海の歌声

深海いわし

第1話

 暗い海には嵐が吹き荒れていた。二人乗りの粗末な小舟は荒れ狂う風と波に翻弄され、船の縁にしがみつく二人の男にはもう上も下も右も左もわからない。横殴りの雨は頻繁に吹きつける方向を変え、そのたびに木の葉のように小舟は回る。

 白い飛沫の冠を戴いた蒼黒そうこくの波濤は、情けを知らぬ暴君のようだ。時折鋭い稲光が嵐の夜を切り裂いて、巨大な波が描き出す不気味な陰影を鮮烈に目に焼きつける。

「フェリクス!」

 小舟にしがみつく人影の一つが、しわがれた声で叫んだ。暴風雨と波音に阻まれて、呼びかけられたもう一人にその声は届かない。わかっていながら、男は叫ぶ。

「聞こえるか、海の魔女だ!」

 雷光が世界を白と黒とにくっきり塗り分ける。風と波の音すらも掻き消すように、雷鳴が轟き渡る。

「おれにも終わりが来たんだ!」

 絶望の叫びは、小舟もろとも、ひときわ高く襲いかかった波に呑み込まれた。

 フェリクスは地の果てと呼ばれる辺境の漁村に生まれた。隣の村と、せいぜいその隣の村辺りまでが、陸地におけるフェリクスの世界のすべてだった。

 フェリクスの世界は海に向かって開けている。

 まだ夜の明けきらぬ頃、朝靄の煙る海へ父親と二人で漕ぎ出すのがフェリクスの日課だ。海は色とりどりの宝石のような魚をフェリクスと父へ贈り届けてくれる。

 瑠璃よりもなお濃く鮮やかな青色をしたタマルリウオ、夏陽見花なつひみばなより明るい黄色と白ウサギの瞳よりも濃い赤の縞模様をしたヒメコウギョク、七色に光るとげを持ったナナイロチドリ……。

 色鮮やかな魚たちは、かつて海に沈んだ古の都の宝石たちが命を得たものなのだとフェリクスの父は言う。古の都の王家の血を引くフェリクスの家系にだけ、その宝石の名が伝えられているのだと。そして古の都で使われていた宝石の名前を、魚たちを指さしながら教えてくれるのだ。

 青きセイルトルート、奇跡の縞瑪瑙グレンディエール、月光をその身に宿した氷晶石が七色の光を得たと言われるレンフィセル。

 フェリクスの一族以外ではもはや使う者のない、意味のない言葉の羅列。

 幼い頃は、フェリクスも父の言葉を純粋に信じていた。おれは王家の子どもなんだぞ、というフェリクスの言葉を笑いはやし立てる近所の子どもたちに接するたび、貧しい村の暮らしと遠く噂に聞こえる都の優雅な暮らしを比べるたびに、信じる気持ちはしぼんで、いつしか消えてなくなってしまったけれど。

 それでも父は凪いだ海の上で釣果を待つひとときに、陸地で網を繕う退屈な時間に、繰り返し語って聞かせる。

 かつて栄華を誇ったセインの都。気が遠くなるような年月をかけて海の上に石材を積み上げ、細工師が技芸を凝らした優美な彫刻で隅々まで飾り立てて作り上げられた、輝くような宮殿の偉容。白大理石の山に驚くほど精緻な細工を施した異教の寺院。天を突くようにそびえ立つ幾百もの巨大な建造物を呑み込んで、都は古のかたつむりのような螺旋を描きながら、天空へとそびえ立つ。

 都の回廊を行き来するのは、赤い天鵞絨びろうどのマントを翻し、金糸の刺繍に飾られた色とりどりの服を身に着け、異国から取り寄せた大きな羽根で帽子を飾った貴族たちや、きらびやかな宝石で着飾り、思い思いの髪型に趣向を凝らした花飾りをつけたたおやかな貴婦人たちだ。その都では奴隷ですら宝石をちりばめた金の鎖に繋がれていたと言う。

 世界中の富をかき集め、繁栄を極めた海上の都は、けれど一夜にして海の底へ沈んだ。

 悪魔に魅入られた王女が、王の目を盗んで水門の鍵を開けてしまったからだ。

 王女は都と運命を共にしたが、彼女の従兄弟であり婚約者でもあったフェリクスの先祖は海神の加護を得て逃げ延びたのだと、父は語った。

 だから水没した都の富は我らのものなのだ、と。そう笑いながら、照りつける太陽と潮風に焼けた手で、海の宝石を捕らえ、その腹を切り裂く。

 そんなふうにして、セインの都の物語は代々語り伝えられてきた。

 フェリクスの祖父も、その父も、またその父も、漁の技と物語を子孫に語り伝え、そして嵐の海に帰らぬ人となった。

「魔女が呼ぶのだ」

 父がその話をしてくれたのは、たった一度、祖父が死んだ晩のことだった。

「呪われた王女は海の魔女になって、おれたちを呼ぶんだ。呼ばれてしまったら、もうおしまいだ。おれたちは海に呑み込まれるしかない」


 夢を見ていた。幼い頃から繰り返し見る、幸せな悪夢。

 天空を漂うような高い回廊を、フェリクスは走る。眼下にはあたたかな春の朝日を受けて銀色に輝く、凪いだ海。強い日差しを遮るために植えられた蔓草が、回廊を支えるアーチの繊細な漆喰細工に絡まって、朝焼けの空と海を美しい輪郭で縁取っている。逆側は庭に面していて、細長い大理石の泉水や色ガラスのタイルで縁取られた花壇が描く直線と、異国からやってきた熱帯植物の奔放な曲線が、独特の雰囲気を作り出していた。

 藍碧の暗い水を湛えた泉の中央には、つくりもののような繊細な蓮の花が、やわらかなつぼみを綻ばせている。その薄紅の淡い色を眺めるたびに、フェリクスの心の内を甘い思いが駆け抜ける。

 脳裏に浮かぶのは、いとしい人の面影だ。咲き乱れる花の中で微笑む、亜麻色の髪の儚げな女性。器用に花冠を編み上げていく透き通るように美しい指先と、彼女が身動きするたびに漂う、とらえどころのない淡い白薔薇の香り。細部の印象だけが鮮烈で、彼女の顔立ちや立ち姿を思い浮かべようとすると、途端に印象がぼやけてしまう。

 地に足をつける間ももどかしい。早く本物の彼女に会って、その新緑の瞳を覗き込みたい。その望みだけが、フェリクスの全身を突き動かしている。

 石畳の床に葉影がやわらかく揺れる。どこからか、百合の花のえも言われぬ香りが漂ってくる。回廊を抜ければ空中庭園へ昇る外階段に出る。そこできっと、彼女は待っている。

 回廊を駆け抜けたフェリクスは、踊り場に立ち止まって、乱れた呼吸を整えた。緩やかな曲線を描いて天へと伸びる階段の先に、古い石造りのアーチが見える。アーチには淡い桃色の蔓薔薇が絡みつき、その向こうに白いひなげしの群れが覗いている。

 フェリクスは大きく息をつき、石段へ一歩踏み出した。その瞬間、周囲の風景が波にさらわれるようにかき消え、全身を空中に放り出されたような浮遊感が襲う。

 落ちる、と身構えた身体がびくりと痙攣し――そして、目が覚めた。


 また、辿り着けなかったのだ。彼女の元へ。

 いつもと同じように、瞳を閉じたまま夢から覚めた瞬間の虚しさと絶望感が通り過ぎるのを待つ。

 所詮は夢だ。彼女の元へ辿り着けたことなど一度もない。夢の中で胸の内に去来する、幻のような女の面影に焦がれる強い感情は、目が覚めてしまえば日々の生活に埋もれてしまう程度の、薄く現実感のないものだ。

 瞼の向こうに陽光の明るさを感じる。ゆっくりと瞳を開けると、視界に飛び込んできたのは青々とした緑とよく晴れた空だった。

 崩れかけた城壁の上から、伸びすぎた楡の木の枝が影を落としている。その上に広がる空は青く、ちぎれたような綿雲がいくつか急ぎ足で横切っていく以外、遮るもの一つない快晴だった。時折上空を通り過ぎる海鳥が、どこか長閑な鳴き声を上げる。

 フェリクスはゆっくりと拳を握り、感触を確かめた。おぼろげだった感覚が戻ってくる。上半身を起こし、周囲を見回す。

 全身はほとんど乾いていた。膝から下だけはぬるま湯のようなさざなみに洗われて濡れているが、寒さは感じない。

 フェリクスが横たわっていたのは、海のただ中にぽつりと取り残された遺跡の上だった。傾いた石畳は打ち寄せた海藻や流木に覆われ、フェリクスのすぐ背後まで迫った城壁には、生命力の旺盛な蔓植物が生い茂っている。

 身体の調子を確かめながら立ち上がり、大きく伸びをした。身体はこわばっているが、どこにも怪我はないようだ。

 乗っていた小舟と父親の姿はなく、見える範囲には他に陸地もない。フェリクスは途方に暮れたまま、城壁に沿って歩き出した。

 神経質な巨人の手によって作られたような砂色の広大な城が、城壁の背後にそびえ立っている。フェリクスが打ち上げられた石畳の広場は、しばらく歩いたところで海中へ沈んでしまった。緩やかに湾曲した城壁が海中からそそり立っているばかりで、この先には進めそうにない。

 フェリクスは仕方なく、城壁に開いたアーチを抜け、城内へ入ることにした。


 城の中は荒れ果てていた。葉の大きな熱帯植物が回廊まで浸食し、行く手をふさいでいる。

 いくつか部屋を覗き込んでみたが、人の気配はなかった。窓から入り込んだ蔓植物が部屋の中にも繁茂し、毛足の長い絨毯にはぶ厚く埃が降り積もり、絵画は色褪せ、きらびやかな装飾が施された家具は腐食して傾いてしまっている。

 タペストリーの飾られた長い廊下、温室のように植物が生い茂った広間、今はただ黴(かび)臭く陰気なだけのかつての豪奢な居住区。巨大な石柱が立ち並ぶ広大な空間と、崩れ落ちた天井から突き刺さる陽光の柱。

 聞こえるのは己の足音と、遠い海鳴りの響きだけだ。

 城内を彷徨う内、フェリクスは不思議な感覚に襲われ始めた。見覚えなどあるはずもない遺跡のそこここに、懐かしさを感じるのだ。白昼夢の中に迷い込んだような、夢の続きを見ているような、不思議な気分だった。

 やがて予感は確信に変わる。そう、これは夢の中の城だ。幼い頃から繰り返し訪れた悪夢の宮殿。それが今現実となって、フェリクスの前に広がっている。この暗い廊下の突き当たりの扉を開けば、その先にはあの回廊が――空に浮かんでいるような、海に面したあの回廊があるのだろう。

 肌が粟立つような予感が、フェリクスの足を床へ縫い止めた。この先へ進んでしまえば、何か取り返しのつかないことが起こるような気がする。微細な彫刻に彩られた扉に手をかけたまま、フェリクスは葛藤した。

 先へ進まずとも、日常へ帰ることはできない。乗ってきた舟はなく、父もここにはいないのだ。ならばどこへ行こうと同じではないのか。

 自問の末にようやく顔を上げたとき、フェリクスは歌を聞いた。休みなく聞こえていた海鳴りに唱和するように、微かに響く女の声だ。

「海の魔女」

 掠れた声でつぶやく。無人の宮殿と海に沈んだ伝説の都が、頭の中で一つになっていく。繰り返しこの城の夢を見ていたのは、父の言葉が真実だったからなのか。

 まさか、そんなはずはない。

 そうだとすれば、夢の中でフェリクスが想っている恋人こそ、海の魔女だということになる。そんなはずはない。彼女は優しい人だった。根拠のない確信がフェリクスを突き動かす。

 確かめなくては。

 フェリクスは扉に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。

 吹き込んできた海風と共に、女の哄笑が聞こえた気がした。


 思った通り、扉の先は夢で見た回廊だった。城の他の場所ほど荒れ果ててはおらず、天井やアーチに絡みつく蔓や大きな根で石畳を持ち上げる樹木も、先に進むほど少なくなっていく。中程まで進んだ頃には、回廊は整然と手入れされた姿を取り戻していた。中庭の直線的な泉水や花壇は苔一つなく磨き上げられ、対比を楽しむように植えられた熱帯の曲線的な植物も与えられた場所にきちんと収まっている。

 こんな場所で、数百年も働き続ける庭師がいるはずがない。働いているのは、何か未知の魔法のような力なのだろう。だとすれば、やはりここは魔女の城なのかもしれない。

 それでもフェリクスは先へ進む。いつの間にか、彼女が魔女であってもかまわないとすら思い始めていた。繰り返し夢で焦がれ、それでも決して会うことの叶わなかった彼女に、再び会えるのならば。

 回廊の出口が見えてきた頃、フェリクスは足を止めた。夢の中でも見たことがない、見知らぬ女が回廊の先でフェリクスを待っていた。大理石のような青白くきめの細かい肌に、細い金細工で紡がれたような見事な髪と深紅の天鵞絨(びろうど)で織り上げられた豪奢なドレスが、水に濡れて貼り付いている。

「フェルディナンド」

 血に濡れたような唇が、低く悲しげに名を呼んだ。

「またあの女のところへ行くの?」

「あの女……?」

「行ってはだめよ」

 間近に歩み寄ってきた女は、獲物を狙う蛇のようになまめかしい仕草でフェリクスの頬に手を伸ばす。

「あの女はこの国を滅ぼす魔女。あなたにはふさわしくないわ」

 ぞくりとした感覚が、背筋を貫いて走り抜けた。全身の感覚が、この女は危険だと告げていた。

 思わず手を振りほどく。その瞬間、甘えるような女の表情は一変した。

「また、わたしを裏切るの?」

 執念深い蛇のような緑色の瞳が、フェリクスを凍りつかせる。女は艶やかに微笑み、舌なめずりするように自身の唇を舐めた。

「そんなこと、させないわ」

 白い女の手が伸びる。夜空の色に塗り上げられた長い爪が、フェリクスの頬へと。

 きつく瞑った瞼の裏に、やわらかく匂い立つような女の微笑みが浮かんで消えた。それは目の前の深紅のドレスの女ではなく、空中庭園で花輪を編む優しげな少女の面影だった。

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