第4話

 目を開けたとき、フェルディナンドは馬車の荷台にいた。行く手には海上に浮かぶ巨大な都がそびえ立っている。旅芸人の一座と共に、フェルディナンドはそこへ行くのだ。

 青空を背景にした都は白く美しいが、フェルディナンドの目には暗く濁った空気がまとわりついて見えた。

 幼い頃から、フェルディナンドには人の悪意が見えていた。悪意は不思議な流れに従って漂い、わだかまる。時折この都のように、周囲から悪意の流れを集めてしまう場所もあった。

 恐らく、この都はここにあるべきではなかったのだ。悪意の流れが通るべき場所に作られてしまったために、そこに悪意はとどまり続け、さらに新たな悪意が流れ込み、今では完全に悪意の巣窟になってしまった。

 本当ならば、そんなところに近寄りたくはなかった。けれどフェルディナンドは行かなくてはならなかったのだ。幼い頃、都の中でも特に濃い悪意のたまり場となった貧民窟で、そのどす黒く暗い空気しか知らなかったフェルディナンドに、まばゆいばかりの光をもたらした少女を見つけるために。

 彼女はきっとフェルディナンドのことなど覚えていないだろう。フェルディナンドが彼女の目にとまったのは、ほんの偶然だった。上手く盗みを働くことができず、育ての親に折檻を受け、ぼろぞうきんのように道端に転がっていたところに、たまたま彼女を乗せた馬車が通りがかった。先触れの兵士が塵をどけるようにフェルディナンドを転がそうとしたときに、彼女が制止の声を上げたのだ。その子を助けてあげて、と。

 ろくな食事を得ることもなかったフェルディナンドは、その頃の彼女よりよほど小さく、幼く見えたのだろう。

 誰も彼女には逆らえなかった。フェルディナンドは城に連れて行かれ、傷の手当てを受け、食べ物をもらった。そして二度と姫の目に触れるところに来るなと厳命され、数枚の銅貨だけを渡されて都を追い出された。

 悪意の都から逃れて、フェルディナンドは初めてどす黒くも暗くもない、澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むことができた。その空気のおいしさに感動しながら、あてもなく澄んだ方へ、澄んだ方へと歩みを進め、そしてこの旅芸人の一座に拾われたのだ。

 各地を旅しながら、フェルディナンドは歌を覚えた。歌いながら、あの時の少女がこの歌を聴いたらどんな表情をするのだろうと考えた。悪意の都の中で、彼女の周りだけは清浄な空気に包まれていた。

 あの都の中で彼女がただひとり美しく輝いて見えたのは、悪意に染まっていないその清浄な空気のためだ。フェルディナンドは、そう確信していた。


 けれど辿り着いた都で待っていたのは、渦巻く悪意に取り込まれ、誰よりも悪意に支配され、魔女という呼び名の通りにまさしく悪魔の女王として振る舞うかつての少女の姿だった。フェルディナンドは失望し、絶望しさえしたが、それでも彼女を諦めることができずに貴族のお抱え楽士として都に残った。赤子を産んだばかりで、子育てが終わるまでは共に残ると言ってくれた、育ての姉と共に。

 不思議な夢を見るようになったのは、都の生活にも慣れて、夜もぐっすりと眠れるようになってからだった。

 夜ごとの夢の中で、フェルディナンドは宮殿の上層にある、楽士ごときには足を踏み入れることも許されない王族たちの庭を彷徨っていた。きっとそこへ行けば、二人きりで彼女に会えるかもしれないと、心のどこかで思っていたからだろう。

 そしてある晩、フェルディナンドは歌を聴いた。その歌声だけで宮殿に満ちた悪意が払われていくような、清らかで美しく、けれどどこか細く寂しげな歌声だった。

 歌声に導かれるように回廊を抜け、石の階段を上って辿り着いた場所は、海が見下ろせる庭園だった。真夜中のはずなのに空には青空が広がり、まるで水の中のようにうろこをきらめかせながら魚が泳いでいる。咲き乱れる薔薇やひなげしには晴れた空から降る宝石のような雨が散っていて、浮かんでいるのは太陽ではなくこれから満ちていく半分の月だ。

 現実感のない風景に、フェルディナンドはここが夢の中なのだと確信を深める。夢の中の宮殿には、現実のような悪意は渦巻いていない。ほっとしながら周囲を見回し、歌声の主を探した。

 彼女は薔薇の茂みに隠れるようにして立っている東屋に佇み、空を見上げて歌っていた。

 綺麗な声なのに、きちんと出し切れていない。訓練など受けたことがないのだろうから、当たり前のことだけれど。

 もったいないな、と思って、フェルディナンドはそちらへ一歩踏み出した。


 夢の中で会うベアトリスは、昼間の彼女とはまったく違っていた。どちらが本当の姿なのかと考えるたびに思い出すのは、都へ来るとき荷馬車の上で見た不思議な夢のことだ。

 未来の世界を生きる、自分ではない誰かの人生を夢に見ていた。彼の見た夢がベアトリスの見ていた風景ならば、この夢も夢ではないのかもしれない。

 彼が見た夢は、現実だったのだろうか。

 それとも今夢を見ている自分自身の生が夢なのか。

 何が夢で誰が誰の夢を見ているのか、だんだんわからなくなっていく。夢よりも現実感のない昼をやり過ごしながら、フェルディナンドの心はベアトリスを求めた。

 もしも夢が現実となるのなら、いずれフェルディナンドは昼間のベアトリスと出会うだろう。

 その時を待ちわびている自分に、いつしかフェルディナンドは気付いていた。それが彼女にとって残酷な瞬間だと、知っていながら。

 宴に呼ばれるたびにフェルディナンドはベアトリスを探した。そして夢の中でベアトリスの嫉妬を買うきっかけとなった育ての姉とは極力話さないように努めていたのだが、運命は変えられなかったらしい。

 雇い主の貴族の娘が気まぐれに話しかけてきたときが、その時だった。視線を感じて振り向いたときには、もうベアトリスはこちらを見てはいなかった。彼女と話すこともないまま、フェルディナンドは王の命令で宮殿のひと部屋に閉じ込められることになった。

 窓にも扉に開けられた穴にも鉄格子が嵌められた部屋は、まさしく牢獄だ。姫の許嫁として豪奢な調度品や衣類や食べ物は与えられるものの、自由はまるでない。

 そしてこの場所は、悪意が渦巻く宮殿の中でも特に悪意の集まる場所だった。眠りにつくたびに悪夢にうなされ、あの庭へ行くこともできない。

 部屋の中ですることもないまま、ただどす黒い悪意の気配だけを感じながら待つことしかできない時間は、ひどくもどかしかった。

 それだけは持ち込むことを許された竪琴をつま弾きながら、フェルディナンドはベアトリスの面影を思い出す。もう一度、彼女と話がしたい。このまま何もかも水底に沈むなんて、到底認められる話ではない。

 ――月よ 月よ 輝いて 夜の道行くあの人の 行く手を照らしませ――

 ベアトリスの声に似合いそうだと思って教えていた歌を、今は一人で歌い上げる。最後の日まで、あとどれくらいあるのだろう。時間の感覚もなくなりそうな豪奢な牢獄の中から月を見上げながら、その時が来るのが待ち遠しく、同時にとても怖かった。

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