第三話 あなたがそこにいた

 震えるスマートフォンの気配に気づいて、私はゆっくりと身を起こした。

 カーテンの隙間から漏れ入る光の線の太さから、私は今日が快晴であることを予感した。起き抜けに陽の光を浴びるのが苦手な私は、カーテンを開いて天候の是非を確かめる前に、長いことスマートフォンに表示されっぱなしの通話マークを指で叩いた。

『もう玄関の前いるけど、まだ準備してる?』

「ごめん、今おきた」

『いまおきた、じゃないわよ! 遅刻しちゃうでしょ、早く降りてこい!』

 そうは言っても、優しい温もりがいつまでも私を縫いとめて離さないのだから仕方がない。私は後ろ髪を引かれる思いでゆっくりと布団をめくった。

 冬の朝の冷たい空気にはいつまでたっても馴染めそうにない。眠気と寒さがしつこくこびりついていたけれど、少しずつ覚醒する理性が体を奮い立たせて、私はなんとか身を起こした。

 カーテンの隙間から見える空は笑ってしまうほどの冬晴れだった。

 ぼうっと眺めていた壁掛け時計。その針の角度が急に意味を持った瞬間、私は弾かれるようにスマートフォンに話しかけた。

「どうしよう、なに着ていこう」

『なにって、この前買ったやつの組み合わせでいいでしょ! あんたそんなに悩むほど服持ってないんだから!』

 尾山亜紗と表示された画面から響くその声はビリビリと音割れして、私は急き立てられるようにデニムのパンツに足をねじ込んだ。クローゼットから適当に引っ張り出したニットに袖を通したら、あとは椅子にひっかけたままのコートを雑に羽織って、カバンとマフラーをつかんで階段を駆け下りる。

 亜紗には申し訳ないと思っているけど、このやりとりは私たちの間では日常茶飯事だった。おかげで毎日助かっている。亜紗がいなければ私は今ごろ進級できるか怪しかったに違いない。

『そういえば消しゴムないって言ってなかった?』

「買ってない」

『そうだと思って買っときましたよ。ほんと手のかかるヤツ』

「亜紗すごいね、お母さんみたい」

『そう思うんなら母の日になんかしてもらおうかなー! ってもう時間ヤバいって、はやく!』

「ちょっと待って、もうすぐ出るから」

 最低限の身だしなみを整えて小走りに玄関へと向かう。「もうちょっとだから」とスマートフォンに話しかけながら、私は玄関の前にある全身鏡を見てマフラーを丁寧に巻いた。

 細かい調整を何度も繰り返し、ようやく納得の形に落ち着いたところで亜紗の怒声がスマートフォンを震わせた。私は白いスニーカーに足を滑り込ませて、そのまま勢いよく玄関を飛び出すと、そこには腕時計を見ながら眉を吊り上げた亜紗の姿があった。

「おはよう」

「遅い! まったく、いつまで正月ボケしてるのよ」

「そんなこと言ったって、まだお正月が明けてすぐだし」

「言い訳は電車の中で聞く! あ、ひかりのお母さん、この子は私が絶対に進級させますから!」

 亜紗の言葉に、母が玄関から顔を出して「いつもごめんねぇ」と笑い混じりに謝っていた。私はいってきますを言う間もなく、亜紗に腕を引っ張られて駆け出した。

 今日が雨だったならきっと遅刻していただろう。明日は晴れるといいな――そう願った昨日の自分を労いつつ、私は透き通る冬の空気を胸いっぱいに吸い込んで走った。


「はあ、はあ、なんとか間に合った……」

 通勤ラッシュの電車に体を押しこむようにして乗り込んだ私たちは、ひとまず得られた安寧にほっと胸を撫でおろした。

 密着して向かい合う亜紗から荒い息づかいが伝わる。頬が赤いのは、先ほどのダッシュのせいではなくチークの色によるものだ。

 小学生の時からずっと見てきている亜紗の顔。そこには昔の彼女にはないなまめかしさがあって、最近の私は亜紗の隣にいることが少し気恥ずかしかった。

 よく朝早くからこんなに丁寧にメイクできるな。いったい何時に起きてるんだろう。そんなことを思いながら、私はしばらく亜紗の完成された顔を眺めていた。

「……ちょっと、なにジロジロ見てんの」

 綺麗に反った上まつ毛がまばたきに合わせて数回上下する。アイラインの印象だろうか、少し怒ったような目をして亜紗はそう言った。

「亜紗って大人だなって。メイクでなんか印象も綺麗めになったし」

「それ、すっぴんの私はキレイじゃないってこと? 失礼しちゃうわね」

「いや、亜紗はどちらかというとカワイイ系じゃないかな?」

「かわいいって……まぁ、だから強めにメイクしてるの、私は。いつまでも子供に見られたくないでしょ。ひかりもちょっとは背伸びしなさいよ、それだけで人は変わるわよ」

「そうかなぁ」

 それっきり亜紗は黙って下の方を向いた。私もそのまま車内の沈黙に身を任せることにした。

 冬の電車は無駄に暖房が効いていて暑い。さっきまで嫌というほど浴びた冷気がもう恋しかった。学校のある駅まであと何駅かと数えながら、私はこの窮屈な時間が通り過ぎるのを待った。


 時間通りの電車に乗れれば、あとは駅のホームから学校までの間を急ぐ必要はない。亜紗と私は駅構内のコンビニでサンドイッチとかお茶を買って、コンビニ袋を片手に学校までの道を歩いた。

 同じ方向に進む同年代の男女はみんな同じ大学の学生たちだ。彼らは思い思いの服装に身を包み、グループで話をしたり、スマートフォンをいじったり、早起きに耐えかねてあくびをしていたり。十人十色の人ごみの中で、共通しているのはその誰もがそれでもどこか活き活きとしているという点だった。

 そういう私はあくびをしている中の一人。ほんの数年前までは毎日当たり前のように早起きして学校に行っていたはずなのに、なぜ今になってこんなにも早起きに耐えられないのか。そう思っている間にも次のあくびが出てくる。

「一限キツイわー。必修はぜんぶ二限からにしてほしいもんだよね」

 そう言った亜紗の顔のどこに眠気の二文字があっただろうか。朝型人間が恨めしい。

 亜紗は昼夜を問わずとにかく元気だ。彼女と長く付き合いのある私でも、沈んでいる表情を見たことがあるのは片手で数えるほどだ。

「キツイとか思ってないでしょ。いつも元気でいいなぁ、亜紗は」

「そりゃ、ひかりの前で元気のないところ見せらんないもの。ひかりにとっての亜紗ちゃんはいっつも元気で明るいでしょ?」

 亜紗は頬に指を当てながらニコッと笑顔を作った。その様子がおかしくて、私はぷっと噴き出してしまう。

「ふふっ、そうだね、亜紗っていっつも元気だよね」

「笑うほどかー?」

「亜紗のそういうところ、好きだよ」

「おうおう、おちょくってるな?」

「そんなことないって」

 きっと、そんな亜紗に私は日々救われていた。

 私の隣にずっと亜紗がいてくれて本当によかったと思う。そうじゃなければ、私の大学生活は今ほど充実してはいなかっただろうから。


 亜紗と私は今、同じ大学の同じ学科で勉強している。同じ学科でも年次が進むと専攻はいくつかに分かれるのだけど、その見通しまで私たちは一緒だった。

 亜紗いわく「どの専攻を選んでもどうせ就活で苦しむのは同じ」らしい。なら少しでも私と一緒に過ごせる方がいい、と亜紗はそう言っていた。

 高校のみならず大学まで私と同じ進路を選択した亜紗に対し、私は言葉にできない喜びを感じていたけれど、同時に、どうしてここまで私に優しくしてくれるのか、そこまで過保護にしてくれなくても、と思うこともあった。

 それでも、亜紗が隣にいてくれる安心感に勝るものはなかった。結局、私はこれまでと同じように、亜紗と二人きりのコミュニティにいつまでも満足してしまうのだ。

 私は今、高校の時以上に人間関係に対してだ。大学に入って分かったことは、人と人は疎でもいいということだった。

 みんながみんな違う方向を向いていて当たり前。高校時代を薄い人間関係で過ごした私にとっては、ただただそれが心地よかった。

「ちょっと、話聞いてる? って聞いてない顔だなそれ」

「ごめん、聞いてなかった」

「ちゃんと期末テストの対策してるのかって聞いたの! もう、ひかりのそのクセ、誰からも許してもらえると思ったら間違いだからね。私だけだよ」

「ごめんって、ごめんね亜紗」

 亜紗は手にしたルーズリーフの束をパラパラとめくって私に見せる。そこには講義中に聞いた覚えのない情報が色とりどりのペンで綴られていた。昔から人一倍努力家で勉強ができる亜紗と、その恩恵にあずかる私。その構図は中学生の時からずっと変わらないのだった。

「あ、でも甘やかしすぎかな~? さすがにひかりも大人だもんねぇ」

 亜紗の手に握られた救いの紙束がひらひらと明後日の方向に飛んでいく。私は縋るような思いで亜紗の腕を握った。

「お願い亜紗、わたし亜紗がいないとダメだよ」

「えー? そうなのぉ? まったくしょうがない子だなぁ。はい。いい成績とって一緒にいいゼミ入ろうね。なるべく就活楽にしたいんだから」

「さすがにゼミまで私にあわせなくていいよ。好きなところ入りなよ」

「なに言ってんの、私がついてないひかりなんて考えただけでゾッとするわよ! いいから勉強勉強!」

 熱意のこもる手で私にルーズリーフを握らせた亜紗の顔に、有無を言わさない笑顔がらんらんと輝いていた。

 お節介な親友に対し、私はしぶしぶといった表情を浮かべていただろう。けれど亜紗のお節介焼きを結局拒めない私は、受け取ったルーズリーフを大事にカバンに仕舞いこむのだった。

 私の大学生活はそれなりに順調だった。


 *


「ただいま」

 家に帰る頃には早起きの疲れがどっと押し寄せてきて、私は編むようにして巻いたマフラーを適当にほぐしながら靴を脱いだ。

「ひかり、あなたに郵便が届いてたわよ。机の上に置いといたから」

「わかったー」

 母の言葉に生返事を返し、私は階段を上って自室の扉を開ける。

 何気なく見たスマートフォンの画面には亜紗からの試験対策のメッセージが並んでいた。すぐに確認する気力がどうしても湧かない私は、あとで返信すればいいやと思い、スマートフォンをパンツのポケットにねじこんだ。それでもまだりずに振動するものだから、まったく亜紗のお節介ぶりには頭が下がる思いだった。

 私は自室の電気をつける。今朝急いで飛び出した自室は散らかっていたが、かといって片づけるだけの余力も残っていなかった私は、とりあえず暖房をつけようと机の上のリモコンに手を伸ばした。

 そこでようやく私は気がつく。机の上には封筒が置かれていた。しばらくして、私は母の言葉を思い出した。

 表面には宛名として私の名前が書いてある。心の中で差出人を探るも、まったく見当がつかない。

 同窓会か何かのお知らせだろうか。だったら面倒くさいな、なんて思いつつ、私は裏面の差出人を見た。


 私の手はそこで止まった。

 指先が凍りついたような感覚に囚われる。

 その中身を見るべきだとする自分と、見なかったことにしたい自分が、心の中でぶつかり合って渦を巻いていた。

 ポケットの中のスマートフォンが振動してうるさい。長い間まばたきひとつできないでいた私は、止まっていた呼吸を思い出すのと同時に、封筒に収められていたそのハガキ大の紙を、感覚のない指でゆっくりと引き抜いた。

 そこに書かれていた文字を目にする。

 思考も、空気も、時間さえもが、音も立てず凍りついた。


【九品香蓮 三回忌のご案内】


 *


 冷たい雨が降った夜の日。

 柄にもなくカラオケに行ったりして、傘がないと言った彼女に傘を貸した日。

 九品香蓮くほんかれんは事故で死んだ。

 交通事故とのことだった。彼女と遊んだ翌日の朝のホームルームで、担任から彼女の事故死の事実が伝えられた。

 事故について詳しくは語られなかった。分かったのは、あの日、私と別れてしばらく経ったあとに彼女が死んだということ。

 それだけだった。


 その時のことは、はっきりとは覚えていない。

 急に手元から何かがすり抜けてしまったような感覚――覚えていたのはこれだけ。

 私は彼女の通夜に参列した。そこにはクラス中の子がいて、あとは先輩後輩と、制服の違う子たちまでいた。みんな泣いていた。

 私は泣いていなかったと思う。よく知らない大人たちに顔を見ておきなさいなんて言われたけど、とてもそんな気持ちにはなれなかった。

 彼女の顔をなんで見れなかったのかは今でも分からない。見ておけばよかったとも思うし、やはり見なくてよかったのだとも思う。

 集団を遠目に見ながら離れた場所でぐずぐずしていた私に、クラスが違うのに一緒についてきた亜紗が「行こう」と言った。

 強い力で手が引かれて、私の体は亜紗の力に任せて回転した。

 まわる視界の端に映っていた誰かの姿が、今も漠然と記憶の中に残っている。


 ひどい寒さとスマートフォンの振動が私の意識を呼び戻した。

 急いで暖房のスイッチを押し、かじかんだ指をポケットにねじ込んでスマートフォンを取り出す。画面には亜紗の名前が表示されていた。

 デジャブというのだろうか。自分が今見ているこの映像に言いようのない既視感を覚えながら、通話のマークを指で押した。

「何度もかけてくれてた? 気づかなくてごめんね」

『いや……大丈夫だけど、電話してよかった?』

「大丈夫だよ。試験の話?」

 亜紗の声はいつになく静かだった。どうしてか、私は後ろめたい気持ちになってはぐらかすようにしてしまう。

 このことにも既視感を覚えてすぐ、私はこのやりとりが実際に過去にあったことを思い出した。

 少しの沈黙のあと、切り出したのは亜紗の方だった。

『来てるんでしょ、ひかりのとこにも』

「……亜紗のところにも届いてたの?」

『うん。ひかりは行くの?』

「行こうとは、思ってる」

『そっか』

 二年前のあの日。

 香蓮のお通夜の前日にも、亜紗は私にこうして電話をくれた。

 亜紗は私と香蓮が仲がいいことをよく知っていた。香蓮を亡くしてショックを受けていた私を、いつまでも隣で励ましてくれた。

 亜紗は私と一緒に下校したり、休日には外に連れ出したりして、私を私たちのよく知る日常に引き戻してくれた。

 おかげで大学受験も乗り切れた。図書室で勉強を教えてもらったり、一緒に合格発表を見て抱き合ったりもした。

 私が今こうして元気なのは亜紗のおかげだ。

 そう思うと、私が元気をなくしたそのきっかけに立ち会うことは、なんだか亜紗に悪い気がして。

『――とか考えてるんでしょ? どうせ』

「え? ごめん、聞いてなかった」

『おいおい! ……だから、なんか私に悪いとか、そういうこと考えてるんじゃないかって』

「……そう。よくわかったね」

『どれだけ一緒にいると思ってるの? ひかりのことを誰よりもよく知ってるのは私なんだから』

「そうだね」

 亜紗の言葉はいつだって私に心地のよい既視感を与えた。優しい言葉で何度も私の背中を押してきた。それはこれからも変わらないのだろう。

「亜紗も行くんだよね?」

『まあ……そうするつもり。一応、同じ学校の生徒だったわけだし』

「わかった。ありがとう」

『うん。あ、とりあえず勉強はちゃんとやるのよー? これで単位落としたらシャレになんないからね!』

「はーい」

 最後にいつも通りの雰囲気で喋ってから私たちは電話を切った。暖房のおかげか、部屋はさっきよりもずっと温かくなっていた。

 ハガキを握る指先だけは、いつまでも冷たいままだった。


 *


 一月の半ばから始まる試験期間をくぐり抜ければ、二月もすぐに中旬だった。

 その日、私は黒一色のワンピースに身を包んで家を出た。玄関先に、同じように黒い格好をした亜紗が立っていた。

 二月の厳しい寒さは私たちに会話をさせなかった。それは電車に乗っても変わらず、通り過ぎる風景を眺めているうちに目的の駅に辿りつき、そこから案内図にあるお寺までを十分ほど、私たちは黒の慣れないヒールで歩いた。

 かかとには早くも靴ずれの痛みが走り始めていた。絆創膏でも貼っておけばよかった――そう思った時、私はその場所に行くことが急に現実離れしたことのように思えてしまう。

 それは、あの日、初めて彼女に話しかけられた時のような。

「着いた。結構したね」

 亜紗の声に、はっ、と私の視界が色を取り戻す。

 気づけば亜紗と私の姿は立派なお寺の前にあった。

 門のところに法要の開催を知らせる看板が立っている。そこには私のよく知る、あの特徴的な苗字が綴られていた。

 参道の奥に本殿が見えて、その手前あたりに設置されたテントに人が立っていた。格好や様子から業者の人だろうか、彼らは私を視界に収めるとうやうやしく一礼した。私は踵の痛みを押してテントまで辿りつき、彼らに香典を手渡し、記名をした。

 その後、私たちは本殿横の施設に案内された。玄関をくぐり、靴箱に靴を入れると、そこには既に何人か分の黒のヒールとローファーが並んでいた。

 人の気配はあるが、声がしない。

 私にとっての法事とは、いとこや親戚と互いの近況を話したりする、賑やかではないがかしこまってもいない、そんなイメージのあるものだった。

 だけど、ここの空気は張り詰めてさえいた。隣に目を向けると、どうやら亜紗も似たような印象を感じとっていたらしい。私たちは二人、息をひそめるようにして待合室の方に向かった。


 待合室に入ろうとした瞬間に感じたのは、刺すようないくつかの視線だった。

 それも、みんなして私を見ていると、そう思った。

 そこにいたのは五人の女性だった。みんな思い思いの姿勢で、思い思いのことをして、思い思いの方向を見ていた。

 だからまさか、そこにいる人たち全員が私を見ているなんてことはあり得なかった。自意識過剰な私の錯覚だろう。

 けれど、その五つの気配の中で、一つだけは明確に私たちの方を見て、距離を詰め、声をあげた。

「亜紗? あと、ひかり?」

 いまだに部屋の敷居もまたげず立ち止まっていた私は、急に自分の名前が呼ばれたことにびくっと体を震わせた。

 こんなところで出会う人に心当たりはないし、もし遭遇するとしたら私の覚えていないクラスの同級生くらいだろうから、私は曖昧に視線を泳がせながら顔を伏せた。

「うそ、紀実加? なんで紀実加ここにいるの?」

 亜紗の言葉に私は視線を上げた。

「えっ、紀実加……?」

 私はその名前を知っていた。まじまじとその人の顔を見ると、印象は変わっても確かに知っている顔がそこにはあった。

 玉川たまがわ紀実加きみか。中学校まで一緒だった友達で、当時は亜紗、紀実加、私の三人でよくつるんでいた。紀実加はとりわけ亜紗と仲がよく、出不精の私を置いて二人だけで遊んでいたこともあった。亜紗と似て活発な子だったけど、今ではすっかり落ち着きを身にまとっていた。

 紀実加とは別々の高校に進学したきり疎遠になっていたけど、亜紗は高校に入ってからも彼女と連絡をとり続けていたようだった。これまでも亜紗との会話の中にちらほらと紀実加の話題が混ざっていた気がする。

「ひかり、久しぶり。中学以来だよね?」

「そうだね、元気そうでよかった。紀実加も、その、香蓮と仲よかったの?」

「えーっと、まあ、そんな感じ。塾が一緒だったの」

「そうなんだ」

 小中学校と長い時間を共有しあった仲だからか、紀実加との会話にぎこちなさは感じなかった。むしろ連絡をとり合っていたはずの亜紗の方が妙に落ち着きがなくて、私はそのことが不思議だった。

「紀実加……あたしたちも、久しぶり、だよね?」

「まあ、うん。二年ぶりくらい?」

「そうね、そのくらい」

 亜紗と紀実加の間には気まずさのようなものが流れていた。当時は阿吽の呼吸だっただけに、私はきょろきょろと二人の顔を見比べてしまう。

「あーっと、あたし、お手洗い行ってくる。駅で行きそびれちゃって」

 そう言うと亜紗は廊下の向こうへと足早に消えていく。紀実加はそれを見て困ったように笑っていたが、やがて「私も」と言うと、私を置いてそそくさとお手洗いに行ってしまうのだった。


 ひとり残された私は、とりあえず手近にあったパイプ椅子に腰を下ろした。

 改めて周りを見回す。ここにいる人は全員が女の人で、みんな私と同じようにぽつんぽつんと間隔をあけて座っていた。親戚同士という雰囲気でもない。ただ、大体の人は私と年が近そうだった。

 その中で、明らかに大人の雰囲気をした女性が二人いたことに気づく。そして、その片方の大人の人を私は知っていたのだった。

 刹那、ぱちり、とその人と目が合う。

 その人は何かを思い出すように目を見開いたあと、ゆったりとした動作で私の方に近づいてきた。

「久しぶり。覚えているかしら?」

「はい。司書の……先生」

溝口みぞぐちみやびです。覚えててくれてよかった」

 長いウェーブの髪を揺らしてその人は微笑んだ。細めた目が妙に優しくて色っぽい。

 溝口雅。年齢は確か三十歳とちょっとだったはず。

 彼女とは一度だけ明確に言葉を交わした記憶がある。香蓮と図書室で話した日だ。それで確か、盛り上がりすぎて叱られて。

「九品さんとは仲がよかったものね」

「……そうですね」

「お通夜でも会わなかったかしら?」

「その日のことは、あんまり覚えてなくて」

「そう。そうよね、ショックだったものね」

 その人は悲しげな顔をして私の肩に手を置いた。もう教師と生徒の関係でもないのに教師らしく接されるとどう反応していいか分からない。けれど、どうやら私の中のその人に対する印象はやはり「先生」だったようで、その呼び方をするのが自分にとっても一番腑に落ちる選択だった。

「先生……は、香蓮とは委員会で一緒だったんですよね」

「そうね。困った子だったけれど、それでもかわいい生徒だったわ。そしていい先輩だった」

 ね、と先生が視線を後ろに向けた先。

 私のよく知る制服に身を包んだ女の子が、私に向けてぺこ、とお辞儀をした。

 その立ち居振る舞いから、名前は知らなくても、私はその子のことをすぐに思い出した。

上野毛かみのげひかり先輩ですよね。大井おおいのぞみといいます」

「……図書委員会の子、だよね。今は三年生?」

「はい、もうすぐ卒業です」

 にこ、とお行儀のいい笑顔を浮かべながら、丁寧な口調で希はそう返事した。

 その姿があの日の図書室で見たものと寸分たがわず一致する。日本人形のような清楚で可愛らしい見た目に、年齢不相応の落ち着きをあわせ持つ、低身長をそれと思わせない堂々とした感じの女の子。

 顔立ちのせいでそう見えるのか、希は私のことをうっとりとしたような表情で見つめていた。私の顔に何かついているのだろうか、それとも私の言葉を待っていたのだろうか。反応に困っていると、やがて希の方から口を開いた。

「ひかり先輩とは一度お話をしたいと思ってました。こんな場所で失礼ですが、連絡先を交換させていただいてもよろしいでしょうか?」

「えっ? あ……うん、いいよ?」

 そのゆっくりで丁寧な言い回しに調子を狂わされた私は、一瞬何をすればいいのかを失念して、それから慌ててスマートフォンを取り出した。

 メッセージアプリを開いて互いの連絡先を登録し合ってすぐ、彼女はその場で『よろしくお願いします』とメッセージを打って、それを私に送った。

「ありがとうございます。またあらためて連絡させていただきますね、ひかり先輩」

「うん、よろしくね」

 お辞儀をして、希と先生は元いた場所に戻っていった。言いようのない緊張感から解放された私は思い出したように息をした。

 高校時代の先生と後輩にちょっと話しかけられただけで、そこにうろたえる要素なんてひとつもなかったはずなのに。私はつくづく自分のコミュニケーションの下手さを痛感するのだった。


 亜紗、戻ってくるの遅いな。そんな風に考えながら椅子に座っていた私の横を、ひとりの年上の女性が通り過ぎていった。

 その人は曲がり角で誰かとぶつかったらしく、しきりに「すみません」と相手に謝っていた。私は最初、そのやりとりを特に気に留めるつもりはなかったが、その人があんまりにも謝り続けるので、途中から悪いと分かっていても耳がそっちの方に向いてしまった。

「すみません、すみません、粗相はなかったですか?」

「いや、大げさですよ。ちょっとぶつかっただけじゃないですか」

 そしてぶつかった相手は亜紗のようだった。亜紗の困ったような声色がおかしくて、ちょっとだけ笑ってしまう。

「すみません、本当にすみません……それでは私はこれにて……えっと、あれ? 一度お会いしたことありました……よね?」

「えっ……」

「私、鼎です。かなえ自由みゆう。コンシェルジュの。ええっと、お名前、伺ったことありましたよね、私ったら九品さまのご学友のお名前も思い出せないなんて……」

「人違いじゃないですかね。友達待たせてるんで、失礼します」

「ああっ」

 鼎と名乗るその女性は、妙にしつこく亜紗に絡んでいるようだった。口ぶりから向こうは亜紗のことを知っているようだが、亜紗にコンシェルジュ――ってなんだっけ?――の知り合いがいるなんて話は聞いたことがない。

 そうこうしていると亜紗がこちらに戻ってきた。表情をうかがうと、亜紗は眉をひそめて難しそうな顔をしていた。

 亜紗は私の視線に気づくと、おどけるように肩をすくめて、わざとらしく溜息をつきながら腰を下ろした。

「いやー、なんか変な人に絡まれちゃった。聞いてたでしょ?」

「聞こえてはいたけど、知り合い?」

「そんなわけないでしょ。どうして九品香蓮の法要の席に私の知り合いがいるのよ。紀実加がいるってだけでも十分奇跡だってのに」

 その口調には不機嫌そうな色が混ざっていた。めずらしく棘のある雰囲気に、私はこれ以上この話を続けることはしなかった。

 そう思ったのと同じくらいのタイミングで待合室に係の人が訪れ、私たちはお寺の本殿に案内されるのだった。


 法要の内容は私もよく知っているものだった。お経が読まれ、それを黙々と聴く。

 なんだか寂しい。それが私がこの場に対していだいた感想だった。

 私は、さっきの待合室にはてっきり私たちのような外の人間が集められて、親族は別の場所に固まっているものとばかり思っていた。

 けれど、何列も用意された椅子は前から二列までしか埋まっておらず、親族らしき席にはご両親と、真っ直ぐな黒髪の女性がひとり座っているくらいで、他に親族らしい人の姿はない。

 外にテントを張って業者の人に受付をさせるくらいだから、それなりに大きな規模だと思っていた。それだけに、やはりそこには空虚な寂しさがあった。

 ならば、この場に集まった私たちは何なのだろう。

 親族と同じくらい、あるいはそれ以上に彼女のことを思っていた人、ということになるのだろうか。

「ご焼香をお願いします」

 聞き覚えのある台詞がお坊さんの口から述べられると、まずご両親が立ち上がり、集まった私たちに向けて深々とお辞儀をした。

 香の粒を二度三度つまんで香炉にくべ、長い合掌をしたあと、ご両親はまた深々と頭を下げた。私たちはそれに浅いお辞儀を返し、次に近しい親族と思しき人に手番が回る。

 そうしてご両親の隣に座っていた黒髪の女性が立ち上がった時、私はぞっとした。

 思わず彼女の名を呼んでしまいそうになって、しかしすぐ、そこにいた人が彼女ではないことに私は気づく。

 その人は香蓮によく似た別の人物だった。すらっとした背格好に透明感のある綺麗な顔立ちをして、しかし纏う空気は氷のように冷たい。私の知る香蓮は、もっと温かみのある人だった。

 そう、香蓮はもう死んでいる。香蓮がここにいるはずがない。だとしたら、そこにいるのは一体誰なのだろう。

「ひかり、あれって双子かな?」

 亜紗が私に耳打ちする。知らない、と私は首を横に振った。

「双子のお姉さんだよ。由蘭ゆらんさんっていうの」

 亜紗の隣に座っていた紀実加が亜紗と私に小声でそう伝えた。そう思ってもう一度その人のことを見ると、やはり香蓮とは顔も振舞いも見て分かるほどに違っていた。

 九品由蘭くほんゆらん。香蓮の双子の姉。その人の存在を、私は香蓮から聞かされたことはなかった。

 次の方、と言われ、私の番が回ってくる。私は焼香台まで歩み寄り、遺影の中で笑う香蓮を見て、手を合わせた。

 目蓋まぶたの裏に浮かぶ彼女の顔は、遺影のそれよりももっと女の子らしかった。


 法要後に振舞われた食事はあまりに豪華だった。量が多く、とても全部には手をつけられなかったので、私はお刺身と天ぷらを少し食べて、あとはウーロン茶をちびちび口に運んでいた。

 幸い亜紗と紀実加とは昔話ができたので、私たちは小一時間ほどを小中学校の頃の話をして過ごした。話しているうちに紀実加はさほど昔と変わっていないことに気づいて、私は亜紗以外の人と久々にたくさん話ができた。

「ひかり、そろそろいこっか」

「あ、じゃあ私も一緒に帰っていい?」

 亜紗の言葉を皮切りに、私たち三人は席を立った。こういうのは抜け出しどころがいまいち分からないので、亜紗の思いきりのよさに救われる思いだった。

 静かに食事処を出ようとすると、それに気がついたご両親が近づいてきて、丁寧に謝意を述べながら私たちそれぞれに引き菓子を手渡した。大きな紙袋はそれなりの重さがあって、これを持って駅まで歩くと思うとなかなかに骨だった。もちろんそんなことは極力表情には出さなかったけれど。

「重いでしょ、悪いわね」

 少し険のある声で、その人――由蘭は私にそう言った。

 間近で見たその顔は、記憶の中の香蓮とまったく同一ではないにしろ、やはり彼女によく似ていた。

「いえ、大丈夫です」

「あなた、ひかりさんよね。今日は来てくれてありがとう」

「えっ? ……とんでもないです」

 私はぎこちなく一礼してそそくさと靴を履いた。香蓮と双子なら年齢は私と同じだろうに、不気味なほどの貫禄がその人にはあった。

 瞬間、私は二年前のお通夜の日にも由蘭を見たことをようやく思い出した。記憶の中の彼女は、誰もが知ってる名門校の制服を着て、今と同じように冷たい表情をしていた。

 ありがとう。香蓮とよく似た顔をしたその人の声色は冷たかった。私の知るあの声色とは違って。

 先に靴を履いて出た亜紗と紀実加の背を追って、私は逃げるようにその場を後にした。


「――上野毛ひかり」

 そんな私の背を、また別の声が呼び止める。

 振り返ると、そこには私と同じくらいの年齢の女の子が立っていた。

 くりっとしたブラウンの瞳に、静かな怒りの色を灯して。

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