最終話 やわらかい花辨
足を引っ張り、男を沼から引き上げる。鉄寺を貪る最中の沼はすんなりと男を離した。背中を少し叩くと、ゲホッと水を吐いて咳き込んだ。入れ替わりの贄に選ばれたのは先に沼に食われてしまった猟師だったのだろう、男はただ少し溺れただけで済んでいた。また運の良いことに、どうやら気絶したのが幸いして大して水を飲まずに済んだらしい。折れた鼻は右に少し曲がっていたが、鼻血は止まっていた。生八が着ていた上着で顔の藻と水を拭ってやれば、存外表面的な顔の傷は浅く綺麗なものだ。生八はそれらのことを観察しながら、男に声をかけた。意識がはっきりしているかどうか確認する目的であり、実際男はしっかりと受け答えができた。
「あんたなんでこんな所に、足怪我してるんだろう?」
「ゲホッ……、バイト代をいつ払えばいいか分からなくて、現場に行けば会えると思って……」
「り、律儀……!」
「二百万、ちゃんと持ってきたんだよ。でも羽織の内ポケットに入れてたから、さっき落としちゃったな……」
「ぶ、不用心……!」
頭を咲かせた鉄寺を沼に引きこんだ金の骨は、しばらく沼の中をその美しい手でかき混ぜていた。手を止めて引き上げ、水面の揺らぎが収まるまで金の骨がジッとしていても、鉄寺は指の一つも浮き上がってこなかった。頚椎がゆっくりと向きを変え、頭蓋骨が生八達の方を向いた。一人ずつ順番に、手当たり次第に食い荒らさないのは品が良い様にも思えるが、飽きるということも覚えていて欲しいと生八は思った。男は息を整え、金の骨をジッと見て呆れた様にこんなことを言った。
「どいつもこいつも、好き勝手に尾鰭をくっ付けやがって。あんまりにも周りがぐちゃぐちゃ言うもんだから、当の本人が自分がなんだったかわかんなくなっちまってるじゃないか」
その言葉の意図を生八が聞き出す前に、さらに異変が起きる。
ボコボコと幾つも沼が湧いた。金の骨の膝下で、盛り上がってはとろけて現れる。全て頭が盃状の怪異である。引き伸ばされた首の皮膚の色のそれは大きく、赤い水を湛えている。
それは首のない人の半身、縦に別れた左半分。断面には絶え間なく赤い水が流れていて、怯えきった女の顔をポコポコ浮かび上がらせては、猫の手がそれを掻き毟って体内に引き摺り込む。
それは妙に足の長い女。水分を含んだ白い肌襦袢が血色の悪い肌に張り付いている。胸部はすっぱり切り取られた羊羹のごときなめらかさで抉れていて、そこにはプロジェクションマッピングの様に誰ぞ見知らぬ男の笑った顔が半分ずつ映っていた。縦半分、左・右それぞれ別人。声もなくケラケラ笑っている。
それは長い長い赤い指の男。長すぎる腕に長すぎる足、それにぴったりあつらえたスーツ、柳の木の様な佇まいのすらりとした体躯。
それは迷彩を着た猟師。肩は鹿だの猪だのの頭蓋骨に噛みつかれて血を流し続けている。ギザギザと鋭い鋸状の歯で肉がちぎれてもお構いなしで、猟師は時々身を捩るがどうにもこうにも逃げられないらしい。
それは白いふわふわの服の形たち。花嫁衣装と花婿衣装の男女の動体部分を雑巾の様に捻って捻って撚り合わせて無理やりくっつけた姿。赤い革張りの聖書を四本の腕で持っている。
それら全ての怪物の皮膚の中には植物の根がうんと細やかに張っていて、赤の藻がそこかしこにこびりついている。生八は理解した。沼に関わって死んだ人間が、その中の悪人が起こした罪が、人々が好き勝手に赤い水溜りに押し付けた怪談が、沼の怪物に癒着している。大喰らいの怪異は全部全部飲み込んで、人間たちの考える恐怖そのものになってしまっている。人が怯える度それにふさわしい恐ろしい怪異に、人が何かを祈る度それを叶える美しい夢を見せる神に。
欲深な人間の全てに応える怪異、それが、赤い水溜りないし赤い沼の正体。
にゃあにゃあにゃあにゃあ聞こえてくる。轟轟と鳴く蝉の声を掻き消すほどの大量の猫の鳴き声が。甘えた角のない丸い柔らかな声が、沼の上で渦巻いている。
「あれが必要とされた最初の理由は間引きの隠れ蓑なんだ。都合の悪くなったひとを沼に捨てる時、沼の神がその人を気に入って連れて行ってしまった、神隠しだってね。
でもここはそんな風に話を作るには怨みが深すぎる場所だった。沼は人を喰って、本当に間引きの神様になってしまったんだ。あれはそれ以来山と街を見張ってた。水たまりみたいな姿をしていろいろなところに留まって。余計だと思ったもの・特に強すぎる野性の動物や弱い個体、残酷な心を持っている人を間引こうとして。
動物よりも人間をよく間引いていてね、そんな人の家や職場とか、その人の影響が濃い場所によく居た。そうして間引いて取り込んで行くうちに、体の中に毒が溜まるみたいに、人間が作った色々な逸話が積み重なっていった。
さっきまでここで暴れてた人たちは生贄をくれるから夢を見せてくれるって思ってたみたいだけど、逆なんだ。悪いものを間引きたいから、沼はそいつらの欲しいものの姿を見せたんだ。見せるだけだから外面ばっかりよくって中身は水や藻のままで、蘇って欲しい人の精神だって当然存在しない。虚しいもんだね」
男は淡々と、目の前のそれがどういったものかを説明し始めた。まるでそれが自分の店先に並んだ品であるかの様に慣れた口調でだ。「なんでそんなことを知っているんだ?」と気味悪がっている様子を隠しきれずに生八が尋ねれば、「骨董品店を経営してるからね。話の幅が広い方が喜ばれるから、昔から色々長いこと勉強してるんだ。君こういう話嫌いなタイプだった?ごめんね、癖なんだ」と至極当然と言わんばかりに返される。
沼の怪異達はこちらにゆっくり迫ってくる。盃状の頭の中に湛えた赤い水をゆらゆら揺らしながら。それは遊びで狩りをする獣に似た余裕と圧倒的な残忍さを感じさせた。
「じゃあ、アンタ、あれをなんとかする方法知らないか⁉︎弱点とか、これをやったら勝てるとか……!なんか……俺たちが助かる方法を知らないか⁉」
生八は他人に縋ることだけはいつだって即座に出来た。それが彼の生き方で、変え難い性根だった。男はそれに対して値段の交渉をしてきた客を宥めつつ返事をする様に、なんてことない様に答えた。
「知ってるよ。でもそれは軽々に言っていいことではないんだ。だから、それは私への依頼と受け取って差し支えないかな。ちょうどここに二百万ある。それでなんとか足りるだろう」
男の回答はあまりに法外なものに思えたが、もとより法外な価格での仕事を吹っ掛けたのは自分だ。プラスマイナスゼロならまだ経済的な痛みは少ない。まるでこの事を見越してここに来た様な男の言動に、背筋に嫌な寒気が走った。艶々とした白目が、黒黒とした瞳孔が、人間離れした何か別の生命の様に思えて恐ろしかった。
「私は依頼が無ければ動けないし、動けたとしても手が出せない。だから、君が手を出すんだ。それでいいなら、あれを山に帰す方法を教えられる」
生八は迷った。保範の死体を置いたままにすれば、金の骨がこれを自分のものにしてしまうかもしれない。今まで散々な目に遭ってきても耐えられたのは、その後に保範と飲む酒が、飯が、格別に美味かったからだ。もう今後はその時間の一切が失われてしまったことは分かっているが、家族とも絶縁状態にある保範を連れ帰っても面倒なだけだと分かっているが、どうしても置いていきたくなかった。散々迷って、頷いた。「お受け致しましょう」と、男も静かに頷いた。
男は立ち上がり、顎で鳥居を指した。
「まずはアレを潜り、山の方に向かいます」
山頂まで登る必要はない、さあ急いで、行きましょう。と促され、生八は足を怪我している男に肩を貸そうとした。しかし腕のない人間を介助した経験がなく、ただ男の脇を抱いて引き寄せた形になってしまい、却って邪魔だった。お気になさらず、と、男は薄く笑った。赤く塗られた側から鳥居を潜り、振り返る。木肌をそのまま晒している鳥居の半身は見窄らしくて、頼りなげに見えた。ある程度進んだ後、男は足を止めた。「ここらで良いでしょう」と言うが、生八には何がいいのかさっぱりわからなかった。
にゃあにゃあにゃあにゃあ聞こえていた大量の猫の甘えた鳴き声が、次第にぎゃうぎゃうしゃあしゃあと怒り吠える声に変わった。鼓膜を裂くかと思わせる程の大絶叫の合唱だ。猫の姿はどこにもない、それが全身の肌が粟立つ程に不気味だった。
「なんか怒ってない⁉」
「あれは鳥居が嫌いですからね、獲物が鳥居を潜って行ったもんだから怒ったんでしょう」
金の骨が二人を追ってずりずりと沼から這い上がる。金の骨の前を歩く、その他の沼の怪異達は前進しながらお辞儀をする様に頭を傾け、赤い水を足元へこぼした。粘り気のあるドロリとした水が溢れ、怪異達が進むにつれて長く伸びるさまは、まるでレッドカーペットが敷かれる様だった。沼から完全に上がった金の骨の足には大量のヒビが走っていた。そこからとめどなく銀色の液体が滲んでいる。痛みを堪える様に、金の骨はゆらゆらゆらめきながら真っ赤な水のカーペットを踏み締め、真っ直ぐに男達のもとへ向かう。
しかし、鳥居の前で怪異達は足を止めた。うーうー唸る猫の声の中でゆらゆら揺れて渋っている。生八はそれらがこちらに来ようとしないので、少し気が緩んだ。愚かなもので「これ以上こちらに来ない」と思い込んだ生八は鳥居に少し近づいた。後ろにいる男は、それを特には咎めなかった。
沼の怪異達が一斉にバシャっと弾ける。大きな水風船に針を刺した時の様に、高く高くヘドロや藻や植物の細やかな根や種の様なものが宙を舞って地面に落ちて、グルングルンと形を変える。
再形成されたそれは、あまりにも酷い光景だった。山の中に人間だったひき肉を埋めに行ったことがある生八にとっても、吐き気を催す見せ物だった。
地面に置いた板に体を釘で貼り付けられ泣き叫ぶ男、鋭く尖らせた木竹の上に落とされた女、腕と足を牛に繋がれ他状態で体に火をつけられ怯えた牛に引き裂かれ掛かっている男、大箱の中に閉じ込められ熱湯を注がれる男と女、鼻と耳を削がれたまま腐った男、裸のまま縄を打たれて馬に引き摺り回される女、簀巻きにされ溺死した男。
阿鼻叫喚の地獄絵図が目の前にありありと立ち現れ、金の骨はそれらをひとまとめに掬い上げ、こねくり回して地面にべったりと押しつぶした。そして両手を地面につけ頭蓋骨を真横にし、鳥居の奥にいる男を真っ直ぐに見た。生八は視界にすら入っていなかった。
「ありがとう。でも、おれはもうそんなこと望んでないよ。今はただ明日の飯を楽しみにしている身だ」
男がやわらかく優しい声音でそう言うと、金の骨は癇癪を起こしてガチンガチンと歯を打ち鳴らした。生八はすっかり肝を潰して腰を抜かした。後退る生八の背に何かがぶつかる。目線を斜め後ろに恐々向ければ、それは屈んだ男だった。
「腰を抜かしたままでいいから、そこにいてください」
と、男は生八の肩に顎を寄せてひそりと言う。片膝をついて、もう片方の膝で生八の背骨を押してこれ以上下がらない様に押し留める。生八はただただ震えていた。男はうっすら白檀の香りがした。
ジイッ、チュウ、チュウ、と、耳元で音がした。それは鼠の鳴き声に似た、男が唇を吸って出した音だった。ジイッ、チュウ、チュウ。口を平たく横に伸ばし、唇の左端から息を吸って音を出している。ジイッ、チュウ、チュウ。
その音を聞き、金の骨は堪えきれないといった風に頭から鳥居を潜ろうとした。ザリザリザリと金属や硬い何かが削れる酷い音がして、頭蓋骨が削れた。削れたそばから音と合わない質感のぼたぼたとした赤黒いヘドロが落ちる。鼻の奥がツンと痛む酷い匂いがした。そうして金の骨は鳥居に無理に体を押し付け、凄まじい音と煙を上げながらその身を壊した。後に残ったのは、百七十センチほどの人間の骨だった。一人の人間の骨だった。骨盤の形からして女だろう。剥き出しになった白い骨からは、赤い炎がチリチリと上がっている。それは次第に勢いを増して、轟轟と燃え盛る大火になった。元々ヒビの入っていた足の骨が砕けて弾け、骨は倒れた。大火は消えず、骨は這って二人の元に向かう。鼻と頬が焦げて脂が跳ねてしまうと錯覚する程に熱いこの炎の中では、骨はどれほど苦しいのだろう。ぽっかりと空いた眼窩には色濃く影が落ちていて、それが妙に寂しそうだった。絶え間なく響いている猫の声はもはや断末魔と呼べるだろう。
「手で輪を作って、息を吹いて」
促された生八が慌てて輪を作り、ふぅふぅ、ふぅ、と、必死に息を吹くのに合わせて、男が「霜柱 氷の梁に雪の桁 雨の垂木に 霧の葺草 ナムアブラウンケンソワカ ナムアブラウンケンソワカ ナムアブラウンケンソワカ」と唱えた。
それはいつだったか仕事で失敗し、過度の指導をされた保範が呟いていたおまじないだ。部屋の隅で縮こまって、喜世世に焼かれた根性焼きの痛むところに息を吹きかけてメソメソ泣いていた。その様子を見て「可哀想な奴」と興味が出て声を掛け、呑みに誘ったことを思い出した。それが二人の出会いのきっかけだった。そんな事をどうして今更思い出すのだろう。
大火は消える。強風で酸素を奪われたみたいに、そんな風なんてどこにもなかったのに。煙がぼうっと上がって現れたのは、憑き物がすっかり落ちた真っ当に白い人間の骨だ。それがベシャッと地面に倒れ、苔が混じった柔らかい土を巻き込んで姿を変える。頭はずっと盃状で、最初はスーツを着た女、次に振袖を着た女、次に裸の女、次に雌猪。しかしそれらは皆手足が妙に長く、最後の雌猪なぞはそこだけが鹿のようだった。
それはグ、グググ、と伸びをする様に穏やかに起き上がり、進行方向を男達から少しずらして歩き出す。そうしてすぐ真横を通っていった。盃状の頭には、なんとも涼やかな香りの透明な酒が満ち満ちていた。振り返ったり、何かを探すそぶりも見せなかった。スラリとした足取りを楽しんでいるまであった。ずっとずっと燻っていた痛みがようやく引いた様な清々しささえあった。
「さよなら、おつる」
男がその背に声を投げたが、それは振り返らなかった。
「これで余計なものはすっかり落ちて、あれは山にそぐう形に戻れた。山側に許容の白・街側に魔除けの赤がある限り……今の鳥居じゃすぐに崩れるから不安だけど、鳥居さえしっかり直せばもう街には来られないはず。書面には記していないが、あれを直してくれる条件で市に土地を譲ったから……」
男の声がだんだん耳に入らなくなっていった。
生八は、自分と保範が何かをしたという証が欲しかった。この感情の名前がわからなかった、冷静ではなかった、愚かだった、欲を出した大間抜けだった。だから盗んでしまった。男が持ってきた自分たちの報酬だった、男に報酬として返す約束の二百万円を保範の死体と一緒に持ち逃げしてしまった。
生八は、街の方へ振り返らずに走った。保範の死体を持って帰って、この二百万円で、自分たちが共に稼いだ最後の金で葬式をあげてさよならがしたかった。喉が凍った様にヒリついて、心臓が破れそうに痛かった。助手席に男の上着を巻いた保範の死体を投げてのせ、運転席に座ってアクセルを思い切り踏んだ。
遠くで音が聞こえる。誰か事故を起こしたのだろう。酷い音だ、何台ものクラクション、複数の救急車、警察車両のサイレン。耳をすませば啜り泣きと悲鳴と怒りの声が聞こえてきそうだ。ほんのささやかな小雨はすっかり上がっている。
赤い藻が白く枯れて、サラサラと粉になって風に攫われていく。ヘドロに濁っていた沼も、もくもくと流動して次第に澄んだ青い水になった。淵に寄せられた蓮の蕾たちが、開花を止めていた藻から自由になってぽんぽんぽぽんと咲き始める。すっかり藻が消えて現れた澄んだ青い水の輪郭線として、大きな白い丸が浮かび上がった。それはまこと、夢の様に美しい景色だった。
沼の淵に男が立ち尽くしている。
遠く街の方をじっと見て、それからぶらぶら歩き出した。玉のような白い蓮の花はなんとも言えない良い香りが漂って、あたりを優しく包んでいた。山の方には猫の喉がゴロゴロ鳴る、心地の良い音がうっすら響いている。しかし男はぺったりと口を閉ざし、俯いて何も言わなくなった。
月も星もない、曇った空があった。
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