第8話 スピリットベアの欠片
無意識に何度も懐を確認してしまう。そこにしっかりとしまってあるのは、以前、メインゲートという港町に立ち寄った際にお土産で買った、ガマ口ポーチである。普段持ち歩いている貴重品以外で大切なものがあった際に使おうと思っていたのだが、とうとう出番が来てしまった。中に入っているのは、バーナードから預かったスピリットベアの欠片だ。
──あなたを信用しています。
彼の言葉を思い出し、私はそっと息を吐いた。
受け取ってしまった。受け取ったからには、責任をもって預からないと。
このベリーは単なるお守りではない。先住民たちからトーテムベリーと呼ばれ、尊ばれてきたベリーの大結晶を削ったもの。スピリットベアの欠片は、聖熊ベネディグトが自ら削ったものだとされている。
私の故郷でもあるトワイライトの森の奥地にあるというフロッグプリンセスというトーテムベリーが元になっていて、聖熊ベネディグトが削ったことでスピリットベアと名前を変えた。その欠片を継承していったのが聖熊ベネディクトと縁のあった人物とその子孫で、バーナードの祖父もまたその一人だったという。
この逸話だけでも分かる通り、生半可な気持ちで貸し借りしていいものではない。それだけじゃない。たとえ、このベリーに歴史的な価値がなかったとしても、バーナードにとっては絵本作家としてだけでなく、生き様そのものに影響を与えてきたほどの大切なお守りであるのだ。そんな大事なものを失くしてしまうようなことがあってはならない。
それほどのものを彼は私に託してくれたのだ。それを受け取った以上、私には責任がある。彼の代理として、生粋のグリズリーだというバーナードの従兄弟叔父のもとへ行き、他のグリズリー達の事情を聴かねばならない。
だが、そんな私の志を挫こうとしきりに茶々を入れてくる者がいた。
私の弟である。
「明日の朝一番に返却……な、それがいい!」
さっきからずっとそんな事を言っている。
「だってさ、やばいでしょ。トーテムベリーだよ? スピリットベアの欠片だよ? そんなやばいもん持ち歩いてさ、強盗にでもあったらどうすんだよ。犯罪に巻き込まれなくたってさ、そそっかしいラズのことだ。落としでもしたらって思うと、双子のお兄ちゃんは心配でならないったらないって」
「それは大丈夫。鼻自慢のボクがついているから」
そう言ってブルーが尻尾を振るも、クランは全く納得がいっていないようだった。
「落とさなかったとしてもだよ、グリズリー達がピリピリしている現場に突入だなんて、迷惑行為にもほどがあるって。なんだっけ? バーナードさんの親戚って……えっと、シーザーだっけ?」
「アーサーよ。通称らしいのだけれど」
先住民の伝統を忠実に守っている人々にもたまにあることだが、本名を隠して通称で呼ばれる文化はグリズリーにもあるらしい。バーナードはクマ族として育っているから真の名前というものはないらしいが、生粋のグリズリーであるバーナードの親戚にはそれがあるらしく、しばしば会う事のあるバーナードすら知らないらしい。そのため、彼の事はアーサーと呼ぶといいのだとか。
「あのバーナードさんの親戚よ。グリズリーと言っても、きっと温厚なんでしょう」
「そいつは分かんねーぞ。血ってやつは信用ならないからね。俺たちだって双子って思われないこと多いじゃん」
「パッと目につく見た目が違うものね。でも、中身はそうでもないでしょう。私もクランも負けず劣らずのベリーバカなんだから」
「ふん。ベリーバカはともかくさ、そのアーサーってグリズリーが仮にバーナードさんみたいな温厚なやつだったとしてもだ。他のグリズリーは違うだろう? 彼奴らがうようよしているような森に入るなんてさ」
「あら、お言葉だけど、クラン。私はあなたの知らないところでグリズリーの住処を何度も踏み荒らしてきたのよ」
「な、なんだって!」
澄まし顔で私はベリー銃の手入れを始めた。いざとなった際に身を守れるのはこれしかない。しかし、ベリーの恩恵にあやかれる分だけ、他国のような殺伐としたものでもない。私がもっぱら使用するのは、命までは奪わない濃度のポイズンベリー弾や、睡眠効果のあるサンドマンベリー弾くらいのものだ。
グリズリー相手を想定するなら、ポイズンベリー弾が中心となるだろう。これまでだって、ベリーが私の命を守ってくれた。その上で強調したいことは、グリズリーなんかよりも笑顔を絶やさない裏でとんでもないことを企む二足歩行の悪人の方が怖いということだ。
だから、クランがどんなにぎゃあぎゃあ喚こうが、私の意思は変わらなかった。
「ああ、この野郎。だから俺は反対だったんだ。妹が公認ベリー売りだなんて」
「女のベリー売りなんていくらでもいるでしょう?」
「そうだけど! 大抵の女ベリー売りはもっと男勝りだし、舐められない風貌だろう? それに比べてラズと来たらヒョロヒョロで見るからに雑魚って感じで──」
言いたいだけ言わせておこう。あからさまな挑発に乗らないのが大人というもの。数分だけ先に生まれた姉としての心の余裕であり、優しさである。末っ子というものは我儘なものなのだ。クランもそうなのだろう。
「おい、なんとか言えよ!」
無視されたと気づいたクランが赤狐のように吠える。そんな彼に向かって、私はにこりと笑いかけた。
「おやすみ、クランお兄ちゃん。明日は一人でお店頑張ってね」
「バカ!」
その後、思いつく限りの罵倒を浴びながら、私は明日の支度を済ませて就寝した。正直、言い返したくなる瞬間は山ほどあったのだが、今は心を無にしておくしかあるまい。クランの方も何を言っても意味がないと悟ったのか、やがて大きなため息を吐いて眠りについてしまった。部屋の明かりが真っ暗になってからしばらくして、遠く離れたベッドから彼の声だけが聞こえてきた。
「気を付けんだぞ」
ぶっきらぼうなその声に、私は苦笑いしながら答えた。
「ありがとう」
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