第14話 骨と夢、後の祭り


 ドロドロドロ…と、溶岩がうねる音ないしは体内で流動する血潮のゆらめき、それに近しい耳の中をゆする不快な振動。細やかな地震が起きていると感じた。土はうねったりはしていないが、沼は水面に浮かぶ蓮の蕾をぶるぶる震わせていた。沼が底から揺れているのだ。自分たちはその影響を受けているに過ぎない。そのままゆっくり沼の中央が盛り上がり、ふくーっと赤く立ち上がって山の様になった。山肌がてっぺんからとろとろとろとろとろけ落ちて、削れて、じわりじわりと奥から髑髏が現れる。



 それはたいそう美しい金色の、しかし誠に不気味な、人間と鶴と亀の骨が混ざって融解し結合した異形の姿だった。



 腰まで見えている段階での推測になるが、身の丈は三十メートルほどあるだろう。骨は太く丈夫そうに見えるのだが、気泡が多く脆いようで、ポコポコと空いた骨の穴に金が入り込んでいる。人間の頚椎に絡む鶴の首の骨と頭は、頭蓋骨にその小さな頬と長い嘴を寄せていた。肋骨の中に鶴の胴、羽は肩甲骨を通り抜けて、西洋絵画によく描かれている天使をレントゲンで写した様だった。そしてその全身の至る所に、マダ二の如くボコボコボコボコ亀の骨がくっついている。亀たちには皆頭がなく、刃物による傷が至る所に残されていた。



 金の骨は関節を軋ませながら両腕を優美に広げ、ざぶんと細波を起こして沼を掬った。不思議と隙間だらけのその掌からは水が溢れる事はなかった。掬った水を祈る様に握りしめ、花が開くようにうっとりする滑らかな動きでそれを開いてみせた。赤いヘドロと藻は薔薇の花弁になり、開かれた金の掌の上には真っ白なウエディングドレスを着た他浜花奈がいる。



 長い黒髪を美しく編んで、真珠を散らしている。ヴェールの奥の頬は薄く赤みが差し、瞳は幸福に輝いている。ほっそりした首・肩・大きく開いた胸元には薄い半透明のレースが広がっていて、彼女の肌の美しさを引き立たせている。コルセットでぎゅうっと引き絞られたくびれと人魚の尾鰭の様に広がるスカートの緩急が、それにあしらわれたバラ柄の白い刺繍がなんとも品良く華やかだ。花嫁は童話の親指姫の様に、きらきらの骨の怪異の大きな手のひらの中で笑っている。自分でヴェールをパッとめくり、輝く笑顔で鉄寺に歓喜の声を投げた。



「鉄寺さん、ありがとう!私を救ってくれて、ありがとう!ずっとずっと、待ってたの!沼の中であなたをずっと見ていたの!私の夫、生涯の伴侶、誰よりも聡明なひと!」



 鉄寺は歓喜の雄叫びをあげ、両手を広げて生八に自分の美しい妻を指差して自慢した。どうだ、お前の負けだと言わんばかりに笑った。目の前の光景に肝を潰して冷や汗をかく生八と妻を交互に何度も見て、勝ち誇った声で叫び続ける。



「ほらみろ!これが真実なんだ!花奈は私の妻、私の美しい女だ!」



 金の骨はゆっくりと体を傾け手を下ろして、花奈が沼の淵に降りる手助けをした。ドレスの裾を引いて鉄寺に飛び付く花奈。それを抱き止めてくるくると回る鉄寺。真っ白なドレスがふわふわ揺れて回って、剥き出しの頭蓋骨は少しずつ乾き始めていた。金の骨は、両肘をついて組んだ指の上に顎の骨を乗せ、左右にゆるゆる揺れながらそれを見守っている。夢の様な光景だ、と鉄寺は思った。幸福の絶頂だった。涙が溢れる。脳が煮詰まりそうな程の甘い幸福を噛み締めていた。



「ありがとう!ねぇ!ラーメン食べたい!餃子もつけてね!」



 花奈のその言葉に、鉄寺はみるみる顔を青くした。花奈は夫を名乗る男のその顔を見ても、笑顔をビッタリと顔に張り付かせたまま大声で主張を続ける。



「絶対絶対醤油ラーメン!薄い焼豚はごめんだよ!」



 死刑宣告でもされたような顔をして、鉄寺は甲高い悲鳴をあげた。尊敬していた大学の先輩と久しぶりに会ったら明らかに鼠講だろうセミナーに誘われたり、愛する人がリボ払いで五百万円の負債を抱えている事を告白して来たりした時の様な、そんな失望に染まった悲しい声色だ。



「私の花奈はそんなこと言わない!ラーメンなんて意識の低い毒物なんか食べない!あのガキの写真に走り書きしてあった単語なんて何も意味がないんだ!本には書いてなかった筈だ!」


「鉄寺さん、愛してる!ずっとそばにいて欲しかったの!ラーメンを一緒に食べたくて!一緒に食べる人が欲しかったの!ああ、嬉しいなぁ!隣に誰かが居て欲しかったの!」



 花奈は鉄寺に頬擦りをする。剥がれた頭皮もお構い無しに。鉄寺は悲鳴を上げてそれを拒否した。



「こんなの偽物だ!嘘だ!ああ、あの猟師のせいだ!俺が選んでやった生贄じゃないやつが先に沼に入りやがったからおかしくなったんだ!邪魔しやがって!全部台無しだ、やり直しだ、人間はもう一人いるんだ!もう一回、俺の妻を呼び直すんだ!どけ、偽メスめ!」



 鉄寺は理想では無くなった彼女を突き飛ばそうとしたが、とてつもない力で締め上げられてしまってはそれは叶えられなかった。肋骨が折れる音を内部から聞いたのは、鉄寺にとって初めての体験だった。



「愛しる!助けてありがと!ね、しいなぁ!っち来て!大好き!」



 自分を締め上げる花嫁の正体は、自分を取り込む為に花奈の姿になった沼に潜む怪異だ。言葉は人間の真似事で、会話をずっと続ける必要はなかった。捕まえた今、鳴き声の真似が粗雑になっても全く問題なかった。ケラケラ笑うその声もどこか軋んだおもちゃの様で不自然だ。



 鉄寺はようやく、自分が縋っていたそれが都合の良い現象なんかじゃない事に気が付いた。同時に今更何も間に合う訳がないと理解して。鉄寺は絶望し切った表情を顔面に張り付かせ硬直した。濁った目をした酷い顔だった。涙の筋は拭われもせず頬に染み付いている。幸福になれない花嫁衣装と花婿衣装の自分たちが、ひどく虚しく惨めに思えた。



 ゲッゲッ、と花奈が酷く咳き込んだと思えば、耳・鼻・喉の奥から植物の根がびっちりと這い出てきて、それらの動きを助ける潤滑油の様に滲む赤い藻が鉄寺の目や耳や鼻から入っていく。鉄寺の視界と聴覚がブツっと絶たれる。



 頭が熱い。それは表皮ではなく内側の話で、脳の中心に焼けた溶岩を一塊捩じ込まれた様なイメージだ。その溶岩が、鉄寺の脳を吸って伸び始める。柔らかい場所から外に出ようとぐるぐるぐるぐる大暴れする。鼻、喉、耳、一斉に飛び出した溶岩は、鉄寺を完全に絶命させた。



 生八は、鉄寺の頭部が膨らんで頭蓋骨が割れ植物の根がぞるぞると勢いよく生えて花奈のそれと絡み合い赤い藻に頭を砕かれながら沼に引き摺り込まれて行く瞬間を、網膜が焦げる程焼かれてしまった。きっと死ぬ瞬間まで忘れられない光景だろう。



 金の骨は両手をあわせて打ち鳴らして、喉がないので声こそ出ないがケラケラ笑って喜んでいる。それは到底生贄を捧げる代わりに夢を叶えてくれる神様でもなく、本当にいて欲しい人間と交換してくれる神様なんかではなく、もっと何か別の、ぬめぬめと燃え続ける根深い怨念の塊に見えた。



 蓮の蕾たちが骨の起こした赤い波に押され、淵にころころ転がった。








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