと生きており、電源ボタンを押せばロック画面が何事もなかったかのように点灯した。

 スマートフォンにはGPSだか何だかで紛失した時にも所在を確認する機能があったはずだ。もし九品香蓮が生存すれば、それらの機能を使ってスマートフォンの位置を割り出すだろう。

 だから、もし私がこのままスマートフォンを持ち続けていれば、遅かれ早かれ私がこれを持ち去ったことがバレてしまう。そうなれば最悪、窃盗とかの罪に問われるかもしれない。

 でも、もし九品香蓮が本当に死んだら? これは行方不明の遺留品ということになるのだろうか。

「捨てよう。いや、でもどこに……? 事故現場に戻って……いや、そんなの絶対怪しまれる。……なんとかして壊す? でも、どこかで足がつくかもしれないし…………あっ」

 その時、頭の中に一つの名案が浮かぶ。機能があるなら、オフにすればいい。

 私は九品香蓮のスマートフォンを両手に持った。電源を入れると、画面に四桁の数字の入力を要求される。

「……一回きり」

 何度もパスワードを間違えるとロックがかかるようになっているのは知っているが、私の知らない機能がもしあって、どこかに通報されるようになっていたりするかもしれない。

 だから、この一回に賭けようと思った。それでダメだったら、壊すか捨てるか、最悪、正々堂々と本人に返せばいい。

 それは魅力的な未来だった。九品香蓮は事故によって裁きを受けて、私もそれでノーサイドにしてあげて。ひかりを巡って私たちはたびたび対立するが、なんだかんだひかりは私のところに帰ってきてくれて、九品香蓮とは次第に疎遠になって、大学生になって、私たちはそこでもずっと一緒にいて。

 この一回で失敗したら、そういう明るい未来に進んでいこう。九品香蓮への嫉妬に蓋をして、ちゃんとひかりに告白して、真っ直ぐ二人で生きていこう。

 そう、私は本当はそっちの方向に進んでいきたいんだ。誰も妬みたくない。誰も憎みたくない。ただ好きな人と普通に笑い合って生きていきたいだけ。

 だからこれは、私がこれまでの戦いに区切りをつけるための儀式なんだ。

「…………でも」

 もし成功してしまったら?

 もし成功して、九品香蓮の情報臓物の全てを引きずり出してぶちまけることができるとしたら?

 そんなことが起こるはずはない。だって、私の頭に浮かんでいるその四桁の数字が、九品香蓮のスマートフォンに当てはまるわけがないから。

 それは私のスマートフォンのロックと同じ数字。神聖な四桁の数字。ひかりの誕生日。

 本当に心から好きじゃないと設定できない、愛していることの証。それをパスワードにしていいのはこの世界で私だけ。

 だから、もし本当に解除できたなら、私は九品香蓮を許さない。許せない。そうなればもう引き返せない。

「九品香蓮……お願い、私にこれ以上、もう……!」

 そう願って、信じて、私はひかりの誕生日を震える指で入力した。

「あ――」

 画面にはあっさりと、スマートフォンのトップ画面が表示された。

 その呆気なさに少しの焦りを感じたけれど、それもすぐに澱んだ悪意に塗り替えられて、私は無心で九品香蓮のはらわたをまさぐった。一番気になるのはメッセージアプリだった。私は躊躇なくそのアプリのアイコンを指で叩いた。

 そこから私は考えるのをやめた。『ひかり』のスレッドを開いて、今までどんなやりとりをしてたのか、その全量を透明な心で見つめた。

 文面からは九品香蓮のひかりを思う気持ちが伝わってきた。初心で、どこか探り探りで、私に見せた攻撃性なんて微塵も窺えない。

 それは九品香蓮が大切に温めてきた愛の揺り籠だった。好きの気持ちを幾つもの短いメッセージに託して、いつか伝わればいいなと期待しながら積み重ねていく、二人だけの愛の世界。

 私はそれに覚えがあった。なぜなら私もその世界を自分のスマートフォンに持っていたから。

 でも、そういう世界は一つあればいい。愛は二つも要らない。

「九品香蓮……アンタの育ててきた愛、私が上書きしちゃうね」

 私は九品香蓮のメッセージアプリからひかりにスタンプを送った。するとすぐに既読がついて、同じスタンプがひかりから返ってきた。

 これでひかりと九品香蓮の最後は私のものになった。九品香蓮は私に負けた、私は九品香蓮に勝ったんだ!

「私の勝ち! 私の勝ち~~~~っ!」

 私はベッドの上で布団に潜り込んで足をバタバタとさせて歓喜に打ち震えた。

 あとはスマートフォンの設定画面で追跡機能を止めて、大きく息をついて仰向けに寝転んだ。

「長かった……! でも、こういうのって正義が勝つって相場が決まっているもんね。さて、そうと決まればどこから見ていこうかな~、九品香蓮の中身」

 九品香蓮の内臓をまさぐりながら、私は毎秒彼女に優しい気持ちになっていった。掌握できるということは、絶対的な優位に立っているということだから。

 もし本当に九品香蓮が死んじゃったら、葬式くらい出てやるか――罅割れたスマートフォンを眺めながら、私は思った。


 翌朝、私の世界は元通りになった。九品香蓮の死の報せによって。

 それからは弱ったひかりに寄り添い、あらゆる苦楽を共にして、受験も一緒に頑張って、乗り越えた喜びに抱き合った。

 高校を卒業する頃にはそれまでの罪悪感も消えて、私から、ひかりから、九品香蓮が消えていって、私たちは完全に一つになった。

 でも、あの女は死んでなどいなかった。

 いや、死してなお、ひかりを再び誑かし、私に復讐する機会を窺っていたのだ。

 九品香蓮の三回忌のハガキは、多分、私に対する宣戦布告だった。

 なぜなら、その日からひかりはまた、あの女の影を追うようになっていったから。


 *


 部屋中に漂う重苦しい沈黙を、ひかりは卓袱台の上の、湯飲みにがれたお茶と共に強引に喉の奥に流し込んだ。

 そして、目をうろうろと泳がせたあと、一文字に結んでいた唇をゆっくりとほどいた。

「……信じられない」

「……そうだろうね。私も、あの時はどうかしてたと思う」

「あの時は? ……今もでしょ」

「えっ……?」

 ひかりが震えていたのは、私の話に怯えているからではなかった。

 ひかりは今、怒りのこもった眼差しを私に向けていた。

「スマートフォンを今でも持ってるのも、紀実加と口裏合わせてるのも、現在進行形じゃない。今もどうかしてるんだよ、亜紗は」

「え……? いや、この話を聞いて、おかしいのは九品香蓮だって思わない? だってアイツ、横から急に現れて、ひかりにちょっかいかけてさ……!」

「それは香蓮が私のことを好きだったからでしょ!? それのどこがいけないの? 香蓮は事故で死んで、それ自体はもうどうにもならないけど、でも、こんなのって……!」

「いやいやいや! えっ? いや、逆になんで? だってひかり、私だけいればいいでしょ? あんなのと一緒になっても幸せになれないって! 手当たり次第に学校の女の子を漁ってたような女だよ?」

「そんなことはもう知ってるっ!!」

 ひかりは拳を握り締め、大きな声で怒鳴った。私はびっくりして思わず後ずさってしまう。

「もうとっくに知ってるの……! でも、それで私がどうするかなんて亜紗に決められることじゃない……! 私だってちゃんと考えてるの、心があるの……!」

「ひ、ひかり……ちょっと落ち着いて……?」

「落ち着いてるよ。私はずっと落ち着いて考えてたよ。亜紗のことも、香蓮のことも、由蘭のことも、色んなことが急すぎて大変だったけど、ずっと向き合おうと必死だったよ……!」

 ひかりは胸に手を置いて深呼吸をした。その手には九品香蓮のスマートフォンが握られている。

 そして、ひかりはしっかりと落ち着いた様子で、それまで伏せがちにしていた目を真っ直ぐ私の方に向けた。

「……今日、亜紗も何度か会ってるコンシェルジュの鼎さんから、亜紗が香蓮のマンションに通ってたことを聞いた。その時、わたしは亜紗が香蓮のこと好きなのかもって、不安になったよ」

「えっ、それって……!」

「私も亜紗に執着してた。私のそばにずっといて、いるのが当たり前で、私を無条件で好きでいてくれて」

「うん、うん、セックスだってしたもんね? 好きだよって言ったら、ひかりも好きだよって言ってくれたもんね? 今だって指輪つけてくれてるもんね? だから嫉妬しちゃったって、結局私のことが大切だって、そういう話だよね?」

 ひかりは勿体ぶるように黙った。私はその沈黙に耐えられなくて、四つん這いになってひかりに確認を迫った。

「ひかりは私のこと好きなんだよね? ね、それなら私たち結婚しようよ! 私なら絶対ひかりのこと幸せにできる! 今までと同じだよ! どんな障害も排除して、ずっと安心して暮らしていくの! それで!」

「亜紗っ!」

 ひかりは制止するように私に叫んだ。私は頭が真っ白になって、ゆっくりと動きを止めた。

 え? え? つまりひかりは、何を言おうとしている――?

「……亜紗のこと、この話を聞いた今でも、嫌いになれない。でもね、亜紗……やっぱり亜紗は、私にとって友達だよ、だから……」

「……友達、だから……?」

「……亜紗と恋人には、なれない」

 あ――。

 その言葉を聞いた瞬間、自分でも信じられないくらい、全身からぷしゅーっと力が抜けた。

 それは多分、私から『尾山亜紗』が抜けていった音だった。ひかりが好きで、大事で大切にしたい、サバサバ女子の尾山亜紗。

 尾山亜紗はひかりにひどいことを言わない。思うことはあっても、それをひかりには伝えない。ひかりに嫌われたくないから。愛されたいから。

 でも、受けた痛みはなくならずに私の中で堆積していた。それは私の隅っこで、ナイフの形に研がれていた。

 研いだのは本当の私。いつか、これでひかりを刺す時が来るかもって、そう思って。

「――じゃあさ」

 恋人になれないなら、いい。

 ひかりが私を愛してくれないなら、全部いらない。

「もし……九品香蓮が死んだ事故の原因が、九品由蘭にあったらどうする?」

「……え?」

「言い換えようか? 九品由蘭があの日『あんなこと』をしなければ、九品香蓮は死ななかったって分かったら……ひかり、どうする?」

 貸して――私はそう言ってひかりから九品香蓮のスマートフォンを引っ手繰る。ひかりはそんな私を顔を真っ青にして見ていた。

 あの時も思ったな。気持ちいいなぁ――綺麗な顔が恐怖で歪む瞬間を見るのって。

「ほら、見て。九品香蓮と由蘭のやりとり。その最後の一文」

 そう言って私は、九品香蓮のスマートフォンに遺された、九品由蘭から送られてきたそのメッセージを見せた。


『今夜、私のところに来てくれたら、貴女の気持ちに応えるわ』


「これね? あとで思い返してわかった。ひかりが九品香蓮とファミレス行った日の、九品香蓮がトイレに行ってた時間だよ。あの時の九品香蓮の動揺っぷりといったら凄かったな~。これがなかったら九品香蓮が焦ることもなかったし、あんな事故は起こらなかったよゼッタイ!」

 ひかりは目を見開いて口をぱくぱくとさせていた。心が真っ黒に染まっていくのが分かって、かわいそうでかわいい。

「この二人さ、姉妹でデキてるのはいったん置いといて、一度は由蘭から関係を断ち切ったっぽいじゃん? なのにあの日、九品由蘭は意味深なメッセージを送って九品香蓮を呼び出した。これってどういう意味だろうね? 香蓮もさ、由蘭を断ち切って、ひかりに専念しようとしてたのにね?」

「……で……でも……鼎さんは、香蓮も由蘭も、本当に私のことを好きだった、って……」

「わっかんないかなぁ? だから結局、なんだかんだあっても姉妹仲良しだったってことでしょ! 鼎だって由蘭の腹心じゃん? あるじが一人寂しくしててさ、そこに都合よくひかりを当てはめたい、ってそういう魂胆でしょ? 相変わらず鈍いなぁひかりは!」

「え……あ……」

 ひかりの目が曇っていくのが見て取れる。今まで白だと思っていたものが黒にひっくり返っていくことに絶望している。その健気な様子がかわいくて、愛らしくて仕方がない。

「……ね? さすがにもう、ひかりの頭でも分かるよね? アイツらは姉妹でひかりをおもちゃにしてた裏切り者で、ここには今でもひかりのことを大好きな亜紗ちゃんがいます。……ね、ひかり、結婚しよ?」

 焼け野原になって真っさらなひかりの心に、私は温もりの種を埋めて愛の水を注いでいく。私がいるよ、大丈夫だよって、絶対安心安全な存在がこんなにも近くにいるってことをはっきりと教えてあげる。

 私がひかりの立場だったら、すぐに相手のものになることを選ぶ。だって、愛されてるか不安なことほど苦しいことってない。信じてもどうせ傷つくだけなら、大好きだって言ってくれて、心も体も不自由なく埋めてくれる人を選んだ方が幸せになれるに決まってる。だから――。

「…………いやだ」

 うん、って言うに決まってるって、そう思ってた。

 私の知ってるひかりなら、きっとそう言うだろうって。

「いやだ。由蘭の気持ち、確かめたい」

「…………は?」

「亜紗の言ってること、分かったよ。だけど、私は由蘭から直接気持ちを聞かないといやだ」

 ひかりはきっぱりと私にそう言って立ち上がった。私の返答を待つ気はないようで、その目には確かな意思が宿っていた。

 私は、ひかりを止めなかった。止めても仕方がないから。

「……そう、わかった」

「うん。いくね、由蘭のとこ……ろ……?」

 ひかりは立ち上がってすぐ、ぐらっとバランスを崩してしまう。

 私はふらつくひかりの体を優しく抱き止め、ベッドにそっと寝かせた。ひかりは困惑した様子で私を見上げた。

「……あ、さ……? なに、して……?」

 止めても仕方がないのは、止まることが分かっていたから。

 私はぐったりと力をなくしてとろけた瞳のひかりの髪を、愛おしく見下ろしながら撫でた。

「わかったよ。ひかりが頭で考えて分からないっていうなら、体で分からせてあげるね」

「……え……?」

「さっきね、ひかりがぐいっと飲み干したお茶に、幸せになるお薬を混ぜといたの。だから、余計なこと何も考えなくていいんだよー。これまでも、これからも、私といるのが正解だって、ちゃーんと分からせてあげるね?」

「……や……だ……」

 ひかりの体から力が完全に抜けていく。瞳は焦点を失い、替わるように頬に朱が混じっていく。

「ひかり、かわいい。大好きだよ。ずーっとふたりで、一緒にいようね」

 もう返答さえできないひかりの体から、ゆっくりと服を、薄衣を剝ぎとっていく。

 そうして露呈した大好きな人の生肌に、指を這わせながら、愛の香りをくゆらせながら、今まで抑え込んできた真っ黒い興奮を全部、刻み込んでいく。


 *


 むせるような匂いが部屋いっぱいに立ち込めていた。

 それは私とひかりの愛し合った証。ベッドで仰臥し、ぼーっと天を見つめているその愛する人の体を撫でながら、私は冷蔵庫から取り出したペットボトルの水を呷った。

 熱した体に冷えたものが流れ込んでいく、その感覚さえ気持ちいい。感覚がどこまでも広がって、私は今ならどんなことでも受け入れて、どんなものでも愛せそうだった。

 そうしているうちにも取り込んだ冷水は沸騰してお湯になった。体からはまだまだ熱が生み出せそうで、夜明け前まで動きっぱなしのこの体でも、あともう三日三晩は踊り続けられそうだった。

 そんな折に不快なバイブ音がしたので、その出元を探った。ひかりのスマートフォンだった。

 画面には知らない電話番号が表示されている。でも私はそれが誰からの電話だったのかもう分かっていた。

「もしもし~、九品香蓮? 死んでる人がさぁ、いつまでも私のひかりにつきまとわないでくれない? ひかりは今、私と永遠の愛を誓い合ってるんだからさ」

 電話口の向こうで九品香蓮は息を飲んでいた。私に負けて悔しいのだ。九品香蓮は幽霊だから電話はできても私に手は出せない。私の勝ちは覆らない。

「――ねぇ」

「お? お、お?」

 それは間違いなく九品香蓮の声だった。本当に死者から電話が来るなんて思わず、私はテンションが上がってしまう。

「尾山亜紗。あんたに本当のことを教えてあげよっか?」

「は? ほんとうのことってナニ?」

「あんたにひかりは相応しくないってこと。ひかりの幸せはひかりの中にある。ひかりの気持ち、ここで聞かせてあげるから、電話かわってよ」

「あっはっは、残念でした~! ひかりはいましゃべれませ~ん。うるせぇからさっさと死ねよ! あ、もう死んでる? 亜紗ちゃんふわふわでわかんな~い」

 しょうもないことをわざわざ電話で告げられて頭がイライラとしてくる。数年越しの負け惜しみを聞くために私たちの時間があるわけじゃない。

「それともなに? 今からなんかできることがあるの? あるわけないよねー、あのときアンタは確かに車にはねられて死んだもんね」

「そうね、でも調子乗ってヘラヘラしてる監禁女にお灸をすえることはできるかもねー。私、トモダチ多いから」

「はぁ? なにいって――」

 ピンポーン。私の家のチャイムが鳴る。

 ピンポーン。ピンポーン。私の家のチャイムが何度も鳴る。

「ほらね。誰か来てるみたいよ? 出るの? 出ないの? あ、もしかして私がコワイ?」

「はぁ!? 怖くねーよ! ひかりは私が一生守るの、お前なんか怖いわけないでしょ!?」

 私はムカついて電話を切って、そのまま玄関に向かった。

 のぞき穴から外を見るけど誰もいない。九品香蓮は幽霊なのだから当然だ。見えないことを利用して私をおちょくってるんだ。

 だからもうこの世に九品香蓮がいないことを証明してやる。玄関を開けて、いないことを確かめればいい。そうすれば本当に私の勝ちだ。

「私の勝ち、わたしのかち、わたしの……っ!」

 私は勢いよく玄関のドアを開けた。

 誰もいない。そう、そこには誰もいなかった。つまり九品香蓮は本当に死んでいて、私の勝利は本当に確定した!

「やっぱり嘘じゃん! 九品香蓮は負けた! 最後に勝つのはわたし! わたしに決まって――」

 その瞬間、玄関ドアの影からにゅっと手が伸びてきて、私の腕を掴んだ。

 私は自分の腕をもう一度見た。そこには確かに人のカタチの手があって。

「――カレンのスマホあったぁ。やっぱりアンタだったのね、尾山亜紗ぁ」

「は……」

 地面を這うようなじとっとした声を吐きながら、それはドアの影から姿を現した。その目はカッと見開かれて、視線は机の上に置いたままの九品香蓮のスマートフォンに注がれていた。

 私は知っていた、この女は――。

「岡山、茉季……!」

「アンタみたいのがいるからカレンは死んでも死にきれないのよ! ねぇっ、ひかり聞こえる!? マキだよ! 起きて、カレンのところに行って! カレンは今、学校にいるからっ!」

「わァっ!? ちょ、何すんの、離してっ、離せ!」

 茉季は私の腕を掴んで私を玄関の壁に押さえつけた。その細い体のどこにこんな力がある!?

「ひかり、起きて! ひかりっ!」

「起こすなっ、ひかりはいま動けな……っ!?」

 私はベッドの方を見た。

 ひかりが、ゆっくりと起き上がって、こちらを見ていた。そして、ふらふらと、下着を履いて、服を着て――小指の指輪をそっと外した。

「ひっ、ひかりっ!? おねがい、いかないで、私のとこにいて……!」

「ひかりっ、行くの! 気合で! チャンスは今しかないからっ!」

 ひかりはよたよたとこちらに歩みを進める。その目は私ではなく、茉季でもなく、その先を見据えていた。

 そうして、私たちの後ろを通り抜けて、アパートの階段を降りて、闇の向こうへと行ってしまう。

「ひかりっ! ひかりぃぃっ!! いかないで! おねがい! ひかりがいないとわたしは! うわああああああっ!!」

 私のその断末魔の叫びに、上野毛ひかりは振り返らなかった。


 *


 誰も本当のことを私に教えてくれない。

 誰が好きか。なんで好きか。本当はどう思っているのか。本当は何を求めているのか。

 何も分からない。誰も分からない。私は今、自分が誰に対して怒っているのかさえ分からない。

 亜紗との記憶がフラッシュバックする。毎日一緒だった帰り道。毎週日曜日の家で過ごす取り留めもない時間。話を聞かない私に見せる呆れ顔。生徒会長だった時の勇ましい姿。私と同じ高校に行くと言ってくれた日のこと。

 香蓮のお通夜の日、私の手を握っていてくれたこと。私の電話にいつまでも付き合ってくれたこと。要領の悪い私に根気強く勉強を教え続けてくれたこと。一緒に神社にお参りに行って、お揃いの合格祈願のお守りを買ったこと。そのお守りを握り締めて、合格発表を見て笑顔で抱き合ったこと。その日、朝が来るまでおしゃべりしたこと。寝落ちしそうな私の頭を「頑張ったね」って言って撫でてくれていたこと。

 高校の卒業記念に買った、お揃いの指輪を一向につけない私に文句を言っていたこと。それでも亜紗はその指輪を大切そうにつけ続けていたこと。

 それは私の中に確かにあって、嘘じゃない。亜紗が何を思っていたとしても、私の中にある思い出は変わらない。

 それでも、私の足は止まらなかった。胸が張り裂けそうになっても、涙がこぼれそうになっても、私は体に力を入れて前に進み続けた。

 フラッシュバックの最後に浮かんだのは、私の好きなその人が浮かべる、寂しそうな笑顔だったから。


 待っててね――香蓮。私はきっと行くから。あなたの待つ教室に。

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