まだ世界のやわらかかった頃
夜の冷気とほのかな花の香りを連れ、かれはかまきりの卵を拾ってきた。
「どうするの、それ」
「飼う」
「僕の家で?」
思わず大きな声が出た。かれはうるさそうに眉を寄せ、かかとをすりあわせ靴を脱いだ。
「おれの家族はみんな虫がきらいなんだ。おまえはひとり暮らしだからかまわないだろう」
たしかに虫はきらいではないが、とくべつ好きでもなかった。それに、きらいでないから飼っても良いというわけでもなかった。なぜかれの気まぐれで拾われてきた卵を僕が世話しなければならないのか、ほんとうにわからなかった。
かれはセンターテーブルの前に腰を下ろし、家に来る途中で購入したらしいむしかごに卵を入れた。卵はざらめのようなうす茶色で、かたちもわたあめに似ていた。卵の端のほうをつらぬく枝の長さはむしかごの対角線とおなじだった。
僕はかれのてもとをながめながら、かれは卵を片手に店に入ったのだろうかとかんがえた。この時間で混んでいるということはないだろうが、客も店員も驚いたにちがいない。その光景を想像し、すこしだけ溜飲が下がった。
「かまきりの卵なんて、小学生のときに教科書で見ていらいだ」
僕が食器を配っても、かれはあぐらの上にむしかごを載せ、理知的なふかいまなざしを向けていた。
「蜂の巣に似ている」
「そうかな」
「むかし刺されたことがあるよ。巣に石を投げたんだ」
僕はテーブルに土鍋を置く。かれがとうふを好むので、僕はよくゆどうふを作る。かれの好物がからあげやハンバーグでなくて良かったと思う。野菜を切ったり煮込んだりするのは好きだが、それ以外の作業はきらいだった。
「くす玉みたいなものかと思って。けれど紐がなかったから、なにかぶつければ割れるとかんがえたんだ」
「よく無事だったね」
「ほんとうに名案だと思ったんだよ」
とうふや野菜を食べながら、僕たちは虫のはなしをした。給食の菜の花サラダに生きたいもむしがはいっていて、あやうく食べそうになったのだというと、かれはそのまま食べてしまえば良かったのにと言った。かれはなんでも口に入れてみるこどもだったそうで、だんごむしやてんとうむしをよく食べていたらしい。
僕は好きな虫がいないかわりににがてな虫もいなかったが、かれはばったがきらいだと言った。
「どこを持てば良いのかわからないし、なにより、あれはとぶから」
「かまきりもそうじゃないか」
「はねるという意味のほうだよ。だからこおろぎもきらいだ」
かれの持ち上げた箸からとうふが崩れ、器に落ちた。かれは交差させて箸を持つ。すこし前まで正しい持ちかたを練習していたがいつのまにか戻っていた。ばつ印で動く箸は未知の生物のようで、僕は今の持ちかたでも良いと思っている。
かまきりとばったなら、僕はかまきりのほうが複雑だった。やはり好きでもきらいでもないが、かまきりはどうしても弟を連想させた。弟はインフルエンザの療養中、マンションから飛び降りて死んだ。それがかれの服用していたタミフルのせいだと聞いたとき、かまきりと結びつけてしまったせいだ。
かまきりははりがねむしの宿主となる。水のなかで生まれたはりがねむしをかげろうやゆすりかのような水棲のいきものが捕食し、羽化し陸へ飛び立ったかれらを捕食することで寄生される。はりがねむしはかまきりをあやつり入水させ、繁殖のために水中へかえる。抜け殻となったかまきりはそのまま溺れるか、魚に食べられるかして死んでしまう。
寄生されたかまきりの、じぶんの意思でないものによってじぶんで命を絶ってしまうところが弟に似ていた。そう気づいてしまったことで、それいらい僕はかまきりで弟を思い出し、弟でかまきりを思い出すようになった。
ときどき、弟のなかにもなにかがひそんでいたのかもしれないとかんがえる。実はタミフルと弟の死はまったく関係がなく、かまきりにとってのはりがねむしであるなにかがかれをあやつり、あるべき場所にかえろうとしたのかもしれない。僕は弟の死ぬ瞬間を見ていない。もしその場にいたならば、やわらかな肉を突き破って現れるなにかを目撃することができたのだろうか。
食事を終え、かれに洗いものを任せテーブルを拭いていると、とびらのむこうからにぶく重い音が響いた。なにが起きたのか想像はついたが、廊下に出て声をかけた。
「どうしたの」
「ふたを割ってしまって」
申し訳ないとはすこしも思っていないような口ぶりだった。かれは簡素なキッチンの前に立ち、からだをななめに引いていた。そのあしもとにはかれのことばどおり、土鍋のふたがまっぷたつになって転がっていた。
季節はずれに安く買い、とくに思い入れもないので残念ということはなかった。しかし本体のほうはまだ使えるので、まるごとあたらしくすることには抵抗があった。ふただけを買うことはできるのだろうか。店で売っていなければメーカーに直接問い合わせるのだろうか。その手間をかけてまで、この土鍋を使わなければならないのだろうか。
シンクで泡に覆われている土鍋の本体を見つめていると、青い血管の浮いた手がその把手をつかんだ。かれはなめらかな動作で土鍋を右肩にかかげ、冷蔵庫のかどに思いきりふり下ろす。太く濁った音を立て、鍋は砕けた。
「これで新しいものを買える」
かれはいつもの調子で言った。僕はその一秒ずつ狂ってゆく時計のような声音に失笑した。
「冷蔵庫が壊れたらどうするんだ」
「いっそぜんぶ新調したらいいじゃないか」
「金がかかりすぎる」
僕たちは土鍋のかけらを拾いあつめ、粒のようにちいさなものは掃除機で吸いとった。それでもまだ不安だったので、濡らした雑巾で廊下ぜんたいを拭いた。この真夜中に、男がふたり這いつくばって掃除をしているのは滑稽で愉快だった。
かけらをつつんだ雑巾をごみ袋に入れる。とうふの包装や野菜のきれはしにまみれ、雑巾はその境界をあいまいにする。そのとき、ひと足さきに部屋へ戻ったかれがひきつった声をあげた。ふりむくと、かれは段差に腰かけ左の足裏をたしかめていた。
「踏んだのか」
「そうらしい」
ふたが割れたときはとびらを閉じていたので本体の破片だろう。背後からのぞきこむと、すべらかなおやゆびの腹にくすんだ白が食いこみ、そのまわりからどんどん血があふれだしていた。
「ピンセットが必要?」
「いや、大丈夫。なにか押さえるものを……」
肩越しにふりむいたかれと目があう。そのままなんどかまばたきをしたあと、かれは左腕を軽く持ち上げ、僕はそのすきまにからだをくぐらせた。左手を床につき、右手をかれの足首に添える。そのいびつな姿勢で、傷口にくちびるを寄せた。
舌がかすかに痛み、それにかまわず破片をえぐりだす。かれの足ぜんたいがびくりと跳ねる。破片がほとんど音もなく床に落ち、僕はそれを視界の端でとらえながら、いまだ流れる血液を吸う。
そういえばむかし、はりがねむしは爪と指のすきまからはいるのだと教えられた。小学生の頃、クラスメイトのひとりが捕まえたカマキリを水溜まりに沈めた。たしかうさぎ小屋の前だった。あらわれたはりがねむしはじぶんのからだをちょうちょ結びにしてしまいそうな激しさでのたうち回り、それを見ていた僕たちに教師が言ったのだ。
しかしそれは嘘で、成虫のはりがねむしはもうなにかに寄生することはない。誤って口にでも入れてしまわないかぎり、かれらが人間の体内にはいることはないのだ。
弟をあやつったなにかもそうなのだろうか、と僕は血を飲みこみながらかんがえる。はりがねむしがかまきりを終宿主とするように、きっと弟にはいりこんでいたなにかも人間を最後の宿主とするのだろう。ほかのいきものに捕食される人間より、そうでない人間のほうが多い。しかし、それがどこから来てどこへかえるのかはわからない。人間はあまりにも多くのものを食べ、多くの場所を訪れる。
それはたとえば、今こうして僕がすする僕でないだれかの血液なのかもしれない。わざわざ食べなどしなくとも、ひととひとの粘膜が、体液が、内臓がふれあうだけで、なにかは移動してゆくのかもしれない。そして、僕がすでにあやつられていない保証もない。
血が止まると、僕はからだをねじってかれを見上げた。傷んだ髪に蛍光灯の光が火花のようにはじけている。はじめて会ったとき、かれはひとつまみずつ色のちがう悪夢のような髪をしていた。それにくらべれば今のほうがはるかに良かった。
かれは僕のくちびるをぬぐいながら尋ねた。
「口を切ったりしていないか」
僕は無言で舌を見せた。かれは喉の奥で笑い、「おそろいだ」と笑った。
五月の初旬、かまきりが孵化した。まだ朝の五時前で、僕はかれに起こされた。かれはあたりまえのように僕の家にいて、アルバイトさきから覚えてきたばかりの煙草を吸っていた。
僕たちはテーブルのまんなかにむしかごを置き、かまきりの幼虫が卵の底を突き破るところを観察した。かれらは脚も触覚もないめだかのようなすがたで生まれ、その全身をつつんでいたうす皮を残しケースの底に落ちる。はじめは一匹、二匹と落ちてくるが、やがてかたまりになって重たそうに垂れ下がる。あわい黄色と相まって、まるで金鎖のようだった。
「ひとつの卵からこんなに生まれるのか」
かれは感心したように言った。
卵から落下したかれらはすでにかまきりのすがたをしていた。半透明のからだに大きな黒いひとみが光り、宝石のようにうつくしかった。かれらは卵の残骸に突き刺さる枝を、あるいはプラスチックの壁をのぼり、むしかごのふたのすきまからつぎからつぎへと這い出した。
「ああ、これはすごいなあ」
かれはめずらしく興奮しているようだった。僕は頬杖をつき、もうかたほうのゆびにかまきりを歩かせていた。
「むしかごの意味がないね」
「熱を出したときの幻覚みたいだ」
「こんなにたくさん生まれても生き残るのはほんの数匹なんだ」
「それなら、その数匹だけ残せば問題ないだろう」
僕たちはかまきりの赤ん坊をていねいにつぶしていった。かまきりはぷちぷちと小気味よくつぶれ、からだとおなじ色の体液をまきちらした。かれは煙草をくわえたままだったので、その先端からこぼれた灰がかれらにふりかかった。
床に逃げ出したかまきりをつぶすため、かれは立ち上がり部屋中を歩いた。そのとき、かれの左のあしゆびに走るうすい飴色の線が目に留まり、もうずっと前に治ったはずの舌の傷が共鳴するように疼いた。
「ねえ、はりがねむしはかまきりをあやつって殺すよね」
「そうだな」
「人間にもそういう存在がいるのかな」
「トキソプラズマのことか?」
「トキソプラズマ?」
「恒温生物を宿主にする寄生虫だよ。たとえば寄生したねずみから猫に対する恐怖心を奪って、ねずみごと猫に食べさせることで猫に寄生する。脳の構造をつくり変えるとかで、人間に寄生した場合、そのひとの性格をゆがめてしまうらしいけれど」
その生態ははりがねむしとよく似ていて、だからこそ不愉快だった。おとぎばなしに現実性を持ちこまれたような、夢を壊された気分になる。かれのそういうところがきらいだった。
かれは踊るようにかまきりを踏んだ。頬にかかる髪はやはり傷み、光の粒がぱちぱちと爆ぜた。僕はそのこまかな星を目で追いながら、かまきりに寄生したはりがねむしは水の反射をたよりに川を探すのだというはなしを思い出した。そのためにかれらは、たとえそこに水がなくとも光をあてられるとそちらに進んでしまう。食物連鎖を利用し賢しげに生き抜いて、最後にそうして騙されてしまうのだと思うと、それはずいぶんとぶざまだった。
やがてカーテンと床のすきまから朝日が射しこんできた。かれは僕の手を引き立ち上がらせ、僕たちはキスをした。あしもとでは何百というかまきりの死骸が金色にかがやいていた。
2020.8
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