第七話 私はあなたが好きだった ―九品由蘭―

 空は青く澄み渡っていた。

 同じ二十度の気温でも、四月のそれと違って五月は暖かい。クローゼットには水色や黄色の服が並び、心もどこか軽やかになっていく。

 ひと月も経てば梅雨がやってきて、それを過ぎればもう夏だ。そうなると、このかわいい色の長袖たちは五月の間しか日の目を見れない。それがなんだか勿体なくて、私は五月だけ活動的になる。

 それが私のいつもの五月だった。


 私の世界は、前にも増して亜紗を中心に回っていた。

 だからと言って、特別何かがおかしくなったということもない。亜紗との日々は平穏で、笑顔にあふれていた。少し変わったことと言えば、手をつないだりキスをしたり、たまに体を重ねるようになったことくらい。

 亜紗のことは好きだった。亜紗がいないと、私は人恋しさで寂しくなった。そんな時、亜紗はすぐに私を家に呼んで、一緒にご飯を食べて、一緒に寝てくれた。私が欲しがる時は素肌で交じり合った。あったかくて気持ちいいのと安心するのとで、私は亜紗とするそれが好きだった。

 そのうち、亜紗とずっと一緒にいた方が寂しくないし楽だということに気づいて、私は亜紗の家にほとんど居着いているような感じになった。亜紗の機嫌はずっとよかった。亜紗の家には二人の写真が増えた。春らしい色合いの洋服に身を包んだ亜紗と私が楽しそうに笑っていた。


 でも。

『……私はカレンを好きだった。なのになんで選ばれたのがあなたなの、どうして私じゃなかったの……!』

『分かりましたよね? ひかり先輩は、香蓮先輩が選んだひとなんです』

『ひかり……そんなに香蓮ちゃんに会いたい?』

 幸せな映像にノイズが混ざるようにして、ぶつけられた言葉が脳裏をよぎる。

 最初、傷ついた心が見せるフラッシュバックのようなものだと思った。時間が解決してくれると思って、しばらくは気にしなかった。

 でも何か月経っても変わらなかった。当時受けた傷やショックが和らいだはずの今でも、それらは時折現れては私の心に苦い気持ちを残していった。

 亜紗と笑ってる時も、体を重ねてる時も、不意に訪れる残像が私を苛む。まるで私が何らかの罪を犯していて、それを責めるかのように。

「ひかり? ちょっと、また話聞いてないでしょ」

 頬をつんと突かれて、私は気づいて亜紗の顔を見た。

「ごめん、ぼーっとしてた」

「お腹いっぱいになって眠くなっちゃった? 今日は早めに寝ようか」

「亜紗」

「うん?」

「今日も……したい」

「いいよ。じゃ、ベッドいこうか」

 亜紗は私をベッドに連れていく。私は導かれるまま仰向けになり、降りてくる亜紗の唇を受け入れる。

 亜紗は私が好き。だから私も亜紗が好き。そこには何の疑いもなくて、だから私たちは毎夜ひとつになって。

 でも。

 でも――。


 *


 土曜日。空は今日もよく晴れていた。

 初夏を思わせる日差しを一身に浴びて光るその高層マンションを、私は放心して見上げていた。

 たまにポストに入っているチラシで見るのとはわけが違う。実際に目の当たりにしたそれは、あまりに大きく、荘厳で、私のような普通の人間が立ち入ることを拒んでいるようにさえ思えた。

 ただマンションに入るだけのことなのに、足が竦む。だって今まで見たどんな建物より立派で豪華だ。もしかしたら私は住所を間違えていて、本当はここは高級ホテルなんじゃないかとさえ思ってしまう。

 けれど、手にした香蓮の三回忌のお知らせに書かれていた住所が示しているのは、確かにここだった。

 進めもしないけど、戻れもしない。家には着替えを取りに戻るだけのはずだったのに、気づけばワープしたかのように、私は今ここに立っている。

 もう、喉元までせり上がってきているこの違和感や罪悪感に耐えられない。亜紗にそれを日夜そそがせていることもそう。なのにちっとも消えないどころか日に日に大きく膨らんでいってるのもそう。私は亜紗に対して何かが無性に申し訳なくて、今までみたいに笑うことができなくなってきている。

 夢の中では女たちが一つの名前をかわるがわる囁いてくる。私に何かを認めさせようとしてくる。私はそれを否定したかった。否定して、また亜紗と今まで通りに過ごしたかった。

 そのためには、この不快感の根っこに対峙して、取り除いてしまう以外に方法はないと、私はそう思ったんだ。


 自動ドアをくぐると、風除室と言うにはあまりに広いそのスペースが私を飲み込んだ。

 壁には絵や植物が飾られていて、どこかに向かって道が伸びていた。マンションでよく見るようなオートロックのインターホンがなかなか見つからない。私は恐る恐る道を進んだ。

 決して短くない距離を歩いてからようやく、次のスペースにつながる自動扉と、そばに設置されたオートロックの機械が視界に入って、私はそこに近づいていく。

 そこには想像通りのボタン式のパネルが置かれていた。たった四桁の部屋番号をタッチするだけのことなのに、ふるふると指が震える。

 自動扉が静かに私を見下ろしていた。

 ここを一度抜けてしまったら、あなたの見たくないものを直視することになるけど、いい? ――そう無言で警告されているような錯覚に陥る。

 その最後の警告を振り払うように、私は意を決して、凍える指で呼び出しボタンを押した。

「はい、来訪者の方でしょうか?」

 こちらの決意とは裏腹に、返ってきたのは、コールセンターのような業務然とした声色だった。

「……お名前を頂戴してもよろしいでしょうか?」

「あ……上野毛、ひかり、といいます」

「かみのげ、ひかりさま……ですね。少々お待ちください」

 それは業務然というよりも、本当に業務としてやっているらしい受け答えだった。こういう仕事をなんていうんだったか。どこかで相応しい呼称を聞いた気がする。

「上野毛ひかりさま」

「はいっ」

 いかにも上品そうな女性の声に呼びかけられ、心臓がばくばくと早鐘を打つ。何を聞かれるんだろう、そもそもここに入れるんだろうか、もう帰りたい――そんな風に身を縮こまらせていた私に対し、インターホンの向こう側の女性は小さく息を吸った。そして。

「九品さまがお待ちです。どうぞお入りいただき、ラウンジのカウンターまでお越しください」

 心なしか先ほどより柔和さを帯びたその応答を合図に、目の前の扉が、低い機械音を立てて開いていった。

 私は呆気に取られてその様子を見ていた。どうして自分に入場が許可されたのか。待っていたとは、どういう意味だろう。

「そのまま真っ直ぐお進みいただきますと、カウンターがございます」

「あっ、はいっ」

 迷う背中を案内の言葉が押す。心を整理する間もなく、勢いのままに私は自動扉をくぐった。

「う……わ」

 そのまま少し進んだところで急に空間が広がる。眼前に広がるその光景に、私は思わず息を飲んだ。

 天井はコンサートホールのように高く、床は一面の大理石で、ガラス張りの壁からは燦々さんさんと陽光が差し込んでいた。こんな立派なラウンジのあるマンションを私は見たことがない。

 歩くたびに無駄に靴音の響き渡るその場所を、私は居心地悪く進んでいく。受付らしい場所を見つけて近づいていくと、襟のついた制服に身を包んだ女の人が――そうだ、コンシェルジュというんだっけ――私を見て恭しくお辞儀を一つした。

「こちらへどうぞ、上野毛さま」

 四人いるうちの一人にそう呼びかけられ、私はおずおずとカウンターに近づいていく。きっと用件を聞かれるのだと思い、なんと答えようかと思うと、途端に焦りがこみ上げてきて目が回ってくる。友達に会いに来た? でも、その友達は二年前に亡くなっていて、って説明するのがいい?

「ご用件は九品さまより伺っております。お手数ですが、こちらにご記名をお願いいたします」

「えっ?」

「こちらの太枠の欄に、お名前をお書き入れください」

 えっ、て言ったのはそうじゃない。伺っておりますとはどういうことだろう。私は今日のことを誰にも話していないし、アポなんて当然取ってない。

 そのまましれっと書いてしまうこともできたけど、そうするだけの度胸があったらこんなに迷ってないし怖がってもいなかった。流されるまま今まさに走らせようとしたボールペンのペン先を、私はすんでのところで止めた。

「……あの」

「どうかなさいましたか?」

「……今日、私が来ることを知っていた、その、九品さま、って、どなたですか」

 素っ頓狂なその質問にも、対するコンシェルジュの女性は顔色を変えずに傾聴した。

 少し意図を咀嚼するような間があったあと、女性は少しだけ私に顔を寄せて、小さく口を開く。

「九品、由蘭さまです。……亡くなられた香蓮さまの、双子のお姉様です」

 どうしてそこで香蓮の名前が出てくるのか。その意味を汲もうとした瞬間、理由の知れない冷たい感覚が、つーっと背筋を這いずった。


 私の記名を確認してすぐ、コンシェルジュの女性は電話を持ち上げ、誰かと短い会話をし、受付のカウンターを出て「こちらです」と先導するように歩き出した。

 私は導かれるままにその背中についていく。廊下をいくつか曲がり、エレベーターに乗り込み、コンシェルジュの女性が三十六階のボタンを押した。

 エレベーターがふわっと加速すると、沈黙が私たちの間を包んだ。何か話しかけようとも思ったけれど、話題なんてあるはずもなく、私は昇っていく階数表示を見たまま押し黙った。

「三十六階でございます」

 言葉と共にエレベーターの扉が開き、さらに奥へ奥へと案内されるままに私は進んだ。ラウンジ同様の大理石の廊下をひたすら踏みしめていく先、永遠にも思えたその歩みがようやく止まる。

「九品さま。上野毛さまがお越しです」

 玄関のインターホン越しに、コンシェルジュの女性は極めて丁重な口調でそう告げた。

 少しの間を置いて、ガチャ、と開錠を知らせる機械的な音が響く。

「上野毛さま、どうぞ」

 コンシェルジュの女性は、そう言うと玄関の前から三歩ほど後退した。私にその場所を譲ろうということだろう。察した私は、まだ浮ついたままの心でその場所に立った。

 数秒ほど置いて、ゆっくりと玄関が開き、その隙間を広げていく。

 妙にスローモーションになる視界で、まず目に入ってきたのは、流れるような黒い髪だった。

「――待っていたわ、いらっしゃい」

 冷たく澄んだ声だった。その声の中心に向かって、私は長い髪の先から辿るようにして女性の姿を見上げていく。

 視界が水平より少し上のあたりを捉えた時、そこには、私の記憶の底で眠っていた――それよりもずっと大人びた――女性の顔があった。

「九品由蘭です。あなたが上野毛ひかりさんね」

 すらっとした紺色のワンピースを着て、九品くほん由蘭ゆらんと名乗るその女性は微笑んでいた。

「九品……由蘭、さん」

 三回忌のあの日、その人から逃げるようにしてお寺を後にしたのを思い出す。

 その時は、香蓮とそこまで似てないと、確かにそう思った。今だって、耳にしたその声は細く、雰囲気などもずっと冷ややかで淡白で。

 なのに、こうして近くで顔を見ていると、まるで大人になった香蓮がそこにいるかのような錯覚に陥ってしまう。髪型も、表情も、あの頃の香蓮とは全然違うのに。

「来てくれると思っていたの。さあ、上がって。かなえ、貴女は下がっていいわよ」

「はい、失礼いたします」

 鼎と呼ばれたコンシェルジュの女性は、由蘭に対し深々と一礼をし、同様に私にも頭を下げて、静かに踵を返した。

 そうだ、鼎。コンシェルジュの。確か、香蓮の三回忌の時にもいた人だ。

「どうしたの。鼎が気になる?」

「えっ、いえ、会ったことあったなと、思って」

「そうだったわね。あの日、鼎もあの場所にいたものね。立ち話もなんだし、中に入って」

「……お邪魔します」

 由蘭が広げた玄関のドアの隙間から、私は香蓮の――由蘭の家に、足を踏み入れた。

 白を基調とした石造りの玄関には靴が置かれておらず、私はまずそのことが気がかりだった。玄関と廊下を区切るのも小さな段差ひとつで、一体どこで靴を脱げばいいのか分からずもたもたとしてしまう。

「親はいないのよ。この家には滅多に来ないから、のびのび過ごしてくれていいわ」

 玄関の鍵を閉めた由蘭は、通り過ぎざま、私の顔の近いところでそう言った。顔が近い。そのことに嫌な懐かしさを感じながら、私は靴を脱いで揃え、由蘭の背中に続いていく。

「広すぎるでしょ。私もそう思っているのよ。でもあてがわれてしまったから」

 廊下を抜け、案内されたリビングと思しきその部屋は信じられないほど広く、壁のほとんどはガラス張りになっていた。

 高層ビルの立ち並ぶ東京で、それらを見下ろすことのできる場所が一体どれだけ存在しているだろう。それはそのまま由蘭と私の生き物としての格の違いを言い表しているようだった。

「紅茶を入れたからこっちに来て」

 由蘭はトレーに高級そうな茶器を乗せ、それを大きなダイニングテーブルに置くと、ティーポットからとぽとぽと紅茶を注いでテーブルの一角に置いた。その前には椅子が置かれていて、どうぞここに座って、と由蘭が微笑みながら目配せをしてくる。

 その瞳の言い得ぬ魅力には覚えがあった。私はいざなわれるようにしてそこに座る。由蘭は私が素直に従ったのを見届けてから、静かに対面の椅子に着席した。

「何が聞きたいの? 貴女にならなんでも話すわ」

 紅茶に口をつける暇もなく、由蘭は唐突にその言葉を私に突きつけた。

 驚き見たその表情には余裕が満ちている。どこか遊ばれているような気さえして、私は簡単に言葉を返すことができずにいた。由蘭はそんな私の様子さえ予め分かり切っていたかのように、その微笑みを絶やさず続ける。

「そろそろ来ると思っていたのよ。思ったよりも早かったけれど」

「え……」

「そう固くならないで。のびのび過ごしていいと言ったわ」

 由蘭はティーカップをそっと口に運ぶ。その優雅さと相反するような落ち着きのなさで私も紅茶をそっと啜った。高級そうな香りと味がした、けれどそれを楽しむだけのゆとりは今の私にはなかった。

「同い年よ、私たち。何か誤解してるのかもしれないけれど、私だって普通の人間よ。カップラーメンも食べるし、コンビニにも行くわ」

「……ひとり、って、言ってましたっけ」

「そう。あの子が死んでからはずっとね」

 息を吐くような軽さで紡がれたその言葉には、文字通り吐息ほどの重みしかないように感じられた。私にはなぜかそれがとても不快で、じっと由蘭の目を見つめてしまう。

 由蘭はそんな私を見て、ほんの少し目を見開いてから、ふ、と腑に落ちたような含み笑いをした。

 そうして弛緩した風に頬杖をついて、その目を一層妖しく細めて私に向き直った。

「なるほどね。あの子が貴女のことを好きだと言った理由が少し分かったわ」

「え……っ」

「聞きたくなかった、って顔ね。どうしてそんなことを思うのかしら」

 由蘭は淡白な口調に確かな興味を忍ばせて私をろうしていた。私を言葉で操っているようだった。

 悪趣味だと切り捨てることは簡単だった、けれどそうできなかったのは、与えられた言葉が的確に私の心の真ん中を突いていたからだった。

 香蓮が、私のことを好きだった――。

「……みんな、そう言うんです。どうして? 好きってなんですか?」

「言葉の意味通りではないかしら? あなたの言う『みんな』と、きっと私は同じ感想を持っていると思うわ」

「だからそれってどういう! …………すみません」

 思わず声を張り上げてしまったことに、誰よりも私自身が驚いていた。

 気持ちを落ち着けるために紅茶を口に運ぶ。そんな私を、由蘭は相変わらずゆったりとした表情で眺めていた。

「好きにも色々あるわね? 家族としての好き。恋人としての好き。友達としての好き。あなたにとってあの子はどの好きなの?」

「っ……! 私にとって、香蓮は……!」

 ――言い切れない。

 これまで他の子たちに言い切ってきたことを、この人の前では言い切ることができない。どうして?

 香蓮はもういないのに、何を今さら私は躊躇っている?

 簡単だ、ただの友達だって言えばいい。今までと同じように、香蓮はただの一人の友達だったと、ほんの数か月を過ごしただけの気まぐれなクラスメイトだったと、そう言ってしまえばいいのに。

 でも、もしそう言ってしまったら、本当にそうなってしまう気がして。由蘭に伝えた瞬間、それが真実になってしまう気がして。

 香蓮がじっと、私の言葉に耳を澄ましてるような気がして――。

「来て」

 逡巡する最中、由蘭はそう言うと唐突に席を立って歩き出した。その迷いのない一挙一動に面食らうも、言われるままにその後をついていく。

 そうして、ある部屋の前で由蘭は立ち止まった。

「ここに人を通すのは初めてよ。あの子が死ぬ前も、死んでからも」

「……香蓮の、部屋?」

「そう」

 由蘭はすぐには扉を開けなかった。まるで私の心が決まるのを待っているかのように、ドアノブを握ったまま、じっと私の顔を見つめている。

「……そんなところに、私が入っていいんですか?」

「さっきの貴女の顔を見ていたら、そうするのが正解だと思ったわ」

「顔、って……」

「あの子を求めて家に遊びに来る子は多かったけれど、そんな泣きそうな顔をして来る子はただの一人もいなかったわ。それに、あの子が死んで二年たっても、同級生で来てくれたのは貴女だけ」

 囁くように告げられたその言葉には一体どんな感情がこめられていただろう。絶えず微笑を湛えたままのその表情を見ても何も分からない。

 ただ一つ分かるのは、由蘭はその『誰も入れさせなかった』部屋に私を踏み入れさせようとしている、ということだけ。

 怖かった。けれど、私がその最初の一人になれるなら、なりたかった。

「ここに、入っていいですか?」

 私は由蘭に一歩近づいてそう言った。

「ええ。いいわ」

 由蘭は私の言葉を受け取ると、カチャ、と迷いなくノブを捻った。


 入ってすぐ感じたのは、ほんのり残る女の子の匂いと、それを覆い隠すほどの埃の匂いだった。それだけで本当に長い間この部屋に人が立ち入っていなかったことが分かる。

「あの子の部屋よ」

 由蘭が部屋の電気のスイッチを押すと、その光景の全てが私の視界に収まった。

 床に引いたラグマットの上にはかわいい柄のクッションがぽつぽつと転がっていて、ベッドの上の布団は少しめくれていて、薄桃色のカーテンは天気を確認するためか少しだけ開かれていて、勉強机には大学入試の参考書が並んでいて。

 まるで、この部屋だけ時間が止まっているようだった。だから時間が動き出せば、これから部屋の主が帰ってきて、そのまま元の生活を続けるんじゃないか――そんな気配さえ感じてしまうほどに、そこには人が在った気配が残留していた。

「こうして見ると、まだあの子がいるみたいに思えるわね」

 由蘭は勉強机の上に置いてあった写真立てをじっと見下ろしていた。その目は遠くを見ているようでもあったけど、一体その先の何に焦点を合わせているのかまでは私には分からなかった。

「片付けて、ないんですね」

「あの日からそのままよ。だから入ったのは二年ぶりね。あの子の写真を見たのも二年ぶり」

「妹なのに?」

「よく知らないくせに、言ってくれるわね?」

 ふふ、と由蘭は興が乗ったように声を色めかせて横目に私を流し見た。由蘭の反応の理由はいちいち分からない。やはり自分とは異質な存在なのだという認識がどうしたって深まっていく。いつか紀実加の語っていた『機械のような人』という印象が嫌に当てはまってしまい、思い出したくないことを思い出して気分が悪くなる。

 そんな私の様子さえ見透かすような妖艶な目をして、どこかうっとりとした表情を浮かべながら由蘭は私に近づいた。それを前にして、蛇に睨まれた蛙のように動けないでいた私の横を、黒く綺麗な髪がさらりと揺れて通り過ぎていく。

「せっかくだから、この部屋で話しましょうか。私、あなたのこともっとよく知りたいわ」

 紅茶を持ってくるわね。そう言って由蘭の足音はリビングの方へと遠のいていった。

 私は由蘭が立っていた場所に同じように立ち、同じように勉強机の上の写真立てを見下ろした。

 由蘭の横で笑う、制服を着た香蓮の写真。

 それを見た時、今まで自分の中で燻っていた感情の正体が今まさにここにある気がして、心がざわざわと波立った。


「笑顔が素敵でしょ、その写真」

 どれだけの時間、じっと写真を眺めていたのだろうか。

 由蘭は茶器の乗ったトレーを両手に持ち、部屋に入りざまざまに私にそう声をかけた。

「私、どうやっても笑顔では勝てなかったから、あの子が私と撮った写真を部屋に置いておきたかった気持ちは分かるわ」

「どういうこと、ですか」

「追って話すわ。とりあえずここに座りましょう。床に座るのって落ち着かないわね」

 由蘭はそう言うと、ちょうど部屋の中央あたりに置かれた足の短いテーブルの上に茶器の乗ったトレーを置き、クッションを一つ適当に取り上げて、その上に姿勢よく正座した。部屋中に紅茶のいい香りがゆっくりと充満する。それまで居残っていた部屋の匂いの一切合切が、その高尚な香りに駆逐される。

 由蘭にならい、私もクッションを拝借してその上に正座した。由蘭にすぐ「崩していいのよ」と微笑み混じりに言われ、どうするか迷った挙句、私は慣れない正座をやめて足の形を崩した。

 由蘭はどこを見るでもなく、紅茶を静かに口に運んだ。その様子は記憶を紐解くようでもあり、語るべきことを選別しているようにも見えた。そのちょっとの静寂にも耐えられない私は、手持ち無沙汰にティーカップをつまんで同じように紅茶を口につけた。

 そんな私の落ち着きのない様子にも、由蘭の表情はやはり薄い笑み一つで微動だにしない。ただただ静かに観察するような、まばたきの一つもない視線が私に注がれていた。

「さて、結論から先に言おうかしら。あの子がああなってしまったのは私のせいよ」

「……ああなった、っていうのは……えっと」

「性に奔放、というか依存していたところよ。私、小さい頃からあの子で自慰行為をしていたの」

 それはあまりにも急な切り出し方だった。心の準備がまるで追いつかず、相槌一つ返せない。けれど由蘭はそんな私の反応さえ楽しむように続ける。

「自慰というのは比喩でもあるし、文字通りでもあったわね。だってあの子、かわいかったんだもの。私の言うことならなんでもはい、はいって聞いてね。小学生の時だったかしらね? ある時、私のおまたをいじりなさいって言ったら、ほんとにいじってくれたの」

「お、おまたって」

「女性器のことよ。こういうのって何かをきっかけに急に気づいてしまうものでしょう? あなたにだって覚えがあるはずよ」

 一瞬の中に詰め込まれたオブラートも何もない情報の羅列を前に、頭が正しくはたらかない。

 性の知識がつくより前に、何かの拍子でふんわりとした気持ちよさを局部に感じてしまうことがある、というのは理解できる。

 けれど、だからって、由蘭は香蓮に自分のそれをいじらせていた?

「姉妹だから、当然そこに恋愛感情はないわ。私が一方的にあの子に命令してやらせていたの。だから性交ではなく自慰行為だったというわけね」

「そんな、当たり前のように言われても……!」

「普通じゃない、とでも言いたいのかしら。本当にそうかしらね? だって、あなたも同じようなものでしょう?」

 どうして? その不快さをこめた精一杯の疑問は、言葉にするまでもなく目か顔に出ていたのだろう。由蘭は私の視線や表情から私の答えを汲み取ってなお、確信に満ちたその態度を崩さない。

「あの子に気に入られる、いいえ、あの子に『好かれる』ような子が普通であるわけないもの。それに貴女、女性が好きでしょう?」

「そっ……そういうのじゃ……」

「でも立派に女性を知っていそうな顔をしているわ。私には分かるのよ、あなたのことが手に取るように。あなたのことなら誰よりもよく知ってるの」

「……あなたに、私の……私と香蓮の、何が分かるんですか」

 ひかりのことなら誰よりもよく知ってるから――それは、いつか香蓮が私に言ってくれた言葉だ。

 その言葉を今、双子の由蘭の口から告げられて、私はそれが無性に許せなかった。

 けれど、由蘭にとってはそれすらも想定通りの問答のようだった。

「知ってるのよ。あなたのことは、あの子の口から嫌ってほど聞かされていたから」

「えっ……」

「あの子の知る限りの情報を私は持っている。それなら『誰よりもよく知っている』となるでしょう? 貴女にとっても、あの子は一番貴女のことを知っていたと言える存在ではなくて? それとも他に懇意にしている女性がいるのかしら」

「う……っ」

 くすくす。由蘭の微笑みが意地悪く歪む。

 口調も感情も一定で、けれど由蘭は今、明らかに私を虐げて遊んでいる。人の心を覗き見て、的確にその隙を突いて、悶え苦しむその様子を愉しんでさえいる。

 香蓮が生前どんな環境で生きてきたか、その片鱗に触れた気がして、背筋に冷たいものが走った。

 だからといって何かを言い返すこともできない。言い返したら、それを元にしてまた次の追及がやってくるような気がして、怖い。

「……こういうところなのね、きっと。ひかりさん、ごめんなさい。私、悪いと分かっていても止められなくて。あの子のことになると駄目ね」

 唐突に、由蘭の視線がすっと下を向く。

 貼りつけたような薄笑いは変わらない。けれど、その仕草にはどうやら自戒の念がこめられていたようで、私は途端に彼女のことが分からなくなった。

「私ね、なんでもできてしまうの。勉強も運動も。でもあの子はそうでもなかったの。私が感覚的に実行できることを、あの子は努力を重ねてようやくできるようになった。でも親から見たら過程なんてどうでもいいのね。あの子は両親に言われて私の真似ばかりしたわ。それが可哀想で、気持ちよかった」

 沈んだり浮かんだり、愉悦と罪悪感とをない交ぜにしたような語調で由蘭は告げる。姉妹のいない私に返せる言葉などなく、ただただ耳を貸すことしかできない。

「口をきかなくなったのは中学生くらいかしらね。あの子も私が歪んでいることなんてもう分かり切っていたから、お互い立ち入らないようになったわ。私もそうするのがいいと思って距離を取るようになったのだけれど、親にとっては気に入らなかったみたいね。あの子が私の真似コピーをするのをやめてしまったから」

「……差を、つけられるようになった?」

「そうなるわね。私の模倣をやめた以上、あの子は必然的に道を踏み外すことになった。結果、あの子は善良な子どもの素振りをやめて、私から得た快楽を元に……いいえ、私が植えつけてしまった『快楽を与えることで愛される』という経験を糧にして、性的な方向に倒錯していったわ。もう分かっているかも知れないけれど、あの子は真性のレズビアンだったから、とにかく手当たり次第女の子を手籠めにしていたようね。親はそれも耐えられなかったみたい」

「……よその家のことをどうこう言えないですけど、おかしいのはあなたとご両親じゃないですか。……そんなの、香蓮がかわいそう」

「普通の家なら、私もあの子も個性を尊重されてのびのび育ったでしょうね。でも私の家はそうではないの。これは貴女に説明してもきっと分からないことだから、省かせてもらうわ」

「間違ってたらすみません、親御さんのお仕事、政治家か何かですよね。香蓮は、それで親からのプレッシャーに耐えられなかったって」

「あの子がそう言ったの? ……意外ね。その通りよ、思った以上にあの子は貴女に心を開いていたのね。そういうの、他人には見せない子だと思っていたわ」

 由蘭のその言葉に胸がちくっと痛くなる。その話を聞いたのは紀実加で、なら、その時に心を開いたのは紀実加に対してだから。

 けれど私は、それを由蘭に伝えることができない。打ち明けられたのが紀実加だったという事実が、自分でもびっくりするほど受け容れられなかった。今までこんな気持ちにはならなかったはずなのに。

「……ふふ。もしあの子が打ち明けたのが貴女でもそうでなくても、安心していいわ。ある時、あの子は顔をキラキラさせて私の部屋に飛びこんできたの」

「安心とか、別に……」

「聞きなさい。あの子は言ったのよ、私、ひとを好きになったの、って」

「えっ」

 不安に落ち込んでいたはずの胸が、瞬間、どくん、と脈打つ。

「だっ、誰のことを、ですか?」

 その先の言葉を待つことができなくて、あるいは由蘭の思惑通りに、私はその先を急かしていた。

 由蘭は満足げに目を細めていた。その理由を察する必要はない。私はただ、その先にある答えだけが欲しかった。

「貴女よ、上野毛ひかりさん。あの子は毎日貴女のことを語ったわ。それがあの子の、私に対する復讐だってことはすぐに分かった。私はあの子に酷いことを幾つもしてきたから当然ね。だから私はそれが復讐だったとしても甘んじて受け入れるべきだと思ったわ」

「香蓮が、私を、好き……」

「ええ。恋愛対象として、ね。貴女の好きな食べ物、好きな漫画、好きな過ごし方。どこに遊びに行ったか、どんな性格をしてるか、どんな風に物事を捉えているか。そして、どんな人を好きになるか――」

「私が……どんな人を、好きになるか?」

 香蓮が私を恋愛対象として好きだった――香蓮の肉親である由蘭の口から告げられたその真実がどうしてここまで私を安心させ、高揚させているかが分からない。

 そして、私がどんな人を好きになるかという、由蘭のその言葉の意味も分からない。

 私がどんな人を好きになるかなんて、そんなの――。


 ……え、あれ、おかしいな?

 香蓮が私のことを好きだったって、茉紀に、希に、紀実加に同じような感じで言われた時、私はなんとも思わなかったのに。

 どうして今、由蘭から同じことを言われて、嬉しいと思ってしまったんだろう。

 どうして、香蓮の好きな人が、茉紀や希や紀実加じゃなくてよかったって、思ってしまったんだろう。

 ――え?


「ふふ。私ね、大学で心理学を専攻しているの。それも思えばあの子への贖罪なのかもしれないわね。あの子が何を思って、そしてあの子がああも惹きつけられていた、上野毛ひかりという人物がどんな人間なのかってことを知りたくて」

 由蘭は私を見ながらくすくすと上機嫌に息をこぼした。

 そこにあったのは、それまでの薄笑いとは違う、明確な笑み。

「上野毛ひかり。貴女が自分から積極的に他人と関わろうとしないのは、過去によほどの成功体験を得たか、あるいは貴女を熱狂的に愛してくれる人が一人でも貴女のそばに居続けてくれたから。けれど貴女にはそれが当たり前になってしまって、今さら貴女を愛してくれる人のことを特別に思えない。貴女は木の上のリンゴが欲しかった。貴女はそれを欲しがりな目で見るけれど、怪我をするのが嫌だから自分では決して手を伸ばさない。そのくせにリンゴが運よく落ちてくるとそれを我先に拾い上げて独占する。リンゴは貴女だけのものではないのにね? あの子は貴女だけのモノではないのにね?」

「ちがっ……私に最初に声をかけたのは、香蓮……!」

「そう、運よくあの子は貴女のところに落ちてきてくれた。あなたが望んだ必然のもとにね? 貴女は無意識に人を操作することができるの。そういう人は世の中に一定数いるわ。でもそれは仕方がないこと。持って生まれた魅力だから。得てしてそういう人が最終的にただ一つの幸せを掴むのよ。不公平だけどそれが現実なの」

「何を言って……私の、魅力……?」

「分からないわよね、まだ貴女は本当の自分に気づいていなさそうだもの。貴女は人を狂わす形をしているの。貴女って他人に興味がなさそうなのに、いざ仲良くなるとその人のことをすごく大事にするでしょう? それこそ誰からも独り占めしてしまうくらいに。そういうの、孤独な人には麻薬なのよ。他人には易々と心を開かない人が、自分だけには開いてくれる。その快感は、つながりに飢えている人を駄目にするの。あの子を苦しみから解き放ったのは貴女。でも同時に、あの子を独占して、あの子からコミュニティを奪ったのも貴女。ひかりさん、貴女はあの子を独占して、それからどうするつもりだったの? 貴女にとってあの子は何?」

 由蘭は目を見開き、白い肌を朱色に上気させて、ワンピースの前ボタンを一個一個外しながら四つん這いに私に迫った。

 私はそんな由蘭から逃げるようにずりずりと後退していく。その背中に、香蓮の使っていたベッドのふちが当たった。

「私、気づいたら会ったこともない貴女のことを好きになっていた。無意識に女性を、あの子を狂わせることができる人に会ってみたかった。私に依存していたあの子を、私以外には依存できなかったはずのあの子を、自らに依存させた子がどんな子か。予想通りの、いいえ、想像以上のひとだった……かわいらしくて、無自覚で、けれど激情を奥底に秘めたような危うさがあって……!」

「私っ……そんな人間じゃ、ない……!」

「貴女を正しく評価できるのは、貴女以外の他人であって、決して貴女自身ではないわ。あの子は正当に貴女を評価した。私は貴女に嫉妬したわ。人生で一番と言ってもいいほどの大きな敗北の味を私に味わわせた。私ね、頭がおかしくなるくらい許せないの。私が持っていないものを、私が欲しいと願ってやまなかったものを、あの子が持ってしまったことが」

 袋小路に追いつめられた私を、ワンピースの前側を全開にした由蘭が、膝立ちになって見下ろした。

「あの子のものなら全部奪ってしまいたいの。だから、ひかりさん……いいえ、ひかり? 今から私に教えてね、『香蓮』のこと、どれだけ好きだったかってこと」

 香蓮と同じ輪郭をしたその人はそう言って、私の首筋に、ゆっくりとその白い指を触れた。


 *


 くらくらと揺れる視界の淵で、由蘭が紺色のワンピースに袖を通しているのが見える。

 そうだった。それはいつだったか、香蓮が休みの日に私と遊ぶ時に着ていた服だった。

 由蘭は身なりを整えると、香蓮の勉強机に置かれた写真立てを手に取り、それを大事そうに両手で胸に抱いた。

「これでひかりも私のものね、香蓮」


 酸欠で靄のかかった頭では、浮かび上がる言葉は限られていた。

 由蘭に何かを奪われてしまった。

 由蘭が許せない。

 その由蘭は、けれど香蓮と同じ姿形をしていて。

 亜紗、ごめんね。


 私、香蓮のことが好きみたい。

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