第3話
――わたしが本当に魔女ならば、ひと睨みであの男を殺してしまえるのに。
めちゃくちゃになったドレスをかき合わせることもせず、ベアトリスは虚ろな瞳で天を見上げたまま考えた。全身に散った痣がじくじくと痛む。身体は重く、指一本動かしたくない。その倦怠感とは裏腹に、心の内には業火が燃えさかっているようだった。
こんな美貌など欲しくはなかった。ただ笑いかければ笑顔を返され、誰とでも和やかに話すことができる、普通の人々が羨ましかった。それだけなのに。
その日、生まれて初めて、ベアトリスは誰かを憎むことを知った。身を焦がすような憎悪は、彼女の心を二つに切り裂いた。
本物の「魔女」になってやろう。切り裂かれた一人のベアトリスはそう考えた。あの男がベアトリスの心を二つに切り裂いたように、あの男の身体を二つに切り裂いてくれよう。
――そんなことをしてはいけない。命を奪わなくとも、彼から逃れる術はあるはず。
もう一人のベアトリスはそう考えた。けれどその声は、復讐に取り憑かれたもう一人のベアトリスには届かない。
ベアトリスは父のところへ行き、かき口説くようにアベルの所行を訴えた。父は怒り狂い、すぐにその男の首を落とすように命じた。
刑場に引き出されたアベルは、冷酷にその死を見つめようとするベアトリスを見て哄笑した。
「ほら、言っただろう! お前は私と同じだ!」
その通りだと、ベアトリスは思った。なぜならアベルは悪魔で、己は魔女なのだから。「魔女」と「悪魔」はお似合いだ。皆そう言っていたではないか?
それ以来、ベアトリスは本当の魔女のように人々を苦しめ、贅の限りを尽くし、褥に男を呼んでは翌朝には首を切らせてしまうようになった。
人々はますます彼女を恐れ、本当にあれは「魔女」だったのだと噂するようになった。「魔女」たらんとするベアトリスは、人々に恐れられることをもううとましくは思わなくなった。
どうせ求めるものは手に入りはしないのだ。甘い砂糖菓子のような夢はもう見ない。ただ目の前の快楽だけを貪れば良い――
それは、彼女が心から憎むアベルと同じ生き方だった。殺さないで、殺さないでと恐れ、悲しみ、泣き叫ぶもう一人のベアトリスの言葉は、誰にも届かない。
ある晩、ベアトリスは夢を見た。夢の中のベアトリスは、まだ自分が魔女だとは思っていない、憎悪を知らない少女だった。見回りの兵士の目をかいくぐり、海の見える回廊を抜けて、空中庭園へと駆け上がる。
幼い頃、ここで思うさま声を張り上げて歌うのが好きだった。歌声に惑わされた船乗りが座礁して命を落としたと聞いて以来、ベアトリスが歌うことはなくなったけれど、これは夢だ。きっと歌っても許される。
花々の咲き乱れる楽園に、春の陽光が降り注ぐ。曲がりくねった小道にしがみつく苔すらも美しく、その道の先で陽光を浴びる海はどこまでも青い。
海を見下ろす東屋で潮の匂いを胸に吸い込みながら、ベアトリスは歌った。伸びやかな声が、潮風に乗って飛翔する。こんなにも気持ちよく声を出したのは生まれて初めてだった。
「へたくそ」
夢中で歌っていたベアトリスに冷や水を浴びせたのは、ふいに投げかけられた言葉。冷たい言葉だったけれどなぜかあたたかい感じがして、思わずベアトリスは振り向いた。
「誰?」
この宮殿でベアトリスにそんな不敬な言葉を直接投げつけてくる者はいない。誰も彼もが陰でひそひそと囁き合い、恐怖を侮蔑に変えて嘲笑するばかりなのだから。
振り向いたベアトリスの視線の先にいたのは、一人の青年だった。城の貴族たちとは違う、黒い髪に黒い瞳の異国の容貌。簡素なチュニックに身を包み、片手に竪琴を持っている。
「おれはフェルディナンド」
青年はそう答えて、ふっと斜に構えたような、けれどどこかぬくもりのある笑顔を浮かべた。
「へたくそだけど、良い声だ。練習したらもっと良くなる」
「ほんとうに?」
問い返すベアトリスの声には何かを期待する気持ちがにじんでいた。もう誰にも期待などしない。そう思っていたことなど、夢の中のベアトリスは忘れていた。
「音楽に関して嘘はつかない。音程もリズムも良い。あとは声の出し方と抑揚の付け方」
少しだけ得意げにそう語るフェルディナンドの指先を、ベアトリスはじっと見つめる。この指が竪琴を奏でるのだろうか。それはどんな音を響かせるのか。そして彼は歌うのだろうか。どんな声で、どんな歌を。
「聴いてみたい」
素直な気持ちが、唇から零れ落ちる。フェルディナンドは嬉しそうに微笑んで、ベアトリスの頭を撫でる。
「いいぜ。聴かせてやるよ」
そんなふうにただの子どもみたいに扱われたのは、生まれて初めてのことだった。頬を淡く染めながら、ベアトリスはフェルディナンドが調弦を始めた竪琴に耳を澄ませる。それからすぐに庭園に響き始めた歌声を聴きながら、青空みたいだとベアトリスは思った。優しく澄み切って明るい、どこまでも広がる青空のようだ、と。
歌を教えてくれるというフェルディナンドの言葉に、ベアトリスは一も二もなく飛びついた。本当はただ、彼の歌をまた聴きたかっただけだ。
フェルディナンドの歌を聴いている間だけは、ベアトリスは忘れていられた。自分が呪われた魔女であることを。アベルと同じ、快楽を貪るためだけに人々を苦しめ、疑心のままに命を奪ってしまう悪魔なのだということを。
フェルディナンドは良い教師だった。聴いてばかりいようとするベアトリスを上手く言いくるめ、最後には必ず歌わせてしまう。ベアトリスもだんだんと自分の声で自由に歌うのが楽しくなってきて、フェルディナンドが歌っているときにもやがて声を合わせるようになった。
一緒に歌っているとき、フェルディナンドは視線と呼吸を合わせ、全身でベアトリスを感じてくれる。それが何よりも嬉しかった。
夜ごと、フェルディナンドと歌う幸せな夢を見ながら、ベアトリスは願った。この夢が現実にならなければいいと。フェルディナンドは夢の中にだけ存在するひと。決して現実には現れない。現実のベアトリスのことなど知らないまま、一緒に歌っていてほしかった。
けれど半ば予想していた通り、ベアトリスの願いは叶わない。生身のフェルディナンドは、王が催した宴の中に、貴族のお抱えの楽士として現れた。
決して彼を見てはいけない。冷酷な魔女であるはずの現実のベアトリスは、恐れた。夢の中の少女が自分だと気付かれることを。現実の自分がフェルディナンドを求め、そしてその命を奪ってしまうことを。
そうだ。決して見てはいけなかった。フェルディナンドがその隣でハープを奏でる美女と、楽しげに語らっているところなど。
夢の中のフェルディナンドの笑顔は、いつだってベアトリスだけに向けられていた。
現実ではそうならないことなどわかっていたはずなのに、笑い合う二人の姿を見た瞬間にベアトリスの中に生まれた怒りは、もう一人のベアトリスがつなぎとめていたすべての理性を奪っていってしまった。
「お父様」
彼を見てはいけないと思っていたことなど忘れて、ベアトリスはじっと二人を睨みつけながら、父に呼びかけた。やめてと泣き叫ぶもう一人のベアトリスの声は、またしても現実のベアトリスには届かない。
「わたし、欲しいわ」
「いいとも。何でも言ってごらん」
父王は侍らせた女の腰に腕を回したまま、ベアトリスを見もせずにそう答えた。
「では、あの男を」
ベアトリスが指さした方をちらりと見て、父王は頷く。
それで彼の運命は決まってしまった。
それからというもの、フェルディナンドは夢の中にも現れなくなった。ベアトリスは一人の庭で、習った歌を練習し続けた。フェルディナンドの竪琴の音がない庭はもの寂しくて、ベアトリスの歌は何度も途切れた。
現実のフェルディナンドは、ベアトリスの婚約者として城に閉じ込められていた。自分で望んだくせに、現実のベアトリスは彼に会いに行こうとしない。
怖かったからだ。フェルディナンドに魔女である自分を知られることが。いつも楽しそうに笑っていた彼の顔が、自分を見てこわばるのを知ってしまうことが。もう一度静かな庭園で、彼と共に歌うというちいさな希望を打ち砕かれてしまうことが。
ひとときの感情に流されて、自分で壊してしまったくせに。この期に及んでまだ、逃げ道を探している。
けれど容赦なく時は過ぎ、婚礼の期日はやってくる。
魔が差したのだ。ずっと向き合うことを避けてきたのに、婚礼の前夜、ベアトリスはフェルディナンドが軟禁されている部屋へ足を運んでしまった。
「……逃げなければあなたも殺されてしまうわ。行きましょう、フェルディナンド」
廊下の先から聞こえてきた声に、ベアトリスは思わずカーテンの影に身を隠した。女の声だ。宴の夜、フェルディナンドの隣で笑っていた美しい女の声。
「……おれは、この鳥かごを壊さなければならないんだ」
フェルディナンドがその声に応える。逃げてもきっと、という言葉に、ベアトリスは立ち竦む。
逃げようとしている。フェルディナンドが。誰から? そんなのは決まっている。考えるまでもない。
絶望と怒りが一瞬で全身を支配した。言葉もなくベアトリスは踵を返し、駆けだした。
海へ通じる水門の鍵は、王族しか持つことが許されていない。海の上に浮かぶこの都が沈まないのは、先人たちが凄まじい技術で築き上げた水門と防壁があるからだ。
(逃がすものか)
首から下げた鍵を握りしめて、ベアトリスは走る。
(許すものか)
皆沈んでしまえば良い。
愚かな烏合の衆、腐りきった男ども、自らの醜さをドレスと香水で隠した女たち……みんな波にさらわれてしまえば良い。そして誰よりも醜く汚らわしい、自分自身も。
――違う。
見ていることしかできない自分がもどかしくて、フェリクスは叫ぶ。
きみは魔女ではない。魔女だったとしてもかまわない。おれはきみから逃げようとしたわけじゃない。
必死に伸ばした見えない手が、諦めたように目を閉じて濁流に呑まれようとしている彼女に触れた。
その瞬間、また意識が暗闇に閉ざされた。
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