梅の花

増田朋美

梅の花

雨が降って、桜の花もかなり散ってしまい、それではもう葉桜になってしまったかなと思われる季節だった。そうなって、季節は進んで行くのだろう。だけど今年はなんだか寒い日が続いているような気がする陽気である。春といえば、たしかに雨も降るけれど、もう少し暖かくても良いはずなのではないかと思われるのであるが、寒い日が続いているのだった。

その日。今日は雨が降っているので、お客も来ないかなと思っていた蘭であったが、いきなり玄関のインターフォンがなって、

「あの、すみません。こちらに彫り師の彫たつ先生はいらっしゃいますか。確かこのお宅で間違いありませんでしたよね?」

と、若い女性の声が聞こえてきた。

「はい。そうなんですが、なにか御用でもお有りですか?」

蘭がそう言うと、

「ええ。実は私の背中も預かってほしいと思いまして。よろしくおねがいします。」

と言うものだから、蘭は玄関のドアを開けて、女性に部屋に入るように言った。身長は5尺程度の小柄な女性で、なんだか大人の女性という雰囲気から遠い雰囲気の女性だった。

「はじめまして、私は、上原節子と申します。富士市内の須戸というところに住んでいます。今日は先生に背中を預かってほしいということでこさせていただきました。」

女性は、頭を下げた。

「上原節子さんですね、いずれにしても、刺青というものは、肩たたきのようにいきなり施術というわけには行きません。まずはじめに、刺青は、一生消すことができませんから、それをちゃんと考えて何を彫るか決めないと。まずはじめに、あなたは、ご家族はいるんですか?」

蘭が急いでそうきくと、

「はい。家族はいるようないないような。姉が一人います。上原清子といいまして、学校の先生をしています。」

上原節子さんは答えた。蘭がどちらの学校ですかと聞くと、

「はい。望月学園です。そこで、保健体育を教えているんです。先生もご存知ありますよね。あの通信制高校で有名な望月学園ですよ。」

と、彼女は応える。

「でも、通信制の学校で保健体育だから、なかなか出勤する日も少なくて、一日中家でなにか仕事をしていることもよくあります。」

「そうですよね。全日制の学校と違って、そういう学校はなかなか出勤しないでしょうね。今であればオンライン授業とか、そういうことが多いのではないでしょうか。それで、お姉さんと二人だけで、暮らしていらっしゃるんですか?」

蘭はそう彼女に質問した。

「ええ。私は姉と二人暮らしです。姉が、教員免許を取って、すごい生徒からも人気があって、慕われているのに、あたしときたら無職で、何もしてないんですよ。それでは行けないと思うから、自分にしっかりしろという意味で、刺青をお願いしに来ました。先生、引き受けていただけますか?先生、わたしの背中見ていただけます?」

節子さんは、強引に蘭に言って、いきなり着ていたトレーナーを脱いで、背中を見せた。蘭はそれを見てびっくりしてしまった。背中には、大きなやけどの痕があったのである。

「こ、これは、難易度の高い刺青になりますね。彫る側としても、傷やケロイドのある方は、着色しにくいので彫るのが難しいのです。一体、これはどうしたんですか?」

驚いてそういう蘭に、

「やっぱり、先生は彫ってくださらないのですか?」

と、節子さんは言った。

「いや、そういうことを言っているわけではありません。どうして背中にこんな大やけどを負ったのか、その理由を話していただけないかと思いまして。」

蘭が訂正するように言うと、

「はい。家が火事になってしまいまして、父も母もそれで亡くしました。それで姉だけが生き残ったんです。幸い姉は、もうその頃は学校の先生として働いていましたので、生活には困らなかったんですけど。だけど、なんだか、その火事以降、働く気にならなくなってしまいまして。」

節子さんは、そう答えた。

「そうですか。それなら刺青を入れることで、働こうというきっかけを作ることができるかもしれせんね。刺青を入れる前の自分には戻れませんから。それでは、具体的に何を入れたいか、仰っていただけませんか。女性であるということを考慮すると、龍や仏画などは向かないでしょう。それよりも、あなたのお姉さんを思う気持ちを生かせるような、そんな刺青にしたいと思うのですが、いかがでしょう?」

蘭がそう言うと節子さんはとてもうれしそうな顔をした。

「それでは先生彫っていただけますか?わあ嬉しい!それなら先生、ぜひ花をやっていただけませんか。私花が何よりも好きです。お願いします。」

「そうですか。それならそうしましょう。それではなんの花を彫ったらよろしいですかね。バラでしょうか、それとも梅でしょうか?」

蘭は、具体的な花の名前を言うと、

「梅がいいです。私、梅の花が何よりすきなんですよ。春を最初に告げるかわいい花ですよね。先生、そういうことなら、ぜひ梅をやってください。」

と、節子さんは即答した。

「本当にすぐ決められる人ですね。結構頭が切れる方ではないのですか?それなら仕事だってなにかできると思うのに。」

蘭がそう言うと、

「いえ、私にはできないと思います。私、姉と一緒に精神科に行ったことがありました。姉が、どうしても、あんたのことを調べたいというので、姉に従って病院に行ったんです。そうしたら、変なところで、発達障害と言われてしまいまして。それでは、もう働くのは無理かなと思います。」

と、彼女は答えた。

「そうですか。それもまた大変ですね。そうやって診断はするけれど、その後のアフターフォローは何もしないですからね。医療関係者は。きっとあなたにしてみたら、僕達とは世界が違って見えるんでしょうね。それは、病気というのもあり、あなたの個性と言うこともでき、非常に難しいところでもありますね。」

蘭は、彼女の話を聞いてそういった。

「だから先生、自分のすきな花を入れて、自分をもっと鍛えたいっていうか、そういう意味で、お願いに来ました。先生、梅の花をよろしくお願いします。」

そう言って節子さんは蘭に頭を下げた。蘭は、たとえ発達障害というものがあったとしても、彼女はきっと辛い思いをしているのだろうと思って、

「わかりました。じゃあ梅の花の図案をいくつか作っておきますから、それでどれを彫りたいか、言っていただけたらと思います。」

と言った。節子さんはとてもうれしそうな顔をして、

「ありがとうございます。とても嬉しいです。それでは先生。よろしくおねがいします!」

と、蘭に頭を下げた。

「はい。わかりました。一週間したら来てください。」

と蘭が言うと、彼女は、

「一週間って、長いですねえ。なんか早く私が生まれ変わりたくて、ウズウズしてるわ。嬉しい。これで、長年の罪の意識というか、罪悪感から、やっと開放されるんだ。もし、入れることができたなら先生。私、小さな店でも開きたいな。どうせ会社に勤めることは無理でしょうから、そういう小さな店を開いて、いろんなお客さんと、交流を持ちたいです。今までずっと無職だったから、先生、梅の花を入れることで、私は、新しい自分になれるんですね。先生は、もう入れる前の自分には戻れないって、さんざん言ってらしたでしょ。それはある意味大事ですよね。よろしくおねがいします。」

と、にこやかに笑っていった。彼女はとてもうれしそうだった。こんな素敵な笑顔を見せてくれて、蘭は彫る側も責任を持って彫らなければならないなと思った。

「わかりました。やけどの痕が大きいので、ちょっと難易度の高い刺青になるとは思いますが、手彫りでよろしければ、精一杯勤めさせていただきます。僕は、マシーンを操作したことがなく、筋彫りも、色入れも全て手彫りなんです。それは決して古臭いとか、そういう事は無いと思います。だって江戸時代の刺青師さんは、マシーンなんてものはありませんでしたから、現在の刺青師が、マシーンに頼っていたらおかしいでしょ。だから、ちょっとお時間かかるかもしれないけど、がんばりますから、あなたも頑張ってください。」

蘭は、にこやかに笑った。とりあえず、上原節子さんには帰ってもらった。節子さんは、とてもうれしそうで、蘭はなんだかこういうふうに自分が役に立てて嬉しいと思った。

その次の日。蘭が、絵の具を出して、上原節子さんに施術するための、下絵を描いているとき。

「おーい、蘭。ちょっと風呂貸してくれよ。もう寒くて寒くてしょうがないよ。」

と言いながら、富士警察署に勤めている華岡が、蘭の家にやってきた。

「何だ、華岡か。一体どうしたんだよ。」

蘭がそう言うと、

「俺が来たからには、殺人事件の捜査に決まってるでしょ。それよりも、風呂を貸してくれよ。寒くてしょうがないんだよ。もう春になったというのに、ちっとも暖かくならないんだよ。」

華岡はそういって、蘭の家の浴室へ直行した。自宅は狭いマンションにユニットバスで、風呂に入った気がしないので、時折こうして蘭の家に風呂を貸してくれというときがある。数分後に、華岡が、いい湯だな、なんて歌を歌っている声が聞こえてくる。そして、40分待っても風呂から出てこない。本当に長風呂であった。一時間以上経ってやっと華岡がああいい湯だったと言いながら居間に戻ってきた。

「それで、今日はなんの事件で来たんだよ?」

と蘭が言うと、

「ああ、お前も知っていると思うけどな。実は今日、富士市の須戸というところで殺人事件があってね。まあ、すぐに犯人らしき人物は見つかったんだけど。」

と華岡は、話し始めた。警察をやっているにしても、蘭は華岡の小心者であることに呆れてしまうことがある。華岡の部下が、警視はサラリーマンだからと皮肉っていたことがあるが、たしかにそれはそうだと蘭も思うのだった。何よりも事件のことを誰かに話さないと気がすまないのが、蘭は、華岡が刑事に向いてないことを示していると思った。でも、華岡の話していることで、気になるワードを見つけた。富士の須戸。それは、上原節子さんが、須戸というところに住んでいると話していた言葉だ。

「ちょっとまってくれ。どういう事件なのか話してくれないか?」

蘭がそう言うと、

「ああ。殺害されたのは、森田和樹という富士市内の高校で教師をしていた男でね。なんでも上原清子という女性と付き合っていたらしいんだ。多分別れ際のもつれで、上原清子が反抗に及んだと、俺は見ているんだが。」

と華岡は答えた。上原清子。確か上原節子さんのお姉さんだったはず。

「上原清子というと、もしかしたら、上原節子さんという妹がいて、彼女と二人だけで暮らしているような女性ではないか?」

蘭がそう言うと、

「おう、そのとおりだが、なんでそれをお前が前もって知っているんだ?」

華岡がすぐに応える。

「ああ、妹の節子さんが、昨日僕のところを訪ねてきてね。なんでも背中にひどい火傷の痕があって、それを消したいということで僕のところに来たんだが、、、。」

蘭は、急いで言った。

「そうなのか。今上原清子を取り調べているんだが、妹が障害があって自分は仕方なく殺人したと彼女は言うんだよ。」

華岡も驚いてそう言うと、

「そう言っていたぞ。上原節子さんもそれを自覚しているようだった。なんでも発達障害があって働けないと言っていたから。確かに、話し出すと止まらないで、一生懸命話しているような雰囲気が見て取れた。もしかしたら注意散漫多動症とか、そういうものだったのかな。そういう女性だから確かに、働くのは難しいと思ったが、彼女は今どうしているんだよ?」

蘭は、すぐに聞いた。

「ああ、とりあえず、節子さんは、いるところがないので、俺たちがホテルを手配したんだが、ほとんど衣食住に関心を持っていないようで、新しいところを探すような素振りも見せない。確かにお姉さんがそういう目にあってしまえば、ショックでそうなってしまうということも考えられるが、でも、お姉さんがいないと何もできないような女性だと思った。」

と、華岡は言った。

「それでは、節子さんに会うことはできるかな?それにしても、上原清子さんは、本当に別れ話のもつれで、その男性を殺害したのだろうか?だって、節子さんがいれば、彼女をなんとかしなければならないと思って、犯行に至らないと思うんだ。お前は、すぐに事件を解決しようとするが、それだけでは、だめだぞ。」

蘭は華岡にいうと、華岡はそうだなあといった。それと同時に、華岡のスマートフォンがなる。

「はいはい、ああ、そうか。そういうことか。それでは、妹が邪魔とか、そういうことを考えていたのだろうか?はあ、なるほどね。わかったよ。」

華岡は電話を切って、

「たった今、上原清子が、本当に彼を愛していて、妹のことを思っている余裕がなかったと自供したそうだ。それに上原清子は、森田からかなり金を借りたりしていたようだから。それで、森田が、自分のもとから離れていくのが不安で仕方ないと思っていたことも話したようだよ。これで決まりかなあ。やっぱり、上原清子は、森田と別れのもつれでやったんだと言うことだ。」

と、蘭に言った。

「そうかなあ、、、。それなら、上原節子さんが、あんなに嬉しそうにするだろうか?いいか華岡、ああいう障害を持っている人は、空気の流れとか生活の雰囲気にすごく敏感だ。もし、上原清子さんが、その森田なんとかという人とトラブルを抱えていたなら、上原節子さんは、お姉さんの普通ではない雰囲気を感じ取って、彼女だって不安定になるはずだ。でも僕が接したときは、彼女はそのような雰囲気は一度も感じなかった。お姉さんは本当に別れ話で悩んでいたのだろうかな?」

蘭は、彼女のことを思い出しながらそういうことをいった。

「でも他に、森田和樹にトラブルを抱えていた人物もいないようだし、、、。」

華岡がそう言うと、またスマートフォンがなった。華岡がハイと話を始めると、蘭の耳にはこう聞こえた。

「警視何をやってるんですか!もう捜査会議始まりますよ!」

「おうおう。すぐ行く!ちょっとまってくれ!」

そう言っている華岡に蘭はまた呆れてしまって、

「お前も、ここで長風呂をするより、早く捜査に戻ることだな。」

と言ったのであった。華岡は、すぐに靴を履いて、捜査現場に帰る支度をしていたが、

「上原節子さんのことが気になるな。彼女はどうしているんだろう。」

と蘭がいうので、華岡は蘭を連れて、上原節子さんがいるホテルに行った。とりあえず受付に行って、上原節子さんという女性がいる部屋はどこ、と聞くと、12階の1206号室と言われた。蘭は、エレベーターで12階へ行き、1206号室を探し当てた。

「上原さん。僕ですよ。伊能蘭、芸名は彫たつです。」

と蘭は部屋のドアを叩きながら、そう言うと、部屋の中からドアを開ける音がガチャンと聞こえてきて、上原節子さんが、

「先生。」

と、小さい声でそう言っているのが聞こえてきた。蘭はドアを開けてくれというと、節子さんは、ドアを開けてくれて、蘭を部屋の中に入れた。

「良かった。お会いできて。事件のことを、友人から聞いてびっくりしました。お姉さんが、なんでも事件を起こしたとか、、、。」

「ええ、あれは、私の責任でもあるんです。」

節子さんは小さい声で蘭に言った。

「私の責任って、なにかあったのでしょうか?僕にはちゃんと話してください。なぜ、お姉さんがあのような事件をしでかしたのか、思いつかなかったんですか?」

蘭が急いでそうきくと、

「はい。姉は結婚するつもりだったんですよきっと。」

と、彼女は半分泣くような、笑うような言い方で答えた。

「それでね。私がいるから、姉は森田さんからのプロポーズというか、そういうものに答えられなかったんですよ。あたしがいるから、そういう事になったんです。そうしないと、姉が、可哀想すぎます。世の中ってひどいものですね。姉も、幸せになれると思ったんですけど、私がいるから、そういう事はできなくなってしまうんです。あたしができないことを、姉にはしてもらいたかったんですけどね。それは、無理でしたね。」

そういう彼女の言うことは、あまりに抽象的すぎて、具体的に何があったのかは聞き出せなかった。まあ、障害のある女性というものは、そうなってしまうのだろう。だから華岡たちも、困ってしまったというべきなのだろうか。蘭は、そういうふうにしか考えられない彼女に、一番足りないものは、彼女にどうこれから生きていけばいいか、アドバイスしてくれる人ではないかと思った。

蘭は、彼女の側を離れたくなかった。何故か今離れていては、彼女を放置してしまって、いけないことをしているような気がした。彼女は、涙をこぼして泣いてしまうのであった。

「おい蘭。上原清子の供述が得られたぞ。なんでも、森田和樹にプロポーズされて、妹のことを考えると、パニックになってしまったようだ。妹は、障害があって自分ひとりでは生きていかれないということで、しきりにいいよってくる彼のことを鬱陶しく思ったのだそうだ。まあ、この事件は、そういうことだと思うんだ。よしよし、割と早く決着が着いたかもしれないな。」

と、華岡がそういうことを言いながら、蘭たちのところにやってきた。蘭は、そうなんでも言える華岡に、ちょっと時と場を考えてやってくれと思ったが、警察関係の華岡は、なんでも言ってしまうのであった。

「お約束どおり、節子さんには梅の花をちゃんと彫りますから、忘れずにいてください。」

と、蘭は泣いている節子さんに言った。節子さんが、お姉さんが起こしてしまった事件をどう考えているかわからないけれど、とにかく自分のできることだけはしてあげようと思った。蘭は、泣いている節子さんを眺めながら、節子さんの背中のやけどの痕を消すために、自分がどうできるか、考えていた。

「あたしは、姉にとっても、いけない存在だったんですね。火事を起こしたのも、もしかしたら私のせいだったのかもしれない。あたしなんていないほうが姉は幸せになったと思います。」

節子さんがそう言った。結局、彼女のような人は、そう考えてしまう、そういう結論を出してしまうのではないかと、蘭は思った。

「それでも、生きて行ってください。」

と蘭は彼女に強く言った。





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梅の花 増田朋美 @masubuchi4996

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