骨の人
姉の死体は綺麗だった。睫毛はしっとりと濡れ、血管の浮いたまぶたは青く、胸で組んだ指は精巧なガラス細工のように透き通っていた。棺に花を供えるとき、僕はその唇に口紅を塗った。生前愛用していた真紅は鮮やかで、紅を刷き、油の甘い香りを纏った彼女は目眩がするほど神秘的だった。
大気は痛いくらいに冷え、すっきりと澄んでいた。空は淡い雲に覆われていたが、降り注ぐ日射しは鋭く、わずかな曇りもなく研ぎ澄まされていた。素敵な朝だった。村の隅から隅まで、辛いことや苦しいことなど何もないような、そんな予感で満たされていた。きざしは僕たちの頭上も均等に照らしていた。しかし、誰もがそれに気がつかない振りをし、足元の影ばかり見つめていた。
火葬炉から現れたとき、姉は棺を閉じる前の面影をすっかり失っていた。体は余すところなく骨と灰に置き換えられていた。焦げや煤の匂いはなく、雨に濡れた花壇に似た、柔らかく湿った匂いがした。
両親に続き、僕は姉の骨を拾った。素っ気なく横たわる骨は、チューブから絞り出した絵の具を直接塗りつけたような、そんな乾いた白さだった。肉はひとかけらも残っていなかった。専用の箸は使いづらく、そのうえ骨は思いもよらないところでうねり、折れ曲がり、欠けていたので、一つ拾い上げるのにも時間がかかった。姉の破片は壺の中でからからとぶつかり合った。
台に半分以上の骨を残し、骨上げは終わった。収まりきらなかった分は供養塔に埋葬するのだと職員の女性が言った。僕たちは来たときと同じマイクロバスに揺られ家へと戻った。
…………
ベッドから降りると暖房の残滓もない空気が体を冷やした。カーディガンを羽織り、水を飲むためにキッチンへ向かう。違和感は唾液でいくらか和らいだものの、尖った咳が未だ喉の奥でくすぶっている。
僕は明かりをつけないまま廊下を歩いた。両親の寝室は襖の立て付けが悪く、隙間から射した光は眠りの浅い父を目覚めさせてしまう。階段を下りた正面には仏間がある。障子は開け放され、灯篭の仄かな光がぼんやりと浮かんでいる。
「足りないわ」
ぽつりと、雫が水面を揺らすように、夜闇に波紋が広がった。僕は足を止め仏間を振り返る。細く透明な輪がゆっくりと開いてゆく。儚い起伏が凪ぐよりも早く、大粒の水滴が水面を穿った。
「足りないわ。全然足りない」
声は歌のように透き通り、きんと冴えていた。姉の声だった。それは灯篭の奥、仏壇から聞こえてきた。
僕はカーディガンの前を掻き合わせ、仏間に足を踏み入れた。畳はひんやりと湿り、足の裏に吸いついた。縁側の障子をすり抜けて葉の擦れる音が届いていた。廊下よりも幾分気温が低いように感じ、指先に息を吐きかけた。爪先は既に凍えていた。
僕は仏壇の前に立つと、並ぶ二つの骨壺の内、夜闇に浮かぶ純白を手に取った。
「どうしたの。何が足りないの」
袋の口に唇を寄せて尋ねる。姉は苛立ちもあらわに言った。
「骨よ。決まっているでしょう。舌骨も、恥骨も、足根骨も、全然足りていないわ」
「骨が欲しいの?」
「当たり前よ。骨がなければ、立つことも、歩くこともできないわ」
発音の明瞭さも、語尾の鋭さも、全てが姉のままだった。僕は控えめに相槌を打ち、宥めるように囁きかけた。
「今日はもう遅いから、明日、火葬場で聞いてみるよ。約束する」
「私も行くわ」
姉は間髪入れずに言った。
「あなただけでは不安だもの。連れて行きなさい」
命令は威厳に溢れていた。それは僕に、姉の赤く潤んだ唇や、そこから覗く完璧な歯並び、舌の粒立ちまでをも鮮明に想起させた。
僕は従順に頷き、骨壺を元の場所に戻した。姉はしばらくかたかたと動いていたが、収まりの良い位置を見つけたのか、かすかな擦れる音を最後に沈黙した。
就寝の挨拶に返事はなかった。
…………
2018.8
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