第12話 レッドフェイス

「結局猫いなかったなぁ」


「案外どっかの家に居付いてるかもよ。ミヌエット?だっけ?人気なんだろ?」


「人気だけどさぁ、あの子多頭飼育崩壊してるとこから引き取られてて、長いこと閉じ込められてたから足ちょっと悪いんだよね。貰った動画見た感じさ……」



 保範はトラックを運転しながら、生八は助手席でスナック菓子をバリバリ食べながら、そんな話をした。今日の天気はほんのささやかな小雨、犬外山は濃い霧を纏って沈黙している。整備の行き届いていない道は悪く、小石で跳ねる車の振動が煩わしい。



 犬外山とは犬外市の南方にある大きな山だ。その麓を一部買取り、キャンプ地として運営しようとしていた市民がいたが、保範はそれが大失敗したとマグロ漁船で偶然知り合った犬外市出身の同僚から聞いていた。「成金が、ざまあみやがれ」と悪態を吐くその濁った笑みが、自分はこうはなるまい、と、人として真っ当な決意をさせてくれた事をよく覚えている。なんでも高級路線で行こうとしたが、キャンプ場の設備を顧客のニーズと釣り合わないレベルにまで引き上げてしまい、結局大赤字を抱えたそうだ。最近はどうなったのだろうと調べてみると、キャンプ運営会社は数年前に破産しており、現在は増えすぎた猪の楽園になっているらしい。自分たちを雇った男が現在その土地を所有している様だが、その経緯は伝えられていないまま今日に至る。



 道を進む、霧がより濃くなる。蝉の鳴き声の洪水の中に、鳥の羽ばたきと何かが走り抜ける音が聞こえる。









「おお、あったあった。結構でかい沼だな」



 車を止めた先にあったそれは大きな沼だった。周りを背の高い木に囲まれた、真っ赤な藻が水面をびっつりと覆い隠している気味の悪い沼だった。みっしりと樹々が生い茂らせている葉で日光が防がれている為か、この空間は今まで来た道よりも幾分圧迫感があった。コンクリート張りの窓の無い部屋、土の中に掘られた穴、近しいものを挙げるとこうだろう。息苦しさを感じる。



 赤い藻は開花のピークを迎えているはずの蓮の花達にまとわりついて、蕾の姿を無理矢理留めさせている。蓮の葉がなんとか光から酸素を生成しようとしているが、藻に光を遮られて弱ってしまっている。沼の中には魚も居るらしいのだが、フェルトの様になった藻に阻まれて水面には上がってこられずにツンツン内側をつつくばかりだ。



 霧が一層濃いその沼。そこから五メートルほど離れた場所・山頂方面には小振りな木製の鳥居があった。正しくは、その半分。鳥居は柱の中心からばっきり折れている。上部はなるほど話に聞いていた通り、沼に捨てられて半分ほど沈められている。完全に埋まっていれば更に引き上げが面倒だっただろう。しんとしたその情景は、これを直すため人里から山を登ってきた男たちを静かに待っていたかの様だった。



 鳥居はシンプルな作りで、笠木・貫・柱の全てが円形のもので構成されており、貫は柱の外を突き出ていない。樹皮を剥いだ状態の白木を使用した白木鳥居だ。しかし妙なのはその半分、街側の方が赤く塗られており、山側の方は木肌をそのまま晒している。



「なんか変だな。保範、なんか分からん?なんだっけ、お前が大学生の時勉強してたってやつ……オカルトっぽい勉強してたろ」


「民俗学?神道?いやどっちも単位取らなきゃいけないから受けてただけの授業だよ。その科目受け持ってた先生が大飯食らいの大酒飲みで、俺はそん時も金なかったからおこぼれ目的でよく着いて行ってたってだけ……まあ、無駄話は仕事しながらでも出来るよ、始めよう」



 鳥居は沈んでいる部分を合わせて想定すれば、高さは二メートルほどだろう。程々に重かったが、沼のヘドロに足を取られないように気を付ければ特に問題なく引き上げられるだろうと推測された。胴付き長靴を着用し、赤い藻の張る水面を裂いて進む。ぬかるみに度々足が埋まって肝が冷えるが、落ち着いて左右に揺らし足の周りのヘドロを液状化させて慎重に引き抜く。変に力を入れて暴れてしまうと逆に足を深く取られることは、今までの真っ黒な仕事の経験上知っていた。鳥居の笠木にロープを結び、一度沼から上がってそれを引く。それは不思議と大変に重く、沼がそれを離したくないと抱き留めている様だった。



 休み休み引こう、と、男たちは結論を出した。引いては休み、引いては休み。こんなに力を込めているのだから、普通ならとっくに土の上に折れた鳥居を引き上げられている筈だが、「一人百万円の仕事」だ。何かあることは間違いない、と、男たちは沈黙の中で同じ認識を共有していた。何度か労働と休憩を繰り返した後、ただ休む事に飽きた保範が口をひらく。




「鳥居を塗ってる塗料の丹……木の感じがだいぶ古いから辰砂で間違い無いと思う。水銀の硫化鉱物でさ、確かうちの県でもよく取れる山がいくつかあったはずだよ。辰砂を使った塗装を丹塗りって言うんだけど、これは魔除けと神性を表す意味の他に不織・虫食いから守るための伝統的な方法なんだ。綺麗な赤で、ほら京都の旅行雑誌の表紙によく出るみたいな漢字の色になるんだ。オレンジっぽい感じ。



 でもこれは酸化する前の血みたいな、ドス黒い赤だ。多分辰砂の配合がすごく多いんだと思う。それに筆の跡が雑に残っているし、あんまり丁寧に塗られてない。何かに急き立てられたみたいに、変な力の掛け方で塗られてる」



「つまり?」


「虫除け目的ではなさそう。魔除けも神性もこれじゃ中途半端だし、あ〜……。つまり、変な鳥居だねってこと……」


「あんまり参考になんないな……」



 奇妙な塗装も何か理由があるのだろうが、自分たちの仕事には関係ない。兎に角引き上げて、元の位置に戻せばいい。三十分力一杯引いて一センチ、という有様だった。朝方に来たはずが、今はもう夕方で、夕日の中をカラスが泳いで帰ってきている。ひたすらに重く、抜ける未来が想像できないが、「できませんでした」と言って帰れば一人につき百万円はもらえるはずもない。たとえ今日が明日になっても二人はここを離れるわけにはいかなかった、現状特に危険は感じられないのだから、逃げ出す理由も全くなかった。



「ここって底なし沼だったりする?もしかしてこの鳥居、折れた部分と沈んでる部分含めて二メートルくらいだって当たりつけたけど、実際はめちゃめちゃデカくて五兆キロメートルとかあったらどうする?」


「地球の直径超えたなぁ〜。地球貫通してるから人類は滅亡するかもな……痛っ」


「どうした?」


「でかい蟻に噛まれた……よっ」



 保範は少しイライラしていた。だから自分の頸まで登ってわざわざ噛み付いてきた大きめのアリを摘み上げ、八つ当たりの様に沼へ弾き飛ばした。



 ポト、と沼の上に降り立ったそれが、盛り上がってうねる赤い藻に絡みつかれてぽちゃっと沈んだ。あんまりにも小さな光景だったので、保範には「蟻が魚に食われた」様に見えた。その直後、ボコ、ボコボコッ!と、折れた鳥居の根元から空気が湧く。男たちは驚きを僅かにすくませ、恐る恐るロープを引いた。すると鳥居はあっさりと引き上げられた。



「おお……」



 と、間抜けな声が生八の口から漏れ出た。それは歓喜の声ではなく困惑の声で。声こそ上げなかったが保範も同じ感情を胸の内に抱いていた。折れた部分の鳥居は、最初に想定されていた程度のものでしかなく、二人が殆ど一日がかりで引き上げたとはとても思えない質量だった。



「なんで急にっ……上がったんだろうなっ……と」



 折れた鳥居の下部分に、沈んでいた上部分を乗せる。一つが二つになってしまった傷口を厚手のブルーシートで二重三重に巻き、ロープでぐるぐる巻きにする。かなり重くて辛いが、出来ない事はない。力のある生八が支えている間、手先の器用な保範が素早くロープを巻いて固定する。引き上げる作業がスムーズに行きさえすれば、午前中に終わった仕事だろう。左側の柱を巻き終わり、右側に移行する。



「なんでだろうな。アリを弾いたくらいで、別に何にも……」



 チャリン、と、山側を向いて作業していた二人の背後で音がした。手を離したらせっかく起こした鳥居が倒れてしまいそうで、二人は作業の手を止めずに首だけで振り返った。



 黄金だった。



 それはとろりとした光沢を放つ、紛うことなき黄金のマネークリップだった。このマネークリップが現れたのが、例えば霧の中ではなくこれにふさわしい高級店のショーケースの中であったなら、その輝きは二人の目を通して脳を焼いただろう。しかし、この二人がいる場所は沼の辺りで、幸いにも急に現れた金目のものに飛びつく様な無垢過ぎる能天気さを持ち合わせてはいなかった。ただ金が欲しい、金になるものが欲しい、それだけは揺るがない真実であるので、二人の心が揺れた事は確かだった。



 沼がそれを見透かす様に、何かがある程度の勢いをもって跳ね上げられる。それはダイヤの付いた指輪だった。続けてクレジットカード、何処かの金庫の鍵、何かがたっぷり入ったレターパック。手当たり次第に金目のものが飛び出してくる。それらは全部赤い藻に塗れてて、そのからだの下に水溜りを作っている。沼から生まれた赤い水溜りがどんどん大きくなっていく。



 それでも尚二人が硬直していると、痺れを切らした様に、沼の水面がググッと持ち上がって波になって打ち寄せられる。大量の藻、沼のヘドロ。その波の中、キラキラと真珠の様に輝くパチンコの球。それが二人の足元に打ち上がる。じゃらじゃらじゃらじゃら、と、金属が擦れる音とチカチカ細かく光るその光景は、ここが店の中だったのならなんと喜ばしい事だったのだろう。この異常な状況でさえなければ、飛びついただろう。





「お前が投げてよこしたアリを食っていたんだろう、だから、鳥居を離した」



なんて話しかけられる。



 ギャア・ヴワッと、二人からは間抜けな声が出た。話しかけてきたのは地元の猟師らしい。やや伸びてしまっただらしの無い元坊主頭のベリーショート、赤いキャップを被り、上下迷彩柄の服を着て、その上に赤いベストを重ね、猟銃を携えている。しかし何か、得体の知れない違和感を感じた。目は仄暗く濁っている、服装のあちこちがほつれている、肌艶が悪く風呂に長期間入っていないように見受けられる、アンモニアと汗、蒸れた肉の匂いがムッとする。年齢はパッと見た限り六十代かとも思ったが、山の中で何年も生活している世捨て人・山の中に逃げ込んで憔悴した犯罪者の様な人物であるのなら、実際はもっともっと若いのかも知れない、そんな印象を抱いた。



 全くもって失礼な想像かも知れないと保範は己の精神のあり方を反省したが、嫌な事にこういった類の勘は大体当たる事もまた事実だった。



 赤い波はまだ絶えず、パチンコの球は足元に流れ続けている。じゃらじゃらと音を立てっぱなしで、景品を買い取ってくれる不思議な換金所もないくせに。しゃらしゃらじゃらじゃらしゃらくさい。



「あんたら今手が離せんのか」


「いやそうだけど、蟻を食ってたって何」



 こんな時でも肝が太く我が強くあと先考えない生八は、見知らぬ猟師に強気に出る。鳥居の応急手当てはもうすぐ終わりそうなのだ、早く帰りたい焦りもあって口調を強くしてしまったのだろう。



「おじさん誰、猟師?」


「わからんのか、沼だ」


「沼さん?有名人?全然知らないなぁ」


「沼が食ったんだよ。ああ、あの沼はいい、人を寄せる。そう言うものなんだ、俺たちが捧げる限り夢を見せてくれる。その人の最も欲しいものをくれる。あんたら、蟻を捧げて何を見せてもらってるんだ?生贄が人じゃなければ、見えるものはバラバラなんだ。同じにするには弱いんだろうなぁ。あんたらには、あの沼が何を吐き出して、あるいは何を映している様に見える?」




 保範と生八は沼を見た。そこには金銀財宝宝船ルビーの金魚にエメラルドの孔雀・真珠のエッフェル塔と、財宝がどんどんパチンコ球の波に乗って湧き出している。二人はお互いにそれを確認し、自分達の欲深い心が違和感と恐怖に負けていることも共有した。



「わしには若い女に見える。二十四頃の、脂の乗り切っていない歳のころの女だ。長い黒髪で胸は豊満で、くびれた腹の滑らかさは陶器のようで、足には走るための筋肉が無駄なくついていて……そんな女に見える。でもなぁ、俺はわかってるんだ」



 猟師は発砲した。散弾は保範の脇腹を弾き、皮と肉と少しの内臓を散らす。煙草を咥えるような、珈琲を一口飲むような、あまりにも自然で意図の見えない動作だった。



「あれに寄せられてくる人間を殺す方がずっといい。あれに取り込まれたら死ぬんだ、うんと苦しんでな。俺にはわかる」



 保範は衝撃に倒れた。巻かれるだけ巻かれて結ばれ損ねたロープが倒れる保範を追いかけてだらんと下がって、その先でたっぷり広がっている赤い血を少し吸った。生八は「自分は悪夢でも見ているのだろうか?」と、少しばかり瞬きも出来ずに硬直した。幼少期から治すことの出来なかった悪い癖だった。変に図太いくせに大きなショックを受けたり感情が一定量を超えるとフリーズしてしまう悪癖が、今回も現れてしまった。



 だから相手に銃口を向けられる隙を作ってしまった。猟師は迷いなく猟銃を生八の心臓に向けたまま、平坦な声で話を一方的に続ける。



「あれは本当に欲しいものをくれるんだ。優しくて慈悲深い、払うもんさえ払えば常に当たる宝くじみたいなやつさ。



 でも、俺はもらったら終わっちまうそれがどうしても怖い。



 お前も男ならわかるだろ?いい女ってのはなぁ、こっちを無視して尻を追いかけさせてくれている時が一番綺麗なんだ。俺は永遠に一番殺したい女の尻を見ていたい。殺すのは別に二番でも三番でもいい。鹿や猪みたいに見分けが付かなくって、いくら殺しても面白いだけみたいな、いくら飾っても一番に満たされることはないみたいな!そんなんでいいんだ、一番は手に入らなくて、それ以外は全部俺ので!



 沼は生贄を求めている。だから人間に夢を見せてくれるんだ、生贄を与え続ける限り沼は成長し、分裂する!俺みたいに沼に仕える者には根を張って、そうでない奴には頭の中に夢の種となって!夢のかけらを撒き散らすんだ!



 ああ、ずっとずっと追いかけていたい!街の隅、グラウンドの排水溝、家のシンク、踏切の線路の中、路地裏!全部全部に赤い水溜りはある!夢が、どこにでもあって、誰でもどこでも叶えられる!嬉しいなぁ、ああ、本当にいい街だよここは!出て行く奴は全員俺が殺してやる!



 俺たちはそうして沼に仕え、夢を追いかけている!お前も俺の夢になれ!」



キラキラとした熱に潤んだ瞳だった。好き勝手に喚き散らすやかましい口だった。興奮して真っ赤に染まった顔が、西洋絵画に描かれる悪魔の様だった。



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