第3話
「あ」、と女は言った。僕は振り返った。
ガラスを割ったようなその声は、僕の耳にいつまでも残った。音として、というよりは、物質がいつまでも留まるように。「どうしたの」、と僕は訊いた。
「どうしたもこうしたもないわ。……あなた、知っていて、なお黙っていたんでしょう」
「何が?」
「すっとぼける気? 美香たちのことに決まっているじゃない」
「美香?」
「うん……。美香、健吾と付き合ってンでしょ? わたしが健吾のこと、いいなって思ってるの、知っておいてさァ。ねえ、なんで止めないの?」
僕はちょっと考えた。3か月前、捲るのをやめたカレンダーのかかった壁を背にして、椅子に座りながら、プリプリと怒る女――純夏を見ながら。真夜中の、情事の残滓が未だ漂う彼女の部屋で、彼女は僕に怒っているのだ。もっとも、その怒りは、僕にとって理不尽なモノに感じられる。当てこすりもいいところだ。そもそも僕は、美香たちのことなんて、全く、塵一つも知りはしなかった。
「僕はあいつらのことなんて、これぽちも知らないよ。知らないことを、どうやって教えるんだ?」
「ふん、別にいいけどさ」、と純夏は唇をトガらせた。
「でも、どうしていきなり? 美香から連絡でもきたの?」
「違うわよ。……投稿してたの、あの子。なんかさァ、イヤみったらしいと思わない?」
僕は、美香と健吾が腕組みでもしているようなツーショットを思い浮かべてみた。自分のことでもないのに、なんだか背中を蜘蛛が這いずり回るようだ。美香も健吾も、いわゆる恋人らしい所作が、ゼツボウ的に似合わないのだ。でも、これから拍が付いていくのかもしれない。
と、その時、外で車の通り過ぎる音がした。薄い青のカーテンが淡く明滅した。あたりがシンとし、純夏が憂鬱そうに笑った。
「でも、まあいずれ別れるよ」
僕は寛大な態度で笑って見せる。心の中は、めっぽう乾いて、つまらないのに。しかし、彼女は不満そうにし、
「いずれ、じゃあダメなの」、と吐き捨てる。「すぐ、それも確実じゃなきゃ。……ねえ、わたしたちで、二人を別れさせようよ」
僕は笑みに、苦みのスパイスをちょっとかける。
「ヤだよ」
とは言いつつも、僕は既に、健吾の前で美香の悪口を言う自分を、容易く想像出来ている。そして、裏にいる純夏の影を察知した二人は、微かな憐憫と共に、僕を軽蔑するだろう。そうやって僕は、色々なモノを失い続けるのだ。これまでみたいに。
「名案なのにな」
不貞腐れた彼女を尻目に、僕は枕元のスマホを取った。その時、ベッドの縁に立てていたペットボトルに、肘が当たり、カタンと音を立てながら床に落ちた。僕はいよいよ自己嫌悪に陥りかけ、それを拾うと、遠くのゴミ箱に向かってブン投げた。ゴミが空を切る音に、純夏が驚いて、僕を見た。「何イラついてンの?」、と彼女はニヤニヤしながら言った。
「別に」、と僕は言葉をも投げ捨てた。しかし、純夏は表情を崩さずに、
「嫉妬? 嫉妬してンでしょ。あはは、子供だねえ」、と言った。
「音に敏感なんだよ、僕は。物が落ちる音は、特に嫌でさ、それでイラっとしたんだ」
すると純夏は興味を失ったように、「あ、そう」、と言った。
純夏は椅子をクルりと回し、カレンダーの方を向いた。そして、机の上の煙草を取り、吸い出した。立ち上る煙をボンヤリと見つめながら、あれは僕みたいだと漠然と感じた。
煙はゆらゆらとし、バカな女が踊っているようにも見える。無思想な立ち上り方、そっと消え入るくだらなさ。僕は暗い部屋の中で眩しいスマホの光を、そっと彼女にかざした。かすかな光を受けた、彼女の丸みを帯びた背中は、白の中に濁った色が混じっていた。あまり美しいとは言えない。しかし、そこにむしろ美しさを見る、アンビバレントな感情があることを、僕は知っていた。だから、僕は煙のようにバカなのだ。
僕と純夏とは、高校時代からの友人だった。もっとも、昔から友達だったわけじゃない。卒業後、ちょっとしたことで再開し、いらいこの微妙な関係を続けているのだ。
それに今だって、とくべつ僕と相性が良いというのではない。いちいち意見は食い違うし、性交渉も空振りの時が多かった。肝心の行為もどこか不満足で、終わったあとも、特に話すことがない。仕方なしに話すときは、大抵お互いの知り得なかった、高校時代の話だ。つまり、過去を切り崩して、初めて話題が浮上する、僕らはそんなカリソメの関係なわけだ。途の先に終わりが見えているから、僕はヘンに焦りを感じているのだろうか……。
(どうして僕は、こんな女を)
僕は冷蔵庫の方を見やり、そこに散りばめられたマグネットを眺めた。テントウムシの見た目をした手作りのモノで、純夏が作ってよこしたのだった。僕はそれを、「わア、ありがとう」、なんて言って受け取ったが、それが余った失敗作なのは、自明のことだ。歪んだテントウムシは、どこか靴でつぶされたような感じで、僕は注意しなければ、これに自分を投影しそうになる。煙のつぎは、テントウムシ、僕はどうしてこうなのか……。
暑い夜だった。僕はいつまでも上半身裸で、ベッドに腰を掛けていた。一方、純夏はまったくの裸で、尻の窪みに、汗が少し浮いているのが見える。ジメジメとして不快な暑さは、彼女の心に余計に薪をくべているに違いない。
「こっちこいよ。もう寝たほうがいいよ」
しかし彼女はその言葉を無視し、
「暑いなア」、と呟くだけだった。項垂れて、クタっとなった彼女は、そのヘンな姿勢で、スマホを触り出した。まるで、愚痴と、欺瞞の言葉をかけられて育った植物みたいだ。その姿は滑稽なのに、それを嘲笑えない僕は、もっとブザマで滑稽だろう。
僕は諦観の態度で、純夏の背中を眺めていた。そしてやはり思うのだ。(どうして僕は、こんな女を)。自分の愚かさが、汗と一緒に身体に染み入る感じだった。
朝を迎えると、僕らは無言のうちに別れる。まるで待ち望んでいたみたいに。鳥の鳴き声が聞こえ始めると、僕は目をこすりながら服を着始め、純夏はメイクをし出す。そして、特に何のあいさつもしないまま、彼女はドアを開け、アパートの階段を降りる。
彼女と会うと、僕はいつも寝不足のようだ。
僕は自分のベッドに身を投げた。1時間ほど、目をつむってみる。……しかし、自分の服から彼女のにおいがし、一向に眠れる気はしない。僕はなんとなくスマホを開き、返事のないままいつのまにか既読になっている、僕と純夏のやりとりを見た。
『学校間に合った?』
僕はそう送ってみた。するとすぐに、
『ギリギリ』、と返ってくる。
しかし、次に僕が返した後は、おそらくずっと返事などこないだろう。それで僕は、このメッセージをしばらく開かずにいる。こうしている間のみ、僕は不安や嫉妬から逃げることが出来る。いや、目を背けることが出来るだけだろうか。
(返していないのだから、返ってこないのはあたりまえだ)
しかし、それは束の間のコトだ。結局僕は、我慢できずに、返事をしてしまう。待っているのはどうせ、ロクでもない嫉妬の感情ばかりなのに、何かを期待せずにはいられない。そしてやっぱり裏切られ、しかし彼女を嫌うことが出来ないまま、僕は宙を漂い続ける。
こうしてみると、目の前にブラ下がる死に惹かれて、自ら命を絶つ人がいるのは、ちょっと納得のいく話だ。僕らは暗闇の前で立ちすくむことができるが、そうし続けるのは、存外難しいのだ。本当に地面があるかどうかもわからない暗闇の中で、フラフラとしながら立ち続けるのは、ガマン強いとかそういうことじゃない。それは、単に恐れを知らないだけだ。
僕はスマホを開く。既読、それは牢獄に入ることを認める署名だ。
『僕は眠いし、一限諦めようかな笑 このままサボるか迷ってる』
そのように送信し、猶予の時は終わりを見せる。
その瞬間、僕の気分は晴れやかだ。その時点では、僕が勝っている、まだ負けていない。しかし、やっぱりそれも束の間のコトだ。僕は徐々に湧き起こってくる嫉妬に苛まれ、グラグラとした不安定な気持ちに収監される。
ソワソワしながら僕はシャワーを浴びて、服を取り換えた。服に首を通した時、目尻にドっと疲れが押し寄せた。今度こそ眠れるかもしれない、と僕は感じた。起きた時、純夏が返事をくれていたら、それでいいじゃないか、とも。そしたら、僕はつらい時間を過ごさずにすむ。……それが期待のしすぎであることも、僕は暗に感じている。
髪の濡れたまま、ベッドに身体を横たえた。
通知の音が、ブブゥっと鳴り、半ば条件反射的に目覚めた。
確認するとそれは、ソーシャルゲームの通知だった。そんなことだろうと思っていた僕は、起き上がり、くしで少し髪を撫でつけたあと、靴下をはいて、外へ出た。ちょうど、12時半ごろで、あと少しで3限の始まる所だった。1限は諦めたが、3限は出てもいいなと思った。純夏からの返信は無い、既読にもなっていない。
大学は僕の部屋からほど近い。それでも少し遅刻だが、別に構わないだろう。大学の近くのコンビニでコーヒーを買って、それから講義室に向かった。着いた時には、5分ほどの遅刻だった。
講義室の後ろの席に、健吾が座っていた。机の影で、何か分厚い文庫本を読んでいた。「何読んでるの?」、と僕は小声でききながら、横に座った。
「くだらん本だ。こいつはカラマーゾフ病の作家だな」
カラマーゾフ病、というのが僕にはよくわからなかった。
「なんだよ、それ?」
すると健吾は鼻を鳴らしながら笑って、
「3流の作家が『カラマーゾフの兄弟』をやろうとして、失敗することだよ」、と答えた。そして、本を持ち上げ、分厚さを誇示しながら、「ムダに長くて、テーマが散らかっていて、やけに沢山の人が登場する、冗長な小説……カラマーゾフ病だ、これは」、と説明を加えた。
「ふうン、なんだかわかるような、わからないような」
健吾はちょっとヘンクツな文学青年だった。彼の基本方針は、「処女作にこそ高い文学性をみとめ、他は概ねクソである」、というものだ。処女作が最も作者の文学性を如実に表す、というのはわからないでもないが、その他をクソと切り捨てるのは、あまり納得がいかない。むしろ、作品を生み出すごとに、作者は自分のスタイルをつくり、それが純粋な文学性となるのではないか? ……そう言ってみたことがあるが、健吾はやはり鼻を鳴らして、「それはお前の目がヘンなだけだ」、と笑うだけだった。
そういうわけだから、僕は彼の一種独特な文学論を、否定も肯定もしない。ただ、眼前でタユタうだけだった。その結果、僕は彼の中で自分を持たない文学部生だ。それ自体事実ではあるが、他人の中でそう認識されるとなると、意味がちょっと変わってくる。途端に、自分を持っているような気がしてくる。しかし、そう訴えると、「それなら何か提唱してみろよ」、と言われてしまう。健吾は美香も純夏も持っているくせに、そんな部分でも僕は彼に勝つことが出来ない。
居心地の悪い僕は、いま突然思い出したように、「美香と付き合ってるンだって?」、と訊いた。健吾はツンとした表情で小さく、ああ、と言うだけだった。文庫本を閉じると、僕をジッと見た。
「あの女のところにいたんだろう」
健吾は僕を非難するような表情になっていた。
「どうしてわかるんだよ」
「なんとなく、わかるさ。……お前、いつまであんなクダらない女といるんだ?」
「いつまでって」。僕は健吾の意地の悪い物言いにムッとしながら言った。「別に、いつまでだっていいじゃないか。僕とアレの間には何もないし、何もないなら、離れる理由もない」
「でも、ヤッたんだろ」
無題 青豆 @Aomame1Q84
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