第二話 あなたとの毎日
それからの日々は全てが新鮮で、気がついた時には学年末が目の前に迫っていた。
香蓮と私はクラスではあまり話さなかったが、そのかわりに帰り道はずっと一緒だった。香蓮はまっすぐ帰らない。そのせいで、私は雑貨屋の匂いやアクセサリーショップの店員の視線に日ごとに慣れていった。コンビニのホットスナックやスイーツを食べる機会が増え、メッセージアプリで変なイラストのスタンプを買った。
ローファーが歩くのに適さない靴だということも知った。それでも香蓮は当然のように
これが当たり前の高校生活なのかな、と思った。今まで騒がしく集団を形作っていたクラスメイトの気持ちが分かった気がした。彼らは騒ぎたくて騒いでいるのではなくて、ただ楽しくてそうなってしまっていたのだ。
日中、香蓮の背中に話しかけようとしたことは何度もあった。けれど私にはそれが自分には過ぎたことのように思えて、いつも未遂でそれを終えた。私は放課後の時間を空想しながら、昼食はいつも通り亜紗と食べて、授業中は静かに机に向かった。
「なんで学校では話しかけてくれないのかなーって思ってたけど、そういうことなんだ?」
いつもの公園で、私はブランコに揺られながら香蓮にその『決まり』のことを話していた。
香蓮はずっと不思議そうな表情でいたが、うん、うん、と興味ありげに相槌だけは打ってくれていた。
「ヘンかな?」
「うーん、ヘンかヘンじゃないかで言ったら、ヘンかも!」
ともすれば香蓮は私のそんな姿勢を否定した。でも、そこにはいつだって悪意や見下すような意図はなく、香蓮は決まってその言葉を続けた。
「でも、それがひかりの好きなとこ」
「それいつも言ってる。香蓮は優しいね」
「ほんとだよ? ほんとにそう思ってるって! 伝わってー!」
香蓮はもう一方のブランコに座りながら、こちらに向けて腕をパタパタと上下させた。その様子があまりに一生懸命だったので掴み返してあげると、香蓮は少し驚いてからカラカラと笑って、繋いだ腕をゆっくりと振った。
「ひかりにはそのままでいてほしいなぁ」
「なんで?」
「ほら、結構すぐ気持ち変わっちゃう子もいるじゃん。昨日まで仲良くしてたのに次の日はよそよそしくなってたり。そういうのって疲れない?」
香蓮は言いながらぐっと伸びをした。人気者ゆえの苦労もあるんだな、と思った。
同時に、だから私と一緒にいたがるのかな、ということも思った。私はクラスにこれといった親しい友人もいないし、そうなるとグループ同士のしがらみもない。そうであることが香蓮にとって都合がいいなら、私はむしろこのままでいいと思った。
私は自分にとって心地がいいと思える環境が好きだ。自分がそれなりに自然に笑えて、友達と思える人と話せているならそれで十分だった。何かを足すことも引くこともしたくない。香蓮といて楽しいと思える今を、ただ飴玉のように口の中で転がしていたかった。
「私は私のままでいるよ。今が楽しいから」
私は率直にその思いを伝えた。香蓮は伸びをした格好のまま少し固まった後、息を吹くように笑って、それからずいっと私に迫った。
「おんなじ気持ち! 今が楽しいのが一番だよね? 私もひかりと話せて楽しいし、もっと知りたい!」
「よかった。だけどそんなに見せるところあるかなぁ」
首を傾げる私に、香蓮はすっくと立ち上がり、得意げな顔をしてびしっと私を指差した。
「今日わかったことがひとつ。実はあんまり人の話を聞いていませんね」
「そんなこと……ないです」
「えっ? なに? って聞き返されたの、今日だけで千回はあったよ」
「千回は言い過ぎだって」
「一回でもダメなんです~!」
香蓮は立てた人差し指をぐりぐりと私の頬にねじ込んだ。綺麗な楕円形の爪から女の子らしさが伝わった。
「いたた、慣れると気が抜けちゃうの、ごめんって」
「ごめんと思ってるなら埋め合わせしてもらおうかな?」
「埋め合わせ?」
「そ、図書委員会」
香蓮はスマートフォンでスケジュールを手早く確認しながらそう言った。むふふ、と嬉しそうに顔をほころばせながら。
「明日は放課後、図書室に集合で!」
図書室に集合することがどう埋め合わせになるのか。私は判然としない顔をしていたと思う。
ただ漠然と、放課後の帰り道がいつもより少し長くなる、というふわふわしたイメージが頭の中に浮かんでは漂って。
結局そればっかりに意識のほとんどを持っていかれた私は、帰りの電車で何度も頬をつつかれるのだった。
*
翌日の放課後。
ホームルームを終え、途端にざわつき始める教室。香蓮は途端にいつものグループの子たちに囲まれ、そのひとりひとりに忙しそうに言葉を返していた。この分だとそう簡単には解放してもらえなさそうだった。香蓮が「図書室に集合で」と言った意味が分かった気がした。
このままここで座って待っているのも気が引けるので、私は自分の持ち物を学校の指定カバンに詰めてとりあえず席を立った。委員会が始まる時間はもうすぐのはずだけど、話の様子からして香蓮はしばらくその場を動けそうにない。親切心というよりも今日のこれからを確認するような気持ちで、私は香蓮の方をちらりと見た。
「――あ、委員会!」
香蓮は私と目が合いざま、そう言って
「最近委員会サボってたら先生に怒られちゃって。じゃね」
周囲の子に申し訳なさそうに手を合わせて、香蓮は荷物を手早くカバンにまとめた。私はなんだか悪いことをした気がして、香蓮がその輪っかを抜け出すよりも早く、ひとり廊下に出ようとした。
「ちょっ、ちょっと待ってよ!」
言うが早いか、肩がけにした私のカバンが強い力で引っ張られ、私は教室の扉の手前で反射的に振り返った。
香蓮は珍しく焦ったような顔をしていた。私は少しびっくりして彼女のことを見た。
「香蓮、そんなに急がなくてもいいよ」
「あ……いや、先に帰っちゃうのかなって思って」
「帰るって、今日は図書委員の日なんでしょ? 先に図書室行って待ってるよ」
「あ、うん、そうだよね? うん! ま、流れってことで、いっしょに行こ?」
「うん、いいよ」
私はこの時初めてクラスで香蓮と普通に話した。学校では話さない決まりだったはずなのに、いざ破った途端どうでもいいことのように感じられて、私は心の中で調子のいい自分を笑った。だけどそんな
「さっきの友達はいいの?」
「ま、いつも話してるし。それより昨日の埋め合わせの方がずっと大事でしょ~?」
香蓮は私の袖をきゅっと掴んで歩く速度を上げた。私はまるで香蓮にエスコートされるようにして彼女の半歩後ろを歩いた。こちらを見る香蓮は上機嫌に目を細めていて、それを見る私の頬もきっとゆるんでいた。
私は何の気なしに後ろを振り返った。さっきのグループの子の一人がこちらを見つめていた気がしたけれど、廊下の窓から吹き込む冬の冷たい風が香蓮の髪を揺らして、それが私の顔をくすぐった。
私の視界はすぐに香蓮の笑顔でいっぱいになった。
図書委員会の仕事は、香蓮いわく「図書室の受付に立って本を貸したり返してもらったりする作業?」とのことだった。
本の状態の点検とか、返却期限を過ぎてないかのチェックとか、普通に考えてもっと他にもやることはあるように思う。けれど香蓮の口ぶりから彼女が委員会に熱心でないことは明らかだったので、わざわざそこをつつくことはしなかった。
委員会の仕事は二人一組での当番制らしく、なるほどだから香蓮の隣に下級生がもうひとりいるのかと、私は図書室の隅の椅子に座りながらぼんやりと思っていた。
図書室の利用者は少ない。私も以前、一回だけ気になった小説を借りに訪れたことがあるが、それっきりだ。今日もこれだけ閑古鳥が鳴いているところを見る限り、この学校の生徒のほとんどはこの場所を活用していないのだろう。
香蓮が図書委員会を選ぶ理由も分かる気がした。香蓮は成績はいいし人望もあるが、そんな彼女が実は根っからの優等生でないことに、私はこの数か月を通して薄々気がついていた。
一方の下級生の方を見れば、閑古鳥なのをいいことに、受付台に数冊の本を重ねて読書に
『あと五分』
『どういう意味?』
『司書の先生が職員室に戻るの、あ』
そのメッセージが届くと同時に、受付の背後にある図書準備室の扉が開き、司書の先生とおぼしき人が現れた。専任で司書をしている人なのだろう、私はその人のことを見た記憶がほとんどない。いかにも司書というイメージの、落ち着いた雰囲気の女の人だった。
香蓮は途端に姿勢を正して「あとは任せてください」なんて言いながら司書の先生を見送った。司書の先生はにこっと微笑を返し、ゆっくりとした歩調で図書室を出た。
足音が次第に遠のき、それが完全に聞こえなくなったあたりで、香蓮は受付を飛び出すようにして私の席めがけて駆けてきた。
「おまたせ! 先生ようやく行ってくれたよぉ」
「下級生に任せちゃっていいの?」
「いいのいいの、あの子全部やってくれるから。それに、こーんなガラガラだったら仕事しようにもできないでしょ?」
「それはまあ、そうかも。でも図書室では静かにしましょうって。ほら、貼り紙」
「静かに話せばセーフだよぉ」
その声は誰が聞いても大きいと感じられるだろう声量だったので、さすがに受付の子に注意されるかなと思った。けれど、私たちが上級生だからか、はたまた本さえ読めればそれでいいのか、その子は私たちに目をくれることもなく、穏やかな表情のまま手元に視線を落とすばかりだった。
「ね? 図書委員の私がいいって言ってるんだから」
「不真面目だなぁ」
「私はひかりとおしゃべりすることに真面目だよ」
「……まあ、使ってる人が誰もいないならいいのかな」
私は車通りのない赤信号を左右を見てよしと渡ってしまえるタイプではなかった。だからこういう時、私は決まって言いようのない申し訳なさに
なのに今はそんな気分にならないから不思議だった。ただ楽しい気持ちだけがそこにあって止められない。そんな私の心が透けて見えるから、香蓮はこんなにもためらいなく私をそそのかしてくるのだろう。
「でも、これで埋め合わせになるの?」
「ひかりと二人きりでおしゃべりできる。図書委員の仕事をしてるアピールにもなる。いいことずくめじゃん?」
「ならいいんだけど」
まことしやかに語られる香蓮の言葉は、この二人きりの世界にあっては真実だった。人のいない図書室の隅っこは凍るほどに寒かったが、私の心臓はこの時間を謳歌しろと言わんばかりに熱く跳ねていた。
「でさ、駅前に新しくできたスイーツのお店がさ」
香蓮は話しながら私の手を握ったり、私の膝に手を置いたりした。女の子同士ならそれなりにあるスキンシップだと思うし、私に比較できるほど友達がいるわけでもないけど、それでも香蓮は頻繁に私の肌に触れた。
嫌な気持ちはしない。むしろ親密さの表れのように思えて、私はその手の感触が心地よかった。
香蓮と仲良くなってから今日までが一瞬のことなら、今日のこの時間はきっともっと一瞬の出来事なんだろう。
そんなことを思いながら、私は指先がかじかむのも忘れて、この瞬間に没頭した。
*
「時間になりましたので失礼します。委員会のお仕事は終わらせておきました」
その言葉に私はハッとして振り返った。
ぺこ、と頭を下げる下級生越しに見た時計が、午後五時を指していた。
下級生は特に不満もなさそうな様子でそのまま図書室を去っていった。これでもし嫌な顔でもされていたら、きっと私は今日の悪事を後悔していただろうから、内心彼女にはお礼を言いたい気持ちだった。
「悪いことしちゃったかな」
「悪いことっていうなら、もっと悪いことがあるよ?」
そう言いながら香蓮はカバンの奥の方をごそごそと探った。固いビニール袋のパリパリとした音が聞こえて、私は見る前からそれを直感した。
「はい、チョコ」
「うわっ、私なんにも考えてなかった」
「そうだと思ったー。だからお返し期待してるね?」
「あ……ありがとう」
今まで自分とは無関係だったバレンタインデーというイベントが急に現実に押し寄せてきて、この手の催しに乗っかってこなかった自分の浅はかさに耳が熱くなる。
百貨店の地下にあるような高級菓子店の名前が入った紙袋の中に、リボンをまとった、いかにもかわいい感じの立方体が鎮座していた。その中に封入されたチョコの味やデザインの美しさなどは見るまでもないだろう。
私は香蓮の差し出すそれを恐る恐る受け取った。あの日、消しゴムひとつでうじうじ考えていた自分を思い出す。それに比べて香蓮のなんと友達思いで気前のいいことか。自分の青春への適性の低さが白日の
「っていうかここ寒くない? そろそろ行こっか」
外を見ればすっかり暗くなっていた。香蓮と私は電気を消して――香蓮は図書委員のくせにスイッチの場所を知らないみたいでしばらく二人して探した――図書室を出た。人の気配のまばらな廊下に、冬のしんとした空気が充満していた。
寒いね、とか言い合いながら昇降口を目指す最中、図書室で見た司書の先生とすれ違った。私は軽く会釈をしてその場を通り過ぎようとした。
「九品さん」
香蓮が呼び止められたことに対し、私は瞬間的に彼女への申し訳なさに包まれた。言ったのは下級生だろうか。ともあれ何らかの形でさっきの時間が先生に伝わったのだ。
楽しい時間のしわ寄せが香蓮に向いてしまう。そう思った私は反射的に頭を下げようとした。
「なんですか?」
私のそんな葛藤を知ってか知らずか、香蓮は何ともない風に先生の呼び止めに応えた。私は香蓮の表情をうかがった。そこには優等生としての香蓮の顔があった。
「ちょっと、委員会のことで」
「わかりました」
香蓮は迷いなく了承の言葉を返し、先生の後ろに続くようにして歩き出した。
「ごめん、ちょっと待ってて」
小声でそう告げた香蓮はさっきまでと同じ顔をしていて、それに安堵を覚えた私は、彼女の言う通りにその場で待つことにした。
そうこうしているうちに二十分くらいが経っただろうか。
リノリウムの廊下が手足の先から熱を奪うには十分な時間だった。ようやく戻ってきた香蓮の顔は優等生の余裕をたたえていた。
香蓮は私に「ごめんね」と目配せして、それで私たちはいよいよ帰路につくはずだった。
「上野毛さん、でしたっけ」
先生が私の名前を呼んだとき、香蓮の方が分かりやすく嫌そうな顔をした。私もまさか自分にまでお鉢が回ってくるとは思わず、緊張に体を固くした。
「お説教とかじゃないのよ。少しだけいい?」
ね、と優しく微笑んで念押しされると、それに抗う言葉も矜持も持たない私は、先生の先導するままに、図書室の中にある図書準備室に足を踏み入れた。
入ってまず感じたのは、雑貨屋によく置いてあるディフューザーのようないい香りだった。図書準備室でどうしてこんな香りがするのかという疑問は、それよりも大きな『香蓮を待たせている』という焦りが塗りつぶして、
先生からは、香蓮が委員会をサボりがちなこと、友達ならあなたからしっかり言ってあげてね、といった内容の話をされた気がする。私はその間も香蓮に「ごめんね」だとか「待ってて」だとかをちゃんと伝えたか、いや伝えていないに違いない、といった脳内会議に必死で、気づいた時には図書準備室の扉が開いていた。
先生への挨拶もそこそこに、私は小走りに香蓮と別れた場所まで戻った。そこではちゃんと香蓮が待ってくれていて、私はずっと言いたかった「ごめんね」を五回くらい続けざまに言って、香蓮を笑わせた。
*
学校を出ると、外はすっかり夜の色に染まっていた。
「もう真っ暗だね。だから委員会ってイヤなんだよなぁ」
香蓮はそう言いながらマフラーをカバンから取り出した。長い髪を巻き込むようにして、するするとお洒落な巻き方で巻いていく。高校生にしては大人びて見えるデザインのそれは、香蓮の首元にすんなり溶け込んで収まっていた。
「どうしたの? うっとりしちゃって」
私の視線に気づいた香蓮がからかうような口調で言う。私は慌てて目をそらした。
「別にうっとりしてないよ。巻き方、上手だなって」
実際、私は見とれていたのだろう。だけどそれを口にするのは気恥ずかしくて、私は内心を隠すように自分の地味なマフラーをぐるぐると首に巻きつけた。
「ひかりってさ、マフラーの巻き方ほんとテキトーだよね。もう我慢できない!」
そう言うと香蓮は否応なしに私のマフラーを
見栄え重視の巻き方なのだろう、私の首元には冷たい風が当たっていた。
「これ、マフラーの意味ある?」
「ひっどい! この巻き方流行ってるんだよ? それに私とお揃いだし。あ、お揃い好きじゃなかった?」
ちょっと残念そうな表情がのぞいた瞬間、私は弾かれるように首を横に振った。
「じゃ、よかった。今年の冬はこの巻き方で学校来てね!」
そして残念がったかと思えばすぐ、今度は愉快そうに笑って私の頬を指でつつく。ころころ変わる香蓮の表情に、私はすっかり振り回されてしまうのだった。
「さっき、先生になんて言われたの?」
香蓮は少し唐突なタイミングで私にそう訊いた。学校から駅までの道を、他愛のない話をしながら歩いていた最中のことだった。
「えっと、なんだっけかな」
「ひかりって先生の話も聞いてないの?」
「そのときは香蓮を待たせてるのが気になってて」
「ふーん。かわいいじゃん」
実際私はあの人の話を全く聞いていなかったと思う。聞いていたならもっとちゃんと台詞として思い出せるはずだったから。
「たしか、香蓮は委員会よくサボるから注意してあげて……とか、そんな感じだったと思う」
「そっか。そんなことをね。なら私に直接言えばいいじゃんね? なーんでひかりに言うんだろ?」
不思議だね、と明るい口調で香蓮は言った。確かに私たちの時間を短くするくらいならまとめて話してほしかった。
でも先生の言う通り、私は彼女に言って聞かせる必要があるかもしれなかった。香蓮がこれ以上先生からの評価を下げないように――もとい、香蓮が先に帰っちゃうんじゃないかって、私がまた気に揉むことのないように。
タイミング悪く逃した電車を横目に、木枯らしの吹きつける駅のホームで次の電車を待つこと十分。ようやく乗った電車は暖房が効いていて暖かかった。
この時間の
私たちは二人してラッキーとか言いながら座席に座って、かじかんだ指を揉みほぐした。切り裂くような冬の風に晒され続けた心と体が、進みだした電車の心地のよい揺れに合わせて弛緩していくのを感じた。
今日みたいに二人で座って帰れることはたまにあった。香蓮は人と話す時にずっと目を見て話す。それは座席の隣同士で密着している時も変わらないので、私は内心「ちかいちかい」とうろたえながら彼女の目線に応えていた。
しかし今日はそれがなかった。香蓮が私を見ないから。
話す話題が底をついたことに私は気がついた。何を話せばいいかわからない。いつも会話を切り出すのは香蓮の方だったから。
私はこの電車の中の時間を充実させたくて頭の中の引き出しを引っくり返したが、大体のことは図書室で話し切ってしまった。いよいよ間が持たなくなってしまって、私は苦し紛れに、ちら、と横目に香蓮を見た。
香蓮は小さく船を漕いでいた。私はほっと息をついた。
これだけ電車が暖かければ無理もない。私は香蓮の前でうとうとするなんてことはとてもできなかったけど、香蓮は私にそうできることがわかって、胸の中が温かくなった。
漫画でも読むかと思い握ったスマートフォンが、ぐっ、と重みで揺れた。えっ、と思った時には、肩のあたりに人の重さと、耳のあたりにくすぐったい感触があった。
香蓮は私にもたれて、すぅすぅとかわいい寝息を立てていた。
私はしばらくあたふたとどうするべきか悩んで、けれど悩んだところで何もできることはないことに気づく。
何もせず寝かせてあげるのがいい。私は香蓮の髪のむずがゆい感触をそのままに、今
『次はXX駅、XX駅』
私の家の最寄りの駅名がアナウンスされた瞬間、肩の重みがすっと消える。
重みの主は袖でよだれを隠しながら電光掲示板の表示を目で追い、それから私の方を見た。ぼーっとした瞳が次第に光を取り戻していく。
「……ねてた?」
「寝てたよ」
「起こしてよぉ! 話そうと思ってたことまだあるのにっ」
「気持ちよさそうに寝てたのに、起こせないよ」
あーとかうーとか言いながら、香蓮は減速していく車内で目を泳がせた。電車の窓にはもう見慣れた駅のホームが映っている。
「香蓮は次の次の駅だっけ」
「あー、ま、そうだけど」
香蓮にしては歯切れが悪かった。そうしているうちに短いチャイムと共に電車の扉が開いて、人がぽつぽつと立ち上がり始めた。
私は「じゃあね」と言って立ち上がった。けれど立ち上がったのは私だけじゃなくて。
「ごはん食べよう!」
「え、香蓮、塾があるとか言ってなかった?」
「まーまーお堅いことは言わず! まだ埋め合わせは終わってないってことで、ほら扉しまっちゃうしまっちゃう!」
呆気にとられる私を押し出すようにして、香蓮と私は電車を降りた。香蓮は動き出す電車を少しの間見送ったあと、えへへと笑って私を見た。
「香蓮、本当に大丈夫? 今日はもう遅いし、明日でもいいと思うけど」
「七時が遅いって、花の盛りのJKがなに言ってんの! 私は今日を楽しみたいのー」
そう言いながら香蓮は私をエスカレーターに押しやり、上機嫌にえいえいと私の頬をつついた。私は人のいる所でそういうやりとりをするのが無性に恥ずかしくて、エスカレーターの右側を足早に上った。それを香蓮は負けじと追い立てた。
途中からは半分走るくらいの勢いで改札を通過し、私たちは揉みくちゃになりながら駅前のロータリーに転がり出た。
「待て、逃げんなー!」
「恥ずかしいって、やめて、あははっ!」
「あ、ひかり笑った」
「はぁ、はぁ、えっ?」
笑ってる。そう言って香蓮は私のことを見つめた。まるで笑っている私を初めて見たかのような口ぶりだった。
「えっと、いつも結構笑ってない?」
「普段のはヘラヘラしてるっていうの。今のは笑ってる」
「へ、ヘラヘラしてる……」
「まあいいや、お腹すいた! あそこのファミレスのポテト食べたい!」
濁流のように言葉を浴びせられ、濁流のように体を引っ張られる。いわゆる女子高生らしさにはまってこれないままこれまで生きてきた私は、おかしいくらいに今、その濁流に身を任せていくのだった。
「あ、ちょっとお花摘んでくるね」
早速頼んだポテトをつまみながらメロンソーダに口をつけたかと思えば、そんな上品な言葉を放ちながらスマートフォン片手に香蓮はお手洗いに向かった。
それを見て私もハッとして自分のスマートフォンを握った。思えば夕飯を食べるような道草はいつ以来だろう。私は親に今日の悪事の許しを得るべく、メッセージアプリを開いて短文を打った。
『今日は友達とごはん食べてくる』
『いいじゃない。亜紗ちゃん?』
『違う、かれん』
『お
「ひっかりー、お待たせ。あ、門限とか大丈夫だった?」
早々に戻ってきた香蓮は、私の向かいの席に腰を下ろす間際、私のスマートフォンをちらりと見てそう言った。お手洗いで同じように親に連絡しただろう香蓮の様子が気になった私は、香蓮の表情をそっとうかがい見た。
「香蓮は大丈夫だった?」
「大丈夫って何が? ああ、親にはご飯はいらないって言ってあるから大丈夫! ね、ひかりの方は大丈夫かって聞いてるの」
「ああ、うん、今日くらいは遊んでこい、って」
「本当!? よーし、そしたら今日はとことんいっちゃいますか!」
香蓮の目がみるみる輝きだす。強い力で腕を掴まれた私は、またもその奔流に飲まれていく。
「ちょっと、まだご飯食べてないよ!」
「そんなのカラオケで食べればいいっしょー!」
「カラオケ行くの? 制服だよ私たち!」
「高校生は十一時過ぎなきゃいいのー!」
香蓮はレジに伝票を置くと、制服のポケットから雑に黒いカードを取り出して――高校生ってカード持てるの?――それを機械に押し当てた。香蓮はレシートも受け取らずに私の手を引いてレストランを出た。
「さすがにおごってもらうのは悪いよ、いくらだった?」
「えー? ドリンクバーとポテトで五百円くらい? あ、ポテトはほとんど私が食べたからひかりは三百円くらいか。そのくらい気にしないでよ」
香蓮はそう言って、ひらひらと振った黒いカードを制服のポケットに押し込んだ。
香蓮の家が裕福なことを悟る瞬間はこれまでにも沢山あった。親にカードを持たされてブランドのマフラーを纏う彼女にとっては、ファミレスの軽食費などたかが知れているのだろう。
それでも私は自分と香蓮との間に差を作りたくなかった。
「よくないよ、貸し借りは作りたくない」
気づいた時には、私はそう口にしていた。
香蓮はぽかんとした表情で私を見ていた。またやってしまった。外の空気の冷たさも相まって、私はきゅうと委縮した。
「硬派だ!」
なぜかわからない。香蓮は私をぎゅっと抱いて、すぐに放した。
「いいなー、そういうの。好き」
「ええ……? ありがとう……?」
香蓮は私がお財布から出した三百円を大事そうに受け取ると、カバンの中から取り出した自分のお財布にそれを仕舞った。
「ハイ、じゃあこれで貸し借りなしってことで、カラオケ楽しんじゃおう!」
香蓮の笑顔がはじける。それは灰色の夜の街の中で、どんなものよりも明るく強い光を放っていた。
閃光と爆音が時間の感覚を奪っていった。気がつけばもうすぐ二十二時を回ろうとしていた。
香蓮は私の知らない曲をたくさん歌った。流行りの歌、男性の歌手の歌、ロックだったりバラードだったり。香蓮はそのどれをも完璧に歌い上げてみせた。
まるで香蓮の中に何人もの人がいるかのようだった。私は薄いミルクティーをちびちびと口に運びながら、無限に移りゆくその音色に聞き惚れるようにして時を過ごした。
「ふぅ、カラオケってやっぱりいいわー。ひかりもなんか歌いなよ、さっきから私ばっかり歌ってるし」
「うーん、カラオケってしばらく来てないから、最近の曲ってよく知らなくて。もう何年も前に亜紗と来たっきりかな……」
「じゃあ知ってる曲でいいよ! 曖昧に覚えてるやつでも大丈夫、私いっしょに歌うから!」
そう言うと香蓮は私との距離をぐいっと縮めて、私の前にタブレット大の操作盤を置いた。迷うように文字盤をタッチする私に、香蓮は「これとか?」と言って器用に文字を打ち、予測変換に出てきた歌手名や楽曲を指し示す。そこには確かに私でも知っている名前が並んでいて、私は手品を見たような気分で香蓮のことを見た。
「この曲、昔ちょっと聴いてたのを思い出したよ。なんで分かったの?」
「ひかりのことなら誰よりもよく知ってるから」
例によって間近の距離で、香蓮は私の目を見ながらそんなことを言った。私は「すごいね」と言いながら気恥ずかしさで手持ち無沙汰に空のミルクティーのコップを手に取ると、すぐに覚えのあるイントロが流れ出して、「はい!」と香蓮にマイクを握らされた。
いざ歌おうとするものの、自分の喉からAメロがすぐに出てこない気配を察して、私は二の足を踏みそうになった。するとそれを察した香蓮が、私の手を握ってマイク片手に私に目配せをし、そのまますんなりとAメロを歌い始めた。
その音程があまりに正確だったからなのか、握った手でリズムを取ってくれたからなのか。私は香蓮に続くようにして自然とBメロを口に出していた。
自分の声の小ささには私は最初びっくりしたが、ええいと勢いのままサビまで歌い続けた。香蓮の声が、私の声をかき消さないくらいの声量で私の歌に重なった。
そこには私の知らない安心感と一体感があった。もう二十二時だと思っていた私は、まだ二十二時だと思うようになっていた。
一人で脚光を浴びて目立つこともできるのに、わざわざ私なんかに沿って形を変えてくれる香蓮がつくづく不思議だった。でもその疑問を口にしようとは思わない。言葉にしたら、この時間が終わってしまう気がしたから。
「ぜんぜんイケるじゃんひかり! ねぇ、もっと歌おうよ」
「うん、でももうすぐ時間だし、今日は出よう」
「ひかりって結構塩だよねー。もしお巡りさんに呼び止められたら『塾です』とか言えば大丈夫だよぉ。私、塾の参考書カバンに入ってるしー」
香蓮は甘えるような声でそう言いながら、いたずらっぽく私に寄りかかって太もものあたりを撫でた。急なくすぐったさに弾かれるようにして香蓮の手を払うと、香蓮はみるみる悪い顔をして、そのまま味を占めたように太ももをくすぐったり、制服の中に手を入れて腋のあたりをつついたりした。
「ちょっと、香蓮、やり過ぎだってっ」
「なになに? それにしては喜んでるみたいだけどー?」
「それはくすぐったいからっ、ちょっとっ」
喜んでいたのは図星だった。
夜、カラオケで友達とはしゃげることがこんなにも楽しかった。香蓮が私に優しくしてくれて嬉しかった。クラスの人気者を独占できることが誇らしかった。いつまでもこの時間を繰り返していたかった。
「嬉しそう」
「あはは、え?」
「ひかり、今日は何回も嬉しそう」
そう言った瞬間の、香蓮の目はやけに大人びていた。さっきまで私のことをからかっていた人とは思えないほどの落ち着きと、慈しみのようなものがそこにはあった。
けれど、それも錯覚だったのではないかと思えるほど、香蓮の目は瞬きひとつで幼さを取り戻した。
「ちぇっ。まあいいや、私もひかりを不良にしたくないし、明日も行けばいいし」
香蓮はジトっとした目でそう言いながら、私の体から離した手を渋々と伝票に向けた。
「明日もカラオケ行くの?」
「ひかりは行きたくないの? 私とカラオケ」
「それは、行きたいけど」
「やったー! じゃあ決まりね!」
私から
外は冷たい雨が降っていた。
「あちゃー、傘持ってないよ」
香蓮はカラオケ店の軒下で、当てにならない天気予報に文句をつけながら恨めしそうに空を見ていた。
「折り畳み傘とか持ってないの?」
「重いしかさばるし、持ちたくないんだよね。コンビニでビニール傘買っていくかなぁ。家にあるビニール傘でお店ができちゃう」
言いながら視線を右に左に、香蓮はコンビニのネオンライトを探した。
「はい」
私は手にした折り畳み傘を差し出していた。香蓮のその視線を遮るようにして。
「え?」
「これ、貸すよ」
「え、いや、コンビニでビニール傘買うって」
私も香蓮の言葉を聞いていなかった訳ではなかった。なら、どうして私はこの折り畳み傘を香蓮に押しつけようとしているのか。
「消しゴムの時、ちゃんと貸せなかったから」
それが私の本心らしかった。
私の心の中にはそれがずっと引っかかっていて、今、私はようやくそれを引き抜ける気がして。
「明日、返してね。約束」
私はそう言って香蓮の目を見た。彼女の目をちゃんと見るのは初めての気がした。
香蓮は静かに私のことを見て、薄く笑って目を閉じて、それから私の折り畳み傘を受け取った。
「ひかりから約束されちゃあ、しょうがないな」
香蓮は傘を開いて雨の下に歩み出た。私の傘が、香蓮を冷たい雨から守ってくれていた。
「ありがと。じゃあね、ひかりこそ風邪ひかないでね!」
「大丈夫だよ。それじゃあね」
そう言って、私たちは互いに手を振りあった。背を向けた香蓮の後ろ髪が傘に隠れて、そのままゆっくりと遠ざかっていった。
私は香蓮の姿が見えなくなるまで、その後ろ姿を見つめ続けていた。香蓮がもし振り返って何かを言おうとした時、そこに自分がいたいと思った。
結局、香蓮は私の方を振り返らずに、曲がり角の向こうへと消えていった。
別れ際、どうしてあんなに寂しそうな顔をしていたの?
その疑問は、明日、今の私たちなら当たり前のように話せるだろうと思った。
今日あった瞬間のひとつひとつを、その時覚えた感情のすべてを味わい返さずにはいられなくて、私は傘を買うのも忘れて、雨の中を歩いて帰った。火照った頭に冷たい感触がちょうどよかった。
途中、偶然通りかかった亜紗が私を傘の中に入れてくれた。家に着くまで亜紗は私に小言を言い続けたが、私はそのほとんどを聞いていなかったと思う。
聞いていなかったのは、私が今日のことを亜紗に話すのに必死だったから。何が楽しかったとか、どんなことを思ったかとか。それは亜紗に聞かせるというよりも、人に話すことで、私自身が今日のことをより実感したかったのだと思う。亜紗は少し呆れながらも、いつもの様子で私の話を聞いてくれた。
玄関の外で亜紗と別れた後、私はすぐにお風呂を済ませて、明日の準備もそこそこに布団をかぶった。キラキラした一日を、一人の暗闇の中でゆっくりと咀嚼した。
図書室で先生に小言を言われたこと。マフラーの巻き方を教わったこと。ファミレスのポテトはしょっぱくて、カラオケのご飯は意外とおいしかったこと。
香蓮と一緒に歌を歌ったこと。一緒に笑ったこと。傘を貸したこと。明日どこから話せばいいだろう。急に増えた会話の手札を、私は忙しく頭の中で整えていった。
そうしているうちに意識がふんわりとした感覚に包まれていく。雨の音が私を優しい眠りの中に誘っていく。
ピコン、とメッセージアプリの通知が届いた。香蓮から届いたよく分からないイラストのスタンプに、私も同じスタンプで返した。
明日は晴れるといいな。
目蓋の重みに任せるまま、私はゆっくりと目を閉じた。
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