第5話

「フェルディナンド、フェルディナンド」

 育ての姉の声がフェルディナンドをいつもの悪夢から呼び覚ましたのは、満月が空に浮かぶ夜のことだった。

「鍵を盗んできたの。逃げるのよ。逃げなければあなたも殺されてしまうわ。行きましょう、フェルディナンド」

 言いながら牢獄の鍵を開けてくれた姉を、申し訳ないと思いつつフェルディナンドは押しのけた。

「すまない、姉さん。先に逃げていてくれ!」

 叫ぶ間も惜しみながら、フェルディナンドは牢獄から水門へ続く廊下を駆け抜ける。そこにいるはずだ。そこにいて、見ていたはずだ。

「ベアトリス!」

 夢の中でも口にしたことのないその名前を、必死で呼ばわる。

 何度も何度も、あの夢を思い返した。絶望に囚われながら走るベアトリスを、ただ見ていることしかできなかった悪夢を。その道を今は、自分の身体でひた走る。

「待ってくれ、ベアトリス!」

 夢の中の記憶だけでは迷わず辿り着くことはさすがにできず、追いついたのは水門のすぐ前だった。水門の鍵を手にした腕を掴み、引き寄せる。

「どうして、どうして追いかけてきたの?」

 憎しみに染まった魔女の顔ではなく、怯える少女の顔でベアトリスはフェルディナンドを見上げる。

「きみを愛しているからだ」

 こんな言葉では到底伝えきれない。わかっていても口をついて出るのは三文芝居のような台詞だけだ。ベアトリスは怯えた表情のまま、フェルディナンドの手を振りほどいて数歩後ずさる。

「そんなことはありえない。わたしは魔女。憎まれこそすれ、愛されるなど」

 王女としての威厳を保とうとしたのだろう声は、哀れなほどに震えていた。追い詰められた彼女を、それでも追いかけることはやめられなくて、フェルディナンドはさらに手を伸ばす。

「幼い頃、きみがおれの命を救ってくれたそのときから、おれの心はきみのものだ」

 ベアトリスの手を取って、三文芝居のような台詞を続ける。どんなに安っぽく響いても、それこそがフェルディナンドの本心だった。

 晴れた日の海のような緑色の瞳が、呆然とフェルディナンドを見上げ、涙に潤む。ちがう、ちがうと、子どものように首を振るせいで、すぐにその瞳が見えなくなってしまって、こんな時なのにフェルディナンドは惜しいと思ってしまう。もっと彼女の瞳が見たい。その目に自分を映して欲しい。

「わたしが救われて良いわけがない。だって、わたしは……」

「救われなくてもいい。おれと共に生きてくれ」

 縋るように彼女の手を握って、フェルディナンドは懇願した。

「できない……それはできないのよ、フェルディナンド」

 やっと夢の中ではなく、現実で名前を呼んでくれたのに、その声はあまりにも哀しく響いた。

「わたしの中に魔女がいる。すべてを憎み、壊そうとする魔女が」

 言葉と共に、彼女の中の怯えが消えていく。それが意味するものを、フェルディナンドは恐れた。彼女の心が決まってしまう。そしてそれを覆すことができないという確信が、胸の奥に鋭く突き刺さる。

「彼女が消えるまで、わたしはここにいなければ。それで罪を償えるとも、許されるとも、思えないけれど」

 フェルディナンドの手を握り返して、ベアトリスは微笑んだ。魔女のものではない、かといって汚れを知らぬ少女のものでもない、凛としてうつくしく、そして何ものも寄せつけない、決意に満ちた笑みだった。

「ありがとう。フェルディナンド。最後にわたしはわたしを取り戻すことができた」

 いやだ、とつぶやく言葉は、声にならなかった。断固とした拒絶に身動きが取れないフェルディナンドの額に、ベアトリスは祝福するように口づけを落とす。

「あなたは……生きて。どうか……」


 冷たい指先が離れていく。悪夢から目覚めたフェリクスは、呆然と瞬きを繰り返した。

 目の前には変わらず魔女が立っていた。けれど、先ほどまでとは何かが違う。迷うように揺れる瞳が、じっとフェリクスを見上げている。その瞳を見返すと、酷薄な魔女の瞳の中に、怯えた少女の面影が一瞬過ぎった。それを見逃すこともなく、フェリクスはじっと彼女の瞳を見つめ続ける。

 不思議と魔女を恐れる気持ちは消えていて、代わりにどうしようもなく彼女に触れたかった。幼い頃から何度も夢見た、いとしい人。フェルディナンドが救いたくて、叶わなくて、何度生まれ変わっても求めずにはいられなかった相手。

 彼女がたくさんの人間を残酷に死へと追いやったことも、その名を聞くだけで人々を震え上がらせる魔女だったことも、フェルディナンドはすべて知っていた。

 それでも、彼女を愛した。誰に憎まれようと、後ろ指をさされようと、ただ彼女を手に入れたかった。

「ベアトリス」

 彼女の瞳が揺れる。寄る辺のない頼りなげな少女と、すべてを憎む魔女の間で、二つの思いが揺れている。

「行こう」

 その迷いごとさらうように、フェリクスはベアトリスの手を取って歩き出した。怯えるように少女の手が震える。

「いや……わたしは行けない。そちらには……」

 立ち竦んで動けない少女を、フェリクスは振り返る。真っ直ぐ覗き込んだ瞳は、間違いなく夢の中で何度も追い求めた、新緑のいろの瞳だ。

「大丈夫だ。おれも一緒に行く」

 手を引くフェリクスに、今度は彼女も逆らわなかった。


 扉を押し開ける。雪崩れ込んできた陽光が視界を真っ白に染め上げる。

 何度か瞬く内に目が慣れて、高く澄んだ青空が緩やかな螺旋階段の先に広がっているのが見えた。冷え切った肌を、やわらかな太陽の光があたためていく。

 石灰岩の白い石段を、少女の手を引いて登った。踊り場まで辿り着くと、緩やかな曲線を描く階段の先に、夢で見慣れていた石のアーチが見える。

 絡みつく淡い桃色の蔓薔薇も、その向こうに揺れる白いひなげしの群れも、すべて覚えている通りだ。

 夢の記憶と違うのは、繋いだ手の頼りない感触だけ。それでも確信できた。夢ならばここで目が覚めてしまうけれど、今度こそあの庭に辿り着けるのだと。

 フェリクスは大きく息をつき、石段へ一歩踏み出した。硬い石の感覚が、確かに足の裏に伝わってくる。一段一段、少女の歩調に合わせながら、フェリクスは確かめるように庭へと近づいていった。

 蔓薔薇の絡みついた石灰岩のアーチをくぐり抜けると、夢のように美しい庭園が広がっていた。階段からそのまま庭の端まで続く曲がりくねった小道。道を囲むように咲き乱れる、色とりどりの花たち。道の果てには海と空が広がり、その中に浮かび上がるように白い漆喰の瀟洒な東屋が建っている。

 陽の光を浴びた色鮮やかな風景に、フェリクスもベアトリスもしばし足を止めて見入った。

「歌ってくれ。ベアトリス。今のおれは歌えないけれど」

 光に導かれるように、ベアトリスはふらりと庭の奥へ歩き出す。するりと離れたその手を追うように、フェリクスも東屋へ向かう。

 東屋の手すりにもたれて、ベアトリスは遠い海の向こうを見つめた。その唇が静かに開き、少し擦れた声が漏れ出す。

 最初は歌詞もなく、迷うように奏でられていた旋律がやがてはっきりとした形を取り、ベアトリスは瞳を閉じて気持ちよさそうに歌い始めた。


   月よ 月よ 輝いて

   夜の道行くあの人の

   行く手を照らしませ

   旅路に迷わぬように


 フェルディナンドがベアトリスに教えた、セインの都の船乗りたちに伝わる祈りの歌だ。彼女は他のどれよりもこの歌を気に入り、繰り返し練習していた。

 すべてを呪い、憎む魔女の姿を知りながら、フェルディナンドはこの歌の言葉こそが彼女の本心だと信じていた。

 優しい少女の歌声の向こう側に、嘆く魔女の声がまだ微かに響いている。けれどそれはだんだんととけあい、一つになっていく。悲しげだったベアトリスの唇に、微笑みが宿る。


   風よ 風よ 穏やかに

   夜の海行くあの人の

   帆船が沈まずに

   この港へ帰るよに

 

 いつの間にか少女は両腕を海の方へ差し伸べて愛おしそうに目を細めていた。その幸せそうな微笑みを見つめながら、終わったのだとフェリクスは思った。生まれたときから身の内にあった、フェリクスに夢を見せ続けていた何かが、ゆっくりと剥がれていくのを感じる。


   波よ 波よ 導いて

   私の歌をあの人へ

   この想い届けよ

   いつまでも愛すると


 ベアトリスの澄んだ歌声も、まるで薄いヴェールを一枚一枚重ねていくように遠ざかり、代わりに冷たい水の感触が全身を包み込んだ。一つ瞬くと、明るい光に満ちた庭は幻のように消え去り、暗く広い海が果てしなく視界を埋め尽くす。

 霧の中の漁り火のように、海底で光が揺れていた。銀色の魚の群れが闇の奥で不気味に形を変え、四角い影が鳥の王よりも悠々と羽ばたきながら巨大な影を投げかける。

 海底の光の方から、地鳴りのような響きが聞こえている。湧き上がるような和音は、やがてゆっくりとはっきりとした輪郭を持ち、旋律を奏で始めた。

 地を轟かすような響きは、怒りの歌だ。魔女の呪いに捕らえられた古の都人たちの魂が、怨嗟を込めて百年も千年も奏で続けてきた悲しい歌。それが今、水面から差し込む光にほどけるように、いろあいを変えていく。

 暗い水底にぼんやりと浮かび上がる黒い影は、さっきまでフェリクスが見ていたセインの都の、本当の姿だ。水に腐り朽ちていく半ばでありながら、それでも都はかつての偉容をとどめている。

 ゆらゆらとカーテンを降ろすように、光が七色に揺らめきながら水底へ降りていく。照らされた水は透き通り、都の全容を光の中に浮かび上がらせた。くぐもった音を響かせる寺院の鐘楼、苔や藤壺に覆われたいくつもの尖塔。かつて鳥の群れが行き来していただろうそこを、銀色のうろこを光らせながら魚の群れが通り過ぎていく。

 弔鐘を響かせていた僧院の楼閣は、光を浴びると同時に祝祭の鐘を鳴らし始める。

 そして都を取り巻いていた悪意に満ちた怨嗟の声も穏やかな喜びの和声に変わり、光の中で泡になって水面へ浮かび上がっていった。

 終わったのだ。

 もう一度、フェリクスは思った。魔女の呪いも、怒りも、悲しみも、悪意によって水底に縛りつけられていた大勢の人々の魂も、これで天へと還っていくだろう。

 フェリクスの中で悔悟に囚われていた、フェルディナンドの魂も。

 フェリクスはゆっくりと瞳を閉じて、あたたかい水の流れに身をまかせた。

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