第2話

 開いた瞳に飛び込んできたのは、崩れかけた城壁の上から伸びすぎた枝を差しのばす楡の木と、その向こうに広がる青空だった。風に押されて通り過ぎていく綿雲も、空を飛び交う海鳥も、さっき目覚めたときと寸分違わない。

「どういう……ことだ……?」

 疑問を絞り出した声は、ひどく掠れていた。のろのろとした仕草で起き上がり、周囲を見回す。やはり最初に打ち上げられていた場所とまったく同じ景色だった。空に浮かぶ太陽の位置さえ変わっていない。

 夢を見ていたのだろうか。半ば混乱しながらフェリクスは立ち上がり、先ほどと同じように廃城の中へと入っていった。

 城の中の景色も先ほど目にしたものとまったく同じだった。最初の道行きが夢や幻だったのか現実だったのか計りかねるまま、フェリクスは同じ道を辿っていく。

 蔦に破られた窓から差し込む陽光を、静かに舞う埃を、もはや誰にも使われることなく朽ち果てていくのを待つ絢爛な家具を横目に、いくつもの部屋と廊下を通り抜けた。聞こえるのは低く唸るような海鳴りと、鋭く静寂を切り裂く海鳥の鳴き声、風に揺れる葉擦れの音だけだ。

 そしてまたフェリクスは暗い廊下の突き当たりにある、あの回廊へと続く扉の前に辿り着いた。

 扉の前で、フェリクスは迷う。このまま扉を開けて再びあの回廊へ出て行っても、きっとあの深紅のドレスの女とまた出会うだけなのだろう。それでは何も変わらない。

 別の道を探すか、それとも彼女の目を欺く方法を考えるか……どちらもできそうにない。空中庭園へ続く道はここしかないと、なぜかフェリクスは確信していた。

 そもそも、深紅のドレスの女は何者なのだろうか。フェルディナンドという名の誰かと、フェリクスのことを間違えているようだった。

 扉に手をかける。人違いだと教えてやれば、彼女は諦めるだろうか。そうは思えないが、誤解を解かなくては先に進めない。フェリクスは意を決して扉を開いた。

 空中庭園へ続く回廊を、今度は先ほどよりも慎重に進んでいく。海鳥の鳴き声が遠い。波音と風の音だけが響きわたり、廃城のもの寂しい雰囲気を否が応にも高めている。

 海鳴りに紛れて、時折女の歌声が聞こえる。あれは、海の魔女の歌声なのだろうか。フェリクスの祖先を代々海に引きずり込んできたという、魔性の歌声なのか。

 回廊の中程を過ぎ、周囲が手入れされた風景に変わってきた頃、フェリクスは歌声がはっきりと聞き取れるようになってきたことに気付いた。

 美しさよりも脅しつけるような恐怖を感じさせる、狭い隙間を吹き抜ける風の悲鳴に似た甲高い声だ。

 もうすぐ、あの女が現れた場所が見える。

 そう思ったとき、歌声が止んだ。女は変わらず、同じ場所に立っていた。世界中のあらゆるものを憎むような昏い瞳で、じっとフェリクスがやってくる方を睨みつけていた。

「フェルディナンド……」

 血に塗れたような艶やかな唇が、憎悪と愛おしさが綯い交ぜになった調子でその名を呼ぶ。

「おれの名はフェリクスだ。フェルディナンドではない」

「いいえ。あなたはフェルディナンドよ。わたしが間違えるはずがないわ。なぜ嘘をつくの?」

 こちらへ歩み寄りながら、かき口説くように女は言う。こちらの言うことには聞く耳を持たないようだ。背筋が粟立つような恐怖に襲われながら、フェリクスは勇気を振り絞って女を睨み返した。

「違う。おれはフェリクスだ」

「そんな嘘をついてまで、あの女のところへ行こうというのね」

 女が頬に向かって伸ばしてきた手を、フェリクスは思わず振り払った。

「やめろ! おれに触るな!」

「わたしはあなたの妻になる女なのよ?」

 振り払われたことなど気にもとめていないように、女はうっすらと笑みを浮かべたまま囁く。その静かな声に紛れもない狂気の気配を感じ取って、フェリクスは戦慄した。

「都を海へ沈めたのはお前なのか?」

 フェリクスの先祖と婚約していたという、海の魔女。もしも彼女がフェリクスをその先祖と間違えているのだとしたら、辻褄は合う。

「ええ、そうよ」

 うっとりと夢見るように女は答えた。

「わたしが沈めたの。愚かな烏合の衆、腐りきった男ども、自らの醜さをドレスと香水で隠した女たち……みんな波にさらわれてしまえば良いと思ったのよ。ねえフェルディナンド。あなたもそう思うでしょう?」

 再び伸ばされた手が、凍りついたように立ち尽くすフェリクスの頬を撫でる。石のように硬く、冷たい指先だった。


 まただ。また繰り返してしまう。

 底のない闇に落ち込むような感覚に身をゆだねながら、フェリクスは絶望的な気分で目覚めを待った。夢から覚めたはずなのに、彼女の側には辿り着けない。海の魔女と出会う前から、夢はいつも途中で終わっていたけれど、こんなにも身を焼くような焦燥感は初めてだ。

 彼女の名を呼びたいのに、呼ぶべき名前がわからない。それがひどくもどかしい。心が渇く。幼い頃から繰り返し見てきた夢の中でも、ここまで強い衝動に突き動かされたことはなかった。彼女の名前が知りたい。何としてでも知りたい。

 ――その名を呼ぶために。


 次の目覚めは、なかなか訪れなかった。輪郭のぼやけた音が耳元で低く唸る。その音はやがて遠い海鳴りに変わり、その音と響き合うように葉擦れの音が聞こえ始めた。

 小鳥の囀り。花々を行き来するマルハナバチの羽音。鼻腔をくすぐるのは、むせかえるような甘い春の花々と踏みしだかれた草の青くさい匂いだ。嗅ぎ慣れた潮の匂いも、微かに混じっている。

 瞳を開こうと全身に力を込めても、ぴくりとも動かすことができなかった。まるで自分のものではないかのように、全身を強い違和感が支配していて、身体を動かすことができない。

 けれどしばらくたったとき、何も動かすことができなかったはずなのに、ふと視界が開けた。

 目の前に、俯いた少女の後ろ姿があった。何度も夢で見た、あの庭園だ。真っ白な首筋に、結い上げた髪からこぼれた金色の後れ毛が揺れている。

 他に人の気配もない庭園の片隅で、花々に埋もれるようにして少女は泣いていた。たったひとりで、声を上げることもなく、ただ静かに肩をふるわせて泣いていた。

 その肩に手を伸ばそうとして、フェリクスは己に動かすべき身体がないことに気付く。あるのはただ、周囲のものを見つめる『目』だけだった。そうと気付いた瞬間、膨大な『過去』が彼の頭の中に流れ込んできた。目の前で肩をふるわせる、頼りない少女の『過去』が。


 その少女は幼い頃から「魔女」と呼ばれ、人々に恐れられていた。その眼差しをひと目見ただけで男は恋に落ち、その歌声が遠くから聞こえるだけで船乗りは我を忘れ、暗礁に乗り上げて海の藻屑となったからだ。

 それほどまでに少女は美しかった。

 金の糸のような流れる髪も、新緑を宝石に閉じ込めたような瞳も、雪花石膏のように白くなめらかな肌も、濡れたように艶やかな紅い唇も、まるでこの世のものとは思えないほどに美しく、抗いがたく人々を惹きつけた。

 だから人々はその国の王女であるその少女――ベアトリスを心から恐れ、密かに「魔女」と呼んだ。

 少女は齢十を数える頃には、自分が人々に恐れられていることに気付いていた。その国で唯一絶対の権力を持つ父王は彼女を溺愛していたが、与えられるのは金であがなえるものばかりだった。

 そう、ベアトリスは一言発すれば望む品物は何でも手に入れることができた。人の命ですら。それ故にますます人々は彼女を恐れた。

 十六歳の誕生日を迎える頃には、ベアトリスは天に与えられたその容姿をうとましく思うようになっていた。どんなに望むものを与えられ、美貌を褒め称えられようとも、心の中の空虚が埋まることはなかった。誰も彼女の心に触れようとはしない。耳に心地良い言葉ばかりを繰り返しながら瞳の奥に恐怖を溜め込み、ベアトリスの前を離れればすぐに恐怖を憎悪に変えて表面ばかり飾り立てた罵詈雑言を繰り返す。

 虚飾にまみれた貴族たちの美辞麗句にうんざりすると、ベアトリスは部屋に籠もって他愛のない物語の本に没頭した。黄金と宝石に囲まれながら、彼女は物語のページをめくり、愛し愛される登場人物たちに憧れた。彼女はひとのぬくもりを求めた。

 父王が結婚の話を持ちかけてきたとき、ベアトリスは深い喜びに身をふるわせた。ついに自分にも愛してくれる人が現れるのだと、結婚とはそういうものなのだと、ベアトリスは信じて疑わなかった。

 ベアトリスに娶(めあわ)されたのは、見目麗しい貴族の青年だった。他の人々と違って、アベルという名のその男がベアトリスを恐れることはなかった。アベルはベアトリスの美貌を褒め称え、貴方は私と同じ心を持っていると情熱的に何度も言った。

 甘いばかりの顔立ちの、女を何人振り向かせ、捨ててきたかを自慢にするようなその男が、冷酷さ故に「悪魔」と呼ばれていることを少女は知らなかった。ベアトリスは夢中になった。時折彼の目の中に過ぎる、蔑むような冷たい光にも、人々が「魔女」と「悪魔」なんてお似合いだと密かに笑っていることにも、恋に恋する少女が気付くことはなかった。

 ――そのときが来るまでは。

 その日、ベアトリスはお気に入りの空中庭園へ向かう回廊を歩いていた。興奮した獣のような高い声が聞こえてきたのは、そのときだった。

 何の声だろう。野生の動物でも迷い込んだのだろうか。不思議に思って、声が聞こえてきた蔦に覆われた東屋を覗き込む。

 そこにいたのは、恋人であるはずのアベルと、裸になって痴態を晒す女の姿だった。

「何を……しているの……」

 呆然と呟いた。眼前にあるものを信じることができない。目を離すことができないベアトリスに見せつけるように、アベルは女に口づける。

「わたしを騙していたの?」

 女の焦点の合わない瞳が、ぼんやりとベアトリスに向けられた。

 恐ろしいほど穏やかに微笑みながら、アベルも振り返る。

「騙すなど人聞きの悪い。私は貴方の美貌を讃えこそすれ、愛しているなどと言ったことはないはずだ」

「でも、喜んで結婚すると言ったわ!」

 目の前にあるものをどうしても信じたくなくて、ベアトリスは必死で言いつのった。けれどアベルの口元に浮かぶ歪んだ笑みは消えない。

「ああ、言ったとも。喜ばないはずがあるまい? お前と結婚すれば、この国の富も権力もすべて私のものだ」

 アベルはそう言うと、状況をわかっていない様子でぼんやりとしている女の耳元に何事かささやきかける。女は人形のように一つ頷くと、無言で衣服を正して東屋を出て行った。ベアトリスに視線をやることもなく、焦点の合わない瞳でただ目の前を見つめたまま。

「欲しいのは……富と権力だけだと言うの……」

 そんな女の異常な様子を気にかける余裕もなく、ベアトリスは必死でアベルを睨みつける。そうやって目の奥からこみ上げる熱さを、己自信の弱さを押しとどめようとしても、涙がにじむのは堪えきれなかった。それを見たアベルは嬲るように酷薄な笑みを浮かべる。

「当然だ。魔女など愛せるわけがない。ああ、だが」

 ふいに言葉を切って、アベルはベアトリスに歩み寄った。急に近づいた距離と、その瞳に宿った凶暴な熱に、ベアトリスは恐怖を覚える。逃げようとする女の腕を捕らえて、男はさらに凶暴な笑みを浮かべた。そしてその耳元で、今までベアトリスに賛辞を捧げ続けてきたのと同じ調子で言う。

「その身体は、女のものだったな」

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