閑話  ファムファタルの羽化

『彼女』には秘密があった。

 

 墓場まで持っていくつもりの、そんな内緒の事柄が。

 墓場まで、とはいったものの、死んだ時、真っ当に埋葬されるとは到底思えないこのご時世。

 

 そもそも死ぬことができるのか、それはいつやってくるのか。

 つまり彼女は、永遠に生きることができるとされた何かに成り果てていた。

 

 そして彼女は、元の形に戻る気などさらさらなかった。

 だから便宜上、今の姿をもってして『彼女』と呼んでいるが、それも実際には未詳である。


 最初の記憶は、足元の土の感触だった。おびただしい血で湿った柔らかいそれの触り心地は今でも鮮明に思い出せる。

 次に思い出すのは音だった。酷く周りが騒がしかったことを覚えている。生物らしきものの怒号と悲鳴、何か重いものが疾駆し衝突する音、頭上で風に揺れる葉がお互いを擦りつけあっていて、それには妙に落ち着いた。

 それから最後。これも音に関してだが嫌な記憶だ。思い出すと落ち込む。

 しかし、その嫌な出来事こそが、彼女の運命を変える転機になったのも事実だった。

 

 高く昇る太陽を隠すように生い茂る葉の群れの向こうから、静かに、だが確かに、翼が風を切る音が聞こえた。

 そして気づけば目の前には、自身より数倍はあるであろう体躯の天敵、そいつが彼女をじっと見つめていた。

 

 彼女は、普段は木々や葉の後ろに隠れて過ごしていたのだが、今はたまたまそこから落ちて土の上を這いつくばっていた。であれば見つかるのも時間の問題だった。

 そいつは素早い動きで、その嘴でもって彼女を何度か突いてから、彼女を咥えた。

 その後、その襲撃者は細かく口を動かしながら、身をくねらせる彼女を少しずつ、器用に折り畳み、手頃な大きさになった頃に呑み込んでしまった。


 通常の食物連鎖であれば、この話はこれで終わり。

 地面を無防備に這う芋虫たる彼女など、たった一羽の雀の手にかかれば、あっという間にその命は啄まれ、そんな捕食者の糧になる。

 

 だが、そうはならなかった。

 この時代、生殺与奪の均衡はとうに崩れ去っていた。

 本来ではあり得ない逆転劇が起こる程度には。


 数分後、芋虫は、つまり彼女は、生還していた。

 捕食者、雀の腹を内側から食い破り、のそのそと這いつくばっていた。

 それから、横たわり絶命したそいつを、今度は彼女の方がじっと見つめていた。


 地上は危険だ。

 いまだにどこからか、何の動物のものとも知れない呻きや叫びが聞こえ続けているし、何かが壊れ、瓦解する音も絶えない。

 やはり上だ。頭上に茂る葉の向こう側、そこにこそ安寧がある。彼女にはそう感じられた。

 だがしかし、こんな融通の利かない、鈍足を具現したような体つきでは、遥か上など到底目指せない。


 ふと、目の前の天敵だったものを羨んだ。

 もしも、自分がこいつのように飛べたならば、まだ見ぬ新天地へと飛び出せるし、自由自在に羽ばたいて、自身を狙う輩共を優雅に舞い避けることができる。

 彼女は、そんな素朴な願いを抱いた。


 そうして恨めしく雀の死体を、特にその力無く投げ出された翼を眺めていると、急に自身の背中に違和感を感じた。

 何かが体の中で、もぞもぞと蠢いているような、胎動している感覚。

 痛みはなかった。むしろ不思議と心地良く、彼女は、その脈動に身を任せた。


 その内に、そんな背中がばっくりと割れ、どうやってその小さな体に収まっていたか分からない程に巨大な一対の翼が躍り出た。

 大きさも形も、目の前で死んでいる雀のものに瓜二つであった。

 割れた背中はさらにその穴を広げ、とうとう芋虫は縦に真っ二つになってしまった。

 その内に、翼の先の本体もまた、外界に姿を現した。

 それはやはり、物理的な理屈を超越して芋虫の体に収納されていた。

 芋虫の皮を脱ぎ捨てて現れたのは、先程殺した雀の精巧な模造であった。

 そして、芋虫から生まれた雀などという不可解なそれには、意識が、自我があった。

 

 これで、翔べる。

 

 彼女は、自身の飛躍、その異様な進化をすんなり受け入れていた。

 

 単なる芋虫だったはずの彼女は、かくして羽化を遂げた。

 蛹の過程を飛ばしたうえで、さらには、蝶ではなく鳥に成った。

 そして最初からそうであったかのように、彼女は自然にその翼を広げ、木々や植物の大群を抜けて大空へと舞い上がった。


 それから彼女は、この世界を見て回った。

 何事にも興味は尽きなかったが、とりわけ他の生き物に関心を示した。

 陸に生きるもの、水に棲むもの、自身と同じように空を駆るもの。

 尾を下げたもの、ヒレを携えたもの、角を延ばしたもの、毛を蓄えたもの。

 初めは遠巻きに観察する程度だったのだが、いよいよ、そんな命あるもの共への興味関心のタガが外れた。

 

 そうして彼女がどうしたのかというと、身を捩らせながら体を小さくちいさくしていき、あっという間に、元の慎ましやかな芋虫に、すっかり姿を変貌させてしまった。

 

 その姿で、今、気のある生き物、今回は野良猫の前まで行くと、さもか弱く、か細く、あどけない芋虫を演じた。迫真であった。


 すると、ぱくりと猫は芋虫を一口に呑み込んでしまった。

 程なくして、猫は地面で暴れ回りながら、やはり絶命した。もちろん彼女が内側からその臓腑を喰い破ったのだ。

 そうして彼女は、またもや背中を割り、またしても意味不明な変態を成し遂げた。

 彼女は、完全に猫の姿へと変身していた。

 

 それからというものの彼女は、多種多様な生命を誑かし、その身を一度捧げては、無防備な内側から喰い殺し、捕食者の姿を模倣していった。

 不思議な事にどの標的も、躊躇いもなく目の前の彼女を平らげていった。

 きっと彼女はそういう特性を備えていたに違いなかったし、彼女もまたその特技を理解し、存分に生かした。

 

 彼女は、この弱肉強食の世界において、妖艶に獲物を誘う魔性の女であった。


 多くの生命を芯から理解し、あらゆる姿を手に入れた彼女だったが、まだ一種、数多く見かけるものの手を付けていない生き物がいた。

 

 箱に棲むもの。すなわち人間である。


 他の生物よりも異様に統率が取れているかと思えば、些細な諍いから崩壊することもあり、あまつさえお互いの息の根を止め合うこともしばしば。

 その行動様式には、単純な生命活動を超えた、衝動や情念が伴っている。

 彼女は、人間とはそういう生き物である、そんな半ば投げ出したような理屈でもって、それらを理解していた。

 だがそんな程度の理解では、彼女の好奇心は収まらなかった。

 

 人間の、彼らの、細やかな機微を知りたい。

 

 彼女は遂に、単なる生命機構のコピーだけではなく、本格的な人間社会への侵入を試みることにした。


 長きに渡る観察の結果、人間に自身の色香は通じないと思われた。

 というより、彼らは他の生物を直に食べることをしない。火を通したり、捌いたりと、必ず何らかの工夫を凝らす。

 そんなことになっても生きている自信はあったものの、試したことはなかった。なので最悪、調理の過程で本当に死にかねない。


「なあ、もう戻ろうぜ」

「もうちょっとだけ。あの家見たら終わりにする」


 若い男女のペアが、一軒家が立ち並ぶ住宅地をうろうろとしながら、人気のない家々を物色して回っている。

 女の手にはバール、男は大きな袋を重そうに抱えており、空き巣の真っ只中といった様子である。

 そんな彼らを頭上の電線に止まりながら、じっと見つめる一羽のカラスがいた。当然彼女である。


「これ重過ぎ、台車持ってくればよかった」

「それくらい持ってよ」


 女はそう言いながら、玄関ドアが開かないと分かると、庭先へと向かい、窓をバールで思い切り叩き割る。

 閑静な住宅地にガラスが砕ける音が響いた。


「……マジで気をつけてくれよ。服用者いたらどうするんだよ」

「その時はあんた守ってよ」

「そうするけどさ……」


 二人組は土足で窓から家に侵入し、降り立ったリビングの様子を伺うと、


「じゃあ中見てくるから、見張ってて」

「はいはい」


 男はバールを受け取り、埃を被ったソファに乱暴に座った。

 一方その頃、割れた窓からしなやかに家屋に侵入するもう一匹の姿があった。猫の姿をした彼女である。

 そろりそろりと全く気づかれずに男の脇を抜け、上階へと向かった女を追う。

 

 女は二階の一室、子供部屋の本棚を物色しており、そこにあった漫画本や小説を袋にばさばさと入れていた。

 猫の彼女は廊下で、静かに、さらなる変身をする。次は極小のノミの姿。

 ぴょんぴょんと跳ねながら、女のいる部屋に侵入。それから女の服に取り付いて、跳ね上がっていく。

 

 その内に、射程距離に入ったそこに、狙いを定めて最後の跳躍。

 彼女は、経口でもって、女の体内に侵入することに成功した。


 ここからが本番である。

 暴れ回られたり、叫ばれたりして、階下の仲間に不審がられては困るから、一瞬で事を終わらせなければならない。

 肉を食んだら、完膚なきまでに、瞬きも許さず殺す。

 

 胃袋のノミは、ネズミの姿に変わっていた。

 女は、不意に腹の中が重くなった感覚によろけ、壁に手をついた。

 それからじわじわと痛みが押し寄せ始める。


「――はっ、ふーっ、……ふーっ――!」


 今まで感じたことがない、一切前例のない痛みにうずくまり、呼吸が荒れる。

 そうしてその時は、やってきた。

 体内のネズミが、その爪と歯で持って臓物を喰い破った。


「――っあ……!!」

 

 癖痛に叫び声を上げ始めるすんでのところで、なんと、女の上半身が弾け飛んだ。

 臓腑と血液を部屋中にばら撒きながら、腰から下が取り残され、両腕が壁にぶつかり、支えを失った生首がごろりと床に落ちた。

 血溜まりの中、艷やかな毛並みの子熊がのそりと起き上がった。

 人間の体に収まらない体躯へと一瞬で変身した彼女は、女を計画通り瞬殺した。


「おい、どうした? 大丈夫かー?」


 階下から男の呼び声がした。物音を立てないという試みの方は失敗したらしい。

 急がなくては。男の声が少しずつ近づいてきている。

 

「なあ、返事しろよ。おい」

 

 明らかに不審な状況に、バールを構えつつ階段を上がる男。そうして上がりきったが、廊下には誰もいない。

 ゆっくりと、少しだけドアの開かれた一番奥の部屋へと向かう。

 男はもう呼びかけるのをやめていた。この先に待つのがただならぬ何かだと予感していた。

 体をドアの横の壁に寄せ、腕だけを伸ばして、問題の部屋のドアノブに手をかけようとした瞬間、部屋から何者かが出てきて、ぴしゃりと後ろ手でドアを閉めた。


「……おい、どうしたんだよ……」

「はあ、はあ……」


 現れたのは、男の仲間、彼女が殺したはずの女だった。

 息を切らし、何かを訴えようとしている様子だが声が出ないらしい。


「なんというか、その……、なんなの、その格好」

「……?」


 男が戸惑うのも無理はなかった。聞こえた不審な物音も、口を利かない女の様子も、男には些末なことに思えた。

 女は一糸纏わない姿で、そこに現れたのだった。

 

 男はバールを落とすと、女に近づき、その頬を撫でた。

 女は状況への理解が追いついていないようで、きょとんとしたまま。

 今度は、男の息が荒くなってきている。頬を紅潮させ、少しづつ距離を詰めてくる。

 対して、女は着実に冷静になっており、この状況に些か戸惑いつつも適応し始めている。


 カラスにして猫にしてノミにしてネズミにして子熊だった彼女は、女の肉を食ったわけだが、それだけではなかった。

 女の身体に染み付いていた情報、習性、感情までも我がものとしていた。野生動物の捕食では得られなかった破格の進化だった。


 ――獲った。


 恍惚とした男の顔を見て、女の姿の彼女は確信した。

 魔性が、色香が、発動している。

 このまま身を委ねれば、完全に男を籠絡し、喰える。


 だが彼女は、男が一歩近づくと、一歩後ろに下がった。

 男が顔を近づけてくると、それにあわせて身を引いた。

 そうして壁際に追い詰められて、遂に男が、自身の身体に手をかけようとしたその瞬間、彼女は男を思い切り突き飛ばしていた。

 何故そんなことをしてしまったのか。

 喰った女の感情が、そうしろと警鐘を鳴らしたのだと感じた。

 何より、目の前の男の眼差し、身のこなし、一挙手一投足、その全てが気持ち悪くて仕方がなかった。

 

 背中から倒れた男は、


「くそっ――」


 そんな悪態をつきながら立ち上がると、思い切り、彼女の顔を引っ叩いた。

 それから男は、片手で頬を押さえながら床に座り込んだ彼女を押し倒し、上に跨ると、今度は拳でその顔を殴りつけた。

 何度も何度も何度も。彼女が抵抗をやめるまで、何度もそうした。


 その間、必死に両腕で頭や顔をかばっていた彼女は、どうして男がそんな事をするのか、全く理解ができなかった。

 食いたいならば食えばいい。これまでだってそうされた。その後に喰い返した。

 

 彼女はそれなりに人間を観察してきたつもりだった。

 徒党を組み、社会生活を営み、曲がりなりにも秩序を重んじる彼らの姿を見てきたはずだった。

 この二人組だって、こんなことになる予兆は一切なかった。

 

 そのはずなのに、今振るわれている暴力は、これまで見てきたどの獣よりも質が悪い。

 人間という生物を知ったつもりになっていた。

 

 彼女は、目算したはずの倫理、その埒外にいた。


 先程までの暴力の必然性も、罵倒するその口汚さの必要性も、最終的にこれをするのに、ここまでのそれの意味も意図も。

 何もかもが腑に落ちなかった。

 

 ただ一つだけ確実なことがあった。彼女は、この男が堪らなく嫌だった。

 きっと生きていて同じことをされたなら、糧になった女もそう感じただろう。

 

「ねえ」


 事が終わり、立ち上がっていた男は、声をかけてきた彼女を見下ろした。

 彼女は壁に手を付きながら、よろよろと立ち上がり、言い放った。


「あなた、嫌い」

「は……?」


 女の突然の反抗に苛立った男は、またも右手を挙げたが、それが振り下ろされることはなかった。


「――は?」


 男の腕は、肘から先が切断されており、血しぶきを上げていた。

 男が呆気に取られながら、無くなった腕を探すと、床にそれは落ちていた。

 それから、女を見やると、女の背中側から何かが生えていた。


 巨大な鎌が一本。それも有機的。蟷螂のそれだった。

 しかしサイズが、目の前の女の身長に近いほどである。


 男は何をされたのか、どれほどの痛みが右腕に走っているのか、ようやく理解した。

 悲鳴を上げながら、男は廊下に倒れ、そのまま這ってこの場を逃げ出そうとした。

 それを立ったまま見届ける彼女。

 

 もうすぐ階段に手がかかる、そんなギリギリのところで、男は突然引きずられ、引っ張られるように女の足元に戻された。

 男の足には、蛸の触手、これまた規格外のサイズのそれが絡みついていた。


 男は恐怖した。

 目の前の脅威に、そしてそんなものに手を出してしまった自身の愚かさに。


「――ご、ごめんなさ、た、たすけ――」


 男は涙ながらに懇願した。

 それを見て彼女は身震いし、間もなく理解した。


「これが、あなたの暴力の意味か――。これは確かに、ちょっと気分が良い――」


 我慢できずに笑みが溢れてしまっていた。

 この刹那、確かに彼女は人間に成った。

 

 

『彼女』には秘密がある。

 墓場まで持っていくつもりの、そんな内緒の事柄が。

 

 それはあらゆる生物を喰い殺したこと。そんな彼らの姿に成り変われること。そしてその中には人間も含まれていること。

 ただ、本当に隠したい一つに比べれば、それらのことは些末な秘密に過ぎない。

 

 何よりも彼女は、元の形に戻る気などさらさらなかった。

 本来の姿が、あんなちっぽけな芋虫だっただなんて、格好悪いと思っていた。

 いやはやしかし、自分の見てくれを気にするだなんて、おおよそ人間のようだ。


 彼女には、今日に至る旅路の最中、大小様々、聞くに壮大な悲喜こもごもがあったはずである。

 だが、やはりというか、それらも、現状のささやかな暮らしに満足している彼女には、ほんの些細なことであった。

 

 極めて清潔かつ柔らかな毛布の上で、血の匂いにも死の気配からも距離をおいて微睡む彼女。

 そして今は、そんな彼女を呼ぶものがいる。

 

「おいで、シルビア」


 彼女は便宜上、今の姿をもってしてそう呼ばれているが、その実態は未詳である。

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