第2話 そのに 走る理由

 あの日は五月だった。

 高校に入学してからずっと、俺は毎朝走っていた。

 そして、彼女も同じ時間に走っていた。


 いつも追い越すばかりで、それが誰かなんて気づかなかったけれど、体育の時間に走っている沢口を見れば、そのフォームですぐにわかった。

 

 ただただ走りたいから走る。楽しいから走る。

 走るのが気持ち良くて仕方ないから、思い切り走っているだけ。

 走ることが好きだって叫ぶような、元気良い走りだった。


 それなのに陸上部でもなんでもない、文化部に入部していると聞いて驚いた。

 文化部の彼女が必死で毎朝走っているのが不思議で、早朝ランニングで待ち伏せた。

 ちょうど、俺自身がモヤモヤと迷っている時だったから、どうしても話してみたかったのだ。


 ランニング・コースが終わる、坂を下りきったところにある自動販売機で待っていた。

 いつも追い抜くばかりで声をかけることはなかったのに、待ち伏せに驚いた顔すらしなかったから、走っているのが俺だと彼女も気付いていたのだろう。


「あのさ、沢口さん。少し話したいけど、いい?」

 スポーツドリンクを「やる」と差し出せば、沢口は「ありがと」と素直に受け取った。

「いいよ、日曜だし。今日のご飯当番は私じゃないから」


「ご飯当番?」

 なんだそれ? と想定外の返事に面食らってしまった。

「今、いとこのお姉ちゃんと一緒に住んでるのよ、実家が遠いから居候」


 へぇ、と相槌を打ったけれど何をどう言えばよいかわからなくて、酷くそっけなく興味がない感じになってしまった。

 俺って本当に駄目だな、なんて思いながら先に立って少し歩くと、小さな児童公園があった。

 ベンチもあったけどなんとなく違う気がして、ブランコに座って二人してゆらゆら揺れる。


 ここで、俺は困ってしまった。

 どちらかといえば口下手だし女子とさほど話したこともなかったし、沢口に何を訊きたいのかいまいち自分の気持ちがはっきりしない。

 気ばかり焦ってしまい、スポーツドリンクを飲んで無言の理由をごまかしていたら、沢口は俺の焦ってる様子なんかどうでも良さそうに笑って、当然の顔で尋ねてきた。


「で、話って?」

「ん。大したことじゃないけど、陸上部でもないのに毎朝走ってるから、なんでかなと」


 とりあえず、言葉に出来る範囲で声にしてみる。

 尋ねながらも実はそれが間違っている気がして、俺が訊きたいことって本当は何だろう? と胸がつまる感じが苦しかった。

 酷く沈んだ声になったけれど、沢口は子犬みたいな可愛い顔をキョトンとさせた。


「え? そんなこと? 同じクラスだから学校で聞けばいいのに」

「いや、他人の事情なんて、何が隠れているかわからないだろ? 他人に知られたくない理由があったら、教室は困ると思って」

「え? そんな理由で? ビックリするぐらい優しいね。相川君、意外と気にしぃなんだ」


 ちゃかしてケラケラ笑うから、俺は真っ赤になって「うっせぇ」と横を向いた。

 大きな目がキラキラ輝いてひどく眩しいから、彼女の顔を真っすぐ見られない。


「あたし、青空の下で思いっきり、トランペットを吹くのが夢なの」


「は? トランペット?」

「そ、トランペット。教室でもホールでもなく、青空の下で、思いっきり。そのために、吹奏楽部のある高校選んだの」


 軽やかなその声は俺の想像を超えていて、思わず首をかしげてしまった。

 理解が追い付けない俺を置いてけぼりにして、応援団として野外球場に出向く吹奏楽部がある学校を探して、わざわざ受験したと沢口は笑う。


「青空とトランペットって、ものすごく似合っていると思ったんだ」


 言葉に出来ないその感覚はうまく言えないけど、とにかく「球場でトランペットを吹きならすと気分爽快になりそうだから」と元気良く語るので、俺はどう突っ込んでいいのかわからなかった。


「なんだ、それ? 将来、音楽家になるのか?」

「まさか。本当にただ気持ちよさそうだから」


 吹奏楽の大会に出場する学校を選んだのも意図してで、マーチングのある鼓笛隊は「青空の下で」という夢とは方向性がちょっと違うそうだ。

 俺にはよくわからないが、沢口には沢口なりの信念があるらしい。


「トランペットって、肺活量が必要なの。だから走る。で、相川君は? なんで走ってるの?」


 気楽な感じでふわふわと尋ねられたのに、俺はヒュッと息を飲んでいた。

 質問の返しがくるのは予想していたけれど、想像よりもその問いは胸に刺さってしまう。


「俺はたぶん、怖いから、だと思う。部活、まだどこにも入ってないし」


 自分が思うよりも震えた声に、沢口は「怖い?」とキョトンとしている。

 声が一瞬出なくなって、何をどう説明すればいいかわからないから言葉に迷っているうちに、手の中で空のペットボトルがベキッと音を立ててつぶれてしまった。


 去年の今頃、俺は事故にあって足を痛めた。

 そのまま長期治療に専念することになり、せっかく手に入れた野球部のレギュラーの座も失った。

 治った頃には冬になっていて、中三だったから部活もとっくに終わっていて、俺は名前だけの野球部員にしかなれなかった。

 思い通りに身体を動かせるようになった時には卒業するしかなくて、何もかも遅いという、あのポカンとした空っぽの感覚は忘れることができない。

 仕方ないとわかっていたけれど、頑張って頑張ってやっとつかんだレギュラーの席を他人に譲るしかなかったことは、俺の中では大きな傷になっていた。


「あたし、勝手な事しか言えないけど、相川君は野球に向いてると思うよ」


 沢口の明るい声に、ビクリ、と肩が震えたのは仕方ないと思う。

 中三の事故にあった時。

 あの頃の俺は夢が叶った絶頂期だったから、あれから何をやっても「一番いい時に不運が訪れる」気がして、不安で仕方なくなる。

 野球に関係ないことでも、上手くいきそうな気配を感じるだけで、怖くなるのだ。


 その怖さを振り切るために、バカみたいに毎朝走っているのかもしれないと今更のように気付いて、気が滅入った。

 なんて臆病なんだろう、と自分を情けなくも思う。


 俺が黙りこんでしまっても、勢いに乗った沢口はちっとも気を遣わなかった。

「なんで落ち込むの?」なんて不思議そうに首をかしげている。


「あのさ。勝手なこと言うけど、今からでも野球しなよ。相川君は陸上向きじゃないもん」

「おまえ、何、言ってんだよ」

「だからさ。勝手な事を言ってる。相川君って毎朝、楽しそうに走ってるけどね。それだけじゃもの足りないって走り方だから、やりたいことやっちゃえばいいと思うよ」


 俺は、楽しそうになんて走ってない。と思う。多分、だけど。

 だけど、沢口から見ると「俺は楽しそうに走っていた」と知ってしまうと、変に動揺してしまった。

 ただ、陸上向きではないという評価には、心の中で大きくうなずいてしまう。

 それでも、だ。


「一年だぞ。野球できなくなって、一年だ」

「だから、何? できなかった時間って、今に関係あるの? 高校生活は三年間もあるのに? 受験だ卒業だって考えていたら、今から野球を始めたって、できるのは実質二年だよ?」


「わかったようなこと、言うなよ」

 睨みつけたら、睨み返された。沢口は見た目よりもはるかに気が強いらしい。

「わかってなんかないよ。勝手なこと言ってるだけ。どうせ、高校生活なんて長い人生のたった三年間。泣いても笑っても期間限定。それっぽっちの時間なんて、あっという間だよ。やってもやらなくても、同じ時間を消費するんだから、やれることは、やっちゃえばいいんだよ」


 うるせぇ、とはじく気でいたけど、沢口は真顔で俺を見ていた。

 真剣な大きな瞳をキラキラ輝かせながら、正面から「野球、他のなによりも好きなくせに」なんて断言されると嘘もつけなくなるし、その圧に負けてうなずいてしまった。

 可愛い顔をしてるくせに醸し出す圧が真っすぐすぎて、意地を張れない。

 決まりが悪い顔をしているだろう俺に、良し、と笑って沢口は立ち上がった。


「じゃぁさ、競争しようよ」

「競争?」

「そ。私が吹奏楽部でトランペットのソロの座を勝ち取るのと、相川君が野球部のレギュラーになるのと、どっちが早いか競争するの。ほら、ライバルがいればヤル気出るでしょ?」


 勝手に決めて勝手にやる気を出した沢口に、俺は小さく「ライバル……」とつぶやきながら、ブフッとふき出してしまった。


「なんだそれ、訳が分からない」


 だけど、悪くないと思ってしまった。

 悪くないと心の底から思ったので、翌日、俺は野球部に入部届を出したのだった。

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