第九話 堕ち往く我らがバスティオン(2)

 なんとか橋を抜け、群れから離れた私は、川沿いをひたすら歩いてカガミ達がいないかと探した。

 私がカガミ達と別れてから七時間近く経っている。

 その間、群れの咆哮は七回。街の芯まで響き渡るその音が、待機していたはずの彼女達に聞こえていないわけがない。

 危険を感じたら遠くに行くように、そういう手筈だった。

 あれを聞いて、危険と思わないはずがない。

 あと少し、もう少し歩いて、いなければ引き返そう。それからタンノと合流し、アズサ捜索に繰り出す。

 それは回り回って、カガミ達のためにもなる。

 

 もうそろそろいいだろう。むしろいない方が、どこかに逃げてくれたと思えて良い、はずだった。

 遠くで、誰かが立って、……手を降っている。その後ろには、見慣れた黒い車。

 お互いの顔が認識できる距離にまで近づいたところで――、

「マチコ!!」

 カガミの大声に我に返ると、私はバッグを持っていない方の片手で慌てて「しーっ」と人差し指を唇に当てた。

 それを見て、両手で口を押さえるカガミ。

 シルビアとルカまで、外に出てきてしまった。危ないんだから。

「おかえりマチちゃん」

「ただいまカガミ、って言ってもすぐに戻るけど」

 カガミは若干涙目だし、ルカには抱きつかれているし、シルビアは尻尾を振っている。

 これは、……死んだと思われてたな。

 

 

 私は、戸棚原の状況とあの群れの動きについて、その全てをカガミ達に話した。ルカにもタンノの事は包み隠さず伝えた。

 ルカはタンノやイルマ氏が健在な事にほっとしたようだったが、すぐに真剣な表情で私の話に聞き入っていた。

「似てる」

 それが、カガミの感想だった。そして、それはその通りだった。

 安全圏の周りを服用者で囲い、カウントダウンをしながら選択権を与えるこの状況は、アズサの母親が決行したあの襲撃を思い起こさせる。

 アズサはあの屋上で起きた事を直接見ていたわけではないから、状況が似通ったのは偶然かもしれない。

 だがここで、彼女に再会したあの時、背後で囁かれた言葉を思い出した。

 

『ずっと、ずっといたよ。屋上の、ドアの裏。ずっと、全部聞いてた』

 

 あれはルカの独白に対してだけだと思っていたが、実は違ったのだ。

 私達がエトウ拠点長のカウントダウンが始まり、屋上から逃げ出すその直前まで、アズサはあのドアの裏にいたのかもしれない。

 ドアノブを捻る事さえ困難なはずの服用者に変貌した彼女は、何故か廊下にいたのだから。


 だが、それが分かったところでなんの意味もない。

 ただアズサの行動に、勝手に理由付けをして、彼女が冷静である事の証明としたいだけだ。

 彼女が正気を失っていたら、交渉も何もないから、私は信じたいのだった。


「だから、まずはアズサを探さなきゃいけない」

「謎の甘い香りを追う、って言ってもいるかどうかも分からないんでしょ」

「そうだけど、やるしかないよ。それに常用者は襲われないだろうから、カガミの思ってるよりずっと私は安全だよ」

 だが、街は違う。

「匂いなら、シルビアを連れて行ったらいいんじゃないでしょうか」

 ルカの提案は、即採用して然るべきだが、それはできない。

「駄目。アズサや街の事もそうだけど、そもそも二人がこれからもやっていけるように、そのためにも私は動いてる。二人の安全が確保されないんじゃ、私は行く意味を失う」

「じゃあ、私達も付いていくとか」

 カガミが名案のように言うが、

「あの群れ、どうやって通るの」

「車で突っ込む?」

「タンノ達が刺激しないようにしてるの台無しにする気?」

「そうだよねえ」

「とにかくもう行くよ。持ってきたバッグに色々入ってたから、それで食いつなぎながらハルタさんの所にでも向かってて」

「なんかなあ」

 

「薬も向こう数ヶ月分あるし、街が消えても私は死なない。いつかは帰る」

「……服用者に襲われなくても他は危ないでしょ」

「危ないって何が。大丈夫、誤射なんて受けない」

「アズサちゃんだよ」

「……そうならないように頑張る」

「頑張るって、そんな適当な。あんな風に群れに指示出せるんだよ。常用者襲わせるくらいなんて事ないと思うけど」

「……アズサはそんな事しない」

「マチコがアズサちゃん大好きなのは分かるけど、それとこれとは話が別だよ。というか、とっくにしでかしてるよ、アズサちゃん」

「でも行かなきゃ、……会って話さなきゃ始まらない」

「行ってもいいよ、行ってもいいけど、絶対死なないでよ」

「命までは懸けるつもりない。いよいよヤバいってなったら逃げる。その時はタンノもひっ捕まえて連れ出す。格好良く自決なんてさせない。無理矢理でもルカの所に連れて帰る」

「ありがとうございます、真千子さん……。あとできれば入間のおじさんもお願いします……」

「注文が多いね」

「今の内に言っとかないと、と思いまして」

「他に何かあれば言って、なければ……もう出る」

「うん、いってらっしゃい。マチちゃん」

「……いってきます。ルカ……、何してるの」

「いえ、お気になさらず。目は瞑っているので。あと念のため、耳も塞いでます」

「いいよ、別にそんな事しなくて」

「え、もう終わりました?」

「そうじゃなくて……、まあいいや。本当に行くからね」



 現在時刻は午後一時を過ぎ、残りは十六時間。十六回の行進で群れは街に到達する。

「これからどうやって探す気?」

「坂崎さんに教えてもらった江藤梓の特徴を捜索隊に周知しました。あとは匂いを追うしかありません」

「それで、その匂いがする場所は見つかったの?」

「いえ、まだです。やはり群れの周辺からだけのようです」

「……それにしても、酷いな」

 今日何度目かのタンノとの車移動。

 そんな中、窓から見える景色は、

 店には、食料品や日用品を買い込むために殺到した人々によりパニックが起き、警備がそれを収めようと必死になっている。

 病院や薬局に関しては、さらに酷い。怪我人から、存在しないロングタイム2000を求める人々でごった返している。

 繁華街に比べれば、住宅地は静かなものだが、それでもやがて混乱は訪れる。

 イルマ氏の報告にあった略奪や強盗の類は見受けられないが、それもいずれ珍しくなくなる。店を問答無用で荒らし、隣人から物品を奪う連中は必ず発生する。

 そこに服用者がなだれ込めば、それはもう外と変わらない。

 戸棚原第四基地は名実ともに崩壊する。

 

「住民は現状をどれくらい理解してるの?」

「服用者によって四面楚歌である事は知られています。なにせあの声がありますから。具体的なタイムリミットは知られていませんが、住民も馬鹿ではありません。あの声が、一時間に一回である事には気付いています。そしてあれがなんらかのカウントダウンである事にも」

「明日の朝五時がリミットって伝えるのはやっぱり悪手?」

「なるべく早めに戒厳令を敷き、建物内への避難をさせる予定です」

「それでなんとかなるの?」

「拠点内になだれ込んだ三十万を超える服用者の処理を終えるまで、全住民が籠城をし続けられれば平和は戻ります」

「そんなの無理でしょ」

「無理ですね。だから一刻も早く江藤梓を見つけなくては」

「私も自分で探すって言っておいてなんだけど、当てはないよ。無作為に探すには拠点内は広過ぎる。外も含めたら国全体?」

「流石に、群れの制御のためにもある程度の近場にいると考えていますが保証はできません」

「なら私は拠点内を走り回る? だったらこんな車に乗ってる場合じゃないと思うけど」

「いえ、動き回る必要はありません。タイムリミットまで、本部棟で坂崎さんには待機してもらいます」

「え? 探しに行かなくていいの?」

「今も捜索を続けている各部隊には申し訳ありませんが、坂崎さんの言う通り、こちらから見つけるのは難しいと思います。ですので、逆に江藤梓の方から来てもらおうと。だから、もしも彼女が呼び出しに応じた時に、あなたにいてほしいのです」

「呼び出し……、ってどうやって?」

「一時間以内にはその準備が完了します。現状、その一時間も惜しいのですが」

 その一時間、一人で街を駆けずり回った所で到底見つからないだろう。

 であれば、戸棚原とタンノの作戦、お手並み拝見といこう。

 

 

『迷子のお知らせです。江藤梓ちゃん、戸棚原第四基地本部棟でお母様がお待ちです。繰り返します――』


 街に断続的に響き渡るアナウンス。他にも何人かの子供の名前や、その保護者を呼び出す音声が流れている。

 私は本部棟、臨時作戦室で、その結果を待っていた。

「こんな作戦とはね」

「そうです。ちなみに江藤梓以外の名前はダミーです。一人だけを呼び出すのでは不自然ですからね。住民の名簿と照らし合わせて、被らない配慮もしています」

「それに一時間かかったって事?」

「他にも色々と調整もしつつ、……まあ、そんなところです」

「これ聞いてアズサがブチ切れても知らないよ」

「人々を救うのに手段を選んではいられません。彼女が怒っていたら、その時は坂崎さん、宜しくお願いします」

「私もいいって言ったし、その責任は取るよ」

 

 アズサは母親がきっかけとなってこんな事をしでかしたと思われる。そんな彼女を呼び出すのに、母親を利用するのは気が引けるが仕方がない。

 ここまで本人が、その影も形も見せない以上、その感情を逆撫でし恨みを買ってでもやらなければならない事だったと、自分に言い聞かせるしかない。

 もしかしたら、私の顔を見て落ち着いてくれる可能性だってある。全く根拠の無い希望ではあるが、そうであってもらわないと困る。

 

 地上三階程度の高さの窓からでは、街を見渡すには足りない。

 もちろんここから、繁華街を中心とした混乱なんて確認できなかった。

 しかし、この街は、確かに崩壊しかけている。

 そして、大袈裟でもなんでもなく、私の双肩にこの街の命運がかかっていた。



 アナウンス作戦開始から、二時間以上が経過。

 遠くから、しかし確実に近づいている襲撃者達の叫びが聞こえてくる。

 現在時刻は午後五時。群れの最初の一歩からちょうど十二時間。タイムリミットまであと半分。

 試しに私も、アナウンス原稿の読み上げを何度かしてみたが、アズサは私の声に気付いただろうか。

 いずれにせよ、彼女はいまだに現れていない。

 

「まだ、来てませんよね」

「まだだね」

 街で情報収集や捜索隊の指揮にあたっていたタンノが戻ってきて聞いたが、私はさも当然という風に答えた。

 もしもアズサが現れれば、もちろんタンノにも連絡がいく。その連絡がないのだから、目標が来ていない事は百も承知であろうが、それでも聞いてしまうのだろう。

「二時間程度で来るとは思ってませんが、流石に焦りますね……」

「そっちでは見つかってないんでしょ?」

「お恥ずかしながら。その、匂いとかいうのを嗅いだ者も一人もいません」

「街の様子は?」

「最悪ですね。店舗や病院の混乱は言わずもがな、チャンスに賭けて脱出を試みる者まで出始めています。なるべくゲートから離れてほしいのに。それに拠点長の予想通り常用者棟も慌ただしくなってきました。このままでは各種施設どころか、一般の民家が強盗の標的になり始める可能性すらあります」

「そういう事し始めるのは、きっと外で過ごした事ある連中だよ」

「経験則ですか?」

「緊急事態ではなりふり構ってられないんだよ。逮捕程度、死ぬよりマシ。それよりもアズサがここの場所分からないとか、そういうのはあり得ないの?」

「アナウンスには、他の役所や警備を頼るように、という旨も追加しています。来ようと思えば手段は十分にあるはずです」

 放送は、落ち着いて行動するようにといった内容から、犯罪行為への警告、屋内退避の奨励などの合間に、アズサへの呼びかけを挟みながら行われている。

 

「それでも来ないって事は、放送を聞いてないか、そもそも来る気がないか」

「早めに来てほしいものです。徐々に本部前にも住民が集まり始めています。ここに来たってどうにもならないのに……」

「一般人からしたら知ったこっちゃないよ。お偉いには何か秘密の脱出ルートとかそういうのがあるんだ、って本気で思ってるんだ」

「あるならこっちから教えてあげたいくらいですよ……」

「自分が逃げるんじゃないんだ」

「私は人々もそうですが、この街を守りたいんですよ。織辺みたいなのはもう御免です」

「そうだね――、っ――」

 

 私が、もう何度目か、街を見ようと窓に近づいた瞬間、十四回目の咆哮が街を揺るがした。

 

 私は振り返り、タンノと驚いたように顔を見合わせた。

 別に、群れの叫び声に驚いた訳じゃない。気持ちが悪いのには変わらないが、流石に慣れつつある。

「私の体内時計が狂ってるわけじゃないよね……?」

 壁掛け時計が指しているのは『午後五時十分』、前回の咆哮から十分間しか経っていない。

「私の腕時計も同じ時刻です……」

 まさかのここで、唐突に前提が崩れた。

 

 呆然とする私達を我に返したのは、慌てて部屋に飛び込んで来た本部棟職員。

「丹野監察官! 今のは一体……?」

 タンノは改めて襟を正しながら、職員に毅然と指示を出した。

「荒田拠点長に緊急会議を打診して下さい。それと放送の頻度を上げて、特に屋内退避を強く命令し、住民を外に出させないようお願いします」

「タンノ……」

「思ったより早く覚悟を決める時が来そうですね……」

 一時間に一度のはずの群れの時報が、その周期を崩した。

 

 更新されたその間隔は、およそ十分間に一度。

 刻限は、明日の午前五時から本日午後七時へ。

 

 十二時間あったはずの猶予が、二時間にまで減っていた。

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