第六話 あなたのためなら私は ―玉川紀実加―

 上野毛ひかり。いつも上手に一抜けする子。

 無関心そうな表情の裏に隠したその魔性を、私は絶対に忘れない。


 *


 薄暗い部屋の中、大画面を流れるアーティストのPV映像がやけに目にうるさかった。

 余計な情報を削ぎ落としたくて目を閉じる。そうすると耳には色んな情報が届いた。暖房の駆動音、隣室から響く下手な歌声、うるさい自分の鼓動、ひそめるような互いの呼吸、前髪の流れる音、口の中で水が混ざり合う音。

 吐息は熱く、アルコールの味がする。それは好きな感覚じゃなかった。今日のその瞬間までは。

 ぎしっ、と古びたソファが音を立てて、ぼうっとした頭でもう一度目を開けて、たった今呼気を交わしているその人の匂いを感じて、もう一度目を閉じる。

 嘆きの日々が終わったことを悟る。ようやく二人が元の形に戻れることを予感して、私は安堵した。

 もう恋で苦しみたくない。大きな幸せが欲しいわけじゃない。せめて一日、ううん、一瞬でもいいから、今はただ何も考えず熱に溺れていたいだけ。

 やっぱり一瞬だけは嫌だ。あの時の私たちのように、もう少しだけ、もうちょっとだけ、心を重ね合わせることを許して――。

 ブーッ、ブーッ、ブーッ。

 私のそんな小さな願いを踏みにじるように、無粋な振動音がどこかから響いた。

 それは楽しい夢を終わらせる目覚ましの音。今は夜で、朝はまだ遠い。私たちが気づかなければ、この夢はいつまでも覚めない。

 だから私はその子の手を握った。そうすればアラームは消せなくて、この唇はずっと繋がっていて、夢はこのままずっと続いて、それで。


「お、っと……ひかりだ。ちょっと電話きちゃった、取るね」

 握っていた手がいとも簡単にほどかれた感覚で、私は自分がカラオケボックスにいることを思い出した。

 同時に、胃の辺りを渦巻く、気づきたくない感覚にまで気づいてしまう。それは慣れないアルコールのせいでもあったけど、それ以上に私の吐き気を促したのは、今だけは聞きたくなかったその人の名前だった。

「もしもし、ひかり? ……おっ、いいよ。今、ちょうど出先で紀実加と一緒にいるんだけど、それでもいい?」

 今の今まで私とキスをしていたその口で、尾山亜紗は電話口の相手と短いやりとりを交わしていた。私と話す時とは違う、少しトーンの明るい声が跳ねる。目はここではないどこかを見て、その世界にきっと私の姿はない。

 通話を切ると、亜紗はふぅと息をつき、私の方を申し訳なさそうに見た。眉を八の字にして、手を合わせて、いかにも友達だよって感じの軽さで。

「ひかりから呼ばれちゃった、行かないと」

「途中、なのに?」

「あー」

 亜紗は所在なげにうなじの辺りを撫でたあと、

「なんか、神様にやめとけって言われてるのかも。ごめんね。ってか紀実加もくる?」

 明るい口調でそう言って、バックからポーチを取り出し、せわしなく化粧を直し始めた。

「ちょっと待って、トイレ行ってくる」

「お、行ってらっしゃい」

 私はさりげない風にソファを立ち、部屋を出てゆっくりと歩き出してから、次第に小走りにお手洗いのマークを追う。

 そして女子トイレの扉を開け、個室に駆け込み、胃の中に詰め込んだものを全部吐き出した。

 苦手だったビールも、チーズを油で揚げたやつも、好きな子とのキスの味も、全部。


「おまたせ。うわっ、メイクめっちゃ直してる、っていうかもはや描き直してるじゃん。亜紗ってひかりのことになるとほんとキモいよね」

 体から全てを絞り出したあとに残ったのは、尾山亜紗に好かれたい一人の女の子だった。

「キモくていいですぅー。ひかりには私がいなきゃいけないの。あの子ひとりじゃ何にもできないんだから」

 亜紗の好きな紀実加は、軽くて、ノリがよくて、デリカシーのない言葉にもいちいち傷つかないサバサバした女の子。

「ふーん……ま、私とは所詮酔った勢いですよねー」

 連絡したらそこそこすぐに反応があって、暇なときに遊ぶのにちょうどよくて、ふた月に一回くらい顔を合わせれば十分なくらいの距離感の友達。

「私と紀実加は昔っからそんな感じじゃん。雰囲気でヤっちゃったあの日もさ、意外とよかったー! とか言って二人して笑ってたよね。もう懐かしいわ」

 都合よく振り回されてくれて、言葉にちょっと棘があって、でも結局「はいはい」ってお願いを聞いちゃうお人好し。

「ははは、あったねーそんなことも。あの男勝りな亜紗ちゃんが立派に女の体になっちゃって、なんか安心したわ」

 それが私、玉川たまがわ紀実加きみか。亜紗の隣にいるためには、本当の自分なんていらない。

「うっざ、紀実加のそういうとこほんとイヤ。で、行くの? 行かないの? ああ〜お酒臭くないかな? 呼ばれるの分かってたら飲まなかったのに~!」

「行きます、行きますよ。初心うぶなひかりが酔った亜紗に食べられないか心配だし。あ、それとも私が食べちゃおっかな~?」

「つまんない冗談言わないで」

 亜紗は化粧をする手を止めずに、低く乾いた声でそう言った。

「……いや、だから冗談じゃん。私、別にひかりをそういう目で見てないし。あはは、亜紗こわーい」

「はぁ……まったく、変わんないね紀実加はー。私も紀実加くらい軽くなれたら楽なんだけどなぁ」

「ね、ほんとに」

 本当に――この世のどこかに無痛になれる薬があったのなら。

 それを飲み干して、私は私を完全に殺して、亜紗と何も考えずに笑い合えるのにね。

 亜紗にはずっと好きな子がいる。そしてそれは、私じゃない。


 ファミレスのソファ席でドリンクバーを頼んだあたりで、上野毛ひかりは血相を変えて飛び込んできた。

「亜紗……っ!」

「おおっと、どうしたどうした。ゆっくり聞くから、とりあえずひかりもなんか頼みなよ。てか私のお茶あげる。すいませーん、ドリンクバーもうひとつ追加で」

 ひかりは私の対面、亜紗の隣に迷いなく座ると、ぐいと距離を詰め、腕を抱くようにして亜紗の肩に顔をうずめた。

 亜紗はそんなひかりの様子に困ったように笑いながら、もう一方の手でひかりの頭をよしよしと撫でる。

「ほら、もう亜紗ちゃんがいるから大丈夫よー。ね、紀実加もいるから恥ずかしいって。ごめんね紀実加、ひかり、あいかわらずでしょ?」

「うん、ほんとに。小学校の頃とそのまんま」

「言われてるぞーひかり。お茶飲んで落ち着こう? ほら、ストローちゅーちゅーして」

 言われるがまま、ひかりは亜紗のウーロン茶をごくごくと飲み干す。さっきまで亜紗がくわえていたストローが、ひかりの口を離れて空のコップの中でくるりと踊った。

「はぁ、はぁ……ありがと、亜紗。……でもなんか、お酒臭い」

「あー、わかっちゃう? いや、実はさっきまで紀実加と飲んでてさ。昔話で盛り上がっちゃって、流れでついつい」

「えっ……あ、紀実加。いたんだ、ごめんね」

 ひかりはたった今私に気づきましたと言わんばかりに目を見開き、今さら恥ずかしそうに肩を縮こまらせて亜紗から距離を取った。亜紗はそんなひかりを見ながら目を細めて笑っていた。亜紗にならい、私も同じような目をしてひかりに微笑みかける。

「まあまあ、私のことはいいって。それよりひかり、なんかあったんでしょ?」

「ああ……うん。でも、紀実加が聞いても楽しくないかも……」

「紀実加もいいって言ってるんだし、ひかりの話が楽しかったことなんてないんだから、話したいこと話せばいいのよ」

 目線を泳がせるひかりに対し、亜紗はひかりの肩に手を置いて、呆れるような声色でそう言った。誰がどう聞いてもひどい口ぶりなのに、二人の間ではそれが正しい会話のようだった。

 そんな些細なことにもいちいち気づいてしまう私を、上手に押し殺してうわべだけの言葉を並べていく。

「確かに、ひかりって普段しゃべらないくせに急に話し出すところがあったから、私も亜紗ももう慣れっこだよ。せっかくだから話しなって。聞く聞く」

「紀実加やさしーい。私にも優しくしてー」

「亜紗に優しくしてどうすんのよ、なんかおごってくれるの?」

「ふぅん、じゃあチューでもしてあげようか?」

 亜紗はそう言うと口をすぼめて前のめりになる。

 私はよっぽどキスしてやろうかと思った。けれどため息ひとつでその気持ちを押し込んで、亜紗をあくまで蔑むような目で見た。

「セクハラ女。酔っ払い」

「いくじなしだなー紀実加は。あー、馬鹿やってる場合じゃないんだった。それでひかり、どうなの?」

「あ……うん。なんか、亜紗と紀実加見てたら元気出てきた、ありがとう。……じゃあちょっと、話すね」

 ひかりは無害そうな笑顔を浮かべて私を見た。

 小学校の頃から変わらない、その純真さを絵に描いたような笑顔で。


 たどたどしく、小さな声でひかりは話し始めた。

 供される情報は断片的で、私はひかりの口から出てくる言葉を頭の中で逐一並べ替えながら、何とか話の全容を頭の中に思い浮かべた。

 要約すると、ひかりはついさっきまで高校の後輩にあたる人物と話をしてきたのだという。その子の様子がどうもおかしかったらしく、ひかりに自分の昔話を聞かせたかと思えば、急に好きですと告白してきたらしい。

 ずいぶん奇妙でにわかには信じられない話だった。けれど、ひかりの口からたびたび発されるある一つの単語が、その話に不気味な信憑性を与えていた。

 同時に、その単語は亜紗の、そして私の表情を、少しずつ硬化させていく。

「九品香蓮」

 亜紗がかすかに呟いた女性の名前。

 それは、ひかりと、亜紗と、そして私を、二年の時を経てここに再び結びつけた。

 私は言いようのない悪寒を感じて静かに身を抱く。まるで、あの日の香蓮ちゃんが、私たちをここに手招きしているかのように思えて――。


「……まあまあ、そういう暗い話はさ、パーッと飲んでつまみにしちゃうのが一番じゃない?」

 亜紗の、時間と場所とをあまりにも弁えないその言葉が私の意識を現実に引き戻した。

 私たちはこれでもまだギリギリ十代だ。私は前のめりになって亜紗に耳打ちする。

「亜紗、外でその話はダメだって!」

「え? あ、あー! そうね、そうそう。いやいや、飲むったって色々あるじゃん、ノンアルとかさ」

「ひかり、まさかいつも亜紗に飲まされてないよね? ダメだよ、お酒は二十歳になってから!」

 そう、これは亜紗と私みたいな悪い子だけがしていい遊び。二人が今だけできる秘密の交わりで、そこに良い子のひかりの居場所はない。

「私は飲まないよ……亜紗みたいになりたくないし」

「にゃんだとぉー!」

「ちょっと、ヘンなとこ触らないでよ」

 善意の言葉の裏に巧妙に隠したマウントさえ、ひかりには簡単にかわされてしまう。私は歯噛みしそうになる。でも玉川紀実加はこういう時こそ冷静でクレバーでいなきゃいけない。亜紗の前で醜態は晒さない。

「ひかり気をつけなー、私もさっき食べられちゃいそうになったんだから。こわいねーお酒って」

「あーっ、ちょっと紀実加! その話はしない約束でしょ……!」

 亜紗が血相を変えて私に迫り、耳打ちした。瞬間、亜紗の意識が私だけのものになった。

「あ、そうだっけー? 酔っ払いどうし仲良くしようよー」

「うわ、急に面倒くさい感じになってきた……場所変えよう場所、私の家いくよ!」

 そう、罪の共有に勝る絆はないことを、私はよく知っている。

 二年前から、亜紗と私はある一つの罪で決定的に繋がっているじゃないか。

 その繋がりをひかりは知らない。だからつけ入る隙もない。私はもっと余裕を持っていい。

 そう思えば、きょろきょろと私たちの顔を見比べることしかできないひかりの表情も、途端にかわいくて可笑しいものに見えるのだった。


 小学校の頃から、私たちはずっとそうだった。

 亜紗を挟んで、左にひかり、右に私。互いに家が近かった私たちは、何をするにもどこへ行くにも一緒だった。

 小学生の亜紗は、勝ち気でスキンシップの多い子で、そこに加えて王子様系のキャラだった。どこで覚えてきたのか、何の気なしに手をつないできたかと思えば、跪いて手の甲にキスをしてきたりした。私は最初、それがウザったかったり恥ずかしかったりしてたはずなのに、気づいた時には、そんな亜紗に一丁前に心臓を高鳴らせていた。

 多感な時期に芽生えたキラキラの恋心は、過ちと決めつけて刈り取ってしまうにはあまりにきよらかで。周囲が当たり前のように異性を好きになる中、そのねじれを捨てきれなかった私は、亜紗という女性への執着を立派に実らせてしまった。

 そんなごっこ遊びも高学年になるとなりを潜めて、亜紗も次第に女性らしい振る舞いを意識するようになった。ただ元来の竹を割ったような性格や物怖じしない気質は変わらず、そんな亜紗がクラスの人気者にならないはずもなかった。

 子供の執着心は青いなりに真っ直ぐで、私は亜紗とどうすれば親密でいられるかにひたすら貪欲だった。亜紗は目線の高い子だったから、私もそこに近づいてしまえばいいと、大人びた振る舞いをするよう自分に言い聞かせて、実際にそういう自分を獲得していった。

 そんな努力の甲斐もあって、私は亜紗に求められるようになった。勉強ができて、社交的で、友達は多くてもコミュニティに依存しない強さを持った玉川紀実加の存在は、亜紗の育ち盛りの自意識をくすぐったのだろう。

 目的や状況のために自己をかわるがわる変革していく――そうすることでこそ得られる甘美で崇高な世界があることを、私は小学校高学年にして気づいていた。

 そう、努力は結実する。勉強、運動、人間関係、この世の大体のことはひたむきに努力すれば掴めるようになっていると思う。

 けれど、それは同時に、努力では決して至れない領域がこの世には確かにあることも示していた。

 それは才能、あるいは魔性と呼ぶべきもの。

 理詰めでは説明できない、人が生まれながらにして持ち合わせているもの。

 その大きな力は、努力の生み出す力がどれだけ矮小なことかを、その気なしに思い知らせてしまう。蹂躙してしまう。

 上野毛ひかり。その子は、最初から何の努力もしていなかったと思う。

 亜紗と私が二人でいるとき、亜紗は私のことをずっと見ていた。

 けれど三人でいるとき、亜紗はひかりのことをずっと見ていた。

 私はそのことが許せなかった。でも、頭では分からなくても、女としての本能が告げるのだ。

 生まれながらにして魔性を持ち合わせたこの子には、私はきっと一生敵わない、と。


「亜紗、指切ってるよ」

「えっ、うわっ、どこで切ったんだろ。っていうかよく見えるね、この夜道で」

「貸して」

 亜紗が一人暮らしするアパートに向かう道すがら、ひかりはそう言うと亜紗の手を掬い取り、その指先に唇を当てた。

 私の心臓がどくんと固く脈打つ。それは小学校の頃から嫌というほど感じてきた暗い鼓動だった。

「ひかり、ちょっと恥ずかしいって……私たちもう小学生じゃ……」

「……ん。終わり。服に血ついたら大変でしょ」

「えぇ~~? まぁー、う~ん、そうかも? えへへ」

 ファミレスで私が獲得した小さな優越感なんて、ひかりの魔性によって粉々に吹き飛ばされる運命なんだ。

 ぺらぺらと口先で亜紗の興味を引く私と、最低限の動作ひとつで亜紗の興味を独占するひかり。私が亜紗の方を見て、亜紗はひかりの方を見て、ひかりはどこも見ていない。小学校の頃とまったく同じ光景。

 子供の頃は、なんでひかりなんかが、って思った。普段は無口で無愛想で、かと思えば突飛な行動をして人を驚かせて。

 けれど、この年齢にもなると嫌でも分かってしまう。それこそが亜紗を、私たちのような性的指向の女を惹きつける毒なのだと。

「き、紀実加もさぁ、なんか言ってやってよ~! このままじゃひかりがヤバい大人になっちゃう~~」

「あはは、ひかりって今もそうなんだ。亜紗のことが好きなんじゃないの?」

「好きだよ」

「紀実加ぁ、そういうのひかりには効かないから。ほんっと昔っから冗談が通じないんだから、歯が浮いちゃう」

「そうだね、ひかりには敵わないなぁ」

 あはは――顔に笑顔を貼りつけて、二人からは見えない方の腕をぎゅぅっと血が出そうになるほど握り締める。

 ああ、吐きたい。何もかも吐き出してしまいたいのに、胃に何も入ってないから吐き出せない。

 耐えられない。立ち止まりたい。このまま立ち止まる? できない、亜紗に「帰れば?」なんて言われたら頭がおかしくなってしまう。

 亜紗のそばにいるには耐えるしかない。二年前と同じ。香蓮ちゃんが死ぬ前のあの頃と同じ。

 香蓮ちゃんが死んだら亜紗は元に戻った、だから大丈夫、いつか元に戻る、それまで自分を最適化するんだ、耐えて、お願い紀実加、亜紗はすぐ元に戻るから、最適化して、最適化して最適化して最適化して――。

「きみか……ちょっと、紀実加?」

「え?」

「顔色悪いけど、大丈夫? ひかりの言葉が気に障ったならごめんね、あんまり気にすることないよ」

 亜紗は私を案ずるように見て、顔を寄せて、こそっと耳打ちしてきた。

 亜紗が優しくしてくれた。亜紗が私をちゃんと見てくれた。

 私がいる理由なんてそれだけで十分だった。さっきまで暗澹たる思考に埋め尽くされていたはずの脳内は、その一瞬で嘘みたいにクリアになった。

「気にしてる? いや、全然? ひかりのマイペースなとこ見るの久しぶりで、そういえば昔もこんな感じだったなって思い出してただけ」

「そう? ならよかった。久しぶりに三人になれて嬉しいからさ、心配しちゃった」

 心の中が急速に満たされて、口からはするすると最適解が流れ出た。

 これが私だった。亜紗の一挙一動でいちいち天国にも地獄にもいける、チョロくて気持ちの重いダメ女。

 亜紗が好きなのは私じゃないのに、それは頭でも体でもわかってるのに、亜紗が私を見ているだけで、私はこんなにも気持ちよくなれた。


「はい、適当に入って入ってー。たまたま親戚が持ってるアパートでさ、ちょっと古いけど勘弁してね」

 亜紗は玄関のドアを開けるや否や、履いていたスニーカーを適当に脱いで、どかどかと奥の方に歩いていった。どうやら干しっぱなしの下着を慌ててピンチハンガーから外しているようだった。

 部屋の間取りはいわゆる1Kで、玄関を開けるとすぐキッチンがあり、扉の奥に七畳か八畳ほどの洋室が広がっていた。室内は意外にも整理整頓されていて、亜紗の成長がなんだか嬉しくて笑ってしまう。

「お邪魔しまーす」

 パンプスを脱いで家に上がり、転がりっぱなしの亜紗のスニーカーとまとめて揃える。ゴミ袋を縛りながらキッチンに戻ってきた亜紗が「靴なんて揃えちゃって、さすがぁ」とか言うので、にやけそうになる顔を隠して「当たり前でしょ」と呆れた風に返事をした。

「私も気をつけよう」

 私のそれを見て、ひかりも感心したように私の行動を真似た。玄関に、ひかりと、亜紗と、私の靴が並んだ。

 それを見て急に切ない気持ちに襲われる。靴たちが玄関で身を寄せ合うその様は、三人の関係が昔と変わっていないことを言い表しているようで。

 無邪気に笑えなくなったのは私だけだろう。私が亜紗への気持ちを諦められれば、きっと私たちは昔のように心から笑って、いつまでも三人一緒にいられるんだから。

「ひかり雑! もっと綺麗に揃えないと。私やっとくから、亜紗のとこ行って」

「紀実加、ありがとう。大人だね」

「あんたたちが子供なだけでしょー。ほら、いいから」

「うん」

 ひかりがすたすたと洋室の方に向かったのを見て、私は玄関にしゃがみこんで、ひかりの靴を、亜紗の靴から少し離れた場所へと移した。

 亜紗への気持ちを捨てられるわけがなかった。大人になったのは体だけで、心は子供のまま、いつまでも幼い独占欲を手放せずにいる。


「はい。えっ? あー……マジですか。今から二時間だけ? ホール二人じゃ厳しいですもんね……はい、大丈夫ですよ、行きます」

 洋室に行くと、亜紗がげんなりした表情でスマートフォンに耳を当てていた。声色からいい話じゃないことはすぐに分かった。

「いいですよ、今から行きまーす。はーい。…………あー、最悪、バイト先に呼ばれちゃった」

「え、今から行くの? こんな時間だけど」

「ま、居酒屋バイトの悲しいところよね。よくあるのよこういうの。二時間だけならすぐだから」

 亜紗は言いながら服を脱ぎ、下着姿のまま箪笥からジーンズやら長袖のTシャツやらを忙しく引っ張り出す。そんな最中にも胸の谷間やショーツに目をやってしまう自分が心底卑しくて恥ずかしい。数時間後の自分がこの瞬間を思い返しながら何をしているかなんて、考えないようにすればするほど頭の中がそれでいっぱいになる。よこしまな己のさがを制御する術を、私は悲しいくらいに持ち得ない。

「よいしょ……っと。そんじゃ行ってくる。二人で話してればすぐでしょ、冷蔵庫の中にあるもの適当に食べたり飲んだりしていいから!」

「冷凍庫の中は?」

「ちょ……ひかり、またアイス食べてく気? ……まぁいいけど、私の分も残しといてよね」

「やった。ありがとう」

「ああ紀実加も、アイスとかあるから食べていいよ! ごめんね、ひかりの話つまんないだろうけど、なんとか上手くやって!」

「上手くやって、って、そんなの友達だから大丈夫よ。気にしないで早く行って」

「助かるぅ、紀実加ちゃん大好きよー、はいっそれじゃ」

 そうしてドタバタと亜紗は家を飛び出していった。

 騒がしい存在が去り、静寂がしんと部屋を包んだ。私は亜紗に手を振った姿勢のまま、「私も」と言えなかった自分を後悔しつつ、思考をこれからのことにシフトさせた。

 どうすればいいだろう。口ではああ言ったけど、ひかりと一対一で二時間も持たせる自信はない。かと言ってスマホをいじって無言でやり過ごすのもあまりに感じが悪い。亜紗の手前、私はひかりと仲良くしなきゃいけない。

 そもそも初めてお伺いする家で勝手も何もないじゃないか。――そう思ってすぐ、私はさっきのひかりの発言を思い返していた。一体私はどこで引っかかってたんだっけ。

「紀実加、とりあえず適当なとこ座っていいよ」

 その違和感の正体を突き止める必要はなかった。

 言葉が、光景が、私にこうして突きつけられていたから。

「紀実加? 亜紗、気にしないから大丈夫だよ」

 ひかりは亜紗のベッドにうつ伏せになり、亜紗の枕に自分の顔を乗せて私を見ていた。まるで今までにも何度もそうしてきて、そうするのが当然だから、と言わんばかりのリラックスした態度で。

 胸の奥で、嫌悪感と不快感の混ざったものが球体を成して膨張する。それを吐き出せる先がないことが怖い。自分を抑えるための蓋がかたかたと震えているのが分かる。

「することないし、テレビでもつけて待ってようか。リモコン、テレビの前に置いてあるから」

「ひかり、詳しいんだ?」

「何回か泊まりに来てるから」

 そう言うと、ひかりは大きなあくびをひとつして枕に顔を埋めた。ひかりは昔からそうだ。気づいたときには欲しいものを手に入れていて、それを他人にひけらかして、誰かを傷つけてもそれに気づかず平気な顔をしてる。

 自分は愛されているから考えもしない。痛みを負ったことがないから想像もできない。その枕に本当に身を預けたい人が、ここにいることなんて。

 嫉妬してる? 嫌だ、そんな風に思いたくない。

 だって、それは負けを認めるってことだ。亜紗がひかりを好きなのと、ひかりが亜紗に好かれているのでは意味が全然違う。亜紗がどう思おうとも亜紗の自由、だけど、ひかりが亜紗に無条件で好かれていいことにはならない。

 だって、ひかりは嫌だ。無知であることを振りかざして、人の気持ちに目を向けようとしない子はずるい。コミュニケーションを放棄して孤高を気取って、それなら独りでいればいいものを「私はここにいるよ」って顔をして誰かが来るのを待ってる。だから亜紗みたいなお人好しが放っておかない。見えない魔性の糸を張り巡らせて、ひかりは亜紗を無意識に籠絡する。

 そんなつもりはない? 自覚がないなら人を惑わして、傷つけていい? 私はこんなに一方的にひかりに傷つけられているのに、ひかりはどうして無傷でいていいんだろう。

 ――ならいっそ、傷つけちゃおうか?

 無知ゆえに傷つけていいなら、私も無知を装えばいい。

 そんなつもりはなかった、の免罪符をかざして切りつけられる恐怖を、ひかりも知ればいいんだ。

 胸のつかえが少し取れた気がする。

 善意ならいいよね、悪意じゃなければいいんだよね。

「ねぇ、ひかり」

「ふぁ……なぁに?」

「今日、大変だったね」

「うん」

「私も、ひかりに伝えておかなきゃ」

「……何を?」

 ひかりは枕から顔を上げてゆっくりと私を見た。まるでお化けでも見たかのような、怪訝さと恐れの混じった目をして。

 刹那、女の直感が脳のシナプスを駆け巡って、そういうことか、と私はひとり納得してしまう。

 ひかりがあの子の話を聞きたくない理由、そういうことなのだとしたら、それってとっても素敵だ。なら、

「香蓮ちゃんのこと」

 復讐じゃなくて、これは立派な善意だ。

 聞きたくないって言われても、小さな頃から一緒だった大切な友達のために、私は過去の記憶を紐解こう。

 それに、他人に興味のないひかりが、間違っても私に嫉妬するなんてことはない。

 たとえ、私がひかりよりずっと先に、香蓮ちゃんと仲良くなっていたとしても、ね。


 *


 高校受験に失敗した私は、大学受験こそ成功するようにと、高校に進学して早々、大学受験向けの予備校に入校した。

 努力はしてきたつもりだった。けれど、それだけではどうにもならないのが現実だということを思い知った。どれだけ模試で点が取れても、本番で結果が出せなければ、それは実力がないのと同じ。私は親の願いを叶えることができなかった。親の敷いた幸福行きのレールに乗ることができなかった。

 予備校には私と同じような子ばかりで溢れていた。黒板と椅子と机しかない殺風景なその牢獄の中では、テストの点数だけがその子の価値だった。

 どうしてそんな生き方を強いられているのか、理由なんて一つしかない。機械になれと諭されて、願われて、私たちは機械になった。

 もしそうじゃなく機械になれる子がいたとしたら、その子は生まれた時から機械だったのだろう。最初から無痛状態であれるなら、私だってそうなりたかった。


 高校一年の春。

 香蓮ちゃんを初めて見た時の感想は、こんな人でも親からの圧力に苦しんでるんだ、だった。

 こんな人と称したのは、その人があまりに美人すぎたからだ。きっと芸能人を生で見たらこんな感じなんだろう、と思わせるほどの抜群の美貌。亜紗のせいで女性を恋愛対象として見るようになっていた私にとって、香蓮ちゃんの存在は生ける清涼剤だった。

 それは推しの感覚に近かったように思う。そんな子がクラスの中で同じように苦しんでいると思うと、それだけで気持ちが楽になって、予備校に通う苦痛もだいぶ和らいだ。

 だからといって香蓮ちゃんとお近づきになろうとは思わなかった。美人は無表情だと怖い。そもそも自分が話しかけていい相手かも分からない。

 それでも私は香蓮ちゃんを少しでも身近に感じたくて、彼女が席に着くのを見計らって、その近くの席に座る、みたいなことを続けた。横から見る日も、斜め後ろから見る日も、香蓮ちゃんは冷たくて綺麗な顔立ちをしていた。

 私が香蓮ちゃんに感じるカリスマは、そのルックスの良さだけに限らない。彼女は学力の面でも優秀だった。予備校に入って一番最初に受けた実力テストで、香蓮ちゃんはクラスで二番目の成績――ちなみに私たちのいるクラスは難関校合格を目標とする、予備校の中でも一番上のクラス――だった。私は香蓮ちゃんに次いで三番目の成績だったから、教室に貼り出された順位表に香蓮ちゃんの名前と私の名前が隣り合ってるのを見た時は、静かに胸が踊ったものだった。私にとってそれは、初めて前向きに勉強を頑張ろうと思えた瞬間だった。


 その順位表の一番目には、もう一つ私の興味を引く名前が記されていた。

 九品由蘭。香蓮ちゃんと同じ特徴的な苗字を持つその人は、香蓮ちゃんの身内なのだろうとすぐに察しがついた。

 私と、そして香蓮ちゃんの成績を上回り、クラスの頂点に君臨した人だ。決して簡単ではなかったその実力テストを完膚なきまでにねじ伏せてみせたことを、全教科100点という結果が証明していた。

 由蘭さんのことを初めて見たのは、順位表が貼り出されてから少し経った日のことだ。成績優秀者が数十人ほど集められた教室で、偉い先生のありがたい話を聞いたあと、特に優秀な上位十名ほどに表彰状が配られた。第三位の私が呼ばれ、第二位の香蓮ちゃんが呼ばれ、そして第一位の由蘭さんが壇上に呼ばれたとき、私は「えっ」と声をあげた。

 同じ学年ならもしかして双子かも、とは思ってはいたけれど、それにしても由蘭さんは香蓮ちゃんとよく似た顔立ちをしていた。こんなにも香蓮ちゃんと酷似した人の存在に、どうして今の今まで気づけなかったのだろうと、私は自分の目を疑った。

 由蘭さんは、私が目指していた、いわゆる御三家といわれる女子高の制服を身に纏っていた。そこに不思議と劣等感は感じなかった。あの学校にいるべきなのは、私のように半端な人間ではなく、きっと由蘭さんのようにひと際優れた人物なのだろうと、その時はひどく腑に落ちたものだった。

 同時に生じた疑問は、どうして由蘭さんと香蓮ちゃんの制服が違うのか――つまり、二人の通っている高校が違うことについてだった。

 私はその事実にどうしても違和感をぬぐえなかった。なぜなら、香蓮ちゃんの成績は由蘭さんとそう大差のないものだったからだ。

 私からすれば、存在感やオーラの華やかさは香蓮ちゃんの方が圧倒的に上だ。明るめの髪色に、スカートを短く折り込んで着こなしているところだってそう。本当ならきっと、由蘭さんの着ている制服を上手に着こなせるのは香蓮ちゃんの方なのだ。

 対する由蘭さんは、背中まで伸ばした黒髪に、制服を着崩さず品よく着用する、生真面目で静かな人だった。香蓮ちゃんと違って、自ら目立つことを望まず、勉強以外の余分なものを全て削ぎ落したような冷酷なイメージを湛えた人。なるほど、生まれながらにして機械のような人が存在するとしたら、こういう人のことを言うんだろうなとその時私は思った。

 確かに学力だけで比較するなら由蘭さんの方が優れていただろう。それでも、香蓮ちゃんだって十分に優秀だった。それだけに、私は香蓮ちゃんが名門校の制服を着ていない理由がやっぱり分からなかった。

 不思議と由蘭さんに興味は湧かなかった。私にとって由蘭さんは、香蓮ちゃんとよく似た人くらいの印象で、私の香蓮ちゃんに注ぐ眼差しを奪うまでには至らなかった。

 香蓮ちゃんと由蘭さんという才色兼備な双子の存在は、閉塞した予備校の中での密かな一大コンテンツだった。クールで完璧なお姉さんと、ちょっと派手な双子の妹。この二人の関係性をあれこれと想像するのが私の楽しみだった。

 この頃は毎日が楽しかった。香蓮ちゃんの近くにいたくて勉強を頑張れる。テストの成績が良ければ気分も上向いて、自然と人間関係も良好になる。予備校で切磋琢磨して築き上げた学力は学校の試験なんて容易にねじ伏せてしまえたし、周囲から羨望の目が集まればそれなりに気持ちも良くなった。

 亜紗との関係も、中学を卒業してから一時は疎遠になったものの、連絡してみればすぐに元通りになって、予備校のない日曜日には二人で遊んだりもした。再会してから亜紗への感情は日に日に大きくなっていって、結局私が好きなのは亜紗で、香蓮ちゃんはあくまで推しなんだと思った。好きな女の子と推しの女の子、二人の女子と過ごす毎日は、勉強漬けのストレスをゼロにして、むしろプラスを生んでいるまであった。


 *


 私にとって休暇とは名ばかりの、高校一年の夏休みが明けたあたりのこと。

 予備校の自習室が閉まる夜の九時頃だったと思う。急にやってきたゲリラ豪雨のせいで、私たち生徒の多くは予備校の玄関で立往生を食らっていた。みんな予備校には徒歩で通ったり自転車で通ったりと様々だ。親に連絡をして迎えを待つ子、自転車を置いていきたくなくて豪雨が去るのをひたすら待つ子、色んな都合の子がいるなかで、その二人だけは違った。

 香蓮ちゃんはビニール傘を、由蘭さんはつくりの良さそうな傘を広げて、それぞれ豪雨の中を歩き出した。そこには不自然な距離があって、会話もない。二人は姉妹で同じクラスなのに、いつもそんな調子だった。

 私はと言えば、せっかちなのでこういう時に暇を潰すこともできず、いつ来るかも分からない迎えを待つくらいならと、手にした傘を強い気持ちで開いた。水の滲入を許した靴がたぷたぷしていくあの最悪の感覚を噛み締めながら、駅を目指し水溜まりを踏みしめる。

 私の前方を歩く香蓮ちゃんと由蘭さんが向かっていったのは、予備校を出て側道の方にちょっと回り込んだところの、路肩に停まっている黒塗りの車だ。

 傘を差すか差さないかの違いがあるだけで、それは私にとってよく見る光景だった。二人は学校が違うから予備校に来るタイミングは異なるものの、帰る時は必ず二人一緒に迎えの車に乗って帰っていく。今日もその絵に例外はなかった。

 由蘭さんが車の後部座席に乗り、香蓮ちゃんがそれに続いた。私の進行方向も同じだったので、なるべく存在を消すような気持ちでその横を通り過ぎようとした。

 雨が激しく傘を打ちつけていた。だというのに、その怒声らしき音は、確かに私の鼓膜を震わせた。

「――どうしてあなたはいつもそうなのよ!」

 私は音の方向を見た。そこにはさっき二人が乗り込んだ黒塗りの車しかない。雨だから窓を開けているようなこともない。

 けれどもう一度、金切り声が私の耳に届いた。雨水がゆらゆらと窓にモザイクをかけている。私は何かを予感して、窓の向こう側に目を凝らした。

 運転席にいるのは母親だろうか。その人は、後部座席の方を見ながら叫んでいた。

「ママがこんなにしてあげてるのに!」

 その状況の意味するところを察そうとすると、途端に胸の奥が詰まって苦しくなる。怒鳴られているのは香蓮ちゃんだろうな、と私は直感した。

 唐突に怒鳴り声がクリアに聞こえたかと思うと、勢いよく開かれた後部ドアから香蓮ちゃんが飛び出してきた。香蓮ちゃんと一瞬目が合ったけれど、咄嗟に体が動かず、また香蓮ちゃんもすぐに私から目をそらして、傘も差さずに豪雨の中をどこかへと走り去っていった。

 開け放たれた扉から僅かに見えたのは、すんと冷めきった由蘭さんの横顔だった。運転席から母親らしきその人が出てくる様子もない。それどころか、由蘭さんはそのまま後部ドアを当然のように閉じて、車はそれを合図に発進した。香蓮ちゃんの去っていった方向とは逆の方向に向かって。

 私は車が去ったあともしばらく動けないでいた。頭の中で一連の映像が何度もリプレイして流れている。私はそのままぼーっと香蓮ちゃんが去っていった方向を見ていた。

 誰も追いかけないなら、香蓮ちゃんはどこに行ってしまうんだろう。

 ローファーのびしゃびしゃした感覚が足元を包んでいたことに気づいた時、私は香蓮ちゃんの方に向けて走り出していた。


「ねぇ、濡れちゃうよ!」

 それが香蓮ちゃんと私がした初めての会話だった。

 幸いにも香蓮ちゃんを見つけた時、彼女は全身ずぶぬれのまま道をすたすたと歩いていた。見つけたら見つけたでどう声をかけるか考えあぐねるも、その姿があまりにも可哀想に思えて、私は引き寄せられるように香蓮ちゃんに追いつき、自分の傘を差し出していた。

 香蓮ちゃんはそれに気づくと、ぼうっとした顔で私のことを見た。彼女が何を考えて、何を言い示そうとしているのかが分からない。

 そう、つまり結局のところ私は他人で、家族の問題に首を突っ込める立場でも、そもそも香蓮ちゃんとは友達でも何でもない。余計なお世話と一蹴されて当然だった。ならいっそ傘を押しつけて走り去ろうか、とまで考えたところで、

「紀実加ちゃん、だっけ?」

 香蓮ちゃんは落ち着いた声で、私の目を見てそう言った。

 一瞬、推しの女の子が自分に話しかけている状況が信じられず、呆けた表情を返していたと思う。けれど香蓮ちゃんの髪からぽたぽたと滴が落ちているのを見て、私の中の冷静な自分が私の頬を叩いた。

「と、とりあえず、どっか入らない? 風邪ひいちゃうし、ていうかその前に着替えか、あ~~どうしよう」

「そこにドンキあるけど」

「えっ? あ、ほんとだ……えっと、じゃあ、なんか買って……くる?」

「そうしよっかな」

 いまいちテンポの噛み合わない会話が数回交わされたあと、香蓮ちゃんと私はやけに電飾のうるさいその建物に向かって歩いていった。成り行きとはいえ相合傘の下、私の目は緊張と興奮でぐるぐると回り続けていた。


 気づいた時には、香蓮ちゃんと私は近くにあったゲームセンターの中にいた。

 なんでこうなったかは必死すぎて覚えてない。けれど確か、私がさっきのお店で香蓮ちゃんを着替えさせて、「気晴らしにゲームセンター行こう!」とか言ったんだ。

 だからといって万年予備校通いの私にゲームの心得があるわけもない。煙草の臭いとゲーム機の轟音が充満した店内は薄暗く、私は冷や汗を浮かべて視線をきょろきょろさせることしかできなかった。

「この時間にゲーセンとか寄るの?」

 香蓮ちゃんは少し意外そうな顔を浮かべて私を見た。間に合わせに着させた安物のシャツとジャージの短パンは、香蓮ちゃんが着るとそれだけで立派なファッションのように思えた。

「いや……完全に勢い……」

「だよねー。毎日ずーっとあそこに幽閉されてるもんね、私たち」

「そういえば……知ってるの、私のこと」

「いつも一緒に授業受けてるじゃん。紀実加ちゃんだよね? 私UFOキャッチャーやりたい、いこ」

 香蓮ちゃんは私の手を取り、煌々と光るゲーム機のはざまに私を連れていった。

 その口調は思った以上に軽くて、でも表情は変わることを知らない鉄のままで。人間と機械の合いの子みたいな人。それでも香蓮ちゃんは私の目を見て、私の名前を呼んでくれた。

 この子もきっと私と同じで、ただ機械にならざるを得なかっただけの、心を殺すのが周りより少し上手なだけの、多分普通の女の子なんだ。

 そう思うと、それまで遠く見つめるだけの存在だった香蓮ちゃんが、私の中で急に近い存在になった。

「……親のこと、大変だね」

 いきなり踏み込みすぎた発言だったと一瞬後悔したものの、香蓮ちゃんはクレーンゲームのボタンを押す手を止めずに口を開いた。

「親から愛されてないんだ、私」

「えっ……」

「お姉ちゃん……由蘭との温度差が、まあ、凄いよね。由蘭は見ての通りのイイ子ちゃんで、私も見ての通り素行の悪いJK。わかるでしょ」

 香蓮ちゃんはまだ乾ききらない髪先をくるくると、見せつけるようにいじりながら言う。

「親がさ、立派な仕事をしてるの。いわゆるセンセイって呼ばれるやつ。だから子どもも同じように立派で完璧じゃなきゃダメなんだって。学校、生活、人間関係、ぜーんぶ、親がああしろこうしろって。なんとかやってきたんだけどねー」

 クレーンに掴まれた猫のぬいぐるみが、ゴールに落ちる手前で取り落とされる。まるで最初から予定調和にそう設定されているかのよう。香蓮ちゃんはポケットから無造作に取り出した交通系のカードを端末に押し当てた。

「で、急に無理になっちゃって、由蘭と同じ高校受験したんだけど、わざと落ちちゃった。また由蘭と同じ制服着るのも正直キツいし。せっかくなら制服のかわいいとこにいこう! とか好き勝手やってたら親に嫌われてね。私みたいに不真面目な子はいらないみたい」

「不真面目だなんて、そんなことない……!」

「えー? ふふっ、ありがと」

 ふわ、と香蓮ちゃんの表情が綻ぶ。それを見た私の心臓は分かりやすく跳ねた。

 その微笑はひどく儚くて、大人びていた。香蓮ちゃんの顔から目が離せなくなって、好きかも、と錯覚しそうになる自分がいる。吸いこまれるような肌の白さ、わけもなく執着心を搔き立てる声の艶、心を掴んで離さない目。それらからようやく意識を引き剥がせたのは、頭の中に亜紗の顔が浮かんだ時だった。

「……でっ、でもさ、本当に、香蓮ちゃんだって成績いいでしょ? この前の模試だって全国上位だったし……」

「でも髪染めてスカートガンガン折ってるような子だよ? 由蘭があんな見た目だし、落ちこぼれに見られてもしょうがないっしょ」

「そ、そんなこと……」

 クレーンゲームをしながら、香蓮ちゃんはここではないどこか遠くを見つめていた。

 その目は少しずつ黒く濁っていくようで、けれどクレーンが同情するかのようにぬいぐるみを明け渡してくれたのを機に、香蓮ちゃんは思い出したように表情を弛緩させた。

「よーっし! ……あーっと、今の話だいぶ重かったよね、聞かなかったことにして。こんなこと誰にも話さないんだけど、塾の子ってみんな似たような境遇だと思って、ついつい喋りすぎちゃった」

「全然、喋っていいよ! 私も……って言っても、香蓮ちゃんほどじゃないけど、親からのプレッシャーすごいし……だから大学はいいところに入らなきゃって」

「私わかるけど、紀実加ちゃん、由蘭の高校狙ってたでしょ? あそこは親の職業も見てるって話だし…………あー、いま最悪なこと言ったね、私」

 香蓮ちゃんは焦ったように目を泳がせて口を噤んだ。初めて見るその慌てた様子がなんだかおかしくて、言葉の内容なんてとても気には留まらなかった。

「そんな、いいよ、私だって分かってるから。だから大学だけは絶対に、って、そう思って頑張ってる。巻き返せるの、このタイミングしかないし」

「紀実加ちゃんはどうしてそんなに頑張れるの?」

「え、っと……どうしてだろう」

 自分でも今の今まで考えたことがなかった。ただ自分は『頑張ること』を頑張れる、その単純作業ができる人間なのだと、そう思っていた。

 けれどさっき、亜紗の顔が思い浮かんだ時、それまで存在しないと思っていた自分の動機が見つかったような気がした。

 私は亜紗に、振り向いてほしいのかもしれない。

 昔みたいに、価値のある私を亜紗に認めさせられたなら。

「来て」

「わっ、えっ、ちょっと、ぬいぐるみはいいの!?」

 思い馳せている最中、私は急に香蓮ちゃんに手首を引っ張られる。

 光の波、音の渦のどこでもない、そこは建物の奥の陰にある、お手洗いのマークの刻まれた扉だった。

 香蓮ちゃんは扉を押し開け、そしてそのまま、私を個室の中に連れこんだ。

「いいよ」

「えっ……香蓮ちゃん?」

「今日のお礼。いいよ」

 言葉の意味がわからず、思考が頭の前と奥の方を行ったりきたりしていると、香蓮ちゃんはおもむろにTシャツをたくし上げていった。

 混乱が極まって、熱で頭がまともに動かなくなる。細かなまばたきはそのままコマ送りのようになって、香蓮ちゃんの肌色が増えていく様を、私は追いつめられるような気持ちで見ていた。

「紀実加ちゃん」

 声をかけられて、はっとして香蓮ちゃんを見た。そこには、最低限の布地で体を隠した――ショーツと着替えのブラトップ一枚だけの――艶めかしい曲線を描く女性の体があった。

 同じ高校一年生とは思えない、完成された女性の形。大人びてるとはいっても年相応の幼い顔に、その肉体はあまりに不釣り合いで、背徳的という表現はこのためにあるんだと、馬鹿になった脳みそが喋っていた。

「紀実加ちゃんみたいな子に使ってほしい」

「えっ、は……? あっ、ちょっ!」

 個室の扉に背を押し当ててしどろもどろしていると、優しく、けれど強い力で腰を引かれる。そのまま香蓮ちゃんはトイレにお尻をついて、私はその香蓮ちゃんの太腿の上に、馬乗りになるような形でまたがった。

「こういうの初めて?」

「そっ、それはっ、まぁっ」

「じゃあ紀実加ちゃんの好きにしていいよ」

 目と鼻の先に香蓮ちゃんの顔がある。柔らかそうな唇が言葉に合わせて別の生き物みたいに蠢いて、吐息が私の脳梁を麻痺させて機能を奪おうとする。

 香蓮ちゃんは私の背中に手を回して、私は跨った流れで香蓮ちゃんの肩に手を置いて。こんなにも閉鎖的な体勢が指し示すその先を、うら若い乙女の頭が想起しないはずもなかった。

 骨のそっと浮いた素肌がほんのりと赤く柔らかい。香蓮ちゃんはじっと私のことを見つめていた。こんなのおかしい。狂ってる。女が女にありつけることのどれだけ確率の低いことか、私は分かっているつもりだった。それがまさか今、私の眼前に転がってくるなんて。それもこんな絶世の美少女に好きにしてと言われて、あとは私の心ひとつで決めていいだなんて。

 こんな幸運、ここで手をつけなかったらきっともう訪れない。ほんの数センチ、どこかの一部でも接した瞬間、刺激を知らない私の体は簡単にその渦に飲みこまれるだろう。

 だから私は目を瞑った。

「……ごめん、できない」

「え?」

 見ないことで見えてしまうものがあった。そしてそれは、こんな時でもはっきりと鮮やかな色をして脳裏に映った。

「……好きな人、いるから……」

「そっか。それなら、ごめんね」

「ううん。嫌じゃ……なかったよ」

「あはは。ならもっとごめんね。紀実加ちゃんにお返し、したかったんだけどな」

 香蓮ちゃんはそう言うと私をゆっくりと立ち上がらせて、服を着た。

 その言葉の意味も、困ったように浮かべた寂しそうな笑顔の理由も、後悔と罪悪感とでぐちゃぐちゃになった頭では、まともに考えることなんてできなかった。

「いつかお返し、させてね」

「……今日、遊んでくれただけで、嬉しかったよ」

「それだと困っちゃうな。私があげられるものなんて、これくらいしかないのに」

 その言葉を最後に、香蓮ちゃんは個室を出ていった。

 十分ほどだろうか、私は茫然と個室の壁に背中をもたれていた。心拍が平静を取り戻し、呼吸を思い出した頃にはもう、香蓮ちゃんはゲームセンターのどこにもいなくなっていた。


 *


「これが、香蓮ちゃんと私の思い出」

 部屋の時計を見て、話し始めてからもう一時間ほど経っていたことに気づく。香蓮ちゃんのことを思い出しながらする昔話は悪いものじゃなかった。

 だってこんなにも友達だった実感が私の中にある。一歩間違えれば交わることさえできた。今思えば、なんて甘酸っぱい経験だったのだろう。

 私は知っている。ひかりが香蓮ちゃんと仲が良かったことを。その絶頂期を迎える前に、ひかりと香蓮ちゃんがお別れになったことも。

 ひかりは、私ほど濃密な時間を香蓮ちゃんとは過ごしていない――きっとそう。そうに決まってる。

 だって、ひかりの顔はあんなにも苦しそう。

「ひかり、悔しい?」

「……え?」

「悔しいよね、そうだよね。私と香蓮ちゃん、ずっと同じ場所にいた。同じ空気を吸って、同じ苦労をして、セックスまでしそうになった」

「紀実加、どうしたの……?」

「顔見ればわかるよ。悔しいんだよね?」

「なんでよ、そんなことないよ。香蓮とは、ただの、友達だったよ……」

「キスした?」

「だから、そんなことしないよ、友達とは」

「私は亜紗とセックスした」

 ああ。もうダメだ。香蓮ちゃんの話をしてから、心のブレーキが壊れてしまった。自分で自分を殺せない。

 違う。ようやくひかりを殺せる番が来たんだ。だからもう、私が私を押さえつける必要はないんだ。

「亜紗は私側の人間なの。わかる? 私と亜紗が体の関係を持ったっていうのはそういうこと。私、亜紗のことが好きで、亜紗と付き合いたいもん」

「……別に、好きにすればいいと思うよ」

「でもできないの。ひかりがいると。私、亜紗とほんとにいい感じだったんだよ? でも亜紗、おかしくなっちゃうんだよ、ひかりがいると。あの時もそうだった、ひかりが香蓮ちゃんと仲良くなったあたりから、亜紗は……!」

 高校二年の十一月くらいまで、私たちはいい感じだった。

 学校が違ってもお互い連絡を頻繁にとって、たまに会って遊んだりした。片思いでも気は楽だった。その時だけでも亜紗は私のことを見てくれたから。

 けれど亜紗の態度は一変した。私にある女の子の名前を告げてきた時から。

『紀実加……九品香蓮って子、知ってる?』

 予備校からの帰り道、駅の入り口で居合わせた亜紗に、私はそう問いかけられた。多分、居合わせたのは偶然じゃない。亜紗の目は、暗く澱んだ確信の色に染まっていたから。

 亜紗は私にしきりに香蓮ちゃんの情報を求めた。曰く、『ひかりがその女の手にかかっている』――と。

 また、ひかりだった。ひかりが私から大切なものを奪っていく。ひかりが軽くはねをはためかせただけで、その余波がこんなにも簡単に私の幸せを壊していく。

 無条件で愛されるひかりへの憎悪を私は深めた。けれど亜紗との関係を失うわけにはいかなかった。香蓮ちゃんへの申し訳なさがなかったわけじゃない。けれど、香蓮ちゃんの情報がないと、亜紗は私を見てくれなかった。私は香蓮ちゃんの情報を無償で亜紗に明け渡した。あの日、ゲームセンターで香蓮ちゃんが私に語ったこと以外は、全て。

「亜紗は私が全部話してないことをきっと見透かしてた。だから亜紗は冷たかった。私が亜紗を好きなことなんて、亜紗はとっくに気づいてた。へぇ、それなのに言えないんだ、って顔してた。でも、あんな話、簡単に言えるわけない。潰されそうになりながら毎日なんとか生きてる人の苦しみは亜紗にだってわからない! ……だから、そんな中途半端な気持ちだったから、私」

 もう考えるのめんどくさいから、死んじゃわないかな、って思ったんだ。

 香蓮ちゃんが死んだら、私は好きな人のためにこれ以上友達のことを売らずに済む。関係を切られる恐怖と良心の呵責との間で頭を抱えずに済む。

 ひかりから香蓮ちゃんがいなくなって、亜紗もきっと目を覚まして、全部が元通りになる。きっと、それだけが私が救われる可能性のある道だった。

 気づいたら鞄にカッターを忍ばせてた。何もせずに奇跡を祈るより、確実に結果を導き出せる方法があることを私は知っていた。予備校の時間はその最悪の脳内シミュレーションに費やされた。成績はあっけなく転がり落ちたけど、どうでもよかった。亜紗が私に振り向いてくれないのなら、いくら勉強を頑張っても意味がなかったから。

 死ぬのはひかりでもよかった。むしろひかりが死んだ方がずっといい。私は部屋で亜紗の写真を舐めながら、ひかりの写真を串刺しにした。

 そうしているうちに、香蓮ちゃんは本当に死んでしまった。

「私、泣いたよ。悲しかったよ。香蓮ちゃんごめんって、棺の前でなんども言った」

 肩がすっと軽くなって、あの日の香蓮ちゃんの寂しい笑顔が思い浮かんで、死んでほしいなんて思ってごめんねって、私の辛い日々を終わらせてくれてありがとうって。

「……なんで、紀実加、笑ってるの……」

「笑ってないよ。え? これ笑ってる? じゃあお通夜の時も笑ってたのかも。あはは」

 お通夜の時、ひかりの顔を見て胸がすっとした。あれは傷ついてたのに、それを受け入れられないって顔だった。ひかりにとって、どれだけ香蓮ちゃんが大切な存在だったのかがよく分かった。ようやくひかりからも大切なものが失われて、人生はどこかで辻褄が合うようにできてることを知って、ほっとした。

 あとは時間が何とかしてくれた。憑き物が落ちたのは亜紗も同じだった。亜紗はしばらく傷心のひかりを支えていたようだけど、そこにはもうかつての鬼気迫る様子はなく、それまでの私への接し方を謝ってくれもした。共犯関係は、香蓮ちゃんの死をもって、私たちを罪悪感という名の絆でひとつに結んだ。ひかりと亜紗では絶対に持ち得ない、私と亜紗だけが持てる唯一無二のつながりだった。

「だから亜紗は私とセックスした。私たちはお互いのことをよく理解してるから、軽い気持ちで重なれたの。気持ちよかったし、楽しかったなぁ。女同士でも意外といけるねとか笑い合ったりして」

「…………っ」

「だから、ひかりと同じ大学に行くって聞いたときはキレちゃった。ひかりも知ってるだろうけど、亜紗は頭がいいの。ひかりと同じ高校にいたのも、今だって同じ大学にいるのもおかしいの。いつまで保護者の気持ちでいるの、気持ち悪いって。亜紗もちゃんと自分の人生を歩こうよって」

「亜紗は……自分で決めたから、って、言ってたよ……」

 ひかりは亜紗の枕を抱いて、怯えたように壁に背中を押し当てて、上目遣いに見るその目に、恐怖と抵抗を同じくらい宿していた。

 その小動物然とした仕草がいちいち癇に障って、苛々とした感情がぐつぐつと湧いて泡立って、この人間を今すぐどうにかしてしまいたくて、止められない。

「それはひかりがいるからでしょ!? ひかりの前でどうして亜紗が本心を言うと思うの? 亜紗は本当は自由になりたいはずなの、でもひかりに囚われてるから、一度決めたら曲げないから、自分はひかりのそばにいるべきなんだって、そう思って生きてるの!」

「亜紗はそんなんじゃないよ……!」

「そうなの! そうなんだよ! 私は亜紗のことを好きなのよ? どれだけの時間、亜紗のことだけを考えて過ごしたか! ……この前の香蓮ちゃんの三回忌でも言ってたもの」

『ごめんね、ほんとは紀実加とも上手くやりたいの。私たち、まだやり直せる?』

 お寺のお手洗いで、亜紗は申し訳なさそうな顔をして確かに私にそう言った。

 亜紗は私とまた昔みたいになりたい、また気楽に体を重ね合う関係に戻りたいって――!

「だから次はひかりが死ねばいいの。香蓮ちゃんの三回忌から、また少しずつおかしくなり始めてるの。なんでだと思う? ここまで話したなら分かるよね?」

「こっ、来ないで、紀実加……」

「ひかりが香蓮ちゃんにもう一度触れようとしてるからだよ。亜紗は分かってるんだよ、ひかりが、香蓮ちゃんに何を感じているか――」

「やめてよ紀実加、こんなことしても亜紗は喜ばないよ……っ!」

「亜紗の視界にあなたさえいなければ、どうにでもなるの」

「噓だよねっ、紀実加……うッ!?」

 私はひかりの首に手を伸ばし、そのまま馬乗りにひかりを押し倒して、手にゆっくりと力を入れていく。

 ひかりは抵抗しない。加害者になりたくないから。そうやっていつまでも被害者面して死んでいけばいいんだ。無条件に人から愛されるだけ愛されて、それを誰にも返さないような人間にはお似合いの末路だ。

「ひかり……そんなに香蓮ちゃんに会いたい?」

「……たすけ、て……」

「香蓮ちゃんは、別にひかりに会いたくないと思うよ? 雨の中、傘を差し出しもしなければ、お別れの時に涙ひとつ流さなかったアンタのことなんて、ねっ!」


「紀実加、なにしてんの?」

 その言葉を聞いた時、私の中の何かがプツンと音を立てて停止した。

 私は笑ってひかりの首を絞めていた。慌ててひかりの首から手を離して、洋室の入口で茫然とたたずむ、その真っ黒い目をした人の顔色を媚びるように窺い見た。

「え? あれ? 亜紗、早かったね、まだ二時間たってない」

「なに、してるのって」

「これ? あ、いや、そんなつもりじゃないよ、こんなのおふざけに決まってるじゃん――」

「亜紗っ!」

 うろたえる私を突き飛ばして、ひかりは亜紗のもとに駆け寄り、その胸に顔を埋めた。

「たすけて亜紗……私、紀実加に、首を……!」

「やっ、やめてよひかり! あんなの本気じゃなかったって! 色々言ったけど、だから結局――」

「亜紗が、香蓮のこと疑って調べてたって! 紀実加と……セックスしたって! ……亜紗は、そんなことしてないよね?」

「ねえっ、ひかり、だから! ……確かに、香蓮ちゃんのことで亜紗とは色々あったけど、セックスしたのは事実――」

「紀実加、何言ってるの?」

 ――え?

 亜紗が、ひどく侮蔑するような目で私のことを見下ろしてる。

 まるでひかりを汚いものから遠ざけるかのように、その視線を遮るように、ひかりの体をぎゅっと抱きしめて。

「今日のことは誰にも言わないであげるから、もう帰って」

「えっ………………あ、あはは、ねぇ亜紗、私たち、その、色々あったけど、私たちのしてきたこと、全部、嘘じゃない、って、分かるよね?」

「知らない」

 ……知らない?

 どうして、そんなことが言えるんだろう。

 忘れちゃった? 私との共犯関係も、気まぐれに体を重ねたことも、さっきまでキスしてたことだって、全部?

 そっか。そうだよね。亜紗はそういうことにしたいんだ。

「紀実加、とにかく帰って。今なら大ごとにはしない。ひかりにもそれは言って聞かせるから」

「私のこと、切るんだ」

「そういうのじゃない。紀実加のこと、友達と思ってるよ」

 そうやって、人を脅すような目で甘い言葉を吐いて、私を閉じこめたままにしておくんだ。

 それで私がどうするかなんて、分かりきってるから。

「……じゃあね、亜紗」

「うん」

 私は亜紗の横を通り過ぎる。

 最後、ほんとに最後の一瞬だけでいい。ひかりの見てないところで亜紗が申し訳なさそうな顔で笑ってくれたら、口裏合わさせちゃってごめんって目をしてくれたら、私はそれだけでよかった。

 でも、そうじゃなかったから。

「許さないよ、亜紗もひかりも」

 ひかりを抱きしめて虚空を見つめる亜紗の耳に、そう一言だけ告げて、私は亜紗の家を後にした。


 *


「落ち着いた?」

 亜紗の匂いの中でゆっくり呼吸を続けていると、毛羽立っていた気持ちもすぐに和らいだ。

「……うん」

「紀実加のやつ、どうしちゃったのかな。ま、今日はとりあえず寝よっか」

「そうだね。……ね、亜紗」

 茉季に、希に、そして紀実加に告げられた言葉を頭の中から追い払いたくて、私は再び亜紗の胸に顔を埋めた。

「私にとって……香蓮は、ただの友達だったよね?」

「そうだよ。そうに決まってるじゃん。それに、ひかりの本当の友達は私だけでしょ?」

 背中をとんとんと優しく撫でられていると、それまでの緊張が緩んで、急な睡魔に包まれる。

 同時に、私の中の幼い部分が急に頭をもたげて――気づけば、私は亜紗にとろんとした目を向けていた。

「女の子同士でするのって、いいの?」

「……どうかな。やってみる?」

「こわいから、キスくらいなら……」

「いいよ」

 眠気に任せるように目を閉じると、ゆっくりと熱の気配が近づいてきて、つんと唇に触れる。

 それは探り合うように、次第に確かめ合うようになりながら、混濁する意識と熱の中に、私は体を委ねていった。


 女たちに肩を揺すられ目を覚ましたこの感情の正体を、亜紗が綺麗に消し去ってくれることを祈って。

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