第13話 振り返ってしまうよ
「もし!」
遠くで誰かが叫んで、こちらに声を掛けた。
よく通る声が真っ直ぐに届いて、興奮した猟師を幾分か冷静にさせる。深い霧の向こうには声の主のシルエットだけが見える。中肉中背の男だ。その声には、右足を庇いながらゆっくり歩くその歩調には、覚えがある。居酒屋で出会った腕がないらしい雇い主の男だった。
「落とし物をなさいませんでしたか!」
生八は「男もまた此方の姿があまりよく見えていないのだろう」と思った。銃口を向けている男に向けられている男、これら命のやりとりをしている連中に「落とし物をしなかったか」どうか聞こうだなんてまともな精神じゃあ無理だろう。見えていないとしか考えられない。
猟師は生八に銃口を向けたまま、霧の向こうから此方に歩いてくる男を見据えた。濃かった霧が次第に羽衣程の薄さになって男たちの間に揺蕩う時、全員が全員の顔をしっかりと見た。男は少し驚いた様な顔をして、そしてニヤリと笑った。猟銃に対して驚いたわけではなく、見知った顔に不意に出会ったような、そんな驚きだった。
腕のない中肉中背、スキンヘッドの男。肩に掛けた鼠色の夏羽織は橙の裏地、中身はどちらも白い安物のワイシャツと緩いズボン。草の緑と泥の茶に汚れた真っ白なスニーカー。肌は霧に少し濡れて湿っており、黒子や髭のひとつもない。目は横に長く伏せがちで、鼻っ柱が太く、口は大きく唇薄く、眉と睫毛は殆どない。銀色の大きな拡張ピアスを捩じ込まれた耳朶が福耳の様だった。
こんなシーンに出会したというのに、男にはどこか余裕があった。
「ははぁ、あんただったか。よく覚えているよ、六年前におれの店から非売品のトラバサミ盗んだ位登だろ。供養するもんだからダメだって断ったのに。調子はどうだい、悪いだろうよ。あんなものに頼っている様じゃあね」
猟師は位登という名らしい。男の口調はやや荒く、沼の淵を顎で指すその仕草も粗雑なものだ。指した先には黒っぽいポーチが落ちている。沼の赤い水に今にも触れそうだ。
「さっきまで持っていたつもりなんだがね。どうもおれは物を落としやすい様で。悪いね、あれ、あんたのだろう?」
位登はハッとして自分の懐を何度も叩いて探る。落としたものが自分のものだと分かると、男は猟銃を投げ捨てて甲高く情けない大声を上げて駆け寄った。チャンスとばかりに生八は猟銃を拾い、弾を全て抜いて山の方向へ勢いよく投げた。猟銃はその反対方向に放り投げた。ポーチの中身はなんだと男に問うと、男は「アヘンだ。あいつ、アンモニア臭かっただろう?」と至極なんでもない様に答えた。
アヘン中毒になってしまっている位登にとってそのポーチは命綱だった。これがなければ人生のさまざまな不安や苦痛、自分の犯した罪が一挙に脳を責め立てるのだ。自分で育てて生成したそれを取り込めば、瞼の裏には虹色の素晴らしい世界が帰ってくるのだ。肌身離さず持っている事で、位登はやっと自分を保てるのだった。
ポーチを拾おうと走った勢いのままに屈んだ。それがいけなかった。
足を滑らせ転倒し、どぶんと赤い沼に沈む。藻とヘドロを飲んだ位登はゲホゲホと咳をしながら踠いて沼から出ようとしているが、沼の大半を占める粘度の高く濃いヘドロは踏み込んで仕舞えば一気に流動し、足を吸い込む。暴れれば暴れる程、ヘドロは柔らかくなり、沈んでしまう。無限の底なし沼とまではいかないが、成人男性一人分の背丈を飲むくらい訳もない深さなのだろう。ビチャ、グジュ、と酷い音を立てながら位登は沈んでいく。顔を真っ直ぐ上に上げて息を吸おうとする。喉仏まで迫ったヘドロが、位登の首を絞めている様だった。
ざぶん!と、一度、大きく波が立った。まるで沼が位登を飲み込もうとざらつく分厚い舌を動かしたみたいだ。波が落ち切る寸前、位登の目や鼻や口からドッと細やかで真っ赤な植物の新芽が生き生きと芽吹き、頭がバッと割れる。そんな悪夢じみた光景を生八は見た気がした。あまりに短い光景で、現実かどうかはわからなかった。
男は位登の最期を横目で見ながら、腕のない体で上着をするりと器用に脱いで息も絶え絶えの保範に掛けた。しゃがみ込み、膝で傷口を圧迫して止血を試みるが、もう間に合わないだろう。
生八は溢れた内臓を集める気にもならなかった。自分と苦楽を共にした同僚の死を目前にし、どうしたら良いか全くわからなかった。膝を折り、生八は保範の手を取った。温かいか冷たいかも、頭がショートしている彼にはわからなかった。少しだけ溢れた涙の理由もよくわからなかった。ただテレビでよく見ていたから真似しただけのこのポーズに、どんな意味があるのかもよくわからなかった。
なんと無く生きてきたツケがいっぺんに返って来た、そんな気がしていた。
「俺バカだからさぁ、お前がいなくっちゃすぐ死ぬだろって散々言われてきたのに。何お前が先に死にかけてるんだよ、順番逆だろ」
保範は苦痛を受けるまま宙に揺らいでいた目線を生八に移し、少しだけ目を見開いて何かを言おうとした。生八と男は彼の最後の言葉を拾おうと、耳を寄せる。
「う、し……ろ」
生八はいつだって後悔して生きてきた。今もまさに後悔している。位登から奪った猟銃を肌身離さず持っていればよかったと。
男の側頭部を猟銃の銃身で殴り飛ばす鈍い音が、生八の耳の側を走り抜けた。二人の後ろには吉村鉄寺がいた。先日、元位登商店で行方不明になったと顔写真付きで報道されていた人物だ。喜世世が何度かメッセージで送ってきた「妻を殺されてオカルトに走ってる夫」だ。
真っ白なスーツと真っ白なネクタイを身に纏って粧し込んでいるのに、ウィッグだろう妙に艶のある頭髪が少しズレていることが気になった。背中に背負ったリュックからは、ウエディングドレスらしきレースが溢れ出している。それは生八のことをちらりと見るがまるで興味がないらしく、殴られて意識が朦朧としている男の腹を強く踏みつけて口の端を吊り上げている。
「死ぬのはコイツひとりでいい。お前は生かしてやる。妻の身長に近い方が沼も喜ぶだろう、お前はデカ過ぎるし、筋肉を付け過ぎている」
鉄寺は生八にそう告げながら、男の顔を蹴り飛ばした。鼻の骨が折れる音、その衝撃でぱさりと落ちる鉄寺のウィッグ。その下にあるはずの頭髪ないし頭皮は無く、耳の上からぐるりと一周刃を入れて剥ぎ取られたらしい。肉のこびり付く頭蓋骨が覗いていた。まるでそれはファッションだとでも言うのか、痛みを全く感じていない様子でギャハハ!と声をあげて笑って、気を失った男に唾を吐きながら首を掻きむしっている。首筋には注射の後がいくつかあって、強烈な痛み止めが投与されていることは恐らく間違いなかった。
「沼がある限り、命は交換出来るんだ。俺はどうしても妻と結婚式をあげたいんだ、それだけを考えて生きて来たんだ……」
鉄寺はぶつぶつ話しながら、気絶した男の胸ぐらを掴んで沼に引きずって行こうとする。その両腕は何度も切りつけられていて、いくつかの深い傷はばっくりと開いていた。腕には大して力が入らないのだろう。なかなかに遅い速度で沼に獲物を運ぼうとする姿が、引けた腰が無様だった。
「髪を捧げるのは神と縁を結ぶ紐にする為。お前もそうして何かを手に入れたんだろう?本に書いてあったんだ。血を捧げれば捧げる程、成功率は上がるんだ。俺は自分の血だけじゃ足りないと思ったから、勝手について来た反社の男の血を注射器で抜いて、奴を刺したナイフと一緒に沼に捨てた。電車で轢かれたら、あそこは赤い水溜りになるから沼が喜ぶと思った。そう言うことだったんだ。夢を見たい街のみんなが赤い水溜りを作っていたんだ。私の妻が赤い水溜りに映ったのも、きっと誰かが彼女を欲しがった夢の残滓だったんだ。
沼の一部が生贄と入れ替わって蘇るんだってな、なるほど納得したよ、みんなそうやって本当にいて欲しい人とどうでもいい人を入れ替えてたんだ。誰も選べない腰抜けが自分を選んでその人を蘇らせようとしたんだ。
本には俺の欲しい情報が全部書いてあった。素晴らしい本だった。古本屋に行った時、お前はそれを見落としただろう、本の買い付けに来たくせになんて節穴だ。それにお前、あの時俺を馬鹿にしたよな、見下して蔑んでたよな。ざまあみろ、俺はお前より髪を捧げてやった、毛根ごとだ!俺はお前より優れている。腕を何度も切って、俺自身の優れた血を捧げた、お前より良い願いを叶えてやる為にだ。お前の願いなんて知らないが、俺の願いの方がずっと美しい筈だ。お前みたいな醜い男の願いなんて、どうせ碌でもないに決まってる。
花奈ぁ!みんな今はお山に居るよ、あそこは楽園なんだ、白い花が咲いていて気持ちがいい香りがするんだ。なんでも金色なんだ、全部金なんだ!花奈ぁ!もうすぐ君も吉村花奈だ、他浜なんて変な苗字、もうすぐ捨てられるよ!君のコンプレックスを、君の抱える病気を!俺が治してあげる……」
生八は本当に自分が嫌いだった。考えなしにしゃべる自分が嫌いだった。今もそうだった、知ってることを全部べらべらとしゃべる、よく回る口を抑えられない。
「他浜があんたの妻だって?」
違和感をそのままに出来ない。
「他浜は独り身だ」
事実と嘘を取り違えた人間を前にして、それを訂正せずにはいられない。悪癖だった。優先順位を取り違えた愚かしさだった。頼んでもいないのにそれを謝って、叱り付けてくれる友達はもう冷たくなってしまった。そのことが頭の端に居座って胸が冷たくなった。
「なんだお前、お前も花奈を狙ってんのか?無理もない、花奈は優しくて美しい人だから……」
「そんなわけあるか、あんなイカれ女。猫をいじめて殺して骨を枕にして寝るのが趣味のSNS中毒者だ。殺すために飼ってた猫を、殺すために探してこいと大金を積んで依頼する様なクズだ。あんたは嘘をついている」
鉄寺は生八を睨みつけながらも、ふうふうと息を吐いて男を沼の側へ運ぼうとしている。そんな暴力的な光景にか、男の思い込みだらけの身勝手な発言にか、同僚が死んだことにか、生八は怒っていた。怒っていても、どうしたらいいか分からなかった。冷えて強張った手のひらに滲む汗が不快で、喉の奥がぎゅっと締まる様な困惑に振り回されて、目頭が痛いほど熱くて、ただ馬鹿みたいに突っ立ったまま目の前の男に口先で噛み付くことしか出来ないでいた。
「彼女は妻だ。肉体関係がある。彼女は俺の口腔を何度も触ったし、俺は彼女の生理周期も知っている」
「歯科衛生士なんだから患者の口を触るのは当然だしそれは肉体関係じゃないし生理と婚姻は無関係だろうが」
「子供を産ませるためにメスの生理周期を確認するのはオスの勤めだろうが!」
「女を取っ替え引っ替えしてる阿婆擦れに男がいるわけないだろうが!」
「メス相手なら純潔も同然だろうが!俺が間違っているとでも言うのか!?俺が間違うわけないだろう!東大卒だぞ!」
鉄寺はそんな気持ちの悪い自分勝手な思い込みの嘘八百をヒステリックに叫び、男を沼に投げ捨てた。
力の足りていない腕では男の顔を沼の水面に浸す程度の短い距離しか稼げなかったが、それで十分だった。
赤い沼が本性を表すのには、十分だった。
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