第10話 待ち合わせしてはいないはず



 ゴーン、ゴーンと、分厚い銅の鐘が鳴っていた。




 それが目覚ましになって、喜世世は薄く目を開けた。息をふうふう、吸ったり吐いたりすると胸の中をすうっと青い香りが通り抜けた。厚い霧の中、みしりと密集して生えた背の高い草の上に寝転がっているのだと、起き上がって首を何度か捻ってから気が付いた。二、三メートルはあるだろう青々と茂った草は、稲科のものだろう穂をつけている。曇った空は今にも雨が降りそうで、鳶がピーヨロロロロロと鳴きながら円を描いて飛んでいる。



 喜世世は、燃えるように熱かった傷口を覚えている。しかし今痛みはなく、むしろふわふわと浮ついた気分だ。


「変なとこに迷い込んじまったなぁ、どこだ、ここ……」




 暗がりは嫌いだ。明かりのない道は歩きたくないし、蛍光灯の付いていない空間では眠れた試しがない。このように自然が作った薄暗さと草の圧迫感への嫌悪は殊更で、鳥肌が立つ程だった。



 喜世世の母は「ろくでなし」で、彼が三つの頃に事故を装って橋の上から川に落とそうとした。幸運にも落ちた先は水中ではなく草の生い茂る中洲で、両足の骨にヒビが入ったが、命だけは助かった。通行人に取り押さえられ警察に連れて行かれた母がその後どうなったかはわからない。痛みの中で見上げた暗く曇った空に、半月が浮いていたことだけを鮮明に覚えている。母以外に身寄りが無い為彼が引き取られることになった施設も大変に酷い場所だったが、思い出す度に胸が痛むので独立してから過去は全て無視する様に努力した。



 それがいっぺんに思い起こされて、気を紛らわす物も何もなくて、喜世世は嫌な気持ちに自分の視界が覆われていくのを感じた。一生をかけて味わっている最中の、酷い苦しみだった。



「ああ。気が滅入る、こんな草!」



苛立ちをぶつけ、足で踏みつけ手で引き千切り、とにかく何処か開けた場所に出たいと道を作りながら当てずっぽうに進んでいく。霧の中をずんずん進む。汗が冷えて流れ、霧の水分が体にまとわりついてなお不快だ。自分が草を踏み荒らす音、だんだんと荒くなる呼吸だけが耳に刺さる。



 ああちくしょう、と、どっかり腰を下ろし、喜世世は薙ぎ倒した草の上で寝転がった。息が切れる、目頭が痛いほど熱い、足の裏が泥濘む様に痛み、ふくらはぎが痙攣し、腿が硬く張って硬直する。もうちっとも動けない。自分の唾液に咳き込み、死に掛けた蛙の様に仰向けになって見上げた空は最初に目を覚ました時と同じで、暗くて鳶が飛んでいて湿気っていた。





「もし、」



 右隣から声をかけられる。自分以外に人がいたのかと驚き飛び上がって草をかき分ければ、そこには男がいて、胡座をかいて座っていた。中肉中背、スキンヘッド、右前で七分袖の浴衣にも似た薄い桃色のガウンを着ている。腰の辺りには翡翠色のパイル地の布を巻いて、足の先までをすっかりと覆っている。



「帰り道をお探しですか?」



 腕のない男だった。



 それはまこと奇妙な男だった。両の腕がすとんとないことを差し置いても。肌は真珠の粉でも薄く叩いたのかと思う様に輝きがあり、黒子も髭の剃り跡もひとつとしてない。目は横に長く伏せがちで夢の様に美しい曲線を描いていて、鼻はスッと通って高く、真っ直ぐ一文字の唇は薄く、眉と睫毛は殆どなく、産毛じみたそれらは霧の奥にある太陽のわずかな光を浴びてぼんやりと光っていた。大きな穴の空いた耳朶には少し血が滲んでいる。



「ああ……、ああ!人がいてよかった!ここは……ああいいや、貴方も迷ってしまった人ですか?」



 喜世世は口調を改めた。今までの様に人を見下げるための煽りを滲ませた敬語ではなく、心からの敬意を込めた真っ当な言葉使いだった。それがこの男に対する自然な行動に思えたからだ。男のそばに寄って、胡座をかく。顔は真っ赤であせみずくの喜世世と対照的に、男は不健康な程に青白く汗の一つもかいていなかった。



「いいえ、迷ってはいません。あなたが道を作ってくれたからここに来られたのです、貴方のおかげで、私は見つけられました」


「……?ええとつまり、貴方がここにいるのは、俺のせいってことですか?」




 男の回答は要領を得なかった。喜世世は話の通じない人間が大嫌いだったが、どうしてか、怒る様な気持ちにはなれなかった。なにか立派な人に、自分が尊敬する人に、失望されてしまったのでは無いだろうかと思うような切ない気持ちになるばかりだった。男がゆるく首を振ってくれなければ、喜世世はポロポロと泣いただろう。



「もう少し待っていれば、貴方は何とかなりますよ」



 男はそう言って喜世世から視線を外しまっすぐ前に向き直ると、顎でつつ、と、先を示した。促されるままにそこを見ると、いまだにみっしり生える背の高い草の向こうにうっすらと赤い何かが見える。手で二、三度掻き分ければ、それは真っ赤な沼だった。真ん中には喜世世の住むマンションのドアが、鍵の刺さった状態で水面スレスレに浮いている。



「あれはああいうことをしてばかりいる」



 男の声には、昔の友を叱りつける様な悲しさと虚しさが滲んでいた。この様な声でなじられた事がある喜世世は昔の友を少し思い出したが、いずれもその顔がどんな物だったかは忘れてしまっていた。仄暗い知的好奇心と醜悪な興味のままに赤い水溜りを追いかけていたが、もっと大きなものを見つけても感動も興奮もなかった。男と会ったことが、それ以上に運の良いものに思えたからだ。その理由が喜世世自身にも判らなかった。



 右腕がちくりと痛んだ。蜘蛛だ、セアカゴケグモ。天から垂れた強くねばる半透明の糸が、尻につながっている。刺された箇所から虫の体液が注入され、ぐるぐると目が回り、喜世世は吐いた。真っ赤でベタベタした、少しばかり繊維質な液体を吐いた。



「おれ、この草大嫌いなんです。意味はないけれど、あなたが踏み荒らしてくれて胸がすく思いでした。それだけです、お元気で」









 喜世世の意識はそこで途切れた。







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