第一話 あなたのままでいい

「ね、消しゴム貸してくれない?」

 高校二年の秋。それは私と彼女が交わした初めての会話らしい会話だった。

 私の前の席に座る彼女――九品香蓮くほんかれんは、眉目秀麗なクラスの華だった。

 肌は白くパッチリした目、色素が薄く髪色も明るめという、持って生まれた見た目で明るく振舞う人気者。

 おまけに高身長のため、彼女が私の一つ前の座席になってからというもの、黒板が見づらくなって久しい。私の学校はひと学期に一度の周期で席替えがあるので、次の定期テストが終わるまで、私はいちいち彼女の後頭部を迂回しながら板書を取らなければならないのだった。

 だから、その時の私はきっと酷い顔をしていただろう。視力に自信のない私は、くじ引きで引いた最後列からいつも目を細めて黒板を凝視していた。加えて、その日はたまたま勉強用の眼鏡を忘れてしまい、内心穏やかではなかった。

「いいけど。はい」

 ぶっきらぼうに言うつもりはなかったけど、結果的にそうなってしまったと思う。しまった、と思った時には遅く、眼前の美人がその表情を僅かに強ばらせていた。

 一瞬と呼ぶには長い沈黙が私たちの間に流れた。上手く仕切り直すことも、さりとて悪者に徹することもできなかった私は、そのまま伏し目がちに消しゴムを突き出すことしかできなかった。対する香蓮もそれを拒む理由を見つけられずといった感じで、少しの逡巡を思わせる間を置いた後、私の突き出した消しゴムを恐る恐るつまむようにして受け取った。

 お互い、最後くらいは少なくとも前向きな何かを言おうとして、けれどそうできなかった先の無難な軽い会釈一つで、私たちの初めてのクラスメイトらしいコミュニケーションは、かくもバッドな内容で終わってしまった。

 私、上野毛かみのげひかりは、それなりに他人と上手くやっていくことはできる。できていると思う。かといって円滑な人間関係のために、周囲に愛想を振りまけるような器用さを持ち合わせているわけでもない。

 高校に上がってすぐの頃だろうか。周りに知らない人間が溢れている環境で、その人たちとすぐ打ち解けることもできず、それでいて孤独でいられる強さも持っていなかった私は、自分が結局ヘラヘラするのが得意なだけの、さほど内容のない人間だったことに気づいてしまった。

 一言で言うなら普通の人。そんな月並みな私だから、何かにつまずいた時、私は負った些細なすり傷のことをずっと見てしまう。私はその日、特段仲良くもなかったはずのその人と上手く会話できなかったことを、ああすればこうすればと針小棒大にひとり頭の中で会議して、結局その日の放課後までずるずると引きずってしまうのだった。

 放課後と言ったのは、彼女に貸した消しゴムが戻ってきていないことに、私が放課後になってから気づいたからだった。筆箱のあるべきスペースにそれが収まっていないことが思った以上に気になってしまった私は、次の日に返してもらおう、いやいや自分のものをどうして遠慮する必要があるのだと再三脳内で会議を繰り広げつつ、意志のない目でうろうろと香蓮の姿を探した。

 やがてその視線は教室のすぐ外、廊下の人だかりを見たあたりで止まった。バッグを肩にかけて帰ろうとしている香蓮を、それを許さないクラスメイトたちがダムの水門のようにせき止めている最中だった。

 何度重ねて言っても不足はないほどに香蓮は人気者だった。どうしたらあの人みたいになれるのかと思うことはあったが、彼女と私の差なんてたったの一つ、持って生まれた物の違いであることは彼女の容姿を見れば一目瞭然だった。

 私は消しゴムのことで悩んでる自分が急に小さく思えて、人知れず首を小さく振った。そうすると不毛な思考が頭の外に出て行く気がして、私は私を取り戻せたような気持ちになった。私はプールで泳ぐときみたいに息をすぅと吸ってから、人だかりと廊下の間にある僅かな隙間を身を細めて通り抜けた。

 途中、私は香蓮と目が合った。香蓮は一瞥いちべつというには短くない時間、私のことを見ていたと思う。消しゴムのことを思い出したんだな、と思ったが、毎夕開かれる握手会か優勝セレモニーかのようなそれに割り入って声をかける胆力もなかった私は、彼女の視線から逃れるようにして昇降口の方へと消えていった。

「ふぅ……」

 下駄箱に上履きをしまおうとすると、こういう時に限ってつま先がぐにゃりと曲がって上手く入らない。私は少しムキになって、その聞き分けの悪い二足一組を強引に暗い箱の奥へと押し込んだ。その情けなく曲がった姿を見て私の気が晴れればよかったのだけど、その姿になぜか私は私を見たような気がして、もやもやした気持ちをぶつけるように、私はお気に入りのローファーをさえ投げるようにして放ってしまう。

 コロコロと童話のおむすびのように遠く転がっていく彼らの姿を見ながら、私は自分の浅ましさを誰かにとがめられているような気がして、大きなため息を一つ吐いた。

「うわっ、なになに、ご機嫌ななめですか?」

 そう言いながら私のローファーを拾い上げ、私のつま先にちょこんと揃えて置いてくれたのは、小学校からの幼馴染である尾山おやま亜紗あさだった。

 亜紗とはクラスが違っても毎日一緒に登下校する仲だ。一日の最初と最後を、最近どのドラマが面白いとか、今日あの教師にムッとしたとか、そういうどうでもいい会話を交わすことで無味乾燥な毎日の繰り返しに何とか味付けをし合っていた、いわゆる親友だった。

 高校に上がる時も、学年から一人、わざわざ家から遠いこの学校に通おうと言い出した私を見て、それがきっかけでこの高校に進もうと言い出し、実際にそれをやってしまう変わり者だ。

 私みたいな平々凡々を地で行くような人間にはこういう親切な変わり者が必要なのだと、私は毎日亜紗の顔を見ながら思っていた。

「――で? 返してもらったの?」

 学校から駅までの帰路の間、私は今日のことを亜紗に話していた。今日のこととは無論、消しゴムの一件だ。

「いや、まだ」

「その顔、言い出せなかったな? まったく、これだからひかりはなぁ」

 亜紗は大げさに肩を落として私の情けなさを笑った。その目元はいたずらっぽく緩んでいて、それでいて優しかった。亜紗にとっては所詮、私の悩みや葛藤なんてものは、いつもの退屈な帰り道に華を添える程度のものでしかないのだ。私はそれがよかった。

「でも分かる、九品くほんさんってお高く止まってるというか、なんかそういう雰囲気あるよね。ウチのクラスでも人気だもん。噂だと読者モデルとかもやってるとか」

「へー」

「ちょっと、いつにもまして生返事ね。話を聞いてやってるのにさ」

 私はこの亜紗との何もない時間が心地よかった。私は車道を走る車のナンバーを意味もなくぼうっと眺めながら駅までの道を亜紗と歩いた。私が彼女に生返事を返すたび、私はそこに日常の喜びを感じた。

 でも、その時の私は本当の意味で生返事を返していたと思う。

 何気なく過ぎる時間の中で、消しゴムと香蓮の顔が交互に頭の中を去来していた。亜紗に今日のことを話す中で、たかが消しゴムだと割り切れそうになっていたのに、今日の私は嫌にそれを引きずっていた。

「あっ!」

 その素っ頓狂な亜紗の声を聞いた時、私は自分が駅に辿り着いていたことに気がついた。

 時間が跳躍したかのような心持ちで横を向くと、亜紗は何やら鞄の中をごちゃごちゃと掻き回していた。やがて大きくうなだれたかと思うと、諦めたように息を吐いて、申し訳なさそうに私を見た。

「明日出す予定の課題、教室に置いてきちゃった。ちょっと今から取ってくる」

「私も行こうか?」

「いいって、ここまで来ちゃったし先に帰ってて。あ、でも一人で帰れるぅ?」

 この手の冗談を亜紗はよく言う。亜紗から見た私はどこか危なっかしいらしく、ついつい手を焼きたくなるらしい。私はもう子供じゃない、と反論しようにも、亜紗に機嫌を取ってもらうことも実際多く、私は彼女に強く言い返すことはできないのだった。

「もう、あと何回それ言われるんだろ」

「さあ、おばあちゃんになるまでじゃない?」

 亜紗はそれを捨て台詞にきびすを返し、帰路をさかのぼっていった。

 一人になった私は、小さく息を吐いて空を斜めに見上げた。

 黄昏のあかい光がビルに反射して目に痛い。私は明日も、この区切られた半球の中での移ろいを眺めるんだろうな、と思った。でも、その繰り返しをこそ私は心のどこかで希求している。私はいつも寄り道などせず、まっすぐ家に帰り、決まった時間に夕食を済ませ、決まった時間にお風呂に入り、布団に入って、目を覚まし、またいつもの日常を始めるのだから。

 だから、日常の隙間に今までになかったものが差し込まれた時、私は決まって、それらをすぐに受け止められない。

「ひかりちゃん。あ、ちゃんづけでいいよね?」

 九品香蓮くほんかれん

 私を呼び止めたその人は、しゅの空を切り抜いたようにしてそこに立っていた。


「ちょっとこっち」

 そう言い出してすぐ、急に歩き出した彼女の背を追うままに私は歩いた。

 何を話すこともなく五分ほど歩いただろうか。すると一本の大ぶりなイチョウの木が見えた。はらはらと舞う黄色い葉が、眼下の二台の錆びたブランコに堆積たいせきしていた。公園と呼ぶには寂しいその場所に人の気配はない。

 学校から駅までの道のりを毎日決まったルートで往復していた私は、ちょっと歩けばこんな景色もあるのかと、新鮮な心持ちで視線を左右させていた。その様子が面白かったのか、香蓮は息を吹くように笑いながら、まるで旧知の友人かのような自然さで口を開いた。

「ひかりちゃんって道草とかしないの?」

「うん、しないかな、あんまり」

「どうして?」

「どうしてか、はあんまり考えたことないかも」

 気づけば私の方も自然な口調で彼女の問いに答えていた。私は自分が思っていたほど彼女のことを警戒していなかった。というよりも、この一瞬でそうなってしまった、という方が正しいか。私はそれが彼女の不思議な魅力のなせる技だと思った。

 その魅力の正体が何であるかは私には分からない。けれど、彼女の周囲に人だかりができる理由が、この数回の言葉のやりとりだけで分かった気がした。

 香蓮はブランコに降り積もったイチョウの葉を手のひらで適当にどけて、短めに折り込んだスカートの裾を畳むようにしながらそこに腰をかけた。私もそうするのが自然だと思って、同じようにイチョウの葉をぱっぱと払ってから腰をかけた。

「ひかりちゃんと私、いつもは前と後ろだから、なんか不思議な気分だね」

「そうだね、私は九品くほんさんのこと、よく見てるけど」

 私は香蓮の目を見て言葉を返した。あれだけ開いていた心の距離が嘘のようだった。

「えっ?」

「ほら、後頭部」

 私の言葉に一瞬間を置いた後、香蓮は少し上の方を見ながら「後頭部」と呟いて、ぷぷっと笑みをこぼした。

「あー、後頭部、確かに! ごめんね、私ちょっとジャマじゃない?」

「邪魔ってほどじゃないけど、見えにくい時はあるかな」

「えー、言うー!」

 私の言葉に、香蓮は楽しげに手を叩いて笑った。私は表情を綻ばせて笑う彼女をこの時初めて目の当たりにして、少しだけ心臓が跳ねた。

 陽キャ特有の雰囲気みたいなのが私は苦手だった。香蓮は間違いなくそちら側の人間だと私は勝手に決めつけていたけれど、今日のこの会話からはそれが感じられなくて、むしろ口にする言葉の軽快さとは反対の、落ち着きや優雅さのようなものが彼女の雰囲気の中にはあった。育ちのいい子なんだな、と私は直感した。

「ひかりちゃんって結構ズバズバ来るタイプなんだ、もっと話しかけてればよかったな」

「私も、九品くほんさんのこと勝手に誤解してたかも。ごめんね」

「いいの、そう見られるの慣れてるから。でも誤解が解けたならよかった」

 そう言うと、香蓮は地面を蹴ってブランコを揺らした。ブランコでどう遊んでいいかも忘れてしまった私とは対照的に、香蓮は慣れた様子でブランコの振れ幅を徐々に大きくしていった。私は覚えている限りの感覚を頼りにブランコを揺らそうとしたが、ただ足がひょこひょこと空を切るばかりだった。

 その対比に、私は自分が遊びのない人間だと改めて気づかされたような気がして、少しだけ情けなくなった。そうできない自分への劣等感というよりは、彼女のかたがただ輝いて見えた。

 香蓮はしばらく風を切った後、ゆっくりとブランコの揺れを小さくしていった。

 それが完全に静止する頃、香蓮はブレザーのポケットに手を入れて何かを握り、それを私に差し出した。

「はい、これ。返せてなくてごめんね」

「あっ」

 差し出された香蓮の手のひらの上に置かれていたのは、彼女に貸したまま返ってきていなかった、私の消しゴム。

 私は、その時なぜか彼女の手からそれを受け取ることに躊躇ちゅうちょした。そして、その理由を、私は悪い癖でつい口に出してしまう。

「今日はその話がしたくて、ここに呼んだの?」

「えっ」

 しまった、と思った。どう考えても「そんなことのために呼んだのか」と聞こえるだろうその言葉を書き消すように、私は慌てて空中でろくろを回した。

「いや、あの、終わっちゃうと思って、この時間が。楽しかった、から」

 私は普段まともに親友の話を聞かないことのツケが回ってきた、と後悔した。そんなことを言っても今さら遅い。私は貴重な友人を作る機会を逸してしまったことが想像以上にショックで、その言葉尻はみるみる小さくなっていった。

 香蓮はきっと静かにこの会話を終わらせて去っていくだろう。そう思って絞った私の目蓋を、カラカラとした笑い声がこじ開けた。

「あははっ! 終わっちゃうと、思ったんだ! ふふっ、私と話すのが楽しかったから、寂しくて、ってこと?」

 まるで見たこともないものを初めて見たかのような顔で、香蓮は私を見て笑っていた。

 私はその笑顔のニュアンスがどういうものかを把握しあぐねていて、ぽかんとその様子を眺めるしかできず。

「ゴメンゴメン、馬鹿にしてるんじゃないの。そういう人って今までいなくて。ひかりちゃんって素直なんだね、もっと早く好きになっておけばよかった」

「素直っていうか……なんかごめん、つい口に出ちゃうの。よくないよね」

 香蓮の様子が不穏なものじゃないと理解した私は、内心ほっと胸を撫でおろした。同時に、自分の言葉の裏側を読んでくれたことにびっくりして、嬉しくて、撫でおろした胸のあたりが温かくなった。

「そのままでいいよ、全然!」

 その言葉が緩んだ胸にじんわり沈み込んで、ことっ、と底の方に落ち着いたのを私は感じた。この先、この日のことをずっと記憶している予感が私にはあった。

「ね、もっと一緒に話そうよ。帰り、一緒に帰らない? 私たち学校じゃグループ違うと思うし」

「あ、うん。いいよ。九品くほんさんも駅から通ってるの?」

「呼び方、香蓮でいいよ。ひかりちゃんは駅からどっち方面? のぼり?」

「上り。九品くほんさ……じゃなくて、香蓮は?」

「私も同じ!」

 ラッキーだね、と上機嫌そうに呟きながら香蓮は立ち上がった。瞬間、あ、と何かに気づいたようにしてスマートフォンの画面を見た後、香蓮は申し訳なさそうな顔をして私に向き直った。

「ごめん、今日はちょっと用事あるから、明日からってことで!」

「全然いいよ。あ、じゃあ、消しゴム」

 そう言って伸ばした私の手を見た香蓮は、面白いことを思いついたいたずらっ子のような顔をして。

「じゃあ、これは明日の帰りの時に返そっかな?」

「それは明日の私が困るよ」

「その時は私が貸してあげる」

 ふふ、と笑って、香蓮はひらりひらりと身をひるがえすように踵を返した。

 そのまま迷いなく去っていこうとする彼女の背を、私は黄色の雨の降るブランコに座ったまま、どこか遠くの景色を見るような気持ちで眺めていた。きっととても短かったこの時間は、それでも確かに楽しくて、どこか他人事のようにさえ思えた。

 それでも、確かに自分はその時間の当事者であったのだと、私はすぐに気づかされるのだ。

「ひかり、また明日ね!」

 香蓮が見えなくなるその刹那、曲がり角から放たれたその言葉は、静かなマンションの隙間を反響して、薄闇混じる夕空に溶けていった。

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