第五話 私はあなたになりたい ―大井希―
上野毛ひかり先輩。私の神様に選ばれた人。
私は一生、きっとこの人から目が離せません。
*
飲み慣れていたはずのロイヤルミルクティーが、今日はやけに風味豊かに感じられます。
行きつけの喫茶店の内装はいつもよりキラキラと輝いて見えて、よく効いた暖房が、
そう、世界は感覚で構成されているのです。嫌なことがあれば世界は曇り、いいことがあれば世界は華やぐ。かくも単純な構造です。人は自らの感覚や思想一つで世界の姿をいかようにも変えることができます。
私がたった今口にしているこの全国チェーンの喫茶店の紅茶の味が、昨日と今日とで大きく差がつくはずもありません。ではなぜ私は、今日の紅茶を昨日のそれよりも美味しいと認識しているのでしょうか。
その理由を語る必要はなさそうです。
「雨にもかかわらず、来てくださってとても嬉しいです。上野毛先輩……いいえ、ひかり先輩」
「……ううん、テスト終わってだいぶ暇だから」
私の世界を輝かすその人がこうして目の前に現れた以上、それらを言葉にするのはもはや無粋です。
上野毛ひかりさん。私と同じ高校の卒業生で、一つ上の先輩。今は大学生のようですが、同じ年代のけばけばしい女性たちと違ってお化粧っけがなくて、素朴ながらも愛くるしいお顔立ちをされているから素敵です。昔から変わらない内巻きのセミロングヘアが雨で少し広がっているのもまた可愛らしい。
その有り
「あの……余計なお世話かもしれないけど、受験とか、大丈夫?」
「お気遣いありがとうございます。とっても嬉しいです。ですが私は推薦で既に合格を頂いているので、どうか気にしないでください」
「そう、なんだ」
ひかり先輩は当たり障りのない言葉で間を繋ぎつつ、給仕の方を呼び止めて注文をしました。後輩の私にそんなに委縮しないでほしいのですが、それもきっとひかり先輩の魅力なので、私から敢えて言うことはありません。それに、会話の切り口を一生懸命探しながら指をすり合わせたり髪を触ったりする様子はとてもキュートです。
「……で、話って、なに?」
「? あっ、すみません、ぼーっとしてました。ひかり先輩と会えたことのあまりの嬉しさで、つい」
「嬉しい? 私とあなたは……その」
「
「じゃあ……希、ちゃん。高校の時、ほとんど接点なかった、よね」
接点はない。そう言ってひかり先輩はぎこちなく首を傾げました。
ひかり先輩は実際そう思っているのでしょう。けれど私はそうではありません。私とひかり先輩はお互いに強く深いところで結びついています。
あるひとりの女性の名前で。
「九品、香蓮先輩」
「っ……」
ひかり先輩の息を飲む音が、私たちに接点が確かにあったことを明らかにします。
私たちは昔も、そして今も、その名前で繋がっているのです。
「先日、お電話で少し話したとおりです。今日は、香蓮先輩のことを話したくて、ひかり先輩をお誘いしました」
「……どうして?」
「ひかり先輩は聞いておく権利があると思ったからです。私の知っている香蓮先輩の姿を、ひかり先輩が知らずにいるのは勿体ないと、先日お会いしてはっきりとそう思いました」
「だから……どうして私なの?」
迷うような視線が、すぼまっていくような声が、その疑問に含まれた真意を言い表しているようで、私は思わずくすっと笑ってしまいます。
「え……なんか変なこと、言ったかな」
「いえ、すみません。どうしてひかり先輩なのか。それを聞きたくて、わざわざ私のところに来てくださったのでしょう?」
「う……」
「ああっ、意地悪を言うつもりはないんです。先輩に対して立場を
私は謝罪の意をこめて頭を下げます。ひかり先輩は小さく首を横に振ってから、運ばれてきたホットレモンティーのカップを落ち着きなく手に取って口をつけました。
そんなにすぐ飲んだら熱いでしょう。本当に真っ直ぐで、不器用で、変わらない人です。
「そんなひかり先輩だからですよ」
「そんな私、って?」
「香蓮先輩が好きになった人」
その私の言葉を聞いて、ひかり先輩の耳がかーっと赤くなります。泳がせる視線の中に、その先を求める熱と、立ち止まろうとする迷いとを一緒くたにして、やがてひかり先輩はもごもごと口を開きました。
「……聞かせて、ほしい」
「はい」
私はすぅっと息を吸いこみました。ようやく話せる、私の信仰するその人のことを。
ひかり先輩。私の話を聞いても、ひかり先輩は目を逸らし続けていられますか?
あなたの中にも今もまだずっと残留しているだろう、その人の瞳から。
*
私自身の昔話からになってしまいますが、どうかご容赦ください。
私は物心ついた頃から、よく言えば嗜虐欲、悪く言うところの暴力衝動のようなものが自分の心に備わっていることに気づいていました。
けれどそれを他人に向けることはできません。なぜなら私は、人が苦しむところを見るのもまた、苦痛だったからです。
痛めつけたいのに傷つけたくない。そのアンビバレンツは私の心を長いこと苦しめました。武道なども嗜みましたがあまり性に合いませんでした。大義名分を手にしたところで、自分の振るう力が人を傷つけてしまうことには変わりなかったからです。
ではその衝動が自分自身に向くかと言えば、そんなことも勿論ありません。痛いのは嫌いです。ましてや自分で自分を傷つけるなんて想像もできません。
煩悶する日々は続きました。そもそも女性という時点で私は力を発散する機会を多く失ってきました。あまつさえ、肩口で切り揃えた後ろ髪と真っ直ぐな前髪が最も似合ってしまうこの容姿です。幼いままでいつまでたっても相応しい姿になれない私に、一体どんな都合のいい転機が訪れようものでしょう。
そんな私を救ったのは小説でした。ジャンルでいうところの官能小説です。それも女性同士の。
誰にも明らかにできない趣味でしたが、官能小説との出会いは私を確かに救いました。最初は女性へのほんのりとした興味本位からです。けれど私を強烈に惹きつけたのは、なにも女性同士のセクシャルな描写ではありません。私が目を
小説の中の登場人物は、互いに愛し合うという名目のもと、一方が一方に対して言葉や道具で攻撃し、もう一方がそれを恍惚と受け容れていました。私は、人のままならない嗜虐性が、この世の中で正当な居場所を持っていることに衝撃を受けました。そして、この抑えがたい衝動もいつか誰かと出会うことで愛情に転位させられるのだと思うと、それまで
それ以来、私は女性同士の、とりわけSM系の官能小説を愛読するようになりました。行為としてはっきりと描写されるものから、プラトニックな上下関係を耽美に描いたものまで、幅広く手に取ってきたと思います。官能小説は特殊な用語や比喩が多く、知的好奇心も多分にくすぐられます。それらを読んではっきりと分かったのは、私は間違いなくタチだということでした。
ただ、そこに性的な猛りを感じるようになったのは随分あとのことです。私にはまず、そこが自分の居場所でした。
けれど小説はあくまで小説。現実は非情です。そもそも同性愛者が同性愛者と出会い、互いの性質を打ち明け、双方の意思が運よく合致し恋仲に発展するなんてことは針に糸を通すようなことだと、中学生の時分で私は既に気づいていました。また、現実において攻撃は受容されません。周囲の人間は当たり前のように健全です。私は好きな子に気持ちを伝えることも、道徳心を放り投げて誰かを傷つけ
身悶えするような日々は高校生になっても続きます。
成熟を始める体は、意思に反して衝動を熱く膨らませていきました。私はこのままだと犯罪者にでもなってしまいそうで、覚えたばかりの
まわりを取り囲むのは相変わらず無害そうな顔ばかりで、私はおとなしく自分に似合いの牢屋に入ろうと思いました。そうして入ったのが図書委員会でした。
そこで私は運命の出会いを果たします。
初めての図書委員会の仕事はひとりきりで始まりました。図書室の壁に貼られた当番表には、私とペアになるはずのその人の名前が書かれています。
何か急用でもできたのか、シンプルにサボタージュを決めこんだのか、その人の姿は図書室のどこにもありませんでした。何にせよ私にとっては都合のいいことです。ブックカバーをかぶせているとはいえ、私がこれから読もうとしている本は、学校の図書室にはとても置けないような代物です。受付の机の広さも、二人一組で座ってなお余裕があるだけの幅を持ってはいましたが、集中しているところを急に話しかけられでもすれば、中身など簡単に知られてしまいます。脆い理想の世界に浸る、無防備な私を守れるのは孤独だけです。それを悲しいとはもう思いません。私が私と折り合いをつけていく上で、これは必要な
そんな風に感傷に浸る私を、突然真横から殴りつける存在が現れました。
その方は、図書室の扉を加減なくぴしゃっと開け放ち、そしてずけずけと私の方へ歩み寄って、手にした鞄を受付の台の上に放りました。
「一年生? 真面目ちゃんかぁ。こんな委員会、ちゃんとやったところで何にもなんないよ? 入るとこ間違えたんじゃない?」
図書室中に響き渡る声で、その方は私にそう仰ったのです。
雷に打たれたように、私の背筋にまっすぐ鋭い衝撃が走りました。
その方は、図書室の静寂を容易く踏みにじり、その中でひとり健気に仕事に励む下級生を労いもしなければ、遅刻を悪びれる風でもない。
まさに暴虐の二文字が相応しいその出で立ちに、私の脳髄はひどく興奮して汁を垂らしました。がくがくと内腿が震えて、膝と膝がうまく合わせられなかったことをよく覚えています。
その人の名前は九品香蓮。ようやく現れてくれた、私の神様です。
委員会に入ってすぐの顔合わせで、その人のことは知っていました。
怖いくらいの美人です。私の目は当然のようにその人に惹きつけられましたが、期待するだけ自分が傷つくことを知っていた私は、その人と深く関わるという選択肢を最初から持とうとしませんでした。
そして、それは大きな間違いだったのです。
「ねー、さっきから何読んでるの?」
「面白いものでもないですよ」
「じゃあなんで読んでるの? 見せてよ」
「あっ」
私は油断していました。手持ち無沙汰に雑談を振ってくるだけかと思いきや、香蓮先輩は私の愛読書を引っ手繰り、迷いなくパラパラと捲り始めたのです。
顔面が真っ赤になって、ささやかな学園生活に終焉の鐘が鳴るのを感じました。これから投げつけられるだろう罵詈雑言を脳裏に思い描き、私は痛みに耐えようと身を縮こまらせました。
「ふーん。おー、結構ハードだ。ははっ、かわいい見た目でいい趣味してんね」
そうして与えられた言葉はただそれだけ。私は襲い来る暴風雨に小さなビニール傘をさすような心持ちでいただけに、まさか凪いだ風が一陣吹いて終わりとは思いもしませんでした。
そして、私たちの主だった会話はそこで終わりました。私はいつかまた急に雨が吹きつけるのではないかとしばらくじっと身構えていましたが、香蓮先輩がずっとスマートフォンをいじって離さないのを見て、心にさしていた傘をそっと閉じました。
呆れられたのだと、その時はそう思いました。いいえ、今でも思っています。けれど非難の言葉がなかったことだけは確かでした。傍若無人かと思えば、人の深部を察して立ち入らないような素振りも見せる。悪い人なのか、善い人なのか、それともそのどちらでもないのか。私の興味は香蓮先輩に注がれて、胸が高鳴ります。
私は期待していたのです。どうか、私がひれ伏すほどの
人の声なき願いを聞き届けることができるなら、それこそは神のなせる
結論から言って、香蓮先輩はまごうことなき悪の人でした。
図書室は彼女の鳥籠でした。仕舞われる鳥は、私と同じ一年生から、香蓮先輩より年上の三年生まで様々です。
香蓮先輩は図書委員会の仕事の暇なのをいいことに、私に仕事を全て押しつけて、日ごと違う女生徒とかわるがわる親交を深めていました。
この場合、
接触、接吻、愛撫、あるいは私から見えていないだけでその先まで。昨日違う人と愛の言葉を交わしていたその人の口で、指で、
しかしそれは一般論でのことです。私はそこに愛が成立することを知っています。そう、香蓮先輩はまさに、私の愛する官能小説の世界を体現していました。お互いにひどいことをして、されて、しかしそれを互いに受け容れているのです。それだけで私はこの現実にも希望があることを十分に確信しました。
ですが、私のこれを信仰と呼ぶに至る本質は、その先にあります。
現実の世界は物語のように都合よく区切られているわけではありません。人は欲にまみれ、欲に慣れる生き物です。誰だって今ある幸せを実感し続けられたら苦労しません。今よりもっと、と思う気持ちは、人に備わっている当然の仕組みだと思います。
図書室をくぐもって響くのは嬌声だけではありませんでした。すすり泣く声。いきり立つ声。そうした女生徒たちは皆、口を揃えてこう言いました。
「どうして私だけじゃダメなの?」
それに対し、香蓮先輩が口にする言葉もまた、たったの一つでした。
「もういいよ、もう来ないで」
私は内心叫び出したい気持ちでした。
なぜかって、気持ちいいのです。ただひたすらに気持ちがいい。
どうしてこの方はこんなにも簡単に人を惑わし、そして切り捨てていくことができるのでしょう。
どうして良心の呵責に悩むことなく、泣きつかれても
答えは一つ。香蓮先輩は『平然と他者を傷つけられる人』だったからです。
ああ、それはなんて、私の追い求める理想の形をしていたのか。私は私の中の嗜虐欲を満たす方法を知ってはいたけれど、それを実行することができませんでした。それは私に、人の痛みを推し量る気持ちや、社会的にそうあってはならないという倫理観があったからです。
香蓮先輩にはその倫理観が欠如しているようでした。悪いことを悪いと思っていない、いいえ、そもそも自分のしていることが間違いだなんて疑いもしない。だから人を無秩序に愛せて、無秩序に切り捨てていくことができる。人をモノのように扱って平気な顔ができる。
自分がしたいと思ってもできないことを代わりにしてくれる――香蓮先輩は私の鬱屈した欲望の代弁者となってくれる存在でした。香蓮先輩を通して得られる快楽は、言い換えるなら食の細い人が大食い動画を見て代わりに食べた気になって満足するような、そういった
香蓮先輩を中心に渦巻く、歪んだ人間関係の濃密さと熾烈さは想像以上でした。切り捨てられた女生徒の中には学校に来なくなる方もいて、私の知る限りでも同じ学年にそういった子が五人はいました。
私の日常は日に日に輝きを増します。私はもう香蓮先輩がいなくては生きられない。この感情を信仰と呼ぶ以外になんと呼びましょう。
一方で、私の中の
ここは学校です。仮にも学び舎の一画を乱れた性の
司書の
図書委員会の仕事のあったある日、私は午後五時のチャイムと同時に本を閉じ、日誌を書いて席を立ちました。その日は香蓮先輩のお姿を目にすることができず、消化不良だった私は悶々とした気持ちを抱えながら、図書準備室にいる雅先生に今日の活動報告をしようと、受付の背後にある準備室の扉のノブを握ろうとしました。
そこで、ぴた、と私の体が動きを止めます。
中から、二人の女性の声が聞こえました。片方は静かに
香蓮先輩が図書室にいなかったのは、ずっと図書準備室にいたからです。理由は分かりません。ですが漏れ聞こえる声の雰囲気からして、私は一つの映像を脳裏に描かずにはいらせませんでした。
そして思い描いてしまったなら、それをこの目で確認したいのが人の
それは鍵穴とは名ばかりの、今となっては単に扉の向こう側を見通すことのできる穴でしかありません。私は片手で心臓を押さえながら、もう片手をそっと扉に添えるようにして、鍵穴に目を近づけていきました。
覗き見た向こう側、そこには果たして、私の思い描いていた光景が広がっていました。しかし同時に、私の予想は裏切られたのです。
「先生……っとしてよ……」
「九品さ……これ以上は……きこえちゃ……」
絵として実際にこの目で見た女性同士のまぐわいの、なんと淫らで神秘的なことか。見栄えのいい――雅先生も外見は非常に美しい大人の女性です――半裸の女性二人が身悶えしながら絡み合うその光景を、私は我も忘れて恍惚と見入っていました。
予想を裏切られたと言ったのは、私の思い描いていた矢印と実際のそれが逆だったからです。私は香蓮先輩以上にタチとして相応しい人は存在しないと思いますし、逆に雅先生から感じる雰囲気はネコのそれでした。それが目の前で逆転していて、しかしお互いが、というより香蓮先輩が、そうであることを望んでいるような様子でした。
私は
「……いいんですか? 私の下着をあんな風に使ってたこと、みんなに言っちゃいますよ?」
「それだけは、やめて、お願い……」
「じゃあもっと私にしてください。先生みたいなオトナの
その言葉を皮切りに、ぴちゃぴちゃと啜るような水音と、香蓮先輩の甲高い声が増していきます。図書室が鳥籠なら、図書準備室はさながら淫行の巣でした。
会話の節々から、雅先生が香蓮先輩に弱みを握られていたことが窺えます。興味深いのは、弱みを握った香蓮先輩が、雅先生に『されること』を求めていたということです。香蓮先輩の支配欲が苛烈なことはこの目で何度も見てきましたが、その
気づいた時には、心臓を押さえていた手はじんじんと脈打つそこに添えられていました。そのことを誰が非難することができたでしょう。私はずっと耐えてきたのです。そうしてようやくもたらされたこの
途中、鍵穴の奥の香蓮先輩と目が合いました。罪悪感に包まれたのは一瞬のことで、覗く瞳と蠢く手指を止めるには至りません。なぜなら、私の予測では、香蓮先輩の側からでは、小さな鍵穴の向こう側にある私の視線を察知することは困難だったはずです。双眼鏡を覗く側は遠くの景色を見通すことができますが、覗かれる側がどうしてそのレンズの奥の瞳を捉えることができるでしょう?
それでも確かに、私は短くない時間、香蓮先輩と視線を交わしていました。
香蓮先輩は見てなどいない。ただ、私が鍵穴からこちらを覗き見ていることが分かっていたのです。
顔を覆いたくなるような二人の逢瀬はそれからも続きました。
香蓮先輩は、私がそれを告発するはずもないことを見抜いていたのでしょう。そのお見立て通り、自らこの僥倖を手放すわけもなかった私は、ひとり黙々と受付に座って図書委員会の仕事をこなす
香蓮先輩と特段言い合わせたわけでも、雅先生に口外を止められたわけでもありません。私たちはそれぞれ暗黙の理解の中で互いの利益を守り合いました。
利益は雅先生にもあったでしょう。だって、彼女は口では大人としての威厳を唱えても、香蓮先輩との淫行を拒むことは一度もなかったのです。
その理由は明白で、そもそも雅先生の弱みとは香蓮先輩自身でした。良いように表現するなら惚れた弱みでしょうか。雅先生は香蓮先輩を愛していました。淫行の最中、かつて雅先生が香蓮先輩の下着で自慰行為に耽っていたことについて、香蓮先輩が面白がるようにたびたび詰っていたのを耳にしています。
それが私たちの日常になってしまったある日、私は唐突に気づいてしまいます。そして、それまでの自分のなんと愚かなことかと頭を抱えました。
今のこの状況は、そもそもの耐えがたい嗜虐欲をいまだ持て余す私にとって、願ってもないことです。
雅先生は、香蓮先輩に傷つけられて悦ぶ人間でした。
そうです。ここに私の理想郷があったのです。
「雅先生」
「なにかしら――っ!?」
私はその日、図書準備室に設置した隠しカメラで撮った映像を、音量最大にしたスマートフォンで雅先生の眼前に突きつけました。
「やっ、やめてっ、何が望みなの?」
「何がのぞみ……ああ、私の望みですか。わかりませんか? こんなことができる人が分からないとは思いませんけれど」
「それは、九品さんに脅迫されているからでっ」
「嘘ですよ。香蓮先輩が好きなんですよね? 私、別にあなた方の関係を壊すつもりはないのです」
「えっ……?」
ああ、人に悪意を向けることのなんと気持ちのいいことか。それを飲み込ませることのなんと昂ることか。
「私の相手をしてさえくれればいいのです。私はずぅっとあなたのような人を待ち望んでいました。ほら、そこに膝をついてください。でないと窓からこのスマートフォン投げちゃいますよ」
人を上から見下すことのなんと清々しいことか。そして
「…………これで、いいの…………」
「はい。よかったです、雅先生が私の思った通りの見下げた人間で。若い女の体なら誰だっていいんですね? 私高校一年生ですよ? 中学生に毛が生えたようなものですよ? それを牛みたいに乳ばっかり大きくした三十路の女性が欲しがりな目をして。ほら、牛は牛らしく服を脱いで四つん這いになってください」
間欠泉のように言葉が噴き出して止まらない。胎の底に十年近くも溜めたどろどろとした澱みが、緩み切った口からどぷどぷと溢れて止まらない。
雅先生は――雅は最初こそ抵抗したものの、あわよくば若い女の体を味わおうとする魂胆が見え透いていて、その日のうちに雅は
雅の誤算は、私が香蓮先輩とは異なる性質を持っていたことに気づけなかったことです。香蓮先輩は雅に対して自らへのほどこしを求めましたが、私は違います。私はただただこの膨大な嗜虐欲を満たしたいだけ。私はぶつけることさえできればいい。このどうしようもない暴力性を愛に昇華することができればそれでいい。
雅は想像通りの、いいえ、想像以上の
香蓮先輩は雅の前ではネコでした。なら、雅を
無論、私が香蓮先輩に手が届くことなど生涯をかけてもあり得ません。
悲しいことに、私は昔も今も、雅ただ一人にしか自分の欲望をぶつけることができないのですから。
*
「すみません、アイスミルクティーをひとつください」
喉の渇きを思い出し、私は給仕の方を呼び止めて冷たい飲み物を頼みます。室温はいまや暑いくらいでした。
「ひかり先輩も何か頼みますか? お紅茶、すっかり冷めてしまったみたいです」
「……いい。私、もう帰るから。あなたたちがおかしいことは、よくわかった」
そう言って席を立とうとしたひかり先輩の腕を、私はしっかりと握って押しとどめます。
「脇道に逸れてしまいすみません。私と雅の話なんてどうでもよかったですね」
「離して……」
「ここからはひかり先輩と香蓮先輩の話です」
「もういいの、離して」
「香蓮先輩はひかり先輩のこと、好きでしたよ」
掴んでいた腕の抵抗が、その言葉を聞いた瞬間にすっと引いていきます。
「これが聞きたかったんですよね。私ったら、つまらない話ばかりしてしまって」
私は掴む手の力を抜きながら、あくまでひかり先輩の意思で席についていただくよう誘導します。ひかり先輩は迷うように視線を左右に揺らしたあと、何かを観念したように、再び席に腰を落ち着けました。
「ひかり先輩に本当に伝えたいのは、その後のことです」
届いたアイスミルクティーのグラスの中で、カラン、と氷が溶ける音がします。
どんなに冷たい氷でも、温かさに触れることでゆっくりと溶けていきます。私が伝えたいのは、そういうことです。
香蓮先輩はある日を境に急に様子が変わりました。二学期の秋のことです。
落ち着いた、と表現するのが適切でしょう。香蓮先輩は以前のように、女生徒をとっかえひっかえ図書室に連れこむようなことはしなくなりました。
同時に、香蓮先輩は図書委員会の仕事を休みがちになります。私はしばらく寂しい気分でしたが、雅という
ある日、久しぶりに顔を出したと思ったら、新しい女の子を図書室に連れてきました。その人こそ、上野毛ひかり先輩です。
私は前の調子を取り戻したのかな、と思いましたが、どうやらそうでもないことが、香蓮先輩の声色から伝わってきました。
ひかり先輩と話している時の香蓮先輩は少女でした。黄色くて、跳ねるようで、
ああ、香蓮先輩はこの方のことを本当に好きなんだなと、私はすぐにそう思いました。
「……香蓮が、私を?」
「そうです。これは自信を持ってそう言えます」
「好きって、えっと、どういう」
「恋愛対象として好きでしょう、ということです」
ひかり先輩は明らかに動揺したように顔を伏せました。心の中の香蓮先輩と目が合ってしまったのだと、私はすぐに気づきます。
「分かりましたよね? ひかり先輩は、香蓮先輩が選んだ
「そ、そんなこと……」
「わかるんです。私がどれだけ香蓮先輩を崇拝しているか聞いていましたよね? その私が言うんですよ、少しは信じてくれてもいいと思います」
「……希ちゃん。もう一度聞くけど、どうしてそれを私に伝えるの? 今になって」
ひかり先輩はおずおずと私の瞳を覗き込みました。しかしその目には確かな意思がこもっています。私のお節介の真意がどこにあるのか、聞かせてほしい、と。
私は、今の今までそれを打ち明けるか迷っていましたが、ひかり先輩のその目を見て、言うべきだと心の舵を切りました。
「皆まで言うのは恥ずかしいのですが、そうですね、言葉にしないと分からないこともありますからね。私はひかり先輩のことが好きです」
「えっ……ど、どうしてそうなるの?」
「香蓮先輩が最後に会ったのは茉季さんです。事故現場で救急車を呼んだのは彼女です」
その言葉を聞いて、ひかり先輩の顔からさっと血の気が引きました。唐突に告げられたそれを、理解できないといった風に眉をひそめて。
私は言葉を続けます。
「香蓮先輩はひかり先輩のことを確かに好きだったと思います。でも、事故に遭ったその日、香蓮先輩は誰かに会いに行こうとしていたんです。それが最後に香蓮先輩のことを見た茉季さんだったかは分かりませんが」
「……それを、だから、私に伝えてどうするの?」
「追いかけるのはやめにして、私とお付き合いしませんか?」
ひかり先輩の表情が、私の言葉を咀嚼するにつれ、怒りの色を含んでいきます。軽蔑するような目をして、何かを否定したくてたまらないように拳を握って。
「……あなたが、私を好き? ……私が、香蓮を追いかけてる?」
「はい。香蓮先輩が選んだ人ですから、そんな人のことを好きにならないはずがありません。それに、なんとなく香蓮先輩がひかり先輩のことを好きになった理由がわかるんです」
「……最後に聞いておくけど、それは、なに?」
「ひかり先輩はずっと変わらないからです。香蓮先輩に何を言われても、私に何を言われても」
ひかり先輩の目は怖かった。私は今こそ香蓮先輩がこの人を選んだ理由を理解しました。
いよいよ笑いが止まらなくて困ります。私はどうしたってこの人のことを好きになってしまう運命だったのです。
急いで荷物をまとめて席を立とうとするひかり先輩に私は言葉を残し続けます。
「私、本当にひかり先輩のことが好きです。ひかり先輩のこと自信を持って愛せます。ひかり先輩が相手なら私は自分の嗜好も変えられます」
「そんなこと言って、溝口先生はどうなるの?」
「雅とは今もただの体の関係ですし、お付き合いしてるわけでもないですから気にしないでください」
ひかり先輩はこの日一番厳しい視線を私に投げかけたあと、お財布から千円札を一枚取り出して、そっと伝票の上に置きます。
「……香蓮をいいように扱わないで。香蓮があの日、何を思って誰に会いに行こうとしてたかなんて、今となっては分からないじゃない!」
心がチクっとします。私はこの言葉でひかり先輩に傷つけられたと思います。
けれど、ひかり先輩に与えられた傷は不思議と嫌じゃなくて、あったかくて、私は世界のまだ広いことに身を震わせました。
端的に言うなら、ゾクっとします。
「私はいつか、ひかり先輩の方から私に連絡してくると思っています。それまで待ってますね」
この言葉を口にした時、既にひかり先輩は私に背を向けていましたから、それがひかり先輩の耳に届いていたかはわかりません。
ですが私は確信しています。私のこの予感はきっと間違いないと。ひかり先輩は必ず、また私に会いに来ると。
なぜって、この世で一番香蓮先輩のことを見て、理解して、味わってきたのは、この
*
喫茶店を飛び出して、私は足早に雨の中を駅に向かって歩いた。
頭がぼーっとする。希に対して自分がどんな感情を抱いているのかも分からない。好きと言われた瞬間、少しでも心臓が跳ねた自分が無性に気持ち悪かった。
香蓮の法要に参加した日から、世界がどんどんおかしくなっていってる。
香蓮を、私を好きだという女の子たち。彼女たちはみんな、香蓮によって変えられてしまったのだろうか。
だとしたら、私は?
『ひかりにはそのままでいてほしいなぁ』
いつか聞いた香蓮の言葉が、あの日聞いたままの声で頭の中に響く。
「私は私のままでいるよ」
あの日と同じ返答をした私の口に、その言葉は昔ほど馴染まなくて、私は焦るように歩調を早めた。
私は変わっちゃいけない。香蓮が私のことを好きだったとしても、私は香蓮のことをそういう意味では好きじゃない。
香蓮は友達だから。過去にどんなひどいことをしていても、どんなに他の子と関係を持っていても、あの冬、私に見せたあの笑顔は本当だったはずだから。
「亜紗、電話出て……!」
私はスマートフォンのメッセージアプリで亜紗の連絡先を叩いた。どうしてそうしたかは分からない。ただ少しでも早く、このむせ返るような不安を亜紗の笑顔で消し去りたかった。
『もしもし、ひかり?』
通知音は数秒と続かず、その安心する声が私の耳を包む。
「亜紗、今から会いに行ってもいい?」
『おっ、いいよ。今、ちょうど出先で紀実加と一緒にいるんだけど、それでもいい?』
「いいよ!」
私は通話を切って亜紗のいる場所へと小走りに向かっていく。
冬の雨でスニーカーが水浸しになっているのにも気づかずに、まるで何かから逃げるようにして。
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