第八話 私はあなたに囚われている ―溝口雅―

 上野毛ひかり。私がようやく手に入れたものを横から掠め取っていった子。

 愛されて当然という顔をしているその子のことを、私は決して認めない。


 *


『急ですみません。突然の来客があったため、来ていただくのは午後四時頃でいいですか』

 正午。約束の時間に合わせて家を出ようというタイミングで届いたその淡泊なメッセージを、もうかれこれ三時間ほど見返していた。

『分かりました』

 自分の方がずっと年上だからと、そう余裕ぶって返した簡素なメッセージを見ながら、何度目かのため息が零れ出る。

 どう返せばよかったのだろう。どうしたの? 大丈夫? ――それなら今日は遠慮させていただいて、またの機会に。

 本当に私が大人だったのなら、最後の一文こそが正解だったとすぐに思い至ったことだろう。けれど実際の私はといえば、送られてきたメッセージの裏側に勝手に思いを馳せ、分かったようで何も分かっていないその六文字を、自分より何個も年下の女の子に返信している。

 実年齢にそぐわない自身の幼さにため息が出るようになったのはいつからだったか。想像していた三十代はもっとずっと大人だったのに、年相応に変わっていったのは洋服とコスメのブランドくらいで、どれも外見を維持するために必要に迫られて変えてきたようなものばかり。

 毎日バレッタで束ねるだけの癖っ毛にヘアアイロンを一生懸命当てている自分が急に哀しく思えて、ため息がまた一つ口から零れる。

「不自由な人ですね、ため息ばかりして」

 背後から届いたその可愛らしい声の主は、先ほどまで読んでいただろう小説を片手に、わざわざ洗面所まで私の様子を見に来ていた。

 垂れ目にのほほんとした出で立ちをして、けれど実際その内心に渦巻くものが尋常ではないことを――大井おおいのぞみという少女の在り方のことを、私はよく知っている。

「……放っておいてちょうだい」

「雅が心配なんです。そろそろ痛い目を見る頃合いなんじゃないかと思って」

「教え子を悼んで花を届けるだけのことで、痛い目も何もないわ。そんなことを言いに洗面所ここに来たの?」

「おや、ご機嫌斜めですか。待ち合わせの時間を遅らされたくらいでそう目くじらを立てるなんて、雅もなかなか乙女ですね」

 くすくす。目を蒲鉾型にして嗤う希に、私はそれ以上何も言い返すことができない。

 希はいつも私の心の機微を目ざとく察して攻撃する。何を言えば苦しむか。どうすれば私の顔が歪むか。それが楽しくて仕方がないばかりに、ついに希は大学入学を表立った理由にして『仲良くなった学校の司書の先生』である私の家に居着き始めた。

「いつも言ってるでしょう? 私はあなたのことを誰よりも理解支配していると。あなたには私の言葉が耳に痛いようですが、私はあなたの身を案じているだけです」

「その目、私を嘲っているようにしか思えないわ。退いて、もう出る時間なの」

「おっと……本当に、女性のこととなると忙しないひとですね。ふふっ、い……」

 洗面所の扉を塞ぐようにして立っていた希の横を抜け、ノースリーブのニットにカーディガンを羽織り、ここのところの日差しをいとってつばの広い帽子をかぶる。全身鏡を見ると、大人の姿をした私がそこにいた。

「それじゃあ行ってくるわね。遅くなるかもしれないから、夕飯は好きにして」

「何か作って待ってます。居候の身なのですから、それくらいはさせてください」

「そう」

 シックなデザインのパンプスに足を入れて玄関の扉を開ける。五月の昼下がりにしては強い日差しと熱とが目を眩ませた。左手首を上げ、時計の長針の向きから猶予のあまりないことを悟る。

「鍵、閉めておきます。由蘭さんによろしくお伝えくださいね」

「ええ」

 希の言葉に甘え、狭まっていく扉に背を向けて早足でマンションの廊下を抜けていく。

 そうしてすぐ、心を名状しがたい心細さが襲って、希に全てを投げ出したい衝動に包まれた。

 この通り、私は弱くて都合のいい女だった。会いたいひとと委ねるひととを使い分け、心と体の欠けをその場その場で継ぎ合わせることが上手になっただけの、大人の形をした三十三歳の女。


 電車を数本乗り継ぎ、降りた駅にある花屋で店員に見繕ってもらった花束を受け取った。

 日傘を差して彼女の家までの道のりを歩いていく。もう慣れたもので、スマートフォンの地図アプリを使う必要はない。駅前のひらけた景色が次第に切り立つ高層マンション群に飲み込まれていき、その並びの最中に姉妹の顔を幻視した。

 九品くほん香蓮かれん。私の勤める高校の元生徒で、故人。図書委員会に所属し、それがきっかけで関係を持つようになった、学校一美しく華やかで活発だった女生徒。

 九品くほん由蘭ゆらん。香蓮の双子の姉で、有名女子高を経て全国トップクラスの大学に進学した才媛。香蓮と同様にその容姿の良さは折り紙付きで、彫刻のように白い肌と年齢不相応の落ち着きが目を引く現役の大学生。

 由蘭のことを初めて見たのは香蓮の通夜でのことだ。二人は纏う雰囲気こそ違えど瓜二つの姉妹で、死んだはずの香蓮がそっくりそのまま髪型と制服を変えてそこに立っているかのようだった。

 私の心はそれっきり漂ったままになった。もういない香蓮を求めて、由蘭にその影を追った。今となっては香蓮と由蘭のどちらを求めているのか、自分でも判別がつかない。九品姉妹の放つ女性としての底知れない魅力が、ただただ私のあしを定期的にその場所に向かわせ続けている。

 西日を照り返す高層マンションは無慈悲に熱射をおとす太陽のようだった。無謀にも近づこうものならいつか蝋の羽根を溶かして墜落するだろうか。凡人なりにも香蓮と関係を得られた私ならば無謀ということはないと思いたい。香蓮に響く何かが私の中にあったように、いつか何かがきっかけで由蘭のあの冷たい仮面が剝がれるようなことがあるかもしれない。

 そうやって足繁く通い続けるのだ。私が希望と呼ぶそれが妄想に過ぎなくても、好きな人の顔を見られさえすれば、その時だけは寂しい女の欠けを埋められるのだから。

 彼女たちの求めるひかりは一体どこにあるのだろう。そこまで思った時、とある存在に思い当たり、暗い感情が胸いっぱいに広がった。

 快い妄想が何かの拍子で急に悪しき反転をしてしまうのが嫌で許せない。そうしてしまうのはひとえに自分の余裕のなさだというのに、そうだと分かってなおそういう自分を簡単には抑えられず辟易とする。

 貴重な今日という日を大切にしたくて、私は軽く頭を振って邪念を頭から追い出した。今はただ、心で追い続けるその人由蘭の顔が見たい。


「……え?」

 マンションのラウンジに繋がる扉から出てきた女性とすれ違った瞬間、ふわっと馴染みのある香りが鼻腔をくすぐった。

 何かに弾かれるように、私はその女性の腕を掴んでいた。

「あっ、なに……っ?」

「貴女――」

 その顔と目を見た瞬間、すぐさま最悪の想像が脳裏に浮かんで、その味わいの苦々しさに青ざめる私と赤くなる私がいた。

 私は熱する方の自分に身を委ねる。そうしなければ自分が崩れていってしまいそうだったから。

「……上野毛かみのげさんよね?」

「そうだったら、どうして腕を掴むんですか……っ」

「匂い」

「は?」

「由蘭さんの家で何をしたの?」

 上野毛ひかりは分かりやすく狼狽して目を泳がせた。その仕草一つで私の中の女のサイレンがけたたましく音を鳴らした。

「どうしてあなたが由蘭さんと同じ匂いをさせているの?」

「……なんで、そんなことあなたに話さなきゃいけないんですか?」

 上野毛ひかりは語調を確かに険しくしてそう言った。三回忌の時にはなかった牙が、その子の口に生えているのを見た。

 牙が生えるだけの何かがあったのだとすぐに分かった。そして私がその何かを欲しているのを瞬時に感じ取って、それを私には与えまいとする独占欲がそこにはあった。

「あなたこそ何しに来たんですか? 由蘭に会いにいこうとしてるならやめた方がいいですよ」

「私は、九品さん――香蓮さんに花を届けに来た、それだけよ。あなたみたいにずけずけとよそのお宅のお風呂を借りるようなことはしないわ」

「はぁ? そんなの、借りたくて借りたんじゃないです、由蘭にただ一方的に迫られて――」

 その言葉の末尾をはっと飲み、上野毛ひかりは失言したとばかりに口を引き絞った。

 上野毛ひかりのことはそう知らない。それでも、高校時代の彼女であったり、希の話す人物像を結び合わせていく限りでは、上野毛ひかりはそもそも情緒が薄く、暗い感情に対しても自覚的であるようなタイプには思えなかった。

 だから彼女はここで立ち止まると思った。けれど彼女はこう続けた。

「しっかり女の味を覚えこまされちゃいました。だからもう遅いですよ。由蘭は私のことが好きみたいです」

 へら――と薄ら笑いを浮かべて、上野毛ひかりは光のない目で私のことを舐めるように見上げた。

 それで私の炎は静かな色になった。嫉妬の炎で自分の肌が焦げていくのが分かった。

 この子が恋を知ったおとなになったというのなら、私たちはもう生徒と教え子の関係じゃなく、香蓮と由蘭を挟んで向かい合うただの女同士だった。

「そうなのね。それなら、貴女の好きな香蓮さんと私の関係を教えちゃおうかしら?」

 貴女がそのつもりなら、貴女のまだ知らない恋の痛みを教えてあげる。

 私だって、貴女のせいで今、こんなにも心が痛いのだから。

「そう、たとえば――香蓮さんと私が、愛し合っていたとしたらどうする?」


 *


 ブレザー姿の華やぐ同級生たちをじっとりと目で追いかけてしまう自分がいたことに、当初私は楽観的だった。

 高校生にもなると女子は容姿やファッションに一層敏感になって、それまでの幼い自分を脱ぎ去るように急激に垢抜けていく。服も、髪型も、顔も、声や喋り方だってそう。女の子は誰だってかわいいものが好きで、かわいくなろうとする生き物だ。だからかわいさを追い求めるのは女子にとっては当たり前のことで、ならかわいいもの女の子に心が奪われてしまうのも至極当然のことだと、当時高校一年生の私はそう思って特に気にも留めずにいた。

 それが自分の性的指向によるものだとはっきりと自覚させられたのは、その年の夏のことだった。

 プール授業の日、更衣室で目の当たりにした同性の裸体に胸が激しく高鳴った。自分と同じ十五から十六歳の少女たちは、程度の差はあれど女性の膨らみを着実に獲得し始めていて、いつも目を合わせ、喋って笑い合っていたその首から下に女性の肉体が秘められている事実を知った瞬間、私の脳はそれまで友達だと思っていた同級生たちを一斉に性の対象として認識してしまった。

 自分が同性を恋愛対象として見ていることに気づいた時、ショックだとかそういったことは特別なく、むしろ自分のそれまでの行動原理に合点がいった思いだった。そうなると頭をよぎるのは同性を好きになることのメリットばかりで、その夏の間は同級生の裸を見ていられると思うと、それまで暑いだけだった夏という季節が四季の中で急激に意味を持ち始めるのだった。


 自分の性的指向に対する気付きにより、副次的に分かってしまったことが一つあった。

 それは大いに私を困らせ、そして悩ませた。

「……んっ」

 プールの後の数学の時間。みんな疲れて船を漕いでいる教室の最後列で、人目を憚るようにスカートの中にペンを忍び込ませる私がいた。

 せめて休み時間を待ったり、理由をつけて保健室のベッドを借りたりする選択ができないあたり、私の中で生まれた性欲はそれだけ膨大かついびつだった。私はそれっきり同級生のことが制服を着た裸の女性にしか見えなくて、ブラウスの背に浮く下着の線一つさえ私にとっては懊悩を深める種だった。

 その人一倍強かった性欲に比例するように、私の体は極めて健やかに成長していった。身長は女性の中ではだいぶ高い方で、胸などは特に大きく育ち、生来の骨格がふくよか過ぎない程度になんとか体の線を収めてくれた。その身体的特徴スタイルの良さは幸いにもコミュニティ内での私の価値を高めたようで、読書を好み陽気さとは無縁の性格キャラながら、私は同級生たちからよく親しまれることになった。その充実した――私にとってはハーレムのような――環境は天国でもあり、毎秒欲情する自己とせめぎ合う地獄でもあった。


 平日は人前で清純な顔を堅持して、週末、抑圧された自己を解き放つように自室で一人乱れる。そうやって歪んだ自己との折り合いを続けながら、やがて高校三年生になる頃には、そういった部分をある程度コントロールできるようになっていて、教室やお手洗いで物思いに耽る時間は少なくなっていった。

 高三の春、体格のこともあり衆目を集めがちだった私は生徒会に推薦されるようなこともあったが、生徒の代表として人前に立つようなことなどとてもできないとそれを固辞し、かわりに高校一年生の頃からずっと入っていた図書委員会の委員長の任に就くことになった。

 最初の顔合わせでつつがなく下級生へ仕事の内容を引き継ぐと、さすが雅さん、などと同級生に囃し立てられた。私にとっては淡々と続けてきただけのことで、それを教えることに特別な価値は感じなかったが、周囲の目には私が大きく映っていたようで、その自認と見られ方の違いに私はたびたび頭を悩ませた。

 その最中に降って湧いたある衝撃的な出来事が、今の私を形成することになる。

「好きです、付き合ってください!」

 その子は顔合わせの時からかわいい子だなと思っていた。物思いの種の一つになることもあった彼女と、実際にそんな関係になるような想像が小心者の自分にできたはずもない。

 けれど、肌は白く目はくりっとして、一生懸命自分を見つめて思いを打ち明けてくれた高校一年生の彼女に、私が『はい』と返事をしたのは必然のことだった。

 私たちは特に女同士だからどうこうということを深く語り合いはしなかった。ただ彼女の気持ちに流されるように付き合い、手を繋ぎ、キスをして、肌を重ねた。

 私は情けないほど主体性がなく、彼女はそんな私とは対照的に陽気で口が達者で推進力のある子だった。彼女の口から語られる彼女自身の評価の高さと、彼女から見た実際とはかけ離れた私の虚像イメージに、付き合い始めの頃は悩みこそすれ、それでも一緒にいたい、いなければ、という思いが途絶えることはなかった。

 なぜなら彼女は私の体を性的な目で見ていたから。私は関係の継続を第一に、慎重に自己の有り余る性欲を隠したりもしたが、一度互いに開示し合い、そして幸運にも当てはまってしまってからは、私はもう、この爆ぜるような欲望を彼女にぶつけないことはできなかった。

 私は明るい彼女の像に近づきたくて、釣り合う人として相応しくなりたくて、徐々に暗い自分を払拭していった。化粧を覚えてみたり、服装を変えてみたり、髪を伸ばしてみたり。彼女はそんな私をいたく評価して、褒めて、愛のほどこしを与えた。私は高校三年生の十八歳にして、その時まだ十五歳の高校一年生との恋愛に狂った。

 そんな日々は高校三年生の夏休みを前にあっけなく終わりを告げた。他に好きな人ができたと言って、その子は別の人と付き合いだしたのだ。

 私はただただ縋りついたが、彼女の反応が変わることはなかった。自分の何が悪かったかなんて何一つ分からない。それくらい唐突で、私にとっては青天の霹靂だった。

 大きすぎる喪失と、強烈な嫉妬と、むせ返るような夏の匂い――それらが太陽の下でくるりと制服の裾をはためかせる彼女の笑顔と混ざって貼りついて、それからの私を制服姿の女子にしか欲情できない哀しい女にした。


 学校司書を目指すようになったのは、後ろ指をさされることなく女子高生を浴びるように見たい、けれど生徒の未来に関わるほど主要な責任を負いたくはない、あとは読書が好きで本を扱う仕事がしたい、という条件を満たすのが学校司書だと当時の私が思ったからだ。

 今では教育に携わる者としての自覚や責任感をちゃんと持ってはいるつもりだが、動機としては最低だ。けれど結局その最低な動機一つで、私は学校司書の資格を手にし、善人の顔をして眼福にあずかる日々を手に入れた。

 勤務先の高校で、性欲を抑えながら仕事をし、その中で性の種を拾い集めて、家に帰って溺れるように物思いに耽る。実際にその誰彼に触れようとは思わない。一度きりの失恋の傷は二十歳をとうに過ぎてなおじんじんと痛んで、高望みしてまた傷が開くようなことは怖くてできなかった。

 そうやって仕事と毎日の物思いを延々続け、気づいた時には三十になっていた。

 自分のこれまでの人生が女子高生の視覚的摂取と孤独な性への耽溺で大半を占めていたことに、ようやくにして若干の恐怖と焦りを感じ始めた私は、転勤を機に自分をなるべく律しよう、ちゃんとした大人になろうと決意し、現在勤めている高校に赴任した。

 最初の一年で、私は正しく自分を律した。粛々と職務にあたり、職場内で友好的な人間関係を築き、生徒には一線引いた教師としての顔で接した。家に帰ってご飯を食べ、お風呂に浸かり、早めに床について翌日の業務に備えた。

 そうしていると次の一年も自然と仕事に弾みがついた。学校司書として成すべきことをし、生徒の知的探求の門を開く立場としての責任を持ち、それまで閑散としていた図書室を賑わわせるべく利用促進の活動に励んだ。その姿勢は学校側からも評価され、私は司書としてのキャリアを着実に積み上げていった。もしかしたら自分は学校司書にこだわる必要はないかもしれない、次はどんなフィールドで自分のスキルを活かそうか、いやいや教育者としての矜持もある、などといったことに思考を費やし、就寝前や余暇の時間のほとんどを自己研鑽になげうっていった。

 明確に自己が変革した実感があった。これが私の本来成すべきことで、私は今正しいレールの上に乗っているのだという実感が学校司書としての私を充足させた。

 しかし、その次の一年で待っていたのは、それまでの二年を埋めるような激しい物思いの日々だった。

 それはそのまま、それまで辿っていた正しいレールがひしゃげて壊れたことを意味していた。そうなると私という躯体はレールの上から脱線して、もしそこが崖だったなら、あとは墜落していく一方であることに他ならない。

 きっかけはたったの一つだった。

「九品香蓮です。よろしくお願いします」

 私の前に、あの夏、身勝手に私を振ったあの子とよく似た女生徒が現れたのだ。

 その雰囲気に触れて、その顔を見て、その声を聞いた時、それまで私が理性的に積み上げてきたものの無価値さに私は一瞬で気づいてしまった。自分は一体何を求めていて、何のために生きていて、何から目を逸らしていたのかをはっきりと自覚してしまった。

「九品さんね。溝口雅です。一年間よろしくね」

「みやび先生、スタイルめっちゃいいですね! 美人の先生でよかったー。私キレイな女の人が好きなんです、目の保養ってやつ?」


 昼夜を問わず煩悶する日々が続いて、そのまま初夏の熱気が身を焼く季節になった。

 その頃には、せめて生徒には手を出すまいと立てた心の誓いなどは既にないものになっていた。九品さんにどう声をかけたら自然か。九品さんにどんな風に接したら気に入ってもらえるか。九品さんはその制服の下にどんな女性の形を秘めているのか。最低だ、最悪だ、と教育者としての自分を散々なじりながら、私は職務の時間を縫っては人目のつかない場所――主な仕事の場である図書準備室――で、九品さんを題材に一人静かに物思いに耽った。

 けれど、それは同時に過去の傷の瘡蓋かさぶたに爪をかける行為でもあった。物思いの波が去ったあと、決まって常識的かつ冷静な自分が出てきて私に説くのだ。また同じことをして傷つくの? そもそも私は今年三十歳で相手は十五か十六歳なのよ? 仮に何かしてしまって、それが問題になったら仕事はどうするの? そもそもそんな虫のいい話があるわけない、相手が同じ性的指向レズビアンであるかは分からないし、そうである確率だって低いのよ?

「……そんなこと分かってる。分かってるからこうして折り合いをつけているんじゃない」

 しんと静まり返ったお昼休み前のその場所で、私はそう独りちながらスカートの間に忍ばせた手をそっと引き抜いた。指には愚かしい現実逃避の跡が白く纏わりついていた。

「せんせい、開けてー!」

 ドンドンとすぐそこの扉が叩かれて、私はびくっと体を跳ね上げた。

「そっ、その声、九品さん?」

「そうー! 体育の時間、持久走でさー、ほんと汗だくでマジ無理だから着替えたい!」

「こっ、更衣室があるじゃない?」

「図書室涼しいじゃないですかー。でも昼休み始まっちゃうし、図書準備室なら人目につかなくていいかなって!」

 その声色には、悪意はなくとも聞く人に有無を言わせない独特の力強さがあった。倍も年齢が違うのに、私はその子の言うことに従わなくてはいけない心持ちに染まってしまい、指先に残る物思いの残滓をそのままに、鍵を開けてドアノブを回した。

「ひゃー、図書準備室はひときわ涼しいですね。専用のエアコンついてるなんてぜいたくー」

 九品さんはそう言いながら、外履きと着替えの袋を片手に、靴下と体操着という出で立ちでずかずかと図書準備室に入り込んできた。汗でぴっちりと肌に張りついた体操着を見ないようにしながら、私は努めて教育者としての威厳を言葉に乗せた。

「貴女、図書室にはどう入ってきたの? 外との入口は施錠されているはずだけれど」

「それなら四時間目の前に開けときました、そしたらスムーズにここに来れるじゃないですか」

「そんなことしてはいけないわ。悪い人が入ってきたらどうするんです」

「あはは、言えてる! そしたら悪い生徒は学校に置いといちゃダメですね。私、謹慎処分とかされちゃいます?」

「そんなことしないわよ……って……!」

 衣擦れの音がして視線を上げると、そこには体操着をたくし上げて上裸を晒す九品さんの姿があった。

 それを見てしまったきり、瞳が固定されて離せなくなってしまう。細い肩とウエスト、なのに胸はあんなにも大きくて――私の好きだったあの子よりずっと、その体は完璧な形をしていた。

 私が息を飲む間に、九品さんは体操着の下に手をかけ、それを迷いなくするりと落としていった。前屈みになったブラの谷間は吸い込まれそうなほど深く、その年齢にしては大人なデザインのショーツが姿を現すと、もう、そこにあったのは立派に成熟した一人の女性の裸だった。

「みやび先生、背中拭いてくれません? いつも友達に拭いてもらってて」

「えっ?」

 九品さんは着替え袋の中からボディシートを一枚とって私の方に手渡した。私はついそれを受け取ってしまい、九品さんはそれを見てくるりと私に背中を向けた。

「ありがとうございます。みやび先生優しいですね」

「もっ……もう、これっきりですからね……」

 女子高生の汗に濡れた背中――こんな願ってもない嘘のような光景を前にして、私は教育者の顔のまま彼女の背中に接した。

 そしてその背中に触れ、汗を拭い、その温度を手に感じた。心臓が痛いほど鼓動して、荒くなる呼吸を隠すようにして私はそこから後ずさった。

「あーっ、ちょっと雑じゃないですか? できればホックのとこの裏までやってほしいんですけど」

「そっ、そんなのはお友達に頼んでください……!」

「なんで先生じゃダメなんですか? 生徒と教師だとダメなんですか?」

「そうですっ、私は大人なんですよ?」

「ふーん。そうですか」

 九品さんはつまらなそうな顔をして着替え袋を漁り、その中から着替えの下着を取り出した。

「し、下着も替えるの?」

「そうですよ。こんなに汗でびしょびしょになったら気持ち悪いですし」

 九品さんは迷いなくブラのホックを外し、それからショーツをずり落として、一度完全な裸体になってから、着替えのショーツを履き、新しいブラに腕を通した。

 その最中も彼女が私の正面を向いている理由が分からなかった。堂々とした性格なのか。私など女同士で気にするまでもないということなのか。分からないことばかりで頭が沸騰しそうな中、それでも私は半ば無意識に彼女の全てを網膜に焼きつけていた。

「じゃ、ここに干しておくんで、放課後にまた取りに来ますね」

 はっと気づいた時、九品さんは体操着と下着を適当なダンボールの上にかけて、その場を後にしようとしていた。

「ちょっと、九品さん……!」

「今日委員会ありますし、その時に回収しますから! じゃ!」

 そう言って、九品さんは図書準備室の扉をバタンと閉めて去ってしまった。

 残された密室に、ほんのりとした汗の香りと、ボディシートの清涼剤の匂いとが残った。

 私の鼻腔を特に強くついたのは前者――九品さんの体から出た匂いの方で、私は引き寄せられるように、ショーツに手を伸ばしていた。

 背徳感と多幸感がせめぎ合って、その行為をせざるを得なくなってしまう。刹那ほどの逡巡があったあと、震える手を顔に引き寄せた瞬間、私は落ちるように深い物思いの中に沈み込んでいった。

 果てようとしたその刹那、私の耳を生ぬるい風が一陣撫ぜた。

「先生、いけないんだ」

 その声を聞いた私の体の真ん中が、恐怖できゅっと窄まる。

 それはさっき聞いたばかりの九品さんの声だった。視線を恐る恐るそちらに向けると、魔性の笑みを湛えた美しい少女がそこにはいた。

 途端に全身を冷たい感覚が包んで、私は自分の人生の終焉を予感した。しかし、

「――続けてください、私の前で。安心して? 私も先生と同じですから」

 その冷たくなった部位を氷解させるような優しい声が外耳道を這いずった時、私は高校一年生の少女に導かれるまま、狂った物思いの淵に再び落ちていった。


「みやび先生……今日も、いいですよね?」

 その日を境に、九品さんと逢瀬を重ねる日々が始まった。

「今日もって、貴女昨日も……」

「えー? じゃあいいんですか? これ、学校中にばらまくことだってできるんですよ?」

 九品さんは、あの日の見せつけるような私の物思いの様子をスマートフォンに収めており、私が口答えをしたり言葉を濁そうとするたび、それを眼前にちらつかせて脅迫まがいに私に迫った。

「ねぇ先生、私たちってすごく幸せな関係だと思いませんか? 同じ気質レズどうしがこうやって出会えて、誰にも邪魔されず愛し合うことができるんです。もっとカラダに正直になりましょうよぉ」

「……ここは、学校なのよ……」

「その学校で、高校生の汗でびしょびしょの下着を吸いながら何をしてたんでしたっけ?」

「……っ」

 九品さんは椅子に座る私の背後から私を抱くように腕を回し、眼前に動画を流したスマートフォンを握ってそれを愉しげに見つめる。

 背中にのしかかる九品さんの柔らかい感触に、私は必然、そのふくらみの形や色を思い出してしまう。そうなると私の脆い自制心などは途端に瓦解して、あとはどう九品さんのせいにしながらその渦に身を任せていくかを、内腿を切なくすり合わせながら思うことしかできない。

 九品さんは、私がその程度の人間であることを見抜いていたのだ。邪な理由でこの仕事をし、そうして降って湧いた歪な幸運に己を律することもせずありつこうとする、漫然と歳を重ねただけのふしだらな雌だということを。

「私、そういう先生だから好きなんだけどな~? オトナで、キレイで、私のいいなりになる」

「…………今日は、どうしてほしいの」

「ほぉら。意志がよわよわでも私よりずっと年上なんですから、ちゃーんと私のこと、甘やかしてくださいね?」

 九品さんはそうやって私をいつも虐げた。そして、それが私という女に対する正解であることもよくよく理解していた。

 私たちレズビアンは分かってしまう。相手がどういう匂いをして、どういう役割を求めているのかを。

 その点で九品さんは目敏かった。本当の私がどれだけ被虐欲にまみれた雌豚かということを、数回の逢瀬も経ずに得心してしまうのだから。

 そうして今日も、図書準備室は衣擦れの音と二人の声だけが聞こえる場所になる。

「狡いのね。私がどうしようもないネコだと知っていながら、タチであることを求めるなんて」

「大人としての最低限の義務だと思いますけど? それに、そうやって煮え切らない気持ちでいるのも気持ちいいんですよね? ふふっ、先生ってほんとマゾですね、私もされるの好きだから分かります。っ、もっと……っ」

「……っ、私のことを、毎日木の棒で突っついて、遊んでいる貴女が……っ?」

「んっ、そうですよ。私も毎日大変なんですっ、家でも、塾でもっ、だからっ、学校くらい好きにしたいでしょ……っ? あっ、かわいい女の子に囲まれてっ、キレイなマゾネコ先生にほどこさせてっ、充実してる、勝った、って、思いたいでしょ……っ」

 恋煩いの狭間で吐露される言葉の断片から、九品さんが何かに苦しんでいることには気づいていた。それに抗うためにこうして性に溺れようとしていることにも。

 けれど、そこに大人として、教師として踏み込んでいく勇気を持てなかった私は、やはり教育者として相応しくなかったのだろう。

 そう、私の心の中には純粋に、彼女のことを誰よりも深く知れているという女の優越感だけが据わっていた。

 未だ塞ぎ切らない遠い夏の失恋の傷を癒やしたかったのか、その根源たるあの子に対するささやかな復讐心ゆえか、それともそれらをない交ぜにしてこじらせた、ただの制服少女コンプレックスの産物か――弱冠十五か六の少女を前にして、何が三十路の女を分別のつけられない恋愛脳バカにさせたのかは分からない。

 その時の私はただ、その類稀たぐいまれな美貌のうちに暗い感情を光らせる九品香蓮という少女に惹かれ、まるで誘蛾灯に寄っていく蛾のように、その危うい輝きに心の全てを預けてしまったのだ。


 そうやって溺れれば溺れるほど、その関係がひずんでいくことに心は耐えられなかった。

 私との蜜月と並行して、九品さんは他の女生徒ともねんごろになっているようだった。高校二年生になると、その苺狩りは激しさを増していった。本棚の奥の陰は摘み人の根城となり、護り人たる司書わたしの務めも疎かになろうものなら、図書室は簡単に果実の薫りの立ち込める香箱と化した。

 彼女のことを想えば想うほどに、私も彼女の頬張る果実の一つでしかないのだと気づかされ、幾度も嫉妬に身を焦がした。それも、齧りつくそのどれもが瑞々しく色鮮やかな若い果肉をしているともなれば、片や熟れ切った女の肉をどうすれば価値あるものと信じていられただろうか。

 ようやく手を引かれた日には、それまでの暗澹たる思考も朝露に溶け、愉悦を爛々と花開かせて彼女と舞う。そうしてまた彼女が別の少女と手を繋ぎ舞うたび、私は心の鈍痛を大きくして、それを繰り返す。そういう人だから仕方がない。我慢すればまた満たしてくれる。その愛の支配下に私を置いてくれる。――自分が都合よく扱われているという発想ができない私は、あの夏の日高三の自分から何一つ変わっていなかった。

 そんな折に現れたのが大井希だった。当時高校一年生だった希は、九品さんと私の蜜月を知り、それを利用して私に肉体関係を迫った。倫理観の崩れ去った脳内では、九品さんに対する寂しさを都合よく埋める存在として、希はこの上なく都合のいい少女だった。私はいやいや従うフリをして自分の体を彼女に預けた。

 最初は心身の寂しさを一時いっとき埋められればいいと思っていた。そう思って委ねてみれば、希と私は信じられないくらい本質の面で合致してしまった。希は思う存分にその嗜虐欲をふるい、私を正しく被虐の徒として支配した。それは九品さんとの逢瀬の中では決して満たされなかった部分であり、それが満たされることの喜びを、希との日々の中で私は悲しいくらいに享受していった。

 九品さんへの気持ちは変わらなかった。けれど私の体は充実することを拒めなかった。

 過ごす時間の比率が九品さんと希とで完全に逆転した頃には、九品さんは図書委員会に顔を出さなくなった。九品さんが高校二年生の秋の頃だった。


 翌年の二月、それはちょうどバレンタインデーの日だった。

 放課後、いつも通り図書準備室に詰めていた私は、聞かなくなって久しいその声色を耳にして、高鳴る心臓に引っ張られるようにして図書準備室の扉のノブを握りしめた。

 そのまま開け放とうとして――その手を凍りつかせた。

「図書委員って何をするの?」

「うーん、図書室の受付に立って、本を貸したり返してもらったりする作業?」

 九品さんは、それまで図書室に連れてきたことのない女生徒と話をしていた。私の知らない黄色い声で、私の知らない足音のリズムで。

 上擦りそうな声を意識して抑えつけたようなその喋り方が、九品さんの変容をこの上なく言い表していた。

 ただの苺摘みならよかった。

 けれど、どうやら九品さんは、その人のことをきだった。


 許せない。

 その感情だけが頭の中をいっぱいに占めた。

 また私を置いていくのか。散々私の心を独占しておいて。いらなくなったら次のひとのところにいって、あまつさえその女に本気になって。

 九品さん以上に許せないのは相手の女だった。どんな手練手管を弄してあの魔性の猫を使役したのか、一度この目で見ずにはいられなかった。

 私は呪いの言葉をぶつぶつと机にぶつけながら午後五時を待ち、意を決して図書準備室の扉を開けた。

 するとどうしたことか。そこにいたのは、どこにでもいそうな普通の女の子で。九品さんのように蠱惑的な女性を脳裏に描いていた私は、それを見て呆気に取られてしまった。

「あとは任せてください」

 九品さんが姿勢を正して私に声をかけていた。それがあまりに当たり前のような声色をしていたから、私も流されるように微笑を返して、そのまま図書室を後にした。

 浮ついた心でよろよろと足を動かしていると、遠のいた図書室から、九品さんの弾けるような声が響いた。

「おまたせ! 先生ようやく行ってくれたよぉ」


 職員室で荷物をまとめ、あとは帰るだけなのに、私の心は未だ九品さんに向いていた。

 会って、何をしようと思ったわけではない。ただ、やっぱり認められなくて、九品さんと話さずにはいられなくて、私はふらふらと図書室の方に向かっていってしまう。

 その途中、希がまるで待っていたかのように廊下の端に立っていた。

「あのおふたり、まだ図書室にいますよ」

「……何が言いたいの?」

「雅が心配なんです」

 人を食ったような笑みを顔に貼りつけて、希は私にそう言った。

「放っておいてちょうだい」

 憐れむようなその眼差しに、私の足取りが確かなものになった。そう、私は許せないのだ。私から勝手に離れていった九品さんも、その九品さんをそうさせた上野毛ひかりという女生徒のことも。

 私は希の言葉を無下にして、募る嫉妬に煽られるまま、図書室に向けて歩みを早めた。


「九品さん」

 二人は眼前に迫る私の存在にも気づかないといった様子で、仲睦まじげに話をしながら私の脇を通り過ぎようとした。

 だから声をかけた。それだけのことなのに、私を見る九品さんの目は刺すような鋭さをしていた。

「なんですか?」

「ちょっと、委員会のことで」

「わかりました」

 それだけの会話が怖かった。

 怖いのは、九品さんが、じゃない。

 九品さんに事実を告げられて、心の瘡蓋が剝がれてしまうのが怖かった。


「貴女がここに呼ばれた理由、分かるわよね?」

 私は図書準備室に九品さんを連れ込み、後ろ手に鍵をかけて、その背中に問いかけた。

 無視されるかもと思っていた。けれど九品さんは髪を揺らしながら振り返り、私に満面の笑みを向けた。

「さあ、分からないです」

「九品さん、私たち……っ!」

「私たち、なんですか?」

 九品さんは私に言葉を引き出させようとした。その冷たくて余裕のある態度が暗に私に警告していた。あなたがこれから言おうとしていることは、あなた自身を苦しめることになるだけですよ? ――と。

 それでも私は確かめないことができなかった。

「私たち……好き合っていた、わよね?」

 彼女の心の在処ありかが、一時でも確かに、私であったという確証が欲しかった。

 そうじゃないと、私の時間はまた、夏の日差しと少女の笑顔の中に囚われて止まってしまいそうだったから。

 その独り善がりの必死さが、私の肌から、目から滲んでいて、だからこそ彼女は嗤っていたのだろう。

「ねえ先生。人を好きになるってどういうことだと思います?」

「えっ……」

「その人のことしか考えられなくて、他のことが手につかなくなる。そういう状態のことを言うと思いません?」

「何が言いたいの……?」

 色情に散々狂っていた貴女が、何を今さら綺麗ごとを? ――言外にその注釈を挟み、その旨をしかと汲み取ってなお、九品さんは『得た』人の目をして私を見た。

「だから、私は今、他のことが手につかないんです。先生のことも、それ以外の子のことも」

「私が聞いているのはそういうことではなくて……!」

「あの時、セックスしてた私たちはどういう関係だったか、ってことですか? もう覚えてませんけど、それなりに好きだったんじゃないですか? ……ああ、でもこの気持ちが『好き』なら、それまでのは全部そうじゃないか……やっぱり、そのとき限りの体の関係、ってことにしておいてください」

「……じゃあ、あの子と体は重ねたの?」

「あの子……ひかり、とですか?」

 九品さんは珍しく言葉を濁して目を伏せた。私はそれこそが上野毛ひかりと私の差であると察した。結局、どれだけ綺麗ごとを並べても体の繋がりに勝る愛はないと私は思っている。だから九品さんと上野毛ひかりがその一線を越えていないなら、たとえ一時の関係だったとしても、九品さんの中にはまだ私の指紋あとが残っているのだと信じられた。

 所詮、九品さんと上野毛ひかりはおままごとの関係だ。濃い味ばかりの人間関係に飽きて気まぐれに薄味のそれに手をつけて、でも結局濃いのが好きな人は濃いのに戻ってくる。そのように相場が決まっている。

 ね、そうでしょう? と、私は膝を少し折って、九品さんの表情を下から窺い見た。きっとそこには年齢相応のばつの悪いむすくれ顔が広がっていると、そう信じて。

「――っ」

 そうして、私は二、三歩と後ずさった。

「……ひかりとは、まだそんなことできません。ひかりのこと、変えちゃいたくないし」

 頬を朱に染め、キラキラと目を潤ませた少女がそこにはいた。

「だから、もう行きますね。先生、今までありがとうございました。もう私に関わらないでくださいね」

 少女は、九品さんは私に軽く会釈をしたあと、目線を熱く真っ直ぐにして、図書準備室を飛び出していった。

「……その顔は、私に向けられるものだったはずなのに」

 壁に背をもたれ、手を握り締めそう独り言ちた私は、いまや嫉妬に狂うただの一人の女だった。


「上野毛さん、でしたっけ」

 私は九品さんの後を追ってその名前の女生徒を捕まえ、図書準備室に閉じ込めた。九品さんはゴミを見るような目で私を見ていたが、もうそんなことはどうでもよかった。

 九品さんはこの頃委員会をサボりがちだ。その原因がこの女生徒にあるなら言っておかなければならなかった。なのでそれは正当な指導だった。

「九品さんが委員会に出なくなったのは貴女のせいね? お友達ならしっかり言ってあげるべきではないの?」

 私はここぞとばかりに上野毛ひかりに思いの丈をぶつけた。そうしたつもりだった。

 けれど、上野毛ひかりはぼうっと図書準備室の扉を見つめながら、はい、はい、と適当に相槌を返してくるだけだった。そればっかりに時間を消費して、私はいよいよいきり立って彼女に迫りその肩を揺らしたが、それに対して上野毛ひかりは、

「あの、もう行ってもいいですか?」

 ぎっ、と私の目を睥睨へいげいしながらそう言って、それで私をし返して、元の場所へと走り去っていった。

 私は力なく椅子に腰を下ろし、目の端を伝う涙の理由も分からず、茫然と図書準備室の天井を眺めた。

「だから言ったじゃないですか。馬鹿な人ですね」

 開け放たれたままの扉から、静かに嘲るような声が私に浴びせられた。

「私をこわして。忘れさせて」

 悲しいのに気持ちいい、可哀想なのにかわいい、そんな風に欠けて腐って惨めに変形した私を、その体躯の小さな少女ははげしく抱いた。


 その日の夜、九品さん香蓮は事故死した。

 けれど、お通夜の席で九品さんの双子の姉――由蘭さんを見た時、ああ、私の夏はまだ終わっていないんだと思った。

 私はそれ以来、春の終わりから秋の始めにかけて、花束を抱いて由蘭さんのお宅を訪問するようになる。

 由蘭さんにすげなく接されるたび、あの時の惨めな記憶が鮮やかに蘇ってきて、脳が嫉妬と劣等感とでぐちゃぐちゃになって――そうやって煮詰めたスープを希にくるくると掻き回させることが、今も気持ちよくてたまらない。


 *


「そのままメスの匂いをぷんぷんさせて帰るのかしら? 私的にはそれでもいいけれど、シャワーくらい貸すわよ、ひかり」

 最初、由蘭のその言葉を聞くつもりはなかった。けれど荷物を纏めている間、スマートフォンの画面に出てきた亜紗からのメッセージの通知を見て、結局私は言われるままにシャワーを借りることを選んだ。

 いい匂いのシャンプーで頭を洗い、泡のきめ細やかなボディソープで体を洗い、ふわふわのバスタオルで体を拭いて高級そうなドライヤーで髪を乾かす。こんな状況でも図太く人の家で身だしなみを整えることができてしまう自分が嫌だった。

 けれど、そうなってしまう理由も分かっていた。私は今、香蓮の生活の跡をなぞっている。きっとそれは私だけに許されたことで、私以外の誰もが経験し得ないことで、つまり私は今、この世の誰よりも香蓮に近づくことができていて。

 でも、その香蓮はもういなくて、香蓮と同じ姿をした由蘭は生きていて、その由蘭は私のことを好きだと言っていて、不本意ではあるけど体だって重ねて。

 もしかしたら、由蘭でもいいのかな――ほんのちょっとでもそんな風に思ってしまう自分がいよいよ悪人のように感じられて、私は苦虫を噛み潰すような気持ちでドライヤーのスイッチを切り、足早に洗面所を後にした。

「まだ髪が乾ききっていないようよ」

「いいんです。お風呂、ありがとうございました」

「ガールフレンドに催促された?」

「あなたには関係ない」

 玄関で靴を履く私を、由蘭は廊下の壁に肩を預けて、余裕に満ちた微笑で見つめていた。

「お邪魔しました」

「あの子はもうこの世にはいないけれど、私はいつでも待ってるわ。貴女が私を求める限り、私は私を貴女にあげる」

 その甘くて静かな声色が、虚勢の隙間を縫うようにして耳から脳へと忍び入り、私の脆いところを勿体ぶるようにくすぐる。

 私は奥歯を噛み締め、そんな弱い自分に鞭打つようにして玄関のドアを握った。

「……私が欲しいのは、あなたじゃない」

 由蘭の甘言を振り払うようにして、私は頭の中いっぱいに香蓮の笑顔を思い浮かべながら、玄関のドアを開け放って由蘭の家を飛び出した。

 コンシェルジュのかなえが心配そうに私を見つめていたが、私はそれを軽い会釈ひとつで振り切り、マンションのラウンジを後にした。


 それがさっきまでの出来事。

 私は今、私の通っていた高校の司書の女性に誘われ、マンションの傍にある公園の、用具入れの倉庫の影にいた。

「――というのが、私と九品さんの辿った軌跡よ」

 溝口雅は私に対するマウンティングの意識を隠そうともせず、むしろその一心で自身と香蓮の過去をつらつらと語った。

 雅は香蓮を愛していたのだという。だけど香蓮からの寵愛が得られず、双子の姉の由蘭にはすげなく接されて、その香蓮が最後に選んだ、そして由蘭からも見初められた私に対して嫉妬している。つまりはそういうことだった。

「それで結局、貴女たち、セックスしてないんでしょう? 私たちはしたわ。何度も何度も、時間の隙間を縫うようにして蜜月の日々を過ごしたの」

 雅はそう言いながら小指を噛んでうっとりと目を細めた。

「それが何だって言うんですか」

「分からない? 貴女たちのそれって、本当の『好き』だったのかしら? 好きな人と体を重ね合うのは自然なことだけれど、好きなのに体を重ねないのは不自然だと思わない? 人間は貴女が思っているよりずっとカラダに正直な生き物よ?」

 雅は腕を組みながら迫り、その女性にしては大きな背丈で私を見下ろした。豊かな胸を組んだ腕の上に乗せ、ニットのノースリーブの下に女の価値がみちみちと詰まっていることを私の目と鼻の先で誇示している。容量だけは立派なそれを私は一瞥し、由蘭香蓮のそれの白さや弾力、舌触りを思い返しながら、視線を上げて雅の瞳を覗き返した。

「確かに、好き同士ならセックスするのは普通かもですね。私も香蓮としましたし」

「はあ? 何を言っているの? 頭大丈夫?」

 雅は髪先をくるくると指で遊びながら私を鼻で笑った。もう敵意を隠すつもりはないようだった。どうしても心の中の香蓮を私に明け渡したくない、そういう必死さが伝わってくるようだった。

 でも、私は香蓮のもので、香蓮は私のものだから。――香蓮の周りを飛び回るハエは、一匹だって残してはおけない。

「由蘭が言ってました。香蓮は私のことを確かに好きだったって」

「そんなの証拠がないじゃない? 二人が体を重ねた愛し合ったっていう確かな証拠が」

「だから、してきました。今さっき」

「いや……ふふっ、だから、貴女さっきから何を言いたいの?」

 私の言わんとすることを汲み取ったのだろう、雅の虚勢は今にも壊れそうだった。

 そう、この女は最初から分かってる。これが決して勝てない勝負だってことを。

 なぜなら――。

「由蘭は言ってました。私は香蓮と同じ形をしている、って。意味わかります?」

「……分からない」

中指ここの形も、ここの形も同じだってことですよ」

「貴女ね……ッ!」

 雅は私の肩を掴んで倉庫の壁に押しつけた。痛みは不思議と感じず、ただ頭を高揚した感覚だけが満たしていた。

「双子の由蘭のほかに、誰が正解を教えてくれるっていうんです? それとも、先生には由蘭が狂言をいうような人に見えてるんですか?」

「うるさいわねっ……! 望んでもいないのに平然と欲しいモノを手に入れて、それで誰かを不幸にしても平気な顔してる貴女に何が分かるの……!」

「しょうがないじゃないですか。香蓮も由蘭もそんな私を好きだって言うんですから。あなただって結局香蓮に振られて由蘭にも振り向いてもらえなくて、私に八つ当たりしてるだけじゃない!」

「この……っ!」

 雅は鬼の形相で私の肩をギリギリと握り締めた。それこそが彼女が敗北を認めている証拠であり、また私が香蓮に選ばれたことの証左でもあることを思うと、むしろ痛ければ痛いほど嬉しい気持ちに包まれた。

「香蓮は単純に私のことを大切に扱いたかった、それが真実です。なんなら香蓮と私の昔話もしましょうか? マフラーのかわいい巻き方を教えてくれたとか、カラオケではどんな歌を歌うのかとか。最近人の話を聞いてばっかで、ようやく聞いてもらえそうな人が目の前にいるんで……!」

「口を慎みなさいっ、上野毛ひかり……! これ以上痛い目を見ないと分からないのッ……!」

 肩を掴む手が首筋にかかって喉が潰れそうになる。それでも私はやり返すことはしなかった。

「やればいいじゃないですか。そしたら香蓮に直接聞いてきましょうかっ?」

 無抵抗を貫くほどに雅のみすぼらしさが際立つなら、私は首根っこを掴まれたって構わなかった。

 最後に見るのがこの女の顔というのは後味が悪いけど、それで香蓮と同じ場所に行けるのなら、私は――。


「そ、そ、そ、そこまでに、しましょうっ……!」

 塞がっていた気管に唐突に空気が流入し、私はげほげほと咳き込んでその場に座り込んだ。

 何が起きたか把握しようと顔を上げると、そこには見覚えのある制服姿に冷や汗を浮かべて慌てふためく女性の姿があった。

「溝口さま、暴力は……っ、その……っ!」

「っ、どうしてコンシェルジュの貴女が……!」

「カメラ越しに見たご両名が、剣吞な雰囲気でしたので……! その、つまり、由蘭さまのご指示によるものですっ……!」

「……あああ……っ」

 正気に戻ったのか、雅は頭を抱えて数歩後ずさった。私を見下ろすその眼差しは未だに厳しい色をしていたが、それでも自分のしたことの不味さを噛み締めているようだった。

「……大ごとにはしませんから。行ってください」

「……っ、私にはっ、九品さんが……っ」

「あなたには希ちゃんがいるでしょう。自分のことを思ってくれる人のこと、もっと大事にしてあげてください」

「希……うっ、ううぅっ!」

 雅は嗚咽をこぼすと、さめざめと涙を流し、やがて踵を返して去っていった。私はその哀しい後姿を淡々と見つめるだけだった。

「だっ、大丈夫ですか……? お怪我は……!」

「ちょっと腕とか首とか掴まれただけです。最近似たようなことがよくあったので、もう慣れました……」

「お手を……ああっ、お洋服に泥がっ、私共わたくしどもクリーニングもすぐに手配できますから、由蘭さまにお伝えして……!」

 私は鼎に差し出された手を握り、ゆっくりと立ち上がった。

「それは大丈夫です。鼎さんでしたっけ。手、ありがとうございます」

 手を鼎の方に押し返し、小さく会釈してその場を後にした。――そうするつもりだった。

「あの、あの……!」

 少し歩いたところで、背後の声に振り返る。

 もじもじと手をすり合わせながら、鼎は意を決したような表情で、その言葉をはっきりと私に投げかけた。

「香蓮さまには、ずっとお慕いしている方がおりました……!」

「えっ――」

 切迫した表情と言葉のもたらすニュアンスが、その『お慕いしている方』が私では『ない』ことを、暗に言い示していた。

 陽はいつの間にか落ち、辺りは暗くなり始めていた。五月のがれ時に吹く風が、いやに涼しく私の髪をさらっていった。

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